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月刊サティ!|ヴィパッサナー瞑想協会(グリーンヒルWeb会)

巻頭ダンマトーク

休載

「私の瞑想体験ー瞑想で訪れた人生の転機」(旧「Web会だより」改め)

『見失われた私 生きている実感』④  大門満痴子

  心が折れそう・・

 さあ、これからが大変でした。ひとり暮らしが不安なのです。両親とも看取り、未婚、子なし、天涯孤独になりました。「肉親の死」と12年ともに人生を歩んだ「パートナーを失う」という人生の大きなストレスイベントが1年のうちに2つ来た!大丈夫か、わたし?
 このころは苦しみが減ってラクになるどころか、50年分の「心の便所掃除」は、そんなに簡単に進みませんでした。全く見えなかった自分の心は「サティ」が入り、少しずつわかるようになってきたのですが、なおさらつらい。最初に出てきた甥っ子の新婦さんへの悪口は、やはり嫉妬のようでした。若く美しく礼儀正しく頭の回転も速く、離婚して子供がいてもまたすぐに結婚できるような「モテる」女に対する、出会いさえ難しくまったくモテなかった女の嫉妬。「顔はブスでも生き方は美しく」をモットーに生きてきたつもりだったのに。自分にがっかりでした。何よりまず、いい歳してみっともない。
 しかも、やればやるほど過去にしてきた過ちや嘘や、ちょっとした「腹黒い気持ち」が出るわ出るわ、日常ではサティが入ればたいていいつもろくでもない「不安」。ちょっとしたイラつきをよく観察してみると「プライド」「めんどうくさい」「ねたみ」、果ては「疲れた」「仕事辞めたい」…。もう、つらすぎて鬱状態です。
 考えてみれば、ずっと過重労働を続けてきました。自分で抱えきれないほどのストレスや仕事を、わたしもアルコールやランニング・ハイなどでつらさを麻痺させ、ごまかしながらやってきたのです。いわゆる「トキシック・ポジティビティ(プラス思考の罠)」でした。たしかに、仕事は楽しく、できることが増えるたびに充実感があり、感謝されるのもうれしい。仕事の楽しい部分ばかりを見るようにし、自分の心をじっくり顧みることはほとんどありませんでした。この「激流の中を常に全力で泳ぎ続けるような生活」に正面から気持ちに向き合うと、続けられなくなるとどこかでわかっていたからでしょう。しかし、そのように憂さ晴らしでストレスを忘れるようにし、「辛い、嫌だ」という感情を麻痺させれば、一時的には仕事はやり切れますが、楽しい嬉しい、やってみたいなどのプラスの気持ちも麻痺して感じにくくなります。辛くないように状況を改善させるよう考えたり動いたりということもやらなくなります。現実の状況としては辛くなるわけで、自分が何をしたいのか?何が楽しいのか?どうしたいのか?がわからなくなっていたのだと思います。
 そんな50年分のあれやこれやのマイナス感情も混じり、もう便器の汚れも固まってガビガビでしょうよ…。溜まったものに向き合うのもつらいけど、この人生の区切りでもはや逃げるわけにはいかない。いや、ここで逃げたら、この先幸せにはなれない気がする。死ぬときにたぶん「あの時、自分の人生をきちんと見ようとせず逃げたな」って思うでしょ!?死ぬときにみじめでみっともない気持ちになるのはヤダー。

  パニック発作寸前

 父が亡くなってから、疲れが出たのか体調もすぐれず、2024年の年明けからは体重は4㎏落ち、めまいや動悸、吐き気などの症状も出てきたことから、限界とみてこの時はもう仕事は大幅に絞らせていただいていました。精神科の先生にも相談し、「抑鬱状態」の診断で5月から抗うつ薬を飲み始めました。飲んだあと数時間は副作用の眠気と吐き気がひどかったのですが、夜寝る前に飲んで、徐々に慣らして何とかクリア。思考力は保たれている感じで、仕事も問題なくできるし、サティも入るので瞑想も続けていました。
 何とか仕事は継続できましたが、パートナーと別れた次の日にはさっそく過換気(過呼吸)、パニック発作を起こしかけました。おお、自分もついになっちゃったか。「ひとりでやっていけるか不安、つらい」「パニック発作寸前」とサティを入れ、へその下に両手を置いて、肩の力をへその下に落とすつもりでゆっくーり息を吐きます。この時は友人に教えてもらった、「小さい時の自分を抱きしめてあげる感じ」というイメージが役に立ちました。自分の中の小さいころの自分がいるというイメージで。泣いている小さいころの自分に「ごめんね、さんざん無理やがまんをしてきたよね。もう大丈夫だよ。大変なのは乗り越えたから。もう、これからは無理させない。仕事も減らしたでしょ?もう大丈夫。わたしがついて守ってるからね」そう言って、心の中で抱きしめて安心させてあげる。そして、「息苦しい」「目の前が暗くなりそう」など、その時の状態にサティを入れ続けました。これで何とかパニック発作には至らず済みました。

  苦も変滅する

 こんな感じで過ごしていましたが、冬になり、2025年の2月になった時に、突然職場で頼りにしていた看護師長さんが辞められたのをきっかけにして、よく眠れなくなりました。その日の日付を間違うということがあり、大きなミスが起こるのを恐れて休職を願い出ました。父と同じく、鬱で仕事ができなくなり休職になってしまったわけです。
 しかし、思いがけずこれがたくさんの気づきにつながりました。まず、十分休み、朝から2-3時間じっくりと瞑想をするようになって、悲しみやつらさが徐々になくなっていきました。慈悲の瞑想をすると温かい気持ちになり、慈悲の瞑想をしている最中の平穏で安らいだ心の状態こそが幸せってことかな?と思うようになりました。さらにこの頃、瞑想中に「腹を立ててるな」「怒ってるな」と気づいたときに「ダメだ」と無意識のうちにダメ出しして自分の感情を抑え込んだり切り替えたりしていたのに気づきました。いい悪いなしに一旦受け入れて、「ふーん、そういう気持ちになってるのね」と認め、そのまま放っておくようにし、おおきくストレスが減ったような気がします。自分を責めて感情を抑え込み、余計に疲れていたようでした。
 休職して間もなく、兄夫婦が気づいて様子を見に来てくれるようになりました。話を聞いて食事に呼んでくれたり、兄はライフワークとしてやっている「ひきこもり」のボランティア、義姉は看護師で得たものを生かして支援してくれ、ありがたいことでした。また、様子を察した友人たちもさりげなく気を使ってくれたり、「アダルトチルドレンかね?しばらくは自分の心が喜ぶことをやるようにしてみたら?」と言って楽しいことを教えてくれたり誘ってくれたりと、人の温かさ、ありがたみを感じることができました。
 今までは「自分で何とかしなきゃ、何とかならないでしょうよ」と思って生きてきましたが、人は現代ではお金があればひとりで生きていけるけど、やっぱりひとりでは幸せにはなれない。困ったときに他の人が助けてくれるのって、こんなに幸せなのかと思いました。しかも、自分には歳をとっても助けてくれる人はいないだろうと思っていましたが、意外にも心配してくれる人がいて、なんだかこの先もやっていけそうな気がしてきました。そして、このころからやっと「ああ、こうしたいな」と感じられるようになり、自分とアクセスできている、自分が自分である(=自分の言動が、自分の気持ちをそのまま表している)という実感が戻ってきたのです。
 時々は、ひとりでいることがつらくて怖くて、これからどうなるんだろう?という気持ちにはなりました。寂しかったり、みじめだったり。そんな時は、じーっとつらい気持ちをサティを入れながらそのまま感じていました。すると、どうでしょう。強い感情の波は、数分で消えていくようになりました。ああ、今までずっと逃げるように避けるようにしてきたけれど、つらい気持ちって、味わっていいんだ。そして、ずーっと続くものではないのね。
 驚いたのは、休職中はコーヒーやお酒やカフェインが含まれるお茶、お菓子、口を紛らわすためのガムなしで過ごすことも簡単にできてしまうことでした。そして、ひとり暮らしがだんだん楽しくなってきました。まず、時間を気にせず食事を楽しんでいいから、存分に「おいしいわー」と堪能できる。そうすると作るもの楽しいのです。今まであまり行けなかった直売所に行って新鮮な野菜を買うと、安いしおいしいし楽しいのでした。掃除や整頓も、少し元気になってくると、やればそれだけ気持ちよく過ごせる空間になるのでそれなりに楽しい。
 そして、医師として働くのが人生で最重要、無理してでも働くのが当たり前、と考えて生きてきたため仕事への過剰適応を招いてきたこと、適切な形で自分の労働環境の調整ができない未熟な自分に気づきました。母への無念の思いから訪問診療医になり、コロナ禍で頑張らねば、仕事くらいしかできない自分の価値なんてあるのか?という思い込み。仕事への過剰な執着が、限界を超えた働き方をして自分を追い詰め、過労を招き、パートナーをもアルコール依存に追い詰めた大きな原因だったのではないだろうか。破綻し、長期にわたって仕事から離れることになったからこそ気づけたことでした。幸いなことにぎりぎりのタイミングで交代していただける新しい先生(医師)が来てくださったのも大きな幸運でした。

季節の写真

炎天下の 「トゥクトゥク:Tuk Tuk(オート三輪車)」@タイ(生成AIで作成)

先生と話そう

在家にとっての瞑想とは・・

 ヴィパッサナー瞑想は原始仏教に源流がある瞑想法である。なので、この瞑想は比丘によって行われていた。で、朝日カルチャーセンターやグリーンヒルの道場に通って瞑想を習う方々もほとんどが在家で、代表の地橋秀雄先生も在家の修行者である。そこで、出家僧に敬意を払い、一歩も二歩も下がって控える在家にとっての瞑想は、どこまで本格的なものであればいいのかと問うはずが、話の流れは思わぬ方向へ……。


 五戒の瞑想


榎本 先生、またこの夏にタイの森林僧院に修行に行かれるそうですね?

地橋 ええ、私の人生も残り少ないので、全力で修行してきたいと思います。

榎本 では来月はいちどお休みすることになりそうですが、今日は「在家にとっての瞑想とは」というテーマでお話できればと思っています。

地橋 はい。どこから話しましょうか。

榎本 以前のこのコーナーで先生は、瞑想の指導者として、心のきれいな瞑想者を育てたいとおっしゃっていました。心が綺麗になる指針としてダンマがあると考えていいでしょうね。マインドフルネスとヴィパッサナー瞑想のちがいは、ダンマの教えにどのくらいコミットするかによって分かれてくるとも思います。グリーンヒルの道場には大乗仏教のお坊さんもやって来られたりしますし、キリスト者が瞑想を習いたいと来ても拒否しない方針を掲げています。けれど、やはりヴィパッサナー瞑想の根底には原始仏教があることはまちがいない。その一方で、原始仏教の教えは在家にとってはかなり厳しいものです。瞑想というのは、原始仏教の中でどのように位置づけられているのでしょうか。

地橋 原始仏教の要は、「戒・定・慧」の三学です。「戒」は意志決定の基盤である倫理的な方向性、「定」は集中=精神統一、「慧」は思考の知恵を超越した洞察の智慧です。この「戒・定・慧」のゴールに解脱があり、すべての苦が根絶されるというシステムです。ブッダの説いたダンマは瞑想の実践抜きにしてはあり得ないし、瞑想が実践されなくなるとき、仏教は衰微するというブッダの言葉もあります。私は、戒も定も慧も瞑想であると考えています。

榎本 ということは、五戒を守ることも瞑想になるのですか?

地橋 一般的には、戒律と瞑想は区別されていますが、私は「五戒の瞑想」として不可分なものと捉えています。

榎本 戒は戒として区別しておいたほうがいいと思うのですが。

地橋 多くの人が、五戒を守ろうとしているのに守れません。その場になると五戒などブッ飛んで、煩悩に負けてしまうからです。一瞬一瞬、自分の言動によく気をつけていないと、守ろうと決めていた五戒が守れなくなるのです。

榎本 なるほど。戒を守ろうとする一瞬一瞬の自分に気をつけるとはサティを入れることであり、五戒を守ることはサティの瞑想とセットでなければならない、ということですね。

地橋 そのとおりです。経典の随所に、「よく気をつけておれ」というブッダの言葉が登場しますが、サティの瞑想がなければ五戒すら守れないのです。


 瞑想専門の寺


榎本 すこし前になりますが、『科学化する仏教 瞑想と心身の近現代』(碧海寿広著)という本を読みまして、これがなかなか面白かったんです。てっきり著者も瞑想を実践されているのかと思ったのですが、「あとがき」にそうではないと明記されておりました。

地橋 テーラワーダ仏教のお寺でも、真剣に瞑想する比丘はとても少ないですね。もちろんメディテーションセンターと銘打った瞑想専門の寺もありますが…。

榎本 それは意外ですね。例えば、どのくらい少ないのですか?

地橋 詳しいことはわかりませんが、タイ・ミャンマー・スリランカのいずれの国でも全体の寺院の5パーセント前後、多くても10パーセントを越えないようです。

榎本 そんなに少ないのですか?! それは知らなかったな。

地橋 「戒律のタイ、学問のスリランカ、瞑想のミャンマー」と称されたりするように、瞑想はミャンマーが盛んですが、それでも瞑想専門の僧院は全体の数パーセントとされているようです。

榎本 そうすると、瞑想しないで学問に打ち込んだり、戒律重視の寺がほとんどということですか。

地橋 いちばん多いのは町の寺や村の寺で、地域社会や在家信者のサポート、儀礼、教育などを担う精神的支柱になっているのだと思います。


 瞑想は難しい


榎本 ブッダのダンマが瞑想実践抜きにしてはあり得ないのに、どうして瞑想がこんな先細りになってしまったのでしょうか。

地橋 瞑想が難しいからでしょうね。

榎本 そう言われたら、身も蓋もありません(笑)。

地橋 学問としてダンマを学ぶことは、誰でも子供のころから勉強してきているので頑張ればできますが、瞑想はそうはいかないでしょう。

榎本 たしかに体調が悪かったり、解決していない悩み事を抱えたままだとなかなかいい瞑想はできませんね。

地橋 瞑想は、人のいとなみの中で最も高度なものです。頭がボーッとしていても掃除や洗濯はできますが、読書は難しい。漫画や笑い話は読めても、頭が冴えていないと、難解な哲学書は理解できません。原稿を書いたりクリエイティブな仕事は、さらに状態が良くないと無理。それよりももっと心身を絶好調にしないと、良い瞑想はできないものです。

榎本 勉強はがんばりさえすれば、まったく進歩しないということはまずありませんね。英単語やパーリ語をどのくらい覚えたか、問題集を何冊終わらせたかは根性で突破できるような気がしますが、瞑想となると、進んでいるのかいないのかよくわからないのが困りますね。ところで、テーラワーダのお寺においては、お坊さんの学位みたいなものがあって、その試験もあるのでしょうか?

地橋 ありますね。タイ・ミャンマー・スリランカのいずれの仏教国でも、国や僧伽(サンガ)が公認する学階試験制度があり、その合格結果によって称号や地位や特典が与えられる仕組みになっているようです。


 学問偏重のシステム


地橋 試験や査定がないと怠けるのは人のさがですから、精進をうながすシステムが必要とされるのでしょうね。

榎本 出家者にとって、試験制度はどのくらいの重みがあるんですか?

地橋 決定的に重要ですね。タイで修行していた頃、夕暮れどきに寺の並木道で歩く瞑想をしていると、若いお坊さん達も大勢歩いていました。さすがタイの僧院…と思ったのですが、すれ違うと皆、単語帳のようなものを持ってパーリ語か経典の暗記をしているんですよ。

榎本 誰も瞑想していないんですか。

地橋 してないのです。予備校か大学院の学生がただ衣を着ているだけ、というのが直観的な印象でした。瞑想をまったくやったことのない比丘も大勢いますからね。そこは普通の寺で、私はアチャン・ソンポールから特別個人指導を受けていたのですが。

榎本 試験に合格しないと、お坊さんとして偉くなれない。逆にいうと、試験に合格すれば、瞑想ができなくても、高位につけるわけですか。

地橋 そのようですね。社会的威信の拠りどころになる称号取得のシステムと試験制度が、比丘社会を階級化し、学問僧を優位にする構造を生み出しているのだと思います。その結果、瞑想よりも試験勉強を優先し、瞑想実践の比重が相対的に下落しているのが現状ではないでしょうか。

榎本 先ほど、瞑想が実践されなくなるとき仏教は衰微する、とおっしゃいましたが、まさに自滅に向かっていく体制じゃないですか。


 在家も出家も…


地橋 それでも、さすがにミャンマーは二重性があり、非常に厳しい試験制度と併行して、世界的な近代ヴィパッサナー復興運動の発信地にもなっています。レディ・サヤドーやマハーシ・サヤドー達が傑出した瞑想指導者を輩出させた歴史もあります。

榎本 2026年2月号【瞑想と断食】第1回で言及されてましたね。

地橋 「ブッダの法灯が消えるのを防ぐために、在家者も瞑想を修行し、仏法を守る責任を担うべきである」というレディ・サヤドーの一言で歴史の流れが変わったのではないでしょうか。瞑想はミャンマーがいちばんですね。外国人の在家瞑想者も多く、1年間ぐらい長期滞在している人もかなりいました。

榎本 在家は、僧院の試験勉強をする必要がありませんから。(笑)

地橋 比丘は勉強が忙しい。在家は仕事で瞑想時間が取れない。そうすると、時間に余裕のある在家がいちばん恵まれていますね。(笑)

榎本 先生は、まさにその「恵まれている在家」ではないですか。

地橋 この世を捨てて、何の見通しもない絶望的な情況でしたけどね。

榎本 自ら退路を断って、背水の陣を布いたとお聞きしましたが……。

地橋 自分の意志というより、いかんともしがたい力に背中を押されて流されていった感じでしたね。

榎本 それも縁起ですかね。ところで、在家のほうが修行僧よりも瞑想において熟達しているということはありえるのでしょうか。

地橋 私は、才能と瞑想のキャリアだけを見ていますから、在家と出家の区別は何もないと考えています。瞑想の素養がないのに、衣を着た瞬間、瞑想ができるようになることはあり得ないでしょう。

榎本 となると、瞑想は、出家在家にかかわらず、修行するかしないかだけだということになりますね。


 聞法中の預流果


榎本 もとに戻るようですが、仏教の最終目標は悟りを得て解脱することです。これを否定しての仏教理解はありえません。瞑想なしに仏教の修行はどこまで達成できるものなのでしょうか? 瞑想しなくても預流果までは到達できるという説も小耳に挟んだことがあるのですが……。

地橋 瞑想なしに悟れるなら、ブッダは「戒→定→慧」の三学を説かなかったでしょう。私は、五戒を守ることも含めて生活全体が瞑想であるという持論ですが、瞑想しないで預流果になることはあり得ないと考えています。

榎本 しかし先生、仏典には、ブッダの聞法を耳にした直後に弟子たちが預流果を得たという話がたくさん出てきて驚かされます。これを読むと聞法だけで悟っているようですよ。

地橋 聞法がダンマトークの知的理解である限り、思考の智慧だけで悟ることはできません。

榎本 たしかに、思考の智慧で悟れるのなら、仏教学者から阿羅漢が出てきそうなものですが。

地橋 私の考えでは、聞法中に預流果を得た人たちは、実際には瞑想しながらダンマトークを聞いていたのだと思います

榎本 ええっ、本当ですか!?

地橋 その根拠を示すと、聞法中の悟りには6つのポイントがあったのではないか。まず彼らが預流果を得た背景として、ブッダの神通力が指摘できます。ブッダは毎朝の瞑想中に、その日悟りを得るであろう人を見抜いて托鉢に行き、その場で確実に悟らせるやり方が定番でした。

榎本 説法会場に行く前から、あらかじめ預流果になれる人を見分けていたという訳ですか…。

地橋 そういうことになります。聞く耳を持たない人に説法して時間をムダにするなどという効率の悪いことはやらないのです。神通力はそういうふうに使われるものです。次に、聞法する側の集中が尋常ならざるものだったことです。当時は、口承文化ですから耳で記憶に焼き付けなければ一瞬にして消えてしまいます。

榎本 たしかにヴェーダ時代のインド人の伝承の精度と暗誦能力は、口承文化の中でも突出していたようですね。マックス・ミュラーが、たとえリグ・ヴェーダの全写本が消失しても、インドのヴェーダ学者たちの暗誦した記憶からそっくり復元できると述べています。

地橋 あの膨大な「リグ・ヴェーダ」のテキストが3000年以上にわたり、口伝のみで誤りなく伝えられてきた国ですからね。

榎本 丸暗記ではなく、「パータ」と呼ばれる11種類の暗誦技法があるんですよ。間違えたら必ずバレるように作られた暗記法で、ユネスコもヴェーダ詠唱伝統として無形文化遺産に認めています。

地橋 さすが、詳しいですね。(笑)こうした聴覚記憶を極度に発達させた国ですから、ヴェーダ学者ではなくても、ブッダの説法を耳にする人たちが全身を耳にしていたことは容易に想像がつく。聞法する態度が、われわれとは決定的に違っていただろうということです。

榎本 うむ。文字の発明が人間の記憶力を低下させたという説はプラトンの時代からありますね。


 法を説く側、聞く側


地橋 ③は、過去世の因縁です。ブッダの時代には7歳で阿羅漢になった人が何人もいました。また、二十歳の乙女がピクニックの帰途、森のはずれでブッダの説法を立ち聞きしている間に預流果を得た、などの逸話もあります。過去世の因縁を抜きにしてはあり得ないことです。無数の過去世にわたって波羅蜜を積み、ブッダの面前で悟りを得るという誓願を立てていた人たちが全身全霊で聞法していたのだと言われています。

榎本 我が身を顧みるとちょっと淋しくなりますが、悟るべくして悟るタイミングの人たちが引き寄せられるように集まり、それをあらかじめブッダが見抜いていた絶妙な出会いだったというわけですか。…ふむ。しかし、まだ聞法という概念操作をいとなみながら涅槃を体験するという謎が解けていません。

地橋 それが次です。④はブッダの法話の巧みな構成です。ブッダが在家者に対して用いたのは「次第説法」と呼ばれる精密に設計された段階的プロセスでした。布施・戒律・天界への再生・欲の危険、堕落、汚染、そこからの出離と語られるうちに、聞法する側の五蓋(怒り・欲・乱想&後悔・眠気・疑)が除去され、柔軟で、障碍しょうがいがなく、高揚し、澄みきった心に導かれて<苦・集・滅・道>の四聖諦が説かれる流れです。つまり「次第説法」というのは、聞法者の心を段階的に浄化し、サマーディ状態に導くプロセスなのです。

榎本 ほお。ブッダの方からサマーディに導いてくれるんですか。

地橋 聞法しながら、いつの間にか瞑想状態に導かれてしまうという驚くべき教化能力ですよ。


 苦を視る能力


榎本 瞑想状態で聞法するというのは、具体的にはどういうことでしょうか?

地橋 ここからが最も大事な⑤になりますが、例えば、ブッダの説法のセンテンス毎に、サティを入れながら聞法することはできるでしょう。概念理解→サティ→概念理解→サティ→というのは、私もウ・パンディタ・サヤドウの説法を聞きながらやっていたことがありました。概念理解が注意の向ける方向性を指示し、サティの向かうべき対象が特化されていくのです。

榎本 言われてみればやれそうな気がしますが、サマーディ状態で、となると大変ですね。ブッダが導いてくれないと…。(笑)

地橋 おそらくこの仏弟子たちにとっては、概念的理解とサティの交互反復というよりも、法話の概念的理解が深まるにつれて心が浄化され、沈静化が進み、ある臨界点を超えた瞬間、概念的了解が直接的洞察に質的転換を遂げる流れがあったのではないかと考えます。

榎本 なるほど……なんとなくイメージはできそうです。

地橋 あるいは、全身全霊でダンマに耳を傾けていくうちに、サティ・択法・精進・喜・軽安・サマーディ・捨の七覚支が作動しはじめて、概念理解→サティ→択法の連動→サティの深化→直接的洞察への質的転換…→道心→果心という流れが起きたのではないか。

榎本 ……やはり、知的理解の限界が超えられる結節点にサマーディの要素が必要だ、ということですね。

地橋 サティとサマーディの瞑想要素が無ければ、聞法が解脱の瞬間に直結することはないのです。

榎本 概念モードを超えながら聞法を深めるというのは凄まじい話ですね。なんにせよ、やはり瞑想しないで、ダンマトークだけで預流果になれる、などというい話はないということのようですね。

地橋 千差万別の因縁の人たちが集合していたのでしょうが、決定的な切り札が最後の⑥、痛切な求道心だと思いますね。真剣に生きていたからこそ、ブッダの法話が自分事として心に響いたのです。以前から直観的に感じていた体験が、ブッダの言葉によって一瞬にして鮮明化し、「ああ、これは私のことだ!」「無常だったのだ…」「我執で苦しんでいたのだ」と腹落ちしたのではないか。概念理解から始まった法話が、即座に自己の五蘊の実相と重なり合い、サマーディ感覚の高まりとともに、洞察智へ結晶していったのではないか…と。

榎本 その求道心は、どこから来るものだと思われますか。

地橋 苦を視る能力(→苦諦)ですよ。次々と出家していったのは、釈迦族の幸福な王子達ですよ。何不自由のない深窓の乙女も、幸福の限界を直観していたからこそ、一切皆苦からの真の解放を模索していた、その絶妙のタイミングで起きた奇跡的な聞法の瞬間だったのではないかと思われます。

榎本 つまり、預流果を得たのは「聞法」の内容ではなく、「聞法によってサマーディと洞察が成熟した刹那」によってということですね。

地橋 そうです。ブッダは知識を伝えていたのではなく、聞く者の心を涅槃へ導いていたのですが、それに応答するのは実践的瞑想だということです。

榎本 お話を伺いながらわかったような気になっていたのですが、それではとても預流果にはなれないということも最後にわかりました。(笑)まあ、道は遠そうですが、瞑想はがんばります

今日のひと言

2026年8月号

(1)
★殺す者は殺され、奪う者は奪われ、罵る者は罵られる、とブッダは説く。
 この世は業の世界であり、天に向かって唾を吐くように、出力した全てが我が身に降りかかってくる。
 だが、不善業の結果が現象化した瞬間、カルマ論などコロリと忘れて、ブチ切れてしまう。
 因果がエンドレスにめぐり続ける……。

(2)
★自己中心的な執着を乗り越えるには、視座を転換させ、相手の立場から眺めてみる。
 相手と自分を上空から俯瞰するような客観視を練習する。
 何ごとも因縁因果の流れで生起し変滅していく消息を考察する。 
 善行(利他的行為)を修行と心得てトライし、習慣化する・・・。

(3)
★情けは人の為ならず。
 世のため人のために善行をすれば、同じことが未来の自分に起きるだろう。
 業の法則を学び始めた初心者は、人に善をなせば自分の利益になると考える。
 不純な「劣善」に分類されているが、そんな善行でもやらなければ、何も始まらない。
 善行も必ず成長していくし、やがて「中善」→「勝善」と昇格する……。

(4)
★行為がなされた瞬間のエネルギーが、やがて同様の現象を我が身に惹き起こす。
 たとえ劣善でも、瞑想者を助ければ、己の修行が支えられ助けられる環境に恵まれるだろう。
 業の力で環境は整っていくが、己の心を浄化するのは純粋な利他心と瞑想実践……。

(5)
★袖すり合うも多生の縁。
 過去世で共に修行した法縁があれば、今世でもまた同じ空間で瞑想修行することもあるだろう。
 仲が良く、助け合い、切磋琢磨した友もいれば、羨み、妬み、邪魔をしたライバルもいるだろう。
 善き人に助けられるのも、悪しき人から災いが降りかかるのも、宿業が展開させた必然の結果と心得て淡然と引き受けていく……。

瞑想 山小屋だより

八ヶ岳南麓の不思議で面白い人たち その②

 日本中の避暑地、避寒地には、そこに馴染んで定住する移住者がいるものだ。こういう土地は、どこか余所者よそものを許容する空気がある。決して同化するわけではないし、村人として受け入れているわけでもないのだが、お互いに気持ちよく共存しようという雰囲気があるように思う。地元としては移住者がもたらす経済的メリットもあり、都会から来る者には景色、空気、水、地場の野菜などは大きな魅力だからだとなる。そういう訳で、ほとんどの移住者は、付かず離れずという距離感でうまく生活しているように思う。

 だが、時には地元とはほとんど交わらずに、定住している強者つわものもいる。直接の知り合いではないのだが、高齢者の入り口にさしかかった年代の男性、仮にA氏としよう、A氏は我が家より100mほど標高の低い場所に単身で移り住んで来られた。もう10年ほど前のことらしい。畑付きの古民家を買い取り、自分で住みやすく改築したとのこと。鶏を飼って卵を採り、ヤギを飼って乳を絞り、飲むだけでなくチーズも作る。畑にはりくとうを育て自分の食べる分だけを賄う。野菜、果物はもちろん自前。さほど大きくはないものの、太陽光発電設備を持っていて最低限の電気は調達できる。井戸があるので水はそこから引いている。暖房は薪ストーブ。炭焼きもする。そうなのだ、ほとんど自給自足の生活をしておられる。おそらく最低限必要な衣類や寝具などは地元のスーパーで購入していると思われるので、完全な自給自足の生活とは言えないけれど、ほとんど孤独な生活を満喫できているのではないだろうか。

山の上の方には猟師さんがいて、鹿や熊、イノシシなどを撃って生活しているので、A氏も猟銃を持つ許可を得ていれば、もっと食生活は豊かだったかもしれない。だが大型獣の処理は大変だし、そのために多くの人と関わることにもなるだろうから、今の形がベストなのかもしれない。

A氏は大地震でライフラインが止まっても、ほとんど困ることがないので安心しているそうだ。

これはひとつの理想の生活ではないか? 私も憧れる。数ヶ月に渡って誰とも接触しないで暮らせる。もしSatiをいれながらこの生活ができるのであれば、素晴らしい毎日だろう。タイの森林僧院での経験からすると「しゃべらない」というだけで、かなり心身の状態は変化する。変性意識状態にも入りやすい。瞑想も良い状態になる。

しかし自分に置き換えてシミュレーションしてみると、色々問題があるのも見えてくる。まず毎日とても忙しいのではないか? 鶏やヤギの世話、畑の世話、できあいの物を買ってくるわけでないから料理や後始末もやらねばならない。洗濯や掃除もひとりでやる。日の出と共に起き、日の入りと共に寝るとすると、ほとんど働きづめなのではないか? さらによほど頑健でない限り、体調不良の日もあるだろう。生来虚弱な私では、ほとんど不可能な生活だ。寝込んでいる間に畑は草茫々、鶏やヤギは死んでしまうかもしれない!

 ブッダは托鉢をし、寄進を受けて生活しておられた。生産活動に関わっていては修行の時間が無くなってしまうということか。A氏の生活に憧れるけれども、やはり修行者としては目指すべき道では無いように思う。他人と極力関わらずに、自分と向き合って暮らすのは理想だけれど、スーパーやコンビニ、宅配などなど便利なものを上手に使いながら、瞑想の時間を取り日々過ごすのが在家修行者としては望ましいのではないか? 何事もバランスを取って、自分にできる範囲で進んで行くのが良いのだ。今世でできることは限られている。残念ながら凡人はまた再生して修行を続ける。ならば焦らず淡々としかし真摯に、今やれることをやる。

完全な自給自足生活で、他人と関わらず、孤独に犀の角のように歩めたらそれは素晴らしいことだが、到底ひ弱な凡夫には不可能な生き方だ。おそらく一日が終わる頃は疲労困憊で、瞑想をする余力は無いだろう。

 そう思いながら、少しでも自給自足の生活に近づきたくて、ささやかな畑で野菜などを育てる暮らしをしているのである。

ダンマ写真

ミャンマー仏像(生成AIで作成)

サンガの言葉

【初学者でもよくわかる二十四縁起】第9回 モートゥ(マンダレー在住)著 影山幸雄訳

🎯短い要約

★依縁とは、あるものが他のものの拠り所となって結果を生じさせる法則です。
 油絵がキャンバスを拠り所とし、木が大地を拠り所とするように、心や身体も互いに依存し合って成り立ちます。
 これには、心と心所(感情など)のように同時に生じて互いに支え合う性質(倶生依)と、あらかじめ存在する眼や耳といった感覚器官が、後から生じる認識作用の土台となる性質(事前生依)が含まれます。 

 拠り所の質が結果を決定します。
 良き政府が国民を栄えさせるように、良い拠り所は良好な結果をもたらします。
 しかし聖者の目には、凡夫の生存は毒の木が生える土地と映ります。
 生・老・死・愛欲・瞋・痴・愁・悲・苦・憂・悩の十一の火に常に焼かれているからです。
 欲界の善心(布施や戒律)は甘美でも死後に苦をもたらす毒の実に似ており、無知な庭師のように私たちは貪・瞋・慢という毒の木を育てています。
 特に慢心は智者の汚れとされ、いかなる功徳を積む時も生じさせてはなりません。

 釈尊は、欲界の功徳自体を否定するのではなく、それを涅槃への足がかりとして正しく用いるよう説かれました。
 功徳を積むたびに、道智・果智・涅槃への到達を誓願し、ヴィパッサナー瞑想に励むことが求められます。

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🌄長い要約

★拠り所となる原因の法則
 仏教における「拠り所となる原因の法則」とは、ある結果が生じるために不可欠な土台となる働きを指します。
 例えば、絵の具にとってのキャンバスや、木にとっての大地のようなものです。
 これには大きく分けて二つの性質があります。
 一つは、心とそれに伴う感情などのように、同時に生じて互いに支え合う性質です。
 もう一つは、あらかじめ備わっている眼や耳などの感覚器官が土台となり、後から「見て知る心」や「聞いて知る心」といった認識作用を引き起こす性質です。

★聖者の視点と輪廻の苦悩
 視力が良ければはっきりと物が見えるように、私たちにとっても良好な拠り所は重要です。
 しかし、悟りを開いた聖者の眼には、私たちの感覚器官やこの身体は「毒の木が生える土地」として映ります。
 どのような生命として生まれ変わろうとも、そこには必ず、誕生、老い、死、愛欲、怒り、愚かさといった十一の火が燃え盛っているからです。
 さらに、いつ訪れるかわからない死や、死後の不安など、八つの恐るべき現実が待ち受けています。
 聖者は、いかなる生存の形態であっても、これら生死を繰り返す輪廻の苦しみから逃れられない事実を直視しています。

★愚かな庭師と慢心への戒め
 それにもかかわらず、私たちはしばしば「愚かな庭師」のように振る舞ってしまいます。
 毒の土地である身体を美しく飾り立てようと執着し、さらには布施や道徳的な行いといった善行でさえも、「自分は他人より多く施した」「自分は特別に恵まれている」という慢心や競争心で行ってしまうことがあります。
 どれほど知恵があっても、慢心が生じればそれは心の汚れとなり、不善な行いに転じてしまいます。
 現世や来世の幸福だけを求めて善行を積むことは、一見甘くて美味しくても、やがては苦しみをもたらす毒の実を喜んで食べているのと同じなのです。

★正しい善行と誓願のあり方
 だからといって、善行を積むことが否定されているわけではありません。
 究極の心の平安に至るためには、世俗的な善行の積み重ねという補助が不可欠です。
 大切なのはその目的にあります。
 善行を行う際は、単に人間や天界の神として生まれ変わることで満足するのではなく、必ず悟りの智慧を得て苦しみを完全に滅ぼすことを固く誓う必要があります。

 そして、険しい道のりを快適な車で進む方が楽であるように、悟りへ至る過程においても良い環境が助けとなります。
 したがって、「この善行の力によって悟りに至ることができますように。そして、その過程で生まれ変わる際にも、良い環境、立派な指導者のいる時代、健康な身体、十分な知識と豊かさに恵まれますように。これらを具えた賢者として、確実に悟りを開くことができますように」と誓願を立て、日々の気づきの瞑想に励むことが極めて重要なのです。

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 【本文】

8)ニッサヤパッチャヨー(依縁):拠り所として、拠りかかるための原因となる法

●ニッサヤパッチャヨー(依縁)の例
 皆さん、絵画を見たことがあると思います。紙の上、布の上、その他の物の上に物質の形を描きます。絵の具で描いた絵は、台紙を拠り所とします。台紙は絵の具の拠り所として原因となります。
 木は大地の上で生い茂ります。木が拠り所とするのは大地です。木に対し、大地が拠り所として原因となります。ニッサヤパッチャヨー(依縁):拠り所として、拠りかかるための原因となる法と言うのはこの性質のことを指しています。

●三種類のニッサヤ(依)
 ニッサヤ(依)には、(1)サハジャータニッサヤ(倶生依)(2)ヴァットゥプレージャータニッサヤ(事前生依)(3)ヴァットゥランマナプレージャータニッサヤ(応供前世依)の三種類があります。

★サハジャータニッサヤ(倶生依)
 サハジャータニッサヤ(倶生依)は、サハジャータ(倶生)と同じです。サハジャータ(倶生)を忘れてしまった人はサハジャータパッチャヨー(倶生縁)の部分をもう一度読んでください。サハジャータニッサヤ(倶生依)はサハジャータ(倶生)とニッサヤ(依止)の二つの意味をつなげたものです。
 サハジャータ(倶生)とサハジャータニッサヤ(倶生依)の意味はほぼ同じですが、一部だけ異なります。サハジャータ(倶生)の場合ナーマッカンダ(名蘊=受、想、行、識)が同時に生じます。一方サハジャータニッサヤ(倶生依)の場合は、同時に生じる他に、一方が他方の拠り所として結果をもたらします。拠り所として結果をもたらす点が異なります。
 ヴィンニャーナッカンダ(識蘊)、ヴェーダナーッカンダ(受蘊)、サンニャーッカンダ(想蘊)、サンカーラッカンダ(行蘊)と言う四つのカンダ(蘊)が同時に一緒に生じるように、一つのカンダ(蘊)が残りの三つのカンダ(蘊)に原因として作用し結果をもたらします。これを、サハジャータ(倶生)の力で原因として作用し結果をもたらすと言います。ニッサヤ(依)とは拠り所です。四つのナーマッカンダ(名蘊=受、想、行、識)の内のいずれか二つが互いに拠り所となります。つまり、一つが他の一つに依りかかる場合、他の一つが拠り所となります。サハジャータニッサヤ(倶生依)と言うのは、同時に生じ、そのいずれかが他の拠り所として結果をもたらすことを示しています。
 ヴィンニャーナッカンダ(識蘊)、ヴェーダナーッカンダ(受蘊)、サンニャーッカンダ(想蘊)、サンカーラッカンダ(行蘊)と言う四つのカンダ(蘊)が同時に生じます。それだけでなく、ヴィンニャーナッカンダ(識蘊)が、ヴェーダナーッカンダ(受蘊)、サンニャーッカンダ(想蘊)、サンカーラッカンダ(行蘊)の拠り所となり、その原因となって作用します。同時に生じ、拠り所となって、結果をもたらすことをタハザータニッサヤ(倶生依)と呼んでいます。こうした性質をニッサヤパッチャヨー:拠り所となり、依りかかれることが出来るように、原因となり結果をもたらす法、と言います。
 様々なルーパダンマ(色法)となる、四つのマハーブータ(四大種)も四つのナーマッカンダ(名蘊)の場合と同じで、サハジャータニッサヤ(倶生依)の性質を持つことを憶えて理解して下さい。

★ヴァットゥプレージャータニッサヤ(事前生依)について
 形という対象が見えるようにするチャックパサーダルーパ(眼浄色)は自身が拠り所となり、見て知るチッタ(心)であるチャックヴィンニャーナ(眼識)、そしてチャックヴィンニャーナ(眼識)と同時に生じるチッタ(心)チェータスィカ(心所)に、原因として作用し結果をもたらします。
 眼が見えない人は、形を見ることが出来ません。ですから、見て知るチッタ(心)と呼ばれるチャックヴィンニャーナ(眼識)の拠り所は、チャックパサーダルーパ(眼浄色)、すなわち眼です。ニッサヤパッチャヨー(依縁):拠り所として拠りかかるための原因となり結果をもたらす、と言うのはこの性質のことを指しています。
 音と言う対象が聞こえるようにするソータパサーダルーパ(耳浄色)と呼ばれる耳は、ソータヴィンニャーナ(耳識)と呼ばれる、聞いて知る心、そしてソータヴィンニャーナ(耳識)と同時に生じるチッタ(心)チェータスィカ(心所)に原因として作用し結果をもたらします。
 音が聞こえない人は、音を聞くことができません。音が聞こえないので、聞いて知るチッタ(心)は生じません。ですから、聞いて知るチッタ(心)と呼ばれるソータヴィンニャーナ(眼識)の拠り所は、ソータパサーダルーパ(耳浄色)すなわち耳です。ニッサヤパッチャヨー(依縁):拠り所として拠りかかるための原因となり結果をもたらす、と言うのはこの性質のことを指しています。
 眼、耳は生まれた時に既に備わっています。先に生じています。見て知るチッタ(心)はその後、見て知るチッタ(心)が生じる原因に遭遇した際に生じます。後から生じる、見て知るチッタ(心)は、先に生じている眼に依りかかります。依りかかることで初めて生じることができます。眼、耳は、それぞれ見て知るチッタ(心)、聞いて知るチッタ(心)の前に生じ、見て知るチッタ(心)、聞いて知るチッタの拠り所として原因として作用し結果をもたらします。これを、ヴァットゥプレージャータニッサヤ(事前生依)と呼びます。ニッサヤパッチャヨー(依縁):拠り所として拠りかかるための原因となり結果をもたらす、と言うのはこの性質のことを指しています。

●六つのヴァットゥルーパ(事色)
 チャックヴァットゥ(眼事)と呼ばれる眼、ソータヴァットゥ(耳事)と呼ばれる耳、ガーナヴァットゥ(鼻事)と呼ばれる鼻、ジヴァーヴァットゥ(舌事)と呼ばれる舌、カーヤヴァットゥ(身事)と呼ばれる身体、ハダヤヴァットゥ(心基)と呼ばれる心臓の一部を六つのヴァットゥルーパ(事色)と呼びます。六つのヴァットゥルーパ(事色)は、見て知るチッタ(心)などの拠り所です。この六つのヴァットゥルーパ(事色)は見て知るチッタ(心)などの前に生じ、見て知るチッタ(心)などが依りかかる場となり、見て知るチッタ(心)などに原因として作用し結果をもたらします。そのためヴァットゥプレージャータニッサヤ(事前生依)と呼ばれています。
 これは、皆さんが理解できるだろうと思ったことを少しだけ説明したものです。アビダンマ(論蔵)の基礎をしっかりと学んだことが無い人を対象として説明しなければならないので、初歩の初歩だけお話するのが妥当と思います。パーリ聖典のパッターナ(発趣論)にはお釈迦様が、どのルーパ(色)がどのナーマ(名)の拠り所となるか、どのナーマ(名)がどのナーマ(名)の拠り所となるかを詳細かつ広範に説かれています。
 ヴァットゥランマナプレージャータニッサヤ(応供前生依)については説明するのが困難です。アビダンマ(論蔵)の基礎についての知識が無いと、説明しても理解するのは簡単ではありません。そのため、ここではヴァットゥランマナプレージャータニッサヤ(応供前生依)については説明しません。今後、パッターナ(発趣論)の教室に通って勉強することがあれば、憶えて理解できると思います。

●良好な拠り所が必要です
 眼の状態が良ければ見て知るチッタ(心)も良好です。眼の状態が悪ければ見て知るチッタ(心)も不良となります。視界が悪い人は何かを見ても何を見ているかすぐにはわかりません。視界がぼやけているので、見て知るチッタ(心)もぼやけたものになります。
 同様に生き物もまた良い拠り所が必要です。能力は同等であっても良い拠り所がある者の方がより早く栄えます。政府が良い国では国民はより多くの賃金を得ます。トイレの清掃の仕事でさえも、賃金は少なくとも10倍の差があります。ミャンマー国民は丸一日働くと3600チャットぐらい得ることが出来ます。アメリカやイギリスの国民は1時間あたり働くと30000チャットぐらいもらえます。このように差が出る根本には政府の違いがあります。

●国民の拠り所
 良い政府、有能な国会議員は国民の拠り所、頼りの綱です。国民が政治に興味を持ち、政情を理解すれば、良い政府、有能な国会議員を選びます。国民が国政に興味を持たず、政治について知識がなければ、良い政府、有能な国会議員を選ぶことは無くなります。
 国民が良い政府、有能な国会議員を選出することが出来なくなれば政情不安となり人々は長期間にわたり苦しみます。ですから私たちの拠り所である、良い政府、良い国会議員が現れるように、私たちも国民として政治に興味を持つ必要があります。政治を知ることが必要です。

●聖者の見方
 凡夫のチャック(眼)、ソータ(耳)、ガーナ(鼻)、ジヴァー(舌)、カーヤ(身体)、ハダヤ(心臓)と言う六つのヴァットゥルーパ(事色)は、毒のある木が生えた土地のようなものだと言われています。パティサンディチッタ(結生心)を始めとしたアヴャーカタ(無記:善でも悪でもない)の法は不善な見方により、苦く塩辛い味がする、人を酩酊させる木のごとくになります。人間としての生涯であれ、神としての生涯であれ、梵天としての生涯であれ、聖者の眼には醜い木々に映ります。四悪趣(地獄、阿修羅、動物、餓鬼)に比べれば、人間の生涯はまだましと言えます。それでも聖者の見方からすればどのような生涯も不善です。なぜなら、どのような生涯であれ十一の火に焼かれるだけだと言うことを自分の眼で見て知っているからです。生涯で十一の火に焼かれる様子について、私の恩師であるアマラプーラマハーガンダーヨゥンセヤードーが書かれた詩をご紹介します。

●十一の火に焼かれる様子
 誰であってもまず最初に待ち構える「ジャーティ(誕生)」という火によって焼きつくされる定めです。
 壊れないものは何一つも無く、誕生の後に「ジャラー(老い)」という火が燃え続けます。
 「マラナ(死)」という、一つの生涯を破壊して焼き尽くす火が常に燃え続け、まとわりつきます。
 見た目は静かでも、若く純粋な乙女の年頃であっても、「ラーガ(愛欲)」の火が湧き起こり、激しい「ドーサ(瞋)」と「モーハ(痴)」に縛られています。逃れられないほどの後悔の中、燃え盛り抑圧する「ソーカ(愁)」という火を原因とするあらゆる悲しみ、「パリデーヴァ(悲)号泣」に「ドゥッカ(苦)」も加わり、「ドーマナッサ(憂)」、そしてそれに関連し不可分の「ウパーヤーサ(悩)」が強烈となり、命ある限り目をそむけることができない十一個の火に焼かれています。
 この十一の火に焼かれなければならないこの生涯でサンヴェーガ(悔恨)が生じる八つの原因について恩師であるアマラプーラマハーガンダーヨゥンセヤードーが詩を書かれました。

●サンヴェーガ(悔恨)の八つの対象
 母の胎内で十カ月身を宿し人間界、人間の社会に再び生まれても老病死という苦しみ、災厄に見舞われ、頑強な身体で心安らかに過ごすこともできない。それぞれがドゥッカ(苦)に見舞われた後、ほとんどが四悪趣(餓鬼、畜生、阿修羅、地獄)に落ちてしまう。遠い昔からこの輪廻の苦しみを受け、未来でもドゥッカ(苦)に苛まれ、現在の生存でも絶え間なく食を探し続け、昼夜を分かたず常に心身ともに苦しみ、誰一人として安らかに過ごすことができません。八つのサンヴェーガ(悔恨)の対象はジャーティ(生)、ジャラー(老)、ヴャーディ(病)、マラナ(死)、マラナアニッチャター(死は確実だがいつくるか分からない)、マラナサマイェーアブッディ(死の瞬間、気づきを失い悪趣に落ちるかもしれない)、カンマサカタ(死後はカルマに応じて次の生を受ける)、アナーガタバヤ(将来さらに多くの苦しみを受けることになる)。
 このように、聖者の目にはどのような生涯も善くないと映ります。それを憶えて理解しなければなりません。

●様々な毒
 ローバムーラチッタ(貪根心)、ドーサムーラチッタ(瞋根心)は食べている時も、食べ終わった時も、食べた人を苦しませることができる毒の木に似ています。
 人間や神に生まれ変われるように布施をし、行動がより善いものになるようにコントロールするカーマーヴァチャラクサラチッタ(欲界善心)は、食べている時は甘くて美味ですが食べた後、その人を直ちに死に追いやることができる毒の木に似ています。

●愚かな庭の番人
 智恵に乏しい愚かな庭の番人は毒の木が芽生えた毒のある土地に水を撒き、肥料を撒き、手入れします。このように手を入れるにつれて毒の木が生い茂り、花が咲いて実が成ります。その毒の木に毒があることを知らない人たちは実をもいで食べます。そしてたくさんの人たちが身体を壊し苦しみます。
 私も皆さんも毒のある土地に手を入れる愚かな庭の番人です。毒のある土地のような私たちの身体をきれいに見せるために、眼や鼻をより美しく見せるために手を加えて整えます。この身体、この眼、この鼻が希望通りになるように手を加えます。この身体、この眼、この鼻を美しくしたいと願い手を加えるのはその多くが不善な行為となります。説法さえも言い訳を並べて聞かないようになります。政府関係者は政治についての内容を盛り込んだ説法師の法話のみ聞きたくなります。お笑いが好きな人はお笑いを交えた説法を好みます。誹謗中傷が好きな人は玉座に坐って誹謗中傷する説法師の法話のみ聞きたくなります。このようになります。サティ(念)を絶やさずしっかり見てください。
 善行功徳を行う際には、自分はあの人よりもたくさんの功徳を積もうと、競争になることがよくあります。それもまた不善なチッタ(心)です。時に、私だったらこのくらいたくさん布施しなくてはとマーナ(慢)の心が生じることがあります。これも不善行為になります。私たちはどのくらい不善行為を好んでいるかを良く観察してください。毒の木をどのくらい夢中になって栽培しているかを、サティ(念)を入れながらよく見れば明瞭に観察することができます。

●どのような状況でもマーナ(慢)を生じさせないようにしましょう
 苦くて辛い味がする、食べている最中でも、食べ終わった後でも、苦しみをもたらし、身体を壊す可能性がある毒の実をもぎ取り夢中になって食べている人のように、私にも皆さんにもローバ(貪)、ドーサ(瞋)、マーナ(慢)があり、「俺は特別な運命で生まれて幸せに恵まれている人間だ」と思い込みます。ある人はピンニャーマーナ(智恵慢)があるのは善いことだと噂を流布します。「パンディターナン マラン マーノー(智慧がある人の心の汚れはマーナである)」ローカニーティ(処世訓)に書かれています。どんなことがあってもマーナ(慢)を生じさせてはいけません。何のためであれマーナ(慢)が生じるのは善くないことです。どのような原因であってもマーナ(慢)が生じると不善業になるからです。
 ある時、アヌルッダ尊者が「私は千の宇宙を天眼で見ることができます。でも道の智慧、果の智慧に触れることがまだできません」と言いました。するとサーリプッタ尊者が「アヌルッダよ、千の宇宙を天眼で見ることができるというマーナ(慢)を捨て去りなさい」と答えました。そしてマーナ(慢)を捨て去ったアヌルッダ尊者は道の智慧、果の智慧に触れることができました。
 食事(食べている最中は美味ですが食べ終わってから苦しみをもたらします)の布施や身体の行為が善くなるように慎み守ることなど欲界の善行意を行う時には、私も皆さんもそれに酔いしれてしまいます。
 毒を含む大地のようなこの身体に様々な毒の木を栽培し、いかなる時も浮かれ楽しんで過ごし、いかなる時も混乱してうろたえ、いかなる時も快楽に夢中になっていたら、輪廻の苦しみから逃れて苦しみの生存から解放されることは無いと言うことを、全ての生きものに知らせたくて、お釈迦様はこのニッタヤパッチャヨー(依縁)を説き、注意を促されました。

●お釈迦様からの注意
 布施すること、品位のある行動をとり戒律を守ることなど欲界の功徳を積むことが必要です。欲界の功徳の補助がなければ涅槃に触れることはできません。欲界の功徳を積んでも道の智慧、果の智慧、涅槃を目指すことなく、人間や神々になることを目指すことで満足していると甘美な毒のある実、毒のある木がはびこることになるとお釈迦様が注意されています。欲界の功徳を積んではいけないと言っているわけではありません。正しい方法で実践するように注意を促し指導されています。欲界の功徳を積むのは善くないことだと誤った考えを持たないようにしてください。
 ですから欲界の功徳を積む度に、必ず道の智慧、果の智慧、涅槃を目指して誓願してください。力の限りを尽くしてヴィパッサナー瞑想に励んでください。
 バスでシェーダゴンパゴダを参拝したことがあると思います。とても疲れます。快適な自家用車で参拝するのが楽です。誰でもできれば快適な自分の車で参拝したいと考えます。
 このようなものです。涅槃に触れると言っても、誰もがアナータピンディカ長者やヴィサーカのように恵まれた生涯で涅槃を悟りたいと願います。身体が曲がり、やせこけた侍女クッザッタヤーや、ハンセン病に罹ったスッパブッダ王(お釈迦様の叔父)のような生涯で涅槃を悟ろうとは願いません。ですからここで誓願の方法を教えます。
 「お釈迦様の弟子である私はこの善行功徳、チェータナー(意思)、カルマ(業)の助けにより道の智慧、果の智慧を得て、涅槃を悟ることができますように。涅槃に達する前輪廻を経めぐる際にも善い生涯、世界に生まれますように(ガティサンパッティ)、智慧と徳をそなえた君主が治める時代に生まれますように(カーラサンパッティ)、四肢や身体に不自由のない、健康な身体に恵まれますように(ウパディサンパッティ)、豊富な知識と智慧により巧みに商売をこなし豊かに暮らす人になりますように(パヨーガサンパッティ)、この四つのサンパッティを具えた善人、賢者になり、道の智慧、果の智慧を得て、涅槃を悟ることが確実にできますようにお釈迦様に誓願いたします。」
 
 このように誓願してください。祈りを捧げてください。ヴィパッサナー瞑想に励んで下さい。このくらいで、ニッサヤパッチャヨー(依縁)について少し理解できただろうと思います。