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月刊サティ!|ヴィパッサナー瞑想協会(グリーンヒルWeb会)

巻頭ダンマトーク

楽屋話@巻頭ダンマトーク

★「巻頭ダンマトーク」の休載が続いているので、読者に何かお知らせを書くように編集長から命じられました。
 「休載」は今に始まったことではなく、以前は「月刊サティ!」そのものが「休刊」や「合併号」を繰り返しておりました。
 いずれも私の担当する原稿が遅れたことが原因です。

 今回改めて振り返ってみましたが、遅筆タイプの私にとって「月刊サティ!」を発行し続けるのはかなりの負担でした。
 常時執筆する原稿がある上に、朝日カルチャーの講義録の準備が大変で、「巻頭ダンマトーク」1回分の労力に匹敵するのです。
 10年以上連続受講しているリピーターが多く、一度完成した講義録の使い回しはできず、毎回新しいダンマの情報を盛り込まなければなりません。構想を練り、資料を調べ、パワーポイントを作成し、テーマに即した事例を検討したりする時間と労力は相当なもので、スラスラと小説を早書き、〆切も厳守し、瞑想もする作家の噂を耳にすると『ああ、才能のある人が羨ましい』と嘆息することもしばしばです。

 ここで、これまでの「巻頭ダンマトーク」の楽屋話をすると、ボランティアの方が朝カルや瞑想会での法話をテープ起こしされ、その原稿を基にして初代編集長が叩き台を作成、最後に私が相当な加筆訂正を施して完成稿を仕上げていく流れでした。講座のダンマトークが「月刊サティ!」の巻頭ダンマトークに化けていたのです。
 非力な私にとって、講座のダンマトークを月に2本仕込んだ上に、「月刊サティ!」の巻頭トークを毎月執筆するのは大きな負担となってきたのです。

 瞑想とダンマの普及に生涯を捧げてグリーンヒルのダンマ活動を続けてきましたが、砂時計の残量が残りわずかとなった今、自分の修行時間を犠牲にして諸々のタスクをやり遂げるのは道ではない、と感じてきた昨今です。情報発信は長年やってきたのだから、やれたらやる、書けたら書く、のマイペースにしないと、森林僧院から帰国したくなくなるかもしれない…。
 現に、僧院のアチャンからは「ここで死ねば…」と誘われたりもしており、また私を頼りに瞑想している方々の引力もあり、ヤジロベーが揺らいでいます。最後は、私の内奥の声というか「意欲(チャンダ)」がどちらかに傾き、受け身に徹した「受動的意志決定」がなされていくのでしょう。

 全託の生き方をして四十年、何事も自分の意志で決めることはなく、頼まれごとを引き受けながら、宿業の押す力に身を委ねていたらいつの間にか瞑想の先生になっていた人生でした。
 これからも否応のない縁起の網目に織り込まれ、流され続けていくでしょうが、今回はこんな文章を書いたというか、書かされたというか、筆の流れにみちびかれてここまでたどり着いたしだいです…。

「私の瞑想体験ー瞑想で訪れた人生の転機」(旧「Web会だより」改め)

『見失われた私 生きている実感』①  大門満痴子

  アルコール依存

 瞑想を始めたのは約2年前の2023年5月ごろの49歳、このころのわたしは精神的にも体力的にも追いつめられていました。わたしは訪問診療もしている地方の内科医です。2020年から始まったコロナ禍で仕事は多忙となり、その年4月から始まった父親の介護。更年期の体調不良と体力の低下。2022年頃からライフパートナーのアルコール依存…。
 2023年の元旦、わたしは打ちひしがれていました。それまでガバガバ飲んできたお酒を12月から一切断ったところでした。元旦の恒例で、おせちと雑煮を食べた後にパートナーと1年の計を話し合いました。「アルコールは週末の夕方のみ、節度をもって飲むこと」という約束をしたはずでしたが、仕事の臨時呼び出しで出かけ、昼に戻ってきたとき…。テーブルの上にウイスキーの小瓶があり、その横に酔いつぶれて倒れているパートナーがいたのです。

 わたしは地元で数人の医師が勤務する診療所に勤めていましたが、コロナ禍で病院ではクラスターが発生、入院中ほとんど面会ができないため在宅療養を希望する方が一気に増え、しかも癌の末期など死が近い方、病状が重く不安定な方が多くなっていました。訪問診療の件数が増える一方でコロナ禍でのPCR検査など新たな内容が増え、感染対策のため労力も増える中、なかなか訪問診療医は定着せず、2019年からほぼ一人で対応する状態が続いていました。
 しかも支えてくれるライフパートナーは仕事を辞めた状態で、夜に帰るとハイボールやストロング缶を飲んで酔っており、そのまま夜中にひとりで飲み続けて朝になってもアルコールが切れない状態になっていました。パートナーが倒れてしまったら今の状態では仕事に対応しきれない…、何よりアルコール依存の状態は手遅れになる前に何とかしなければと思い、週1回、夜に一緒に断酒会に通い始めました。

  どうしたの、私

 ちょうど、その正月休みに、高校の友人たちと久しぶりに喫茶店で集まりました。年末にあった甥の結婚式の話をしていた時でした。結婚式の記念写真を友人たちに見せて、「お嫁さん、めっちゃかわいいねー」と言われた時、「こぶつきだよ!そろそろ3歳で物心つくから、結婚してくれって言われたんだってさ!」と、新婦を辱めて責めるような、思いもかけない言葉が自分から出てきたのです。『!?』 これは…?まさか自分の口から、このような言葉が出るとは。幼い子供がいる女性が再婚して悪いわけはなし、甥っ子も子供をかわいがってる。彼女は礼儀正しくて、ここ数年わたしにもよくしてくれて、心から祝福していたはずなのに…。人を癒す言葉を使うよう注意してきたつもりだったのに…どうした、わたし?嫉妬?なんで彼女に?かわいい甥っ子の結婚式だよ?
 自分でも訳が分からず、これは何か自分の心に異変が起きていると思いました。仕事はできているし、人間ドックの結果や自分で追加した検査項目も問題なかったので、病気ではないだろうと思いましたが、しかし、思ってもいないような悪口が自分の口をついて出たのです。心の奥底にあるような怒りや感情が噴き出す…。でも、自分の心がわからない。他にも、今の職場での働き方はつらく、限界に近くなっていることが分かっているのに、自分がどうしたらいいのか、どうしたいのかわからない。考えを進めることができず、身動きが取れないような感覚‥何か、「自分自身にアクセスできない感じ」、「自分で自分が分からなくなる感じ」がありました。
 今のままでの自分では何をやっても、どこに行ってもダメなような気がして、何か根本的なものが欠けているような気がしていましたが、それが何か、どうすればよいのかわからないという状態でした。

 そうだ、瞑想があった・・

 そういえば、小さいころから「身体は手入れしながら使っていくものだ」といわれ、「身体の手入れ」に関しては厳しく言われて意識してきたけれど、「心の手入れ」は意識もしたことがなかった…。ずっと頑張ってきたけれど、生きづらさみたいなものもあるし、壁にぶつかっている感じ。ここのところつぎつぎと問題が重なり、つらい状況なのも、わたしのこころや考え方などになにか問題があるのかもしれない。なにか、心の手入れ(メンタルケア)になるようなことをした方がいいかもな…と考え、まずはカウンセリングや認知行動療法を受けてみましたが、何かピンときませんでした。
 そんなとき、本棚にある地橋先生の「ブッダの瞑想法」が目に入ったのです。数年前に本屋で立ち読みし、仏教というよりも瞑想についての科学的な解説もあり、しかも実践的な内容だったので、いずれは読んでみたいと思って買っておいたのでした。しかも、瞑想をするには五戒として「お酒飲んじゃダメ」という条件がある。今の私にぴったりだわ(自分をきちんと見つめ直したい。だけど、とりかかりが分からず、断酒だけで早くも心が折れそう…)。マインドフルネスもメンタルケアによく挙がるけど、その源流である瞑想を、きちんとした先生について教えていただいた方がよさそう。
 そして、そのころ読んだ「サピエンス全史」も瞑想をする動機になりました。作者である歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリの、詳細な描写。…歴史と言えば「1192年鎌倉幕府ができました」みたいな出来事の羅列しかイメージになかった私にとって、当時の食べ物、服装、文化、人々が何を大事にしてどんな生活をしていたのか、その時代にタイムスリップして見てきたような書き方に感動したのです。そして、彼は毎日2時間は瞑想していると知って、瞑想でこんなに頭の働きが良くなるなら、これはもう自分もするしかないと思ったのでした。彼のパートナー(夫!)が同性、つまり自分と同じ同性愛者であるということ、そしてそれを公表しているのも、偏見を恐れて親しい肉親や友人以外はほどんど公表できていないわたしには素晴らしいことのように思えました。彼のように頭が良くならなくても、よりよい生き方が見つかるかもしれない…と期待しました。

季節の写真

益子つつじ

笠間美術館新緑

先生と話そう

「仏教の霊的存在」第1回

【仏教の霊的存在】第1回


宗教はスピリチュアル(霊的なもの)と切り離せません。仏教は認識論的として哲学として語られることも多いのですが、その背後には輪廻転生という近代科学では説明のつかないバックボーンがあります。ところが、霊的なものを語りすぎると世間から「大丈夫か」と白眼視されがちなのも事実ですし、怪しいところも確かにある。そこを気をつけながらも、先生と霊的なものについてかるーく話してみようと思ったのですが、例によって軽くはなりませんでした。


榎本 先生、どうも。断食の回が終わりましたので、こんどはまた新しいことをお話ししたいのですが。

地橋 いいですね。なにを話しましょうか。

榎本 霊的なものについて話してみませんか。仏教はよく科学的だと言われますが、同時に「自分なんてないんだよ」と無我論を説いてもいます。デカルトは、最も確実なところから出発しようとして「我思う、故に我あり」と言ったのですが、その「我」がないと仏教は言うわけです。これは、個人を出発点として考えようとする西洋人からするとギョッとするらしいのですが、現代の脳科学では、脳というのは情報のネットワークシステムとして捉えられていて、そのネットワークの中で「我」が立ち現れてくるのだという説が有力になりつつあり、お、となるとこれはブッダが紀元前に直感したことと同じじゃないか、ようやく近代科学は仏教に追いついたのか、と驚く人もいます。
 また、瞑想は医学的にもよいと言われていて、そう言われるとやってみようかなと思う人が増えることも確かです。このように仏教は科学化しやすい性格を持っている。とはいえ、その背後には輪廻という科学ではとうてい手がつけられないものがある。ただ、いきなり輪廻の話を伺うと大変なことになりそうなので、今日は、科学的合理性の外側について、スピリチュアルなものを入口にして、先生がどのように考えておられるのか、お訊きしたいと思います。

地橋 そうですね。ただ、輪廻なしに原始仏教を語ることも難しいですね。

榎本 話がそこに行くときは行くとして、いったん別のところから入りましょう。


霊的存在の検証


地橋 では、まず、科学とはどんなものだと思いますか。

榎本 僕の理解では実験と観察によって導き出された知見ですね。なので、みんなに公表できること、また再現性があり、検証可能であることが重要だと思います。カール・ポパーという哲学者は「科学というのは反証可能性がなければならない」と言っています。これは、「この世界は神が作りたもうた。反論は受けつけません」というような宗教の態度を念頭において、それらと科学を峻別するために言った側面があると思います。

地橋 たしかに、万人に開かれていて検証できるかどうかが問題ですね。霊的な世界というのは、特殊なセンサーの持ち主にしかアクセスできない領域といえます。見えない人には見せられないし、感じない人には知覚できない。つまり全員に開示されている世界ではない。

榎本 そして、再現性もあやうい。

地橋 誰もが検証できるわけではなく、再現性もあやういとなれば、霊的な存在を否定的に捉える人が多いのも当然ですね。

榎本 科学的に証明できないからといって、存在しないと否定するのも勇み足ではありますが……。

地橋 ブラックホールも湯川秀樹の中間子もヒッグス粒子も、可視化されたり実験的に確認されるまでは仮説にすぎず、妄想扱いされても仕方がなかった。霊的な存在も、現時点では科学の対象としては扱えないだけです。

榎本 仏教書でも、悪魔や霊的存在は心理的な象徴として書かれているものが多いと伺ったことがありますが……。


仏教学者からの否定


地橋 大乗仏教の古い学者たちは、ブッダが語る霊的な存在を煩悩の擬人化や心の想いが形象化した心理現象として捉えてきましたが、これには日本の特殊な事情がありました。

榎本 と言いますと…。

地橋 明治時代に廃仏毀釈が激化した危機感から、「仏教は倫理・道徳である。仏教は哲学・心理学である。仏教は迷信ではなく、近代的理性と調和する宗教である」と再定義しようとした流れがあったのです。キリスト教宣教師の攻撃や西洋科学主義、実証主義の批判から仏教を守るために、デーバ(神霊)や鬼霊やマーラ(悪魔)などは心の投影であり、心理的象徴に過ぎない。仏教は合理的な科学的宗教なのだ、と強調する戦略を取ったということです。

榎本 なるほど。近代化の流れのなかで宗教の霊的な部分を縮小しようとしたわけですね。

地橋 また、近代日本の仏教学では、大乗仏教中心主義が学問的前提として無批判に共有されていたので、デーバやマーラの実在性を強引に否定する解釈が流布されてきた影響も大きいですね。大乗経典には、原始仏教をあからさまに見くだし侮蔑する表現があふれていますが、私の履歴に心霊科学があるだけで、怪しい、信用ならぬ、と言われたこともありました。大きな乗り物が小さな乗り物を蔑みながら、霊的存在を公然と否定している構図ですから。原始仏教の研究者が増えるにつれ変わってはきましたが、いまだに霊的なものを語ると胡散臭うさんくさく見られる危険性があります。


経典にあふれる悪魔や神


榎本 なので私たちの会話も気をつけなければならないのですが、初期仏教の経典に霊的なものの記載はどのくらいあるのでしょうか。

地橋 ものすごく多いですね。『神々との対話』や『悪魔との対話』をはじめ、実在する人格的存在として登場する経典が多々あります。煩悩の擬人化などと言ってお茶を濁せるレベルではないですね。

榎本 例えば、心理現象で片づけられないものとしてどのようなものが挙げられますか?

地橋 「サミッディの出家」(相応部1-2-10)には、鬼女がブッダの説法を聞きたいが、ブッダの周囲を力のある神々が守っていて近づけない。サミッディ比丘が同伴してくれれば接近できるので連れて行ってくれと依頼します。サミッディがブッダのもとで一部始終を話すと、鬼女は「比丘よ、世尊せそんにお訊ねください。私はすぐそばに付いてきていますから」と声を上げるという生々しさです。心理的象徴などという解釈がいかに牽強付会けんきょうふかいであるかを露呈させていませんか。

榎本 たしかに、霊的存在同士の序列や力関係が述べられているのは異様に具体的ですね。


煩悩の象徴?


地橋 もっと解せないのは、ブッダの修行時代から涅槃に入るまで一貫して語りかけ、妨害し、挑んできたマーラ(悪魔)を煩悩の象徴と断じていることです。もし大乗の学者が言うように、マーラが煩悩の象徴だったら、なぜ煩悩を滅尽した阿羅漢やブッダにマーラが話しかけてくるのか意味不明です。論理的に成り立ちません。

榎本 それについては、どのように解説されてるんですか。

地橋 『涅槃経』のマーラとの対話は外在的存在との応答であることが明確なのに、「マーラの攻撃=煩悩の葛藤」、「マーラを退ける=煩悩に勝つ」と解釈しています。中村元の注釈では、「悟りを開いたブッダも人間であり、悪魔の誘惑を避けねばならなかった。ブッダたることは、誘惑を斥ける行為それ自体のうちに求められねばならぬ。誘惑を斥ける不断の精進が仏行そのものである」という趣旨ですね。

榎本 それは、道元禅師の「修証不二(修行と悟りは本来一つである)」の論法ではないですか。

地橋 そのとおりです。「もし後世の表現が許されるなら修証不二である」と中村自らが記しています。煩悩滅尽ぼんのうめつじんを目指していた私は、この解釈に相当悩まされました。え!? 解脱後にも煩悩が残存するのか…と。中村元の偉大な功績は揺るぎないし、尊敬もしてきましたが、この解釈は批判を免れませんね。

榎本 煩悩の象徴としてのマーラと、外在的実在のマーラと複数の解釈がある、と洩れ聞いたことがあります。

地橋 よくご存知ですね。部派仏教の時代から象徴的存在としてのマーラ解釈も併存してきましたが、解脱後のブッダの内面に適用させては、原始仏教の悟りの道筋が全面崩壊してしまいます。


超感覚的知覚


地橋 さきほど科学というものは検証可能でなければならないと言いましたが、これは、言葉を変えれば「凡夫の感覚の共有」ということですよ。(笑)

榎本 たしかに瞑想をどこまで深められるかによって世界と触れ合っている感覚はまったくちがってくるでしょう。僕のようなレベルでも、始めたときと今とではずいぶん違います。

地橋 つまり修行すれば、誰でも感覚が鋭くなるし、知覚が進化するということです。最初期のブッダの教団は全員阿羅漢だったし、超感覚的知覚(神通力)を備えた比丘が大勢いました。ブッダやモッガラーナ(十大弟子のひとり)を筆頭に、凡夫の共通感覚とは別次元の感覚で世界を捉えています。
 霊的生類を視認していた者が多数派だったから、当たり前のように説法で触れられ、経典に残ったのではないか、と私は考えています。そうした超感覚的知覚の持ち主たちにとってリアルな実在であるのに、アベレージな感覚では感知できないから妄想だ、非科学的だというのはおかしいとも言えませんか。

榎本 センサーの感度を上げれば、見えてくるし、感じられもする。なので、見えない、感じられないから実在しないというのはおかしいというわけですね。でも、先生は最初から原始仏教徒として生まれたわけではなく、人生を生きていく中で選び取られたわけですよね。なぜ先生はそのような考えを積極的に受け入れたのかをまず聞かせてください。


輪廻転生はない?


地橋 私の修行遍歴は、結果的に四聖諦(苦・集・滅・道)の流れに即していました。苦からの解脱がゴールであり、それは輪廻転生からの解脱に帰着します。地獄・餓鬼・動物・修羅・人間・天の六道を、私たちは自らの業に応じて転生している、と仏教は考えています。もし存在するのは人間と動物だけで、超感覚的知覚で感知できる世界がないとしたら、六道の輪廻もないことになる。輪廻がなかったら、その輪廻からの解脱を目指して修行してきた私のような修行者はどうなるんですか。霊的生類が存在しなければ、六道の輪廻も無いことになり、仏教も私の人生も総崩れですね。

榎本 うーん、そこで輪廻にいかれるとちょっと僕としては困るんですが。

地橋 どうしてですか。

榎本 いろいろありますが、輪廻転生は仏教だけでなく、その前のバラモン教から引き継いでいるとも言えると思います。そして、実はブッダは輪廻転生を否定したのではないかという説もあります。簡単にいうと、仏教は無我説である、なので、バラモン教の伝統的なアートマン(真の自己)を仏教は否定する、真の自己がないのだから、いったい何が輪廻転生するというのだ。ブッダが輪廻を認めていたわけがない。――粗っぽく要約するとこうなります。和辻哲郎なんかはそんなことを言っていますね。

地橋 和辻哲郎の時代には、パーリ原典の研究が未成熟だったし、先ほどの時代背景もあり、仏教学者たちにも原始仏教が正しく理解されていなかったのです。私の定義では、「輪廻とは、業と無明によって、縁起の構造が一瞬一瞬、接続していくプロセス」です。輪廻しているのは業と縁起であり、実体的アートマンの転生なんかではないのが明白なのだから、和辻は十二縁起すら正しく理解していなかったことになるでしょう。宮坂宥勝(仏教学者)も和辻を手厳しく批判しています。

榎本 たしかに『ブッダという男―初期仏典を読みとく』の清水俊史も、原始仏教の経典をいくら探しても、ブッダが輪廻を否定したなんて書いたところはないと主張していますね。


いかに霊的なものを扱うか


榎本 先ほどの問いにもどりますが、先生が精神世界というか、スピリチュアルな方向に歩まれたきっかけを教えていただきたいのですが。ちなみに、超感覚的知覚の持ち主としてブッダやモッガラーナを挙げられましたが、先生ご自身はそのような体験はされたことはあるのですか。つまり、霊的世界からの啓示を受け取られたことはおありですか?

地橋 まあ、無いわけでもない、と言っておきましょう。

榎本 微妙な濁し方ですね。(笑)

地橋 実は、私は、霊的なことを言う人があまり好きではないのです。

榎本 ほお、それは、どうしてですか?

地橋 やれデーバ(神霊)だマーラ(悪魔)だ、霊示を受けたの神示を授かったのと、金科玉条のように振りかざして御託宣ごたくせんを述べている教祖や預言者が気持ち悪いのです。神の思し召しだから、なんやね。霊が言おうが、神が語ろうが、内容の善し悪しだけを正しく判断するのがヴィパッサナー瞑想者なのだという立場です。神の啓示だろうが、自分の思想だろうが、ダンマに則った正しいものか、真実なものか、だけが問われるべきなのです。唯一絶対の、宇宙で一番偉い神が言ったから信じるし、服従するなどという人たちとは水が合いませんね。

榎本 霊的なものかどうかを気にする必要がないということですか。

地橋 そうです。啓示が何に由来するかは気にしないでよい。デーバ(神)も霊も輪廻の中の迷える存在です。間違ったことも言うだろうし、正しいことも言う。そのへんの性格の悪いおばさんや、低レベルの新興宗教教祖が何を言おうが、関係ないでしょう。霊的次元にそのまま再生して霊示を送ってきている、と考えればよいのです。

榎本 霊的世界とこの世が変わらないのですか?

地橋 身体の構成因子が異なるだけで、心は何も変わらないと考えてよいのです。愚か者は霊的次元に移行しても同じく愚か者です。高い境地に達した神霊は、高度なメッセージを送ってくるでしょうが。差別することも、特別視することもありません。


霊が言おうが、神が言おうが…


榎本 では、そのメッセージの善し悪しはどのように判断すればよいということになるのでしょうか?

地橋 それは常識に照らし合わせればいいのです。もっと言えば、ダンマを拠りどころにすればよい。

榎本 先生があるメッセージを受け取ったとしても、それが神示であるか、霊示であるかは関係がなく、コンテンツだけが重要であり、そのコンテンツの善し悪しは常識に照らし合わせればよい、ということでしょうか?

地橋 そうです。受け取ったメッセージがダンマに基づいているか否かを判断基軸にするのです。霊示や神示というものは、潜在意識と混同されやすいものです。一瞬一瞬の想念を媒介にして、顕幽両界が響き合っているという仮説もあります。 いつも同じ存在が安定的に交信してくる保証はないし、こちらの心境が下落すれば、瞬時に低級な存在と響き合うでしょう。誤認や錯覚の危険性が常にあると心得ておくべきです。

榎本 だから絶えざる検証が不可欠だと。

地橋 そう。アクセスできない人にとっては、それを信じるか信じないかの二択に陥ってしまうのですが、それはヴィパッサナー的ではない。霊示を受けた側も、それを聞かされた側も、コンテンツだけに注目せよと、ダンマを拠りどころにせよ、と私は強調するのです…。
(この項続く 以下次号) (→5771字)

今日のひと言

2026年5月号

(1)
★やり場のない不満や怒りが、スケープゴート叩きの集団ヒステリーになりかねないご時世。
 今こそ、意識の矢印を外界から自分自身の内側に向けるヴィパッサナー瞑想が必要なのではないか。
 もし怒りや苛立ちが自覚されたら、一転、自分よりも苦しんでいる人達に向けて慈愛の念を放つ瞑想で乗り超える……。
……………………
(2)
★孤独にならなければ、瞑想はできない。
 「思考を止めよ。イメージに手を出すな。物事を概念化せず、あるがままに如実智見せよ」と求められているからだ。
 街を出歩き、人と交わり、俗事に執着していて、妄想が止まるだろうか。
 瞑想修行に入ることを「リトリート(撤退・隠遁)に入る」と言う。
 俗世を離れて、僧院に籠るからだけではない。
 眼耳鼻舌身の五感の対象に手を出さない覚悟を定めるからだ。
 この世から限りなく撤退した果てに、執着を完全に手放す瞬間が訪れる……。
……………………
(3)
★食べ過ぎて頭がボーッとしている状態が、瞑想には最悪だ。
 体を整え、意識の透明度を増し、瞑想を深めるには、食をコントロールしなければならない。
 労働するなら完食すべきだが、瞑想にはバランスのよい食事を腹六分目程度がよい。
 つまり、食欲に抗い、もっと食べたいのに、止めなければならない。
 瞑想は、アンチ煩悩、反自然を本質とし、世の流れに逆らうもの……。
……………………
(4)
★透明な体感が得られても、心にわだかまり執着しているものがあれば、瞑想は破綻する。
 人を赦し、自分を赦し、己の運の悪さ、ネガティブな暗い宿業を受け容れなければ、心に重くのしかかる闇が晴れることはない。
 無差別殺人鬼の仏弟子アングリマーラが黒い塊を吐き出して解脱した史実ほど、懺悔の瞑想の励みになるものはない……。
……………………
(5)
★事実をありのままに客観視するマインドフルネスを妨げる天敵は、巧妙に侵入してくるエゴ感覚だ。
 良い瞑想ができている感動→嬉しさ→自己満足→得意満面→傲慢……。
 諸々の条件がたまたま揃っただけなのに、それを自分の手柄と錯覚する妄想にサティが入らないのだ。
 「感動」にも「嬉しさ」にもサティが入らず、自惚れている自分を対象化できない愚かさ。
 傲慢なエゴ妄想が展開してしまう反応パターンを書き換えてくれる懺悔の瞑想……。

瞑想 山小屋だより

緑! 緑! 緑! 花! 花! 花!

 待ちに待った春! 八ヶ岳南麓の春は一気にやってくる。八ヶ岳や南アルプス、富士山の雪が少し少なくなったか、と思うころから季節は劇的に変化していく。枯れ野原だったところに小さな草が芽吹き始めたかと思うと、翌日には青々としている。これは誇張ではない。地表から20センチほどは凍るという我が庭にもフキノトウがいっぱいに顔を出して、近くを散歩しているとツクシやコゴミが生えている。ここで「散歩」と書いて「歩く瞑想」と書かなかったのは「不妄語戒」を守らねばならないからだ。あまりの嬉しさにサティがすっ飛んでしまった! 「ツクシだ! 」「あそこにもフキノトウ! 」とやっていては到底淡々とウペッカーを貫く態度にはならない。しかし厳しい冬の寒さを越えた春の喜びは、今までの都会暮らしでは一度も味わったことのないものだ。
 冬に入ったころ、深い森だと思っていた奥にぽつりぽつりと家があることに気がついた。隠していた木々が葉を落とし、枯れ枝の隙間から灯りが漏れて見えるようになったのだ。今度は逆に日ごと緑で覆われ、森の中に家々が消えてゆく。冬枯れの死んだようだった木々の梢の先が少し薄茶色に変わって、小さな小さな葉芽が現れ、そこからはぐいぐいとまるで音を立てて伸びていくかのように緑の森に変貌していく。
 緑だけでも感動的なのに、一斉に花が咲いていく。梅、桃、桜、辛夷、連翹、雪柳、山吹…ひと月ほどの間に山を、野原を埋めていく。また自生している多種多様な水仙も、庭先に道端に、野原にお構いなしに咲き誇る。この生命力のなんと力強いことか。
 地球の生命システムは、捕食-被食の関係になっている。食べる側、食べられる側、どちらに感情移入するかによって、空腹のチーターとその子供たちを哀れに感じるか、逃げ遅れたガゼルを可哀想に感じるかに分かれる。実際はどちらも哀れな存在である。つまりこのシステムこそが「苦」であると思う。地球に生きねばならないことを「煉獄」のようだと思うこともある。「一切皆苦」そのものだ。だが、それでもこの春の美しさ、喜びはどうだろう。生命の讃歌のようだ。
ブッダは最後の旅の途中で、ヴェーサーリー近郊でブッダは「ヴェーサーリーは楽しい。ウデーナ霊樹は楽しい……」(訳は多種多様であるが)と語られたと大パリニッバーナ経にある。実は最初に中村元先生訳の「ブッダ最後の旅」を読んだ時から、この文言に引っかかってきた。「全ては苦である」「どんな美しいものも変容してしまう」と繰り返し教えておられるブッダが、ご自身の命の終焉を前に何故このようなことを言われたのか?
 変移してしまうからこそ、美しいと思われたのか? いや、そうではないように思う。真剣に生きている命を愛おしむ「慈悲」から生じるものだろうか? ここに引っかかった私は、中村先生以外の訳にも当たってみた。「この世は美しい」「この世は楽しい」「この世は麗しい」などの訳があった。それぞれに微妙に意味が違うではないか。「美しい」と「楽しい」では全く違うし、「麗しい」も少し違う。だが、どれを取っても肯定的な意味であることは間違いなさそうだ。「苦であるこの世を生きる命を愛おしむ」としたら、それは大乗仏教に通じるようにさえ感じる。
 しかし、パーリ語やサンスクリット語は皆目分からない以上、訳語に頼るしかないし、それでさえ、2500年も前に生きた人が呟いた言葉だ。おそらく聞いていたのは、常に傍にいたアーナンダひとりであって、アーナンダの記憶による記録だろう。日本についての最初の記述が「卑弥呼が魏に使いを送った」という中国側の記録で、それが紀元後3世紀以降であることを思うと、ブッダの言葉ひとつに拘ることの心もとなさを感じざるを得ない。そんなことよりも、ブッダが残された修行の方法に従って粛々と歩むことの方が、ずっと大事なのかもしれない。たとえ本当にブッダが「美しい」と言われたとしても、その美しさに執着なさったはずがないからだ。
 そう思いながらも、この美しい春の有様を喜び、愛おしみ、心浮き立つことをどうすることもできない。せめて「美しいと思った」「心が弾んでいる」とサティを入れることにしよう。

ダンマ写真

下館道場面接室立像

サンガの言葉

【初学者でもよくわかる二十四縁起】第6回 モートゥ(マンダレー在住)著

3)アディパティパッチャヨー(増上縁):他に匹敵するものがない支配・影響力を及ぼし、結果をもたらす法


●二種類のアディパティ(増上)


 アディパティ(増上)には二つの種類があります。タハーザターディパティ(倶生増上)とアーランマナーディパティ(所縁増上)の二種類です。


 タハーザターディパティ(倶生増上)とは


 同時に生じる、チッタ(心)とチェータスィカ(心所)という名法に対し支配・影響力を及ぼすことをタハーザターディパティ(倶生増上)と呼びます。


 四種類のタハーザターディパティ(倶生増上)


 タハーザターディパティ(倶生増上)は四種類あります。最も強力な①チャンダ(意思)、②ヴィリヤ(精進)、③チッタ(心)、④ヴィーマンサ(観)の四種類です。ヴィーマンサと言うのはピンニャー(智慧)を指します。省略せず書くと、チャンダーティパティ(意思増上)、ヴィリヤーディパティ(精進増上)、チッターディパティ(心増上)、ヴィーマンサーディパティ(観増上)です。


 アーランマナーディパティ(所縁増上)というのは


 アーランマナーディパティ(所縁増上)というのは、対象を捕えた心に対し、強力なアーランマナ(所縁、対象)が心に支配・影響力を及ぼすという意味です。
 少し分かりやすくなるようにタハーザターディパティ(倶生増上)とアーランマナーディパティ(所縁増上)について例をあげながら説明します。


●チャンダーティパティ(意思増上)が支配・影響力を及ぼす様子


 強力なチャンダ(意思)を、チャンダーディパティ(意思増上)と呼びます。ある人が金持ちになりたいと思います。なりたいだけではありません。何が何でもなりたいと思います。どうにかして金持ちにならなければならない、とチャンダーディパティ(意思増上)が生じます。金持ちになりたいチャンダ(意思)がその人にどれくらい支配・影響力を及ぼすかと言うと、合法であれ非合法であれ、「俺が金持ちになることだけが重要だ」と、金持ちになりたい心がその人を支配します。チャンダーディパティ(意思増上)で身を固めます。
 この種の、金持ちになりたいと言うチャンダ(意思)が強い力で怒涛のごとく支配し影響するようになるとその人は何も恐れないようになります。不善な行為も恐れません。不正行為により豊かになることを恥と思いません。独裁者にへつらって媚びを売ることもためらいません。金持ちになりたいというチャンダ(意思)を覆せるものは最早ありません。誰もそれを止めることができません。大麻を栽培して刈り取ったら死刑になると言われても、殺すなら殺してみろ、金持ちになることだけが重要だ、と大麻の栽培を続けます。死刑になることも金持ちになるというチャンダ(意思)を覆すことはできません。金持ちになるというチャンダ(意思)が、死を怖がる心を押さえつけます。
 このような怖がる心、驚く心、恥じる心、飽きる心、迷う心、考えることができる心などの心の状態全てを、金持ちになりたいと言うチャンダ(意思)が支配し影響している状態をチャンダーディパティ(意思増上)がとりついていると呼びます。また、「タハーザターディパティ(倶生増上)がとりついている」と呼ぶこともあります。このような性質をアディパティパッチャヨー(増上縁):他に匹敵するものがない支配・影響力を及ぼし、結果をもたらす法と言います。これが不善なチャンダーディパティ(意思増上)です。
 国が民主主義を取り入れ、民主主義のシステムの中で国民が平穏無事に、そして心身ともに元気で幸せに暮らすことができるようにさせたいというチャンダ(意思)を持つ人がいたとします。普通のチャンダ(意思)ではありません。強い力をもった強烈なチャンダ(意思)です。このチャンダ(意思)がその人に支配・影響力を及ぼし、民主主義を手に入れるために離婚することも厭いません。自分の子供と別れることもためらいません。命を失うことも怖がりません。善なるチャンダーディパティ(意思増上)がその人に支配・影響力を及ぼした結果です。
 民主主義を手に入れることがゴールだ、合法的であれ非合法的であれとにかく民主主義を手に入れることが大事だ、と言うわけではありません。正しく、公正で、平等なやり方で民主主義を手に入れたいと願います。民主主義を手に入れるため、正しく、公平に行動します。不正で不当なやり方がその人に支配・影響力を及ぼすことはもうありません。ですから、不当な争いを仕掛けられても、相手に対し不当な争いを逆に仕掛けることはありません。
 なぜ争いを仕掛けないのかと言うと、合法的に行いたいというチャンダ(意思)がその人に支配・影響力を及ぼしているからです。合法的に行いたいというチャンダーディパティ(意思増上)が具わっているからです。法に照らし合わせて民主主義を手に入れたいという強力なチャンダ(意思)が支配し、影響力を及ぼしていることを、チャンダーディパティ(意思増上)が具わっていると呼びます。これをタハーザターディパティ(倶生増上)とも呼びます。善い方向でチャンダーディパティ(意思増上)が具わっています。


●ヴィリヤーディパティ(精進増上)が支配・影響力を及ぼす様子


 強力なヴィリヤ(精進努力)をヴィリヤーディパティ(精進増上)と呼びます。俺がやれば実現するだろう、民主主義を手に入れられるだろうと考えます。考えてそれを実行します。言葉だけではなく、力と熱意を込めて行動します。どのような困難に出くわしても後戻りしません。行動すれば実現するだろうという信念がその人を支配し影響を及ぼします。これを、ヴィリヤーディパティ(精進増上)を具えていると呼びます。タハーザターディパティ(倶生増上)を具えているとも呼びます。この性質が「他に匹敵するものがない支配・影響力を及ぼし、結果をもたらす法」の意味です。


●チッターディパティ(心増上)が支配・影響力を及ぼす様子


 心が大変堅牢なことをチッターディパティ(心増上)と呼びます。「この人はとても頑固だ」と言ったり、聞いたりしたことがあると思います。「俺たちがこう言っているのだからそうしろ、他の誰も来るな、何も言うな」と言う人に出会ったことがあるかと思います。
 心があまり堅牢でない人は、とても悪い状態に陥った際には、心が揺らぎ、まともな判断ができなくなります。とても善い状態になっても心が揺らぎ、判断を誤ることがあります。チッターディパティ(心増上)を具えた人は何を受け入れるかについて迷うことはありません。チッターディパティ(心増上)とはこのような状態を指します。
 なんらかの原因により心が長く対象に留まる人に出会ったことがあるかと思います。「食べる時はあの心、どこかへ行く時にはこの心」という諺を聞いたことがあると思います。自分でもそうした言葉を使ったことがあるかもしれません。このような状態を、チッターディパティ(心増上)を具えている、と言います。このような性質が「アディパティパッチャヨー(増上縁):他に匹敵するものがない支配・影響力を及ぼし、結果をもたらす法」です。


●ヴィーマンサーディパティ(観増上)が支配・影響力を及ぼす様子


 ヴィーマンサと言うのはパンニャー(智慧)です。何をするにしても、何を言うにしても、何を考えるにしても、行うこと、言うこと、考えることについて良く調べ、考え、パンニャー(智慧)に従って適切に行うことをヴィーマンサーディパティ(観増上)と言います。このような性質を、タハーザターディパティ(倶生増上)を備えていると呼びます。
 四つのアディパティ(増上)の内、チャンダーディパティ(意思増上)、ヴィリヤーディパティ(精進増上)、チッターディパティ(心増上)の三つは、不善な領域でもアディパティ(増上)を具えることができます。善なる領域でもチャンダーディパティ(意思増上)、ヴィリヤーディパティ(精進増上)、チッターディパティ(心増上)を具えることができます。不善な領域でのみこれらのアディパティ(増上)を具えるのは益がありません。大きな誤りにつながります。
 一方、ヴィーマンサーディパティ(観増上)については不善な領域でアディパティ(増上)を具えることはできません。ヴィーマンサーディパティ(観増上)は原因と結果、善と悪、正と不正を吟味、区分けして、善良で正しいことだけを行うので、ヴィーマンサーディパティ(観増上)を不善な領域で具えることはありません。常に善なる領域でのみ存在するアディパティ(増上)です。ヴィーマンサ(観)はパンニャー(智慧)というチェータスィカ(心所)です。ヘートゥパッチャヨー(因縁)に含まれるアモーハ(不痴)というのもパンニャー(智慧)というチェータスィカ(心所)です。ですから、ヴィーマンサーディパティ(観増上)はヘートゥ(因)の力も持ち合わせており、とても優れたアディパティ(増上)となっています。四つのアディパティ(増上)の中でヴィーマンサーディパティ(観増上)は最も優れています。
 チャンダーディパティ(意思増上)が具わると、必ずヴィリヤーディパティ(精進増上)とチッターディパティ(心増上)が後から続いて加わります。ヴィーマンサーディパティ(観増上)の場合は必要な時にしか加わりません。ある時には、行いたいというチャンダ(意思)があるから行います。パンニャー(智慧)では行いません。後先考えず無鉄砲に行います。またある時にはヴィリヤ(精進)が満ちたために行います。考察することは全くありません。
 ヴィーマンサーディパティ(観増上)が具わったら、続いてチャンダーディパティ(意思増上)、ヴィリヤーディパティ(精進増上)、チッターディパティ(心増上)が必ず加わります。パンニャー(智慧)ある人が仕事をする時の様子を見て下さい。しっかりと考察してから仕事に取り掛かります。強力なヴィリヤ(精進努力)で満たされています。なりたいという心、チャンダ(意思)も十分満たされています。誰が何と言おうと堅牢な心で、成功を目指して仕事を進めます。


●成功しない場合の主な原因


 チャンダ(意思)が強固な人、強力なヴィリヤ(精進努力)がある人、心が堅牢な人、パンニャー(智慧)がある人にとっては、仕事が成就しない、成功しないということはありません。どのような分野であれ仕事が成就し成功します、とお釈迦様が説かれました。
 ですから、人生を成功させたい人はこの四つのアディパティ(増上)の中の一つが自分の中に生じ、持続するようにしなければなりません。成功しない人は、自分の中にアディパティ(増上)が一つも生じていないために成功できない、と言うことに気づいて理解する必要があります。


●アーランマナーディパティ(所縁増上)が支配・影響力を及ぼす様子


 ここで、アーランマナーディパティ(所縁増上)、対象を得た心に、強力なその対象が支配・影響力を及ぼす様子を、例をあげて説明します。
目で見る形という所縁(対象)、耳で聞く音という所縁(対象)、鼻で嗅ぐ臭いという所縁(対象)、舌で味わう味という所縁(対象)、身体で感じ取る接触という所縁(対象)、心で感じ取る思考という所縁(対象)、という六つのアーランマナ(所縁、対象)があることを以前学びました。
 一人の若者が、目で見る形「少女」という所縁(対象)に愛情を抱きます。単に愛情を抱くだけではありません。熱烈な愛情を抱きます。その若者は少女という対象を見て、その少女のことを考えます。その際に少女の振舞いについて話をします。少女の臭い、少女の年齢、少女に触れた時の感覚などの対象が若者の心を支配します。その若者は少女のことばかり考えます。
 少女に関連する対象がどれくらい若者の心を支配するかと言うと、お腹が空いたことに気づきません。10時間ぐらい座り続けても身体の痛みを感じません。周囲でどのような音がしても耳には入りません。このように何らかの対象が、その対象に注意を向けている人の心を支配することをアーランマナーディパティ(所縁増上)が具わっている、と言います。これは不善な領域での話です。善なる領域においても同じです。
 ある人はレーピューとう芸能人が好きです。レーピューのコンサート開催を告げる音を聞くと、コンサートという対象がその人の心を支配し影響力を及ぼします。一日中コンサートのことばかり考えます。これをアーランマナーディパティ(所縁増上)が具わっている、と言います。今は不善な例えを挙げて説明しています。善なる対象についても同じであるということを憶えてください。これがアディパティパッチャヨー(増上縁)の概要です。
 二十四縁起パーリの中でお釈迦様は、チャンダーディパティ(意思増上)が支配し影響力を及ぼすとどうなるか、チッターディパティ(心増上)が支配し影響力を及ぼすとどうなるか、アーランマナーディパティ(所縁増上)が支配し影響力を及ぼすとどうなるかについて詳細かつ広範に説明しています。今は初歩レベルのお話をしているので説明はこれくらいにしたいと思います。
 私たちがアディパティ(増上)という、私たちを支配し影響力を及ぼすチャンダ(意思)が善なるチャンダーディパティ(意思増上)になるように努力しなければなりません。また私たちを支配し影響力を及ぼすアーランマナ(所縁、対象)が善なるアーランマナ(所縁、対象)になるように努力しなければなりません。


●最善なのは


 最善のアーランマナ(対象)、最善のアーランマナーディパティ(所縁増上)である涅槃(覚りを得た聖者が享受できる寂静)という対象に注意を向けることができるように、ヴィパッサナー瞑想を実践し、努力を重ねる必要があります。集中すべき対象の中で涅槃という対象が最善です。対象を感受しながら果定に入り、涅槃という対象に触れるのが最高です。皆さんが最善の対象、最高の感受を享受できる人になれるように祈っています。