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月刊サティ!|ヴィパッサナー瞑想協会(グリーンヒルWeb会)

巻頭ダンマトーク

今月はお休みします

ヴィパッサナー瞑想をやってみたら―瞑想で訪れた人生の転機(Web会だより 改め)

「内観と断酒がもたらした転機」──怒りと後悔の苦しみから、感謝の心を持てる日々へ──H・Y(40代男性・東京都)

 怒りに支配されていた日々

 私は若い頃から、常にイライラや怒りを抱えて生きてきました。思春期には感情を抑えきれず、物にあたることもしばしば。社会人になってからは酒に頼ってストレスを紛らわせるようになり、飲んでいる間だけ気が晴れるように思っていましたが、今振り返れば、それは単なる心の麻痺でした。
結婚して子どもにも恵まれ、外から見れば順風満帆な生活を送っているように見えても、心の奥では慢性的な苛立ちがくすぶっていました。仕事で思い通りにいかないことがあると、すぐに怒りがこみ上げ、家庭では妻に強い言葉をぶつけ、後で深く後悔する。その繰り返しでした。

 怒りと後悔の爆発

転機のきっかけは、娘の怪我でした。自分の不注意を責め、妻にも怒りをぶつけてしまう。そんな自分に嫌気がさし、どうにかこの怒りを抑える方法はないかと本を探し求め、小池龍之介さんの『もう、怒らない』に出会いました。それが瞑想に関心を持つ最初のきっかけでした。
カルチャースクールの講座や自己流の座禅にも取り組みましたが、根っこの怒りはまったく消えませんでした。
そして2014年、人生で最も大きな後悔を味わいました。住宅購入の失敗です。長く続いた家探しに疲れ切っていた私は、不動産業者の「今買わないと値上がりします」「これは掘り出し物です」という言葉に焦りを覚え、十分に納得しないまま契約してしまいました。
契約直後から後悔が頭を離れず、夜中に何度も目が覚め、焦燥と不安で胸がいっぱいになりました。仕事にも集中できず、心療内科を受診すると「うつ病」と診断されました。結局その家はすぐに売却し、大きな損失を出しました。重荷がなくなったことで症状は改善しましたが、慢性的なイライラは残ったままでした。
その後も飲酒量は増え、妻との間では子どもの教育方針などで衝突が絶えず、2016年には歯の治療で医療過誤にも遭いました。疲弊しながらも「子どものために頑張らなければ」「立派な父親でいなければ」と無理をしていたように思います。
 2019年には新しい部署で後輩と対立。後輩に対して生意気だと怒りを覚えながら、うまく対応できない自分への失望にも苦しみました。飲酒はさらに増え、心の状態も悪化。上司に願い出て半年で異動し、「このままではいけない」とようやく本気で思いました。

 タイの寺での瞑想との出会い

2020年1月、異動前の長期休暇を利用して「心を入れ替えたい」と思い立ち、タイ北部メーホーソン県の瞑想寺「ワット・タム・ウワ」を訪れました。世界中からバックパッカーが集まる有名な寺で、私も“修行”というより“心のデトックス”のつもりでした。
僧侶はタイ語と英語で瞑想の説明をしてくれましたが、英語が得意でない私は内容を十分に理解できず、言っていることは分かるものの、実践の仕方が掴めずにもどかしさを感じていました。そんな時、食堂の本棚の日本語コーナーに、たまたま地橋秀雄先生の『ブッダの瞑想法』が並んでいるのを見つけました。
そこに書かれていた「ヴィパッサナー瞑想」の理論と実践方法は、驚くほど腑に落ちました。しかも、やり方が具体的に書かれており、これなら自分にもできると感じたのです。それ以降、書籍に書かれた方法で瞑想を実践しました。
朝は僧侶への布施、日中は座禅と歩行禅を繰り返し、夕日が落ちる山々を眺め、夜は虫の音を聴きながら眠る――「頑張らなくてもただ生きているだけでいい」と心から思えたのは初めての経験でした。帰国後、「この瞑想を正しく学びたい」と思い、グリーンヒルの初心者講習に申し込みました。こうして、私のヴィパッサナー瞑想の歩みが始まりました。

 合宿と挫折の繰り返し

2020年3月に初心者講習を受け、同年6月に初めて1day合宿に参加しました。ところが、時間がとても遅く感じられ、イライラしてしまい、過去の後悔や怒りに何度も巻き込まれました。面談の際、これまでの経緯を話すと、地橋先生は「因果応報」という視点を示してくださいました。その言葉を聞いた瞬間、胸にストンと落ちました。「そういえば自分も、人に酷いことをしてきた。そんな自分が、他人から酷いことをされて嘆くのは道理に合わない。今の苦しみは、過去の自分の行いの結果なのだ」と腑に落ち、長年のモヤモヤが晴れたような気がしました。
それでも瞑想の習慣は続きませんでした。1〜2週間続けては途切れ、また始めては挫折。時には自己流に流れ、また悩みがぶり返す。そんなことを何度も繰り返しました。瞑想会にも足が遠のき、「自分には向いていないのでは」と感じることもありました。

 娘の受験と再燃した後悔

2023年2月、娘の中学受験が終わったとき、心は再び揺れました。
「もっと学力の高い学校に行けたのではないか」「自分の導き方が悪かったのではないか」――そんな思いが頭を占め、進学後に娘が学校生活に悩む姿を見て、自責の念は一層強まりました。
光を求めて久しぶりに1day合宿へ参加。瞑想自体は以前と変わりませんでしたが、座談会では娘や家族との葛藤について共感をいただき、地橋先生からは「進学よりも、子どもが良い心持ちで生きることの方が大事」という助言を受けることができました。
しかし、その後も YouTube や TikTok などで刺激を受けるたび、後悔が再燃。瞑想も週に2回、思いついた時に10分座る程度まで減っていました。
6回目の合宿時の面談で「後悔が消えない」「歩く瞑想で眠くなる」と話すと先生から両親に対する想いを聞かれ「内観」を勧められました。以前から名前は知っていましたが、「1週間も休めない」と諦めていたのです。それでもこの時ばかりは「苦しみから抜け出せるなら何でもやってみよう」と決意し、参加を申し込みました。

 内観で変わった視点

2024年5月、7泊8日の内観研修に参加。携帯もパソコンも預け、完全に外界から離れて過去と向き合いました。
内観では、「していただいたこと」「してさしあげたこと」「迷惑をかけたこと」を母から始め、父、兄弟、妻、子どもへと対象を広げて思い出します。最初は「そんな昔のことは覚えていない」と思っていたのに、次第に幼い頃の断片的な記憶が次々と蘇り、「自分がどれほど多くのことをしてもらってきたか」に気づき始めました。
父を対象にしたとき、衝撃を受けました。短気ですぐ怒鳴る父には長年嫌悪感を抱いており、大学進学にも反対され、生活費は借用書付きで渡され、授業料は奨学金で賄い ました。大人になってからも「まあそういう人だ」と割り切りつつ、心のどこかで距離を置いていました。
けれど、思い出してみると違う側面がありました。父はスキーや海水浴など様々な場所に連れて行ってくれた。大学4年のとき、アメリカに行きたいと言った私のためにホームステイ先を探してくれた。「してもらったこと」を一つずつたどるうちに、「父も自分なりに家族を支え、責任を果たそうとしていたのだ」と理解でき、自然と感謝の気持ちが湧きました。母についても、日々の細やかな支えや心づかいが次々と思い出され、「自分はどれほど多くを受け取ってきたのか」を痛感しました。
嫌な記憶ばかりが前に出て他の事実を覆い隠していた――自分の「認知の歪み」をはっきり自覚しました。内観は、事実の再点検を通じて、その歪みを正してくれました。内観は「考える感謝」ではなく、「思い出すうちに自然に湧く感謝」だと実感しました。

 断酒がもたらした心身の変化

さらに決定的な転機となったのが、2024年8月の大腸ポリープ切除でした。病理検査を待つ間、最悪の可能性も頭をよぎり、死を覚悟しました。幸い結果は良性でしたが、医師からは「大腸には飲酒が最も良くない」と指摘され、長年の課題だった酒をやめる決意を固めました。
 断酒を続けるうちに身体のだるさが消え、頭が驚くほどクリアになりました。ストレスで「飲みたい」と感じ、痛飲しては後悔する――その悪循環がなくなり、心の揺れが小さくなりました。
 なぜ五戒の中に「不飲酒戒」が含まれているのかが、ようやく腑に落ちました。“飲酒している限り、瞑想ができない”ということを実感しました。私はこれまで瞑想を定着させようと悪戦苦闘しながら挫折を繰り返してきましたが、五戒を守ることが瞑想修行の不可欠な土台であることを身をもって知ることができました。

 日常に根づいた瞑想 以後、毎朝10分の歩く瞑想を欠かさず続け(今は15分に延長)、慈悲の瞑想も基本に忠実に行っています。さらに「昨日していただいたこと」を短時間で振り返る“日常内観”も習慣になりました。
 仕事や家庭で苛立つことは依然ありますが、怒りが膨らむ前に気づけるようになりつつあります。妻にも自然と感謝の言葉が出て、家事も自然に行えるようになり、家族との関係も穏やかになりました。娘も今ではダンス部に所属して生き生きとした学校生活を送り、妻も息子も元気に過ごしています。

 結びに

内観と断酒は、私にとって決定的な転機でした。初めての合宿で地橋先生がおっしゃった「まず五戒を守り、心の反応プログラムを変えることが先」という言葉の意味を、実感をもって理解できました。 まだ毎朝15分の歩く瞑想と、仕事の合間の5分間ミニ瞑想しかできない未熟者ですが、それでも“続けられている”ということ自体、過去の自分から見れば大きな進歩です。
「義務感からの幸せづくり」から「自然に湧き上がる感謝と幸せ」へ。
 長く怒りと後悔に苦しんできた私にとって、これが何よりの果実です。これからも実践を積み重ね、穏やかな日々を一歩ずつ歩んでいきたいと思います。

季節の写真

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今日のひと言

2026年4月号

(1)
★ただ生きているだけで、心は汚れていく。
 悪い想念が絶えず脳裏を掠めるからだ。
 だが、座る瞑想を始め、全身の体感を感じた瞬間、意識モードが切り換わっていく。
外界に突き刺さっていく意識の矢印が自分の内面に向けられる。
 愚かな自分、汚れた自分、傲慢な自分を痛切に懺悔したくなる。
 瞑想は心を浄化する……。
……………………
(2)
★解脱した聖者でも、因果が帰結し、業が異熟(現象化)する力に抗うことはできない。
 2度刺客から逃れた目連尊者も3度目は凶刃に倒れた。
 ブッダですら足指に棘(とげ)を刺し、背中に疼痛を覚え、罵詈雑言を浴びせられた。
 病むこともあれば死ぬこともあり、因縁があれば必ずそうなってしまうのが業の異熟である。
 必然の力で起きたことはありのままに受け容れる覚悟を定め、なすべきことをなし、慌てず、騒がず、瞑想を続けていけばよい……。
……………………
(3)
★不安も、ストレスも、ブチ切れるのも、集団ヒステリーも…すべて思考や妄想が惹き起こした反応に過ぎない。
 思考モードを離れれば、全てが雲散霧消するだろう。
 新たな視座から再解釈し、認知が変われば、印象世界が一変する。
 だが、「存在」=「現象の流れ」の本質を洞察しなければ、果てしない認知の塗り替えを虚しく繰り返すだけとなる・・。 
……………………
(4)
★思考が止まろうが、禅定に入ろうが、瞑想を終了し日常モードに戻れば、不安もストレスも劣等感も回帰してくるだろう。
 ものごとの受け止め方が、発想が、思想が、本心が、変わらなければ、どんな瞑想も「現世の楽住に過ぎない」(削減経)。
 心の反応パターンを根底から書き換える覚悟とその実践こそ真の瞑想……。
……………………
(5)
★瞑想をすれば、心が変わり、生き方が変わり、人生の流れが変わっていくが、煩悩が根絶やしになる訳ではない。
 煩悩滅尽の奇跡は、解脱の瞬間にしか訪れない。
 人の心は無常の法則に貫かれ、条件しだいでどのようにでも変わってしまう。
 悟りの第一段階(預流果)に入れば、二度と転落も後戻りもない、とブッダは言う。
 それまでは、貪りも、怒りも、嫉妬も、高慢も、あらゆる不善心によく気をつけて遠ざけ、反応系の心を段階的に組み替えていく。
 マインドフルネスを維持するサティの技術と、総力戦の智慧の修行……。

2026年4月号

(1)
★妻と息子夫婦と孫娘が一瞬にして津波に呑まれ、ただ独り生き残ってしまった消防団の老人が泣き崩れた。
 20歳になった孫娘の親友が訪ねてくれたので笑顔で迎えたが、突然、抑えがたく激しく嗚咽した。
 9年の歳月が流れても、悲嘆は癒えないのだ。
 愛する者への執着が深ければ、孤独地獄は耐えがたく、豊かな孤独は至難の業……。
……………………
(2)
★わびしい孤独、物欲しそうな孤独、怒りに満ちた孤独、ひねくれた孤独、哀れな孤独……。
 悠然とした孤独、優しさも信頼も安心も十分に得てきた孤独、豊かな孤独、自己完結した孤独……。
 自らの中に顕わになる法(ダンマ)のみを拠りどころにした孤独……。
……………………
(3)
★欲望を刺激し、怒りのエネルギーでヤル気を駆り立て、バカ騒ぎをしては、この世を楽しむ。
 そんな貪瞋痴の世界に逆らい、孤独に自己を客観視する瞑想修行……。
 物理的な孤独には耐えられても、自分に向き合い続けるのは至難の業だ。
 他人を、外界を、ネットの世界を眺めたい、見物したい、バーチャルな情報の濁流に呑み込まれ、押し流され、溺れたい……。
……………………
(4)
★愛する家族、財産、地位、名誉があれば、反射的に守ろうとして、エゴ的反応が起きやすい。
 家族を持たず、野望も、不満も、守るものも、失うものもなければ、怖れるものがない。
 未だに道を極められないドゥッカ(苦)は続くが、生じてきた優しい気持ちは、不特定多数への慈悲の瞑想に昇華されていく……。
……………………
(5)
★人と交わり集団で生き延びてきた人類は、本能的に孤立や孤独を嫌う。
 しかるに、感染症の猛威に緊急事態宣言が発動し、人流が止められ、巣籠もりせよ、孤立しろ、と強いられてきた。
 起きたことは全て正しいのであれば、出歩かず、自宅に隠棲し、ひたすら瞑想せよ、という天の声と解釈すべきだろうか。
 雨が降ろうが槍が降ろうが、樹の下で、廃屋で、瞑想せよ、群れるな、と説き続けたブッダ・・・。

瞑想 山小屋だより

山小屋の雨漏りとお布施

 八ヶ岳南麓の小さな山小屋に移り住んでしばらくした頃のこと。朝カルの講座の後、地橋先生に呼びとめられた。「新居を購入されたそうですね。由々しいことが起きていないか心配していました。この世はエネルギーが循環する世界です。大きな価値あるものを得たときには、それ相応の出力をしないでいると、まるで強制徴収されるかのように不幸が起きる事例をいろいろ見てきました。お金がいちばん無いときに大変でしょうが、住関係には住関係のお布施をしておくといいですよ」と言われた。そう言えば新築すると病気になるとか、転勤を命じられるとか聞いたことがある。中古の購入でもそういうことがあるかもしれない。劣善も劣善、強制徴収から逃れるための劣善だが、とにかく色々調べて、住む場所が無い難民に住居を提供しているNPO法人に寄付をした。

 その少し前、大雨が三日ほど続いて、ある夜ポタッポタッとどこからか雨漏りの音が聞こえてきた。特定はできないものの吹き抜けの高い梁のあたりから音がする。翌日慌てて管理会社の工事部の人に来てもらったが場所が分からない。「次の大雨の時に呼んでください。現場をおさえないとどうにも……」と言って帰っていった。それからは暗澹として雨を待つ日々となった。せっかく買ったばかりの家なのに、雨漏りとなると屋根の修理? 大変だなあ……と落胆していた。

 さて、雨が全く降らない日が続いて、そんなことも忘れてしまった頃、地橋先生の助言をいただいて寄付をした。寄付をした時は、雨漏りのことにどうしてか結びつかなかった。事故や病気のことばかり心配していたからかもしれない。その後、土砂降りの日があって、「すわっ!」とばかりに工事部の人が来てくれたのだが、雨漏りしているところは見当たらない。確かに聞いたはずの音さえもしない。「屋根から外に落ちる雨音が、家の中で響いて雨漏りのように聞こえたんでしょう。」という結論になった。その時になってやっと、難民へのお布施と、雨漏りのことが関連しているのでは? と思い至った。いや関連しているに違いない。確かに雨漏りの音はしていたのだ。世の中には不思議なことは色々起きる。あったはずの物が消えてしまったり、無かったはずの物が出てきたり。やったはずの無い仕事が済んでいたりする。きっとそんな一例だったのではないか。

 あらゆる事象は、物理法則のように、なんらかの因果関係をともなって現れる、と私は考えている。地橋先生のお話をたびたび朝カルで聴講するうちに、そう考えるようになった。今回は難民が雨風や暑さ寒さをしのぐ場所を提供するNPOに寄付をした。だから雨漏りは消えてしまったのではないか?都合のいい捉え方かもしれないが、私にとっては検証がひとつできたような気持ちになっている。

 それにしても、自分の利益のための布施は劣善であって、しないよりマシという程度のものだろう。本当は心の底から他者の幸せ、苦痛が無くなることを願うものでなくてはならない。そもそも徳の無い者には布施をするチャンスさえ無いという。だから機会があったらすぐ布施をしよう。そうしているうちに劣善も本物に変わっていくかもしれない。

財施だけが布施では無い。「無財の七施」というものもある。
 眼施(温かく優しいまなざし)、和顔施わがんせ(笑顔)、言辞施ごんじせ(愛情ある言葉)、身施しんせ(身体を使う)、心施しんせ(心くばり)、床座施しょうざせ(場所を譲る)、房舎施ぼうしゃせ(泊めてあげる)…(曹洞宗による)の七つの布施だが、これらは純粋な善意のみでできることだろう。こんな小さなことからでも一歩一歩積み重ねていけば、いずれは少しの邪念も無い美しい布施ができるのではないか?

 そう思いながらも、自分の健康を考えて、何か良いライフダーナ(命の布施)は無いものか……と思いめぐらしているのだから、まだまだ劣善の域を出ていないのである。

ダンマ写真

壁面浮彫仏像@朝カル食事会

サンガの言葉

【初学者でもよくわかる二十四縁起】第5回 モートゥ(マンダレー在住)著

2)アーランマナパッチャヨー(所縁縁)


 アーランマナパッチャヨー(所縁縁):六つの対象が紐と杖のような性質により、名法(心)に対し原因として働きかける法


●六つの所縁(対象)


 六つの所縁(対象)とは以下の通りです。
① 目で見る形という所縁(対象)、ルーパーランマナ
② 耳で聞く音という所縁(対象)、サッダーランマナ
③ 鼻で嗅ぐ臭いと言う所縁(対象) ガンダーランマナ
④ 舌で味わう味と言う所縁(対象)、ラサーランマナ
⑤ 身体で感じ取る接触という所縁(対象)、ポゥッタッバーランマナ
⑥ 心で感じ取る思考と言う所縁(対象)、ダンマーランマナ


●所縁(対象)が必要です


 ローバ(貪)の心であれ、ドーサ(瞋)の心であれ、心が一つ生ずる際には対象が一つ必要です。例えば、形と言う対象一つがセックパサーダ(眼浄色)と呼ばれる眼と出会います。眼の状態も良好です。形と言う対象を見るために必要な光も十分あります。「何だ、これは」と注意を向けそれを見るとします。見える対象がローバ(貪)を生じさせるものであればローバ(貪)が生じます。ドーサ(瞋)を生じさせるものであればドーサ(瞋)が生じます。ローバ(貪)を生じさせるものでなければローバ(貪)は生じません。ドーサ(瞋)を生じさせるものでなければドーサ(瞋)は生じません。


●ダンマーランマナ(法所縁)について


 思考や想像から生じる対象がダンマーランマナ(法という対象、法所縁)です。一人で居る時に考え、感じるのがダンマーランマナ(法という対象、法所縁)です。ダンマーランマナと言うのは地域の中で夜明けや日暮れに大音響で歌を披露するダンマーランマナのことではありません。思考や想像により生じる心の状態をダンマーランマナ(法という対象、法所縁)と呼んでいます。


●アーランマナ(所縁)が無いと


 ルーパーランマナ(眼で見る形と言う所縁、対象)が無いと、見て知る心であるセックヴィンニャーナ(眼識)は生じません。タッダーランマナ(耳で聞く音という所縁、対象)が無いと聞いて知る心であるソータヴィンニャーナ(耳識)は生じません。ガンダーランマナ(鼻で嗅ぐ臭いという所縁、対象)が無いと嗅いで知る心であるガーナヴィンニャーナ(鼻識)は生じません。ラサーランマナ(舌で味わう味という所縁、対象)が無いと食べて知る心であるジヴァーヴィンニャーナ(舌識)は生じません。ポゥッタッバーランマナ(体で感じる接触という所縁、対象)が無いと触れて知る心であるカーヤヴィンニャーナ(身識)は生じません。ダンマーランマナ(心で感じ取る思考と言う所縁、対象)が無いと思考や想像により生じる、考えて知る心であるマノーヴィンニャーナ(心識)は生じません。


●就寝中でさえも


 心と言うものは全てアーランマナ(所縁、対象)を原因として生じます。アーランマナ(所縁、対象)が無ければ心は生じません。アーランマナ(所縁、対象)の援助が無ければ心は生じることができません。就寝中に生じる心をバヴァンガチッタ(有分心)と呼びます。このバヴァンガチッタ(有分心)も、それに関連する何らかのアーランマナ(所縁)を対象として生じ、存在します。
 本書は初学者のレベルなので知識としてこのくらい憶えておいてください。詳細を説明しても理解できずに目が回ってしまうのでこれ以上はお話しません。理解して欲しいのはアーランマナ(所縁、対象)とその支えが無いとチッタ(心)は生じないと言うことです。


●紐と杖の例え


 歳を取り、自力で立ち上がったり、移動したりすることができなくなったお爺さん、お婆さんは紐で引いてもらうことで、立ち上がり、前に進むことができます。杖につかまることで立ち上がり前に進むことができます。紐、杖が原因となり、お爺さん、お婆さんは立ち上がって前に進むことができます。
 チッタ(心)、チェータスィカ(心所)という名法は、歳を取り、自力で立ち上がったり、移動したりすることができなくなったお爺さん、お婆さんに似ています。ルーパーランマナ(目で見る形という所縁、対象)、サッダーランマナ(耳で聞く音という所縁、対象)、ガンダーランマナ(鼻で嗅ぐ臭いと言う所縁、対象)、ラサーランマナ(舌で味わう味と言う所縁、対象)、ポゥッタッバーランマナ(身体で感じ取る接触という所縁、対象)という物質に関わる五つのアーランマナ(対象)は紐に似ています。ダンマーランマナ(心で感じ取る思考と言う所縁、対象)は杖に似ています。


●紐と五つのアーランマナ(所縁、対象)


 紐は複数の糸をよりあわせて作られています。同様に、ルーパーランマナ(目で見る形という所縁、対象)などの物質に関連する五つのアーランマナ(所縁、対象)も複数の物質を集めて作られています。こうした理由でルーパーランマナ(目で見る形という所縁、対象)を始めとした物質に関連する五つのアーランマナ(所縁、対象)を紐に例えています。


●杖とダンマ―ランマナ(心で感じ取る思考と言う所縁、対象)


 杖は木片と竹から出来ています。同様に、チッタ(心)もチッタ(心)が一つ滅すると次のチッタ(心)が生じます。一つ滅すると次が生じます。このため、ダンマーランマナ(心で感じ取る思考と言う所縁、対象)と言う、心に関連する対象を杖に例えています。


●原因として働きかける様子


 力が弱り、自分自身で立ったり、移動したりすることができない老人は紐、杖の助けを借りることで、それが原因となり、行ったり来たりすることができます。力が弱った老人に似ているチッタ(心)、チェータスィカ(心所)という名法は、ルーパーランマナ(目で見る形という所縁、対象)などの紐、そしてダンマーランマナ(心で感じ取る思考と言う所縁、対象)と言う杖に頼ることで生じます。チッタ(心)、チェータスィカ(心所)などの名法を生じさせるためには、ルーパーランマナ(目で見る形という所縁、対象)などの対象が支える必要があります。
 アーランマナパッチャヨー(所縁、対象が原因となる)と言うのはこのような性質、法を示しています。


●意味


 善きにつけ悪しきにつけ生き物に心が生じるのはこの六つの対象が原因です、とお釈迦様が説かれました。アーランマナパッチャヨー(所縁、対象が原因となる)と言うのはこのような性質、法を示しています。


●相違点


 凡夫(覚っていない普通の人)の多くは、ローバ(貪)を生じさせる対象に出会うとローバ(貪)が生じます。ドーサ(瞋)を生じさせる対象に出会うとドーサ(瞋)が生じます。モーハ(痴)を生じさせる対象に出会うとモーハ(痴)が生じます。
 一方、善なる凡夫と覚りを得た聖者はそのようにはなりません。なぜそうならないかについて説明します。


●ヨーニソマナスィカーラ(如理作意)


 遭遇した何等かのアーランマナ(所縁、対象)を心に取り込むことであるヨーニソマナスィカーラ(如理作意)とともに対象を見る人は、遭遇したアーランマナ(対象)がローバ(貪)を生じさせるアーランマナ(対象)であってもローバ(貪)は生じません。何故ならその人は感受を甘やかすことなく、パンニャー(智慧)により対象を適切に心に取り込んで観察するからです。


●アヨーニソマナスィカーラ(非如理作意)


 遭遇した何らかのアーランマナ(所縁、対象)を不適切に心に取り込むことであるアヨーニソマナスィカーラ(非如理作意)とともに対象を見る人は、遭遇したアーランマナ(所縁、対象)がローバ(貪)を生じさせるアーランマナ(所縁、対象)であればローバ(貪)が生じます。ドーサ(瞋)を生じさせるアーランマナ(所縁、対象)であればドーサ(瞋)が生じます。何故ならその人は感受を甘やかし、対象を不適切に心に取り込んで観察するからです。例をあげて説明します。


●心に取り込む例


 私が滞在している僧院に七歳の沙弥(見習い出家者)がやって来ました。その沙弥のことを他の沙弥たちがからかいました。するとその沙弥は早朝から午前、午後、深夜まで時を選ばず、怒りたくなったら僧院全体に響きわたる声で「ばかにされた、だから文句を言ってやる」と怒鳴りました。
 その怒鳴り声を聞きながら「この子は乱暴だ」とその沙弥を叩きたくなりました。
 そこに住職のセヤードーがいらして言いました。「子供たちは何が恥ずかしいことか、何が恐れるべきことか分かりません。このように怒鳴るのが相応しいのか相応しくないのかも知りません。」とおっしゃって沙弥に対して怒りの心が生じることはありませんでした。
 私はアヨーニソマナスィカーラ(非如理作意)で観察し怒りが生じました。一方セヤードーはヨーニソマナスィカーラ(如理作意)で観察し、怒りは生じませんでした。アーランマナ(所縁、対象)は沙弥の怒鳴り声、タッダーランマナ(耳で聞く音という対象)です。


●心を制御する必要があります。


 ですから私たちはローバ(貪)を生じさせるアーランマナ(所縁、対象)に遭遇し感受が生じてもヨーニソマナスィカーラ(如理作意)をしっかりと携えてローバ(貪)が生じないように過ごす必用があります。うまく制御することができなくてローバ(貪)が生じても罪を犯すレベルに達しないようにコントロールする必要があります。


●制御できれば


 このようにヨーニソマナスィカーラ(如理作意)を携えて慎みながら過ごすことができれば私たちの周囲の人々は穏やかで静かで落ちついた状況になります。社会も安定します。


●制御できなければ


 人々がアヨーニソマナスィカーラ(非如理作意)とともに過ごしローバ(貪)、ドーサ(瞋)、モーハ(痴)が強力になると、ローバ(貪)を生じさせるアーランマナ(所縁、対象)、ドーサ(瞋)を生じさせるアーランマナ(所縁、対象)、モーハ(貪)を生じさせるアーランマナ(所縁、対象)に遭遇してもローバ(貪)、ドーサ(瞋)、モーハ(痴)が生じないようにヨーニソマナスィカーラ(如理作意)とともにコントロールすることができなくなります。私たちの周囲の人々、社会は落ち着きがなく騒々しい苦しみの多いものになってしまいます。
 皆さんがアーランマナパッチャヨー(所縁、対象が原因となる)の性質、意味を理解し、ヨーニソマナスィカーラ(如理作意)を携え、ローバ(貪)、ドーサ(瞋)、モーハ(痴)が少なくなるように努力、実践することができますように。