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月刊サティ!|ヴィパッサナー瞑想協会(グリーンヒルWeb会)

巻頭ダンマトーク

今月号の巻頭ダンマトークは、休載します。

「私の瞑想体験ー瞑想で訪れた人生の転機」(旧「Web会だより」改め)

2026年11月号

今月の「私の瞑想体験」は長い。原稿をいただいた時に、その長さから、切りどころを探しつつ読み始めたのですが、読んでいるうちにどんどん引き込まれ、これはまとめて掲載した方が面白いと判断して、そのようにいたしました。瞑想に出会うことで人生に転換期を得た人の率直な語りを味わっていただきたいと思います。(編集長)

「生きるのが楽になってきました」

ペンネーム: 滅

 これが、瞑想をしてきた、今の率直な感想です。生活していても、仕事をしていても、随分と楽に過ごせるようになってきました。このたび、瞑想体験を書かせていただく機会を頂けたことに、大変恐縮しております。自己承認欲求に抗いながら書いた内容ですので、笑って読んで頂ければ幸いです。


 禅や瞑想になんとなく興味がある中で、書店で地橋先生の『ブッダの瞑想法』に出会いました。読み進めるうちに、これは学びに行かないといけないと直感し、2019年7月に初心者講習会に参加し、11月に1day合宿に参加させて頂きました。定期的に通わなければと感じましたが、その後コロナ禍もあり、なんとなく疎遠になってしまいました。
 当時の私は、常にイライラしていて、怒りの感情の中で生きていました。ちょっとしたことでも怒ったり怒鳴ったりしていました。今思うと、本当に荒んでいたと思います。家業を継ぎ、個人の仕事量は多く、責任も重く、経営的な不安もありました。毎晩のように酩酊するまでお酒を飲み続け、体調も崩しました。両親との関係は上手くいかず、従業員の大量退社もありました。
 家族に迷惑をかけてしまったことをきっかけに、『このままではいけない』と思い、きちんと瞑想に取り組もうと決意しました。それが2023年の終わり頃で、2024年1月に1day合宿に改めて参加しました。

★妄想とジャーナリング

 最初の頃の瞑想は考えごとばかりで、歩いても座っても妄想ばかりで、サティ以前の問題でした。先生からジャーナリングが良いと教わり、毎朝30分以上、頭に浮かんだことをどんどん書きました。昼間でも妄想でどうしようもない時は、作業を止めてジャーナリングをしました。怒りや恨み、後悔など、読み返すのが嫌になるような感情ばかりでした。言葉が出なくなると、言語化できない感情をギザギザや大小さまざまな丸など、形にして描きました。言語化できない感情を表現して落ち着いてくると、また言葉で表現できるようになりました。この習慣は、今でも続けています。

 ジャーナリングを続けていくと、頭の中が少しずつ静かになってきました。妄想が減ると時間ができ、余計なことを考えなくなり、作業効率も良くなってきました。時間が余っていることを先生に相談したところ、仏教の勉強をするとよいと教えていただき、朝日カルチャーセンターに参加するようになりました。先生の御著書や原始仏教関連の本も貪るように読みました。
 瞑想はマイペースに続けました。妄想が少なくなると、今まで感じていなかったことが感じられるようになり、感覚だけでなく、心の状態も観察できるようになりました。最初は「怒り」などの簡単なラベリングだけでした。そのため、心がすっきりすることは稀でした。そこで、サティが入った時の心の状態を覚えておき、ジャーナリングの時に思い出し、その時の感情を分析しました。すると、怒りの感情は、焦り・不安・怖れ・後悔・自己中心的思考・無知など、さまざまな感情が絡み合っていることに気づきました。ジャーナリングの時にラベリングを考えておき、その感情に気づいた時に使うようにすると、心がすっきりすることが増えてきました。
 このようにヴィパッサナー瞑想で観察力を高め、ジャーナリングで感情と思考を整理整頓し、聞法によりダンマを理解していきました。この三つが絡み合いながら深まっていく中で、印象的な体験や気づきがいくつもありました。

★感覚と苦痛の識別

 冬の日、外を歩いていた時のことです。寒かったので、「寒い」とラベリングしてみました。しかし、何か違和感がありました。そこで「寒さ」とラベリングし直してみると、不思議なことに、苦痛が無くなったのです。それまでの私は、「寒さ」と「苦痛」をひとまとめにして「寒い」と認識していたようです。感覚そのものと、心の反応は別物だったのです。
 早速この体験を、朝の洗顔で活用してみました。冬の冷たい水に変え、冷水が手や顔に触れた瞬間に「冷たさ」とラベリングすると、嫌気なく洗顔することができるようになりました。

★自分が崩れる

 ある夜、歩きの瞑想をしていると、体が動かなくなりました。でも、視覚と聴覚はしっかりしていて、気づきも十分ありました。眼識と耳識に気づき、それに関するラベリングがしばらく続いていました。『きりがない』と思ったとき、『なんだ、自分って成り立たないじゃん』と腑に落ちたのです。「自分」という存在は確固たる実体ではなく、感覚の連続を受け取りながら組み上げることで作られた概念に過ぎないのだと理解できました。

★怒りの奥にあったもの

 また、怒りの感情を観察しているなかで、大きな気づきもありました。他人や環境に対して怒っていると思っていましたが、その奥には「自分自身に対する怒り」がありました。成功とは言えない状況。期待が失望になる日々。人から見捨てられるかもしれないという恐怖。自分を赦すことができない人生。その苦しさが、怒りという形で外側に向けられていただけでした。原因も分からず悩みながら「自分でかってに苦しむ方向を選んでいた」と気づいたのです。そのとき「苦しんでいる」とラベリングが入り、「ああ、自分が悩んでいることにすら気づかず、自分で自分を苦しめていたんだ」と理解でき、少し肩の力が抜けた気がしました。同時に、これからは苦を選ばない方向へ進もうと決意しました。
 自分が苦しんでいることを客観的に気づく機会が増えると、周りの人もまた苦しみの中にいることに気づけるようになり、慈悲の瞑想のカルナー(悲)に取り組む姿勢が自然と変わってきました。

★お金への執着と、アイデンティティの罠

 ある時、歩きの瞑想をしていると、いつものように仕事の妄想が出ました。いつもなら「妄想」とラベリングするのですが、その時だけは、いつも同じ内容の妄想をしていることに気づき、「お金のことを考えている」というラベリングが出てきました。いつもお金のことばかり考えていた自分に愕然としました。お金に執着していて、その執着対象であるお金を自分自身だと思っていたことに気づきました。気づきと共に、執着を手放すことができた気がします。

 私は、このように、執着対象に自分を重ねてアイデンティティを作り、それを自分として大切に守っているパターンが多いです。家族・仕事・お金・成功・立場・美味しさ・楽しみ・期待・評価・基準など、執着しているものに気づくたびに、「今まで何やってたんだろう」というガッカリ感があります。最近では「ガッカリ感」とラベリングすらできるようになりました。気づくと同時に、心が楽に自由になっていくことを感じています。

 心が軽くなってくると、趣味の水泳にも変化がありました。考えながら泳ぐことはほとんどなくなり、疲れも極端に少なくなりました。腕を入水するたびに生まれる無数の泡の流れの美しさを見ながら、その泡のはじける音を聴き、肌を流れる水の大小の渦を感じる。以前とは感覚が全く変わりました。初めてその感覚を得たときは、ずっと泳いでいたいという気分でした。あまりにも感動的で、泳いでいて楽しいです。でも、このことに執着しないで、プールに通っています。考えごとをしている時間が少なくなるにつれ、「今」を感じられる時間が増えてきたのだと思います。

★食事の瞑想が教えてくれたこと

 印象的な体験は、瞑想の場だけに限りません。私は食事の瞑想が大好きで、毎回1時間以上かけています。驚きと共に、素晴らしい気づきがいくつもありました。

① 箸の上に乗る人々
  『美味しいな』となんとなく食べていると、目の前のお弁当が途方もない労力の結晶であることに気づきました。これは大変なことだと思いました。目の前のお弁当を並べてくれた人、購入の手配をしてくれた人、運搬してくれた人がいる……と思考が続けて浮かびました。その後も、どんどん関係する人が頭に浮かんできました。お弁当を詰めた人、料理を作った人、味付けをした人、ご飯を炊いた人、お米を洗った人、お米を収穫した人、お米を育てた人、さらに、その背景にいる多くの人たちまで、具体的に、次々と浮かび上がりました。きりがないほど次々と浮かんでくるので、「妄想」とラベリングして終わりにしました。
 たった一食のお弁当が、多くの人の関わりによって成り立っていることを改めて感じ、ありがたい気持ちになりました。

② お弁当が消えた魔法
 料理を口に入れ、目を閉じて噛んで呑み込み、次の一口のために目を開く。カーテンが見える。下を向くとお弁当が見える。「見た」とラベリングする。何度も繰り返すうちに、本当に「見た」だけになりました。色合いも見えている。立体感もある。でも、お弁当や料理としての認識がない。ただ見えているだけ。食べたい気持ちも生まれてこない。今思うと、サンニャー(想)が働く直前にラベリングがヒットした瞬間だったのだろうと思います。これをきっかけとして、ごく稀に日常でも似た状態が発生するようになりました。臨場感なく、ただ見えているだけの時。そんなときは思考を始めると認識が動き出すので、状況を理解できるようになります。

③ 前後際断
 よく噛む。味が、口の中いっぱいに広がります。そして、飲み込む。それでも、味は残っている。味の余韻が完全になくなってから「味」とラベリングすると、箸を持つ手は止まったままです。でも、少しでも味が残っている状態でラベリングすると、手が少し動いてしまっています。一つ一つの動作を完全に切り分けないと、次の動作が自然に発生してしまう。日常では連続して動作をしてしまっているので、多くの動作が積み重なったものを一つの動作と勘違いしているのだろうと気づきました。

④ 美味しさバンザイ
 『美味しいなぁ』と、お弁当を食べていました。「美味しい」とラベリングしても、切れがイマイチだったので、もっとよく観察しようと、味という感覚に集中しました。すると、塩味に気づきました。次は、酸味、甘味、旨味に気づきました。(いわゆる五味とは違いました……)強かったり弱かったり、尖っていたり丸かったり、後味の残り具合が違うなど、それぞれに様々な個性がありました。細かな味を感じるたびにサティを入れながら、分析するように食べている時は、「美味しい」という判断も「美味しさ」という感覚も生まれませんでした。
 「美味しさ」という魅力は、食べ物そのものに備わっているのではなく、心が内側で作り上げていたものでした。「美味しい」という判断と「美味しさ」という魅力が、絡み合っていたのです。残念ながら、「美味しい」も「美味しさ」も、よく観察してみると実体として見当たりませんでした。物事を細分化して観察すると、渇愛するほどのものではないことが良く分かります。
 でも、まだまだ、美味しそうな物には惹かれてしまっている今日この頃。
 🎯~ 美味はなし 氷屋の前 足止まる ~

⑤ お米への怒り
 お弁当箱の左の手前からお米を食べてみる。沢庵が乗っていたご飯は塩味がする。塩味を味わいながら「味」とラベリング。次に、手前の真ん中あたりのお米を食べる。ここも沢庵が乗っていたので、しょっぱいです。塩味を感じながら「味」とラベリング。次は、手前の右側のお米を食べる。ここは、梅干しが乗っていたので、酸味があります。ほのかな酸味を感じながら「味」とラベリングしたが、キレがない。それまでの消滅感がない。何かある。「何かある」とラベリングして正体を探る。それをじっくり観察すると、見えた!なんと怒りだった。「怒り」とラベリングして、ちょっと安心する。
 なんで怒りが生まれたのか思い返してみると、梅干しの酸味の残ったご飯を口に入れる前から、それまで続いていた塩味を期待していたのです。こんな些細なことまで、期待しながら生きて、期待どおりにならないと怒りを発していたのです。己の器の小ささを痛感しつつ、執着と渇愛の根深さに恐ろしさを感じました。

⑥ 勝手に食べられていくお弁当
 その日は、お弁当の蓋を開けた時から、唾液が出ていました。今日はずいぶんと食事を楽しみにしているんだなぁと感じつつ、食事を始める。まずは、お米から。30回は噛もうと思っている。噛んだら「噛んだ」とラベリングする予定。
 口の中にお米が入る。「入れた」とラベリング。お米を噛む。「噛んだ」とラベリング。舌が動く。ゆっくり下顎を下げて、次を噛む。「噛んだ」とラベリング。舌が動く。すると、あまりよく噛んでいないお米を、なぜか呑み込んでしまう。勝手に呑み込まれていく。まだまだ噛もうと思っていたのに、米粒のままで喉を通っていくのが分かる。まだ少し口の中に残っているお米を噛む。「噛んだ」とラベリング。舌は勝手に動き、お米を呑み込んでしまう。自分の意志とは関係ない。お米は、勝手に呑み込まれていく。噛むたびに、なぜか口の中のお米は減っていく。呑み込もうと思うことなく、お米は口の中から無くなった。お米は、すべて呑み込まれてしまった。二口目も同様。
 呑み込む動作は、因縁の流れで起きていたのです。食事での呑み込むタイミングさえ、自分でコントロールできないんだと驚愕し、こんなことすらコントロールできないのなら、外部のことなんかコントロールできるわけがないと理解できました。
 その後しばらく食事をしていると、勝手に呑み込まれることはなくなり、自分のタイミングで呑み込めるようになりました。この変化も、因縁の流れで諸々の条件が整い、意志と動作のタイミングがたまたま合っているだけのことなのに、自分の意志で呑み込んでいると勘違いしているのだろう。

⑦ 世界が変わる理由
 お米を食べようとする。「運ぶ」→「入れる」→「噛む」。柔らかい食感を感じる。また、お米を食べようとする。「運ぶ」→「入れる」→「噛む」。柔らかい食感を感じる。次に、山芋を食べようとする。「運ぶ」→「入れる」→「噛む」。シャリッとした食感を感じる。『あれ、さっきと違う』『ああ、そういうことか』と因縁を体験しました。
 自分の行為はずっと同じなのに、条件が変わると、受け取る感覚が変わる。すべては条件と因縁によって決まる。結果は、自分の意志や力だけでは決まらない。
 山芋に教えてもらいました。(笑)

★ダンマ的な生き方へ

 ダンマを学ぶうちに、原始仏教的な認知や生き方が分かり始めてきました。朝日カルチャーセンターで業論や因縁について繰り返し学んでいくうちに、以前ならイライラしていた出来事への受け止め方が変わってきました。日常の行動や心の反応を客観的に見ることが増え、いつの間にか、因縁の流れとして出来事が起きているのだと考えられるようになっていました。
 何か嫌なことや受け入れがたいことが起きても、「ダンマ的にはどういう現象なのかな」「因縁で考えると、どういうことなのかな」と、以前とは違うダンマ的な思考で乗り越え、楽に受け容れられるようになりました。隠れていた執着があらわになって、渇愛を手放せるようになってきました。思いどおりにいくことも、いかないことも、さまざまな条件の結果であると思えるようになり、ウペッカー(捨)の心で受け止められることが増えてきました。
 例えば、「他人が時間を守らなくても、イライラしなくなりました。その人とはそういう因縁で関わっているのだと考えるようになりました」。
 「他人が約束を守らなくても、諦めがつくようになりました。結果は今の自分の業によって決まる。相手が悪いわけではなく、諸々の条件が整って起きただけの事だと思えるようになりました」。
 「自分のやるべきことをやりきったら、成果をコントロールしようとせず因縁の流れに委ねることにより、安心していられるようになりました。心配するくらいなら、五戒を守り、善行するようになりました」。
 特に大きいのは、思考を手放せることが増えてきた点です。すべては因縁の流れによるのだから、自分の理想を手に入れる必要はないと解釈するようになり、そもそも「理想」を考える必要がないことを理解できました。そのときになれば、因縁の流れで、周りが整ってくるはずです。人生すべて塞翁が馬。自分の基準によって良い悪いと判断している限りは一喜一憂してしまいます。理想をはじめとする諸々の執着を手放しやすくなった今、結局やることはシンプルです。やるべきことはやる。整うときには整うので、ジタバタせずに待つ。結果は因縁の流れとして受け容れる。そう考え、思考を手放し、穏やかに過ごせるようになりました。
 そうはいっても、ダンマに沿った生き方は、いつもいつもできるものではありません。最初のうちは、頭で理解しても全然できませんでした。「10回のうち1回でも出来ればバッチリ」と考えながら、少しずつダンマに沿った生活にシフトしていきました。失敗を重ねるうちに、ダンマ的な思考や反応ができる場面がだんだんと増えてきました。

★道半ば、そして前へ

 今でも、怒りに飲み込まれ、周りにイライラを放出し、一段落したころになって人に諭されることがあります。妄想に囚われることも多々あります。執着しているものもたくさんあります。まだまだ修行の道半ばです。それでも、圧倒的にイライラすることが減りました。生きている苦しさが減り、生きるのが楽になってきました。

修行を積んでいくにつれ、子供のころから感じていた「誰かの作った虚構の中に生きている感覚」、若い頃からの「肩にずっしりのしかかる重荷」、常にべったりとつきまとう「束縛感」「不自由さ」、手に入れたとたんに喜びが薄れ始める「満たされない想い」、どんなに努力しても「越えられない壁」、「自分で自分を苦しめるようなことをしている感覚」、「砂上の楼閣に住んでいる感覚」——それらの正体が、瞑想と聞法で少しずつ見えてきました。その正体は「心の反応で作られている妄想」であると、頭では分かっています。体験として深く理解し、腹落ちするまで、精進を続けたいと思っています。
 今後も、在家として与えられている義務を果たしていきます。エゴを出さず、慈悲喜捨を中心に据え、ダンマに沿った生活をしていきたいです。苦を感じる出来事は、これからも因縁によって起きてくるでしょう。無常な世界の中で、出会う方々に感謝をしながら歩んでいきたいです。これからも「一所懸命、淡々と」修行を続けようと思っています。

★感謝を込めて

 最後に、未熟な私をここまで導いてくださった地橋先生に、心より感謝を申し上げます。本当にありがとうございます。
 そして、ダンマに、修行をご一緒してくださった皆様に、心が荒れていた頃から変わらず支えてくださった方々に、感謝の気持ちでいっぱいです。皆さまとのご縁に恵まれ、ここまで歩んでくることができました。本当に、ありがとうございました。
 今回、瞑想体験の寄稿を勧めていただいたことにも感謝しております。書くことによって自分自身を振り返ることができ、大変貴重な経験になりました。
 最後まで読んで頂き、ありがとうございます。
 皆様が幸せでありますように。

季節の写真

サフラン満開

先生と話そう

近日中に公開します

今日のひと言

2026年11月号

(1)
★なんとなく憂鬱で、暗く、心が晴れやらぬ時には、満天の星空や広大な海原、遥かな山の稜線、青空などを仰ぎ見るとよい。
 美しいもの、崇高なもの、巨大なものに同化し、融合し、一体化してしまえば、世俗の苦しみや悩みなどバカバカしくなるだろう。
 対象との合一を目指すサマタ瞑想は集中力の特訓にも、心情の転換にも良い……。

(2)
★日々嫌なことは起きるが、些細なことは気分転換して忘れればよい。
 深く傷つき耐えがたい苦になるほど抑圧されるが、直視して乗り超えない限り根本解決はしない。
 現実から逃避するには、一点集中型の瞑想。
 今の瞬間に集中し、苦しい過去から目を背けるのに便利なマインドフルネス瞑想……。

(3)
★嫌悪の対象には素早く気付きを入れて脳裏から消し去りたい。
 快感系の情報には気付きを入れずにしばらく楽しみたい……。
 エゴは必ず取捨選択をするし、集中には排除の構造がある。
 それゆえに、心の反応パターンを浄化しなければ、瞑想をやればやるほどエゴが強化されていくだろう……。

(4)
★心を浄らかにする。
 悪を避け、善をなす。
 反応系の心の浄化に不可欠なのは、決意の力だ。
 決意は、正しい理解と検証を繰り返しながら「信(サッダー)」に結晶する。
 一瞬の人生の現場で、反射的に下される意志決定を司っている「信」の確立。
 真の瞑想は、そこからスタートする……。

(5)
★能力開発を期待して瞑想する人もいる。
 パワーアップして競合する者に打ち勝ち、地位も名誉も収入も、より多く獲得されると幸福度が上がるのだろうか。
 ヴィパッサナー瞑想は、真逆の発想だ。
 多く持てば持つほど、苦の根本原因である執着(=渇愛)が増すのではないか。
 欲を捨て、怒りを手放し、地位や名誉に執着せず、エゴを引き算するほど、束縛から解放され、自由になれるのではないか……。

瞑想 山小屋だより

金縛りからの脱出

 私は幽霊や精霊を見たことはない。UFOを見たこともない。龍や天狗、河童を見たことも。そういう霊能力は備わっていないようだ。憧れもあり、霊的存在とコンタクトできる能力にはすこしばかり羨望を感じる。

 だが、金縛りにあったことは数回ある。こちらは全く不愉快な経験だったが……。金縛りというのは霊的な現象ではなく、肉体が寝ているのに脳だけが目覚めてしまった状態だというのが科学的な説だ。レム睡眠中に脳が起きてしまうのだが、その間は感情情報の処理に関わる扁桃体が活発になっているため、不安で恐ろしい夢を見ることが多いという。つまり、金縛りにあった際の、怪しい声を聞いたり、上から人にのしかかられたりという恐怖体験は「扁桃体が見せる夢」というわけだ。もちろん、霊的現象であろうと、医学的に説明可能な睡眠麻痺であろうと、そこから抜け出したいという思いは揺らがない。ひたすら「この不快な状態からどう脱出するか?」と願っている。

 最初の金縛り体験は10代の頃だったと思う。誰かと思われるなにかにのしかかられて身動きが取れなかった。恐怖以外の何ものでもなくて、必死に「十句観音経」を心の中で唱えた。10の句、42文字の大変短いお経で、「法華経・観世音菩薩普門品」の要約、禅宗でよく唱えられる。私の祖父は熱心な在家仏教徒で子や孫は全員座ってこの経を唱え、座禅をするのが習慣だった。祖父が亡くなるまでのことだが。平仮名で書いた「かんぜおん なーむーぶつ ようぶつ……」という紙を持たされ暗記するまでそれを唱えた。幼児から子供の時分に刷り込まれた記憶なのでこれは強力で、ありがたい加護が得られると刷り込みがなされたらしく、何か危機的状況に陥ると咄嗟にこの経文が口をついて出る。最初の金縛りの時はこれで撃退できた。すーっと体の上の存在が消えるとともに体が動いた。

 その後数回金縛りにあったのだが、「あ、金縛りだ。寝てしまおう。」というなんとも呑気な対処法を使ったこともある。あに図らんや、目が覚めた時には金縛りが解けていた。

 「足元に誰かいる」というぞっとするような気を感じる金縛りもあった。その時はもう必死でまたひたすら十句観音経である。実際、これで脱出できなかったことはない。

 ただし、今の私は祖父の信じた永平寺・曹洞宗道元禅師の門徒ではない。決して道元禅師を否定する訳ではないし、今でも「修証義」は大好きで時々読み直している。だがヴィパッサナー瞑想の修行者としては、この金縛りにこそSatiを入れなければならないのではないか? どんな時でも「よく気をつけて」自分を見張っていることが修行だからだ。「体が動かない」「胸のあたりが重い」「誰かが乗っているような気がする」「恐怖」などとSatiを入れることになるのだろうか?

いやいやいやいや、そんなことをやっていたら、どんどん心身ともに何かに侵食されて気がおかしくなってしまうかもしれない。体を乗っ取られる、憑依される、そんな恐怖も感じる。だがやはり、ここで踏みとどまってSatiを入れることで、一歩進めるのではないか?

これから避けがたい死に向かっていく道程では、金縛りどころではない恐怖体験もあるかもしれない。俗に言う「お花畑」や「愛しい係累が向こう岸で呼んでいる」といった美しく幸せな旅立ちとは限らないではないか。そういうことがあっても、平常心を失わずSatiを入れ続けることができたら、修行者としては満足いく旅立ちではないだろうか。金縛りは滅多にない素晴らしい修行体験となるかもしれない。

 そう思い至って、「さあ来い! 金縛り!」と思って待っているのだが、それ以来どういうことか一度も金縛りにあわない。少し残念なような、ほっとするような、そんな気持ちで寝ているのである。

ダンマ写真

下館道場面接室

サンガの言葉

【初学者でもよくわかる二十四縁起】第11回 モートゥ(マンダレー在住)著 影山幸雄訳

【プレージャータパッチャヨー(前生縁)、パッチャージャータパッチャヨー(後生縁)】


🎯短い要約

★二十四縁起のうち第十番「前生縁」と第十一番「後生縁」の解説です。

 先に生じた法が後から生じる法を増強する「前生縁」と、後から生じた法が先に生じた法を支える「後生縁」が説かれます。

 前生縁には三種あり、第一は対象による前生です。

 形という対象が先に生じ、それを原因として見て知る心が後から生じます。

 太陽が先にあり、その光によって私たちに「見る心」が生じる例えが挙げられています。

 第二は依り所による前生です。

 眼・耳・鼻・舌・身・心臓内の心基という六つの依り所の物質が先に生じ、心はそれに依存して後から生じます。

 これは親が先にあって子が生じる関係に譬えられます。

 第三は初学者向けではないため、説明は省かれています。

 次に後生縁とは、先に生じた法を、後から生じる法が支え、増強する関係です。

 例えば、身体を構成する物質が先に生じ、後から生じる心がそれを支えます。

 前生縁では物質が心の原因となり、後生縁では心が物質を支える原因となります。

 後生縁の例として、ハゲワシのヒナが挙げられています。

 注釈書では、餌を求める意思がヒナの身体を支えると説明されます。

 これについては、餌を食べずに意思だけで生き延びるという解釈と、親鳥が餌を与え、餌が得られない間は食べ物への欲求が生命を支えるという解釈があります。

 後者の説明では、欲求を伴う意思が、先に生じた身体を後から支える点が重要となります。

 これらの縁起の教えは、物質と心が互いに原因となり、支え合う関係を示しています。

 さらに、私たちは次世代の若者を守り育て、善良な人間へと成長できるよう協力すべきです。

 同時に、感覚の対象や心の基盤に魅了され、執着することから離れ、涅槃を目指すよう説かれています。

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🌄長い要約

 本文は、仏教の哲学体系(アビダンマ)における二十四縁のうち、「前生縁」と「後生縁」を解説したものです。

 前生縁とは、先に生じた法が、後から生じる法を増強する原因として働く性質です。

 後生縁とは、後から生じた法が、先に生じた法を増大・増強させる原因として働く性質です。

★前生縁の三種

 前生縁には、対象による前生、依り所による前生、そして依り所と対象を兼ねる前生の三つがあります。

 対象による前生は、次のように説明されます。

 形という対象を見ると、見て知る心(眼識)が生じます。

 このとき対象が先に生じ、眼識はその後に生じます。

 眼識が生じると、それに伴う心や心所、さらに名法・色法が次々と生じます。

 つまり先に生じた対象が原因となり、後続の心を強めるのです。

 例えとして、太陽が先にあり、その光に照らされて私たちに「見る心」が生じる場面が挙げられます。

 依り所による前生は、眼・耳・鼻・舌・身、そして心臓内の心基という六つの依り所の物質が、見て知る心などより先に生じ、心がそれらに頼って後から生じる関係です。

 意界や意識界も、先に存在する心基に依存して生じます。

 これは、親が先に生じて子が生じる関係に譬えられますが、あくまで概念的な比喩です。 

 三つ目の依り所と対象を兼ねる前生は、アビダンマの基礎なしには理解しにくいため、初学者向けの本書では説明が省かれています。

★後生縁とハゲワシの例え

 後生縁は、後から生じる心が、先に生じた身体の物質を安定させ、壊れないよう支える働きです。

 心が生じなくなった死体がやがて腐敗する事実が、その例として示されます。

 注釈書はこの理解のために、ハゲワシのヒナの例えを挙げています。ヒナの身体を、食べ物を待ち望む意思が支えるというものです。

 昔の長老たちは、ハゲワシは巣に残したヒナに餌を与えず、翼が揃い自力で飛べるまで餌を食べないのに、待ち望む意思が命を支えるから死なない、と解説しました。

★大長老の見解

 これに対し、ある大長老は、その解釈は誤解の可能性があると指摘しました。

 要点は、ヒナの身体が先に生じ、餌を欲する欲求を伴う意思が後から生じて、その身体を支えるという関係です。

 待ち望むことで寿命が伸びるのであり、先に命があり、待ち望むのはその後だと述べています。

 さらに、ハゲワシは高い巨木に巣を作るため、餌やりの様子を観察しにくく、「与えない」という説が生まれたのだと推測します。

 しかし研究者によれば、ハゲワシには喉袋があり、そこに餌を蓄えて巣に戻り、ヒナに吐き戻して与えます。生命は食物によって支えられるという原則からも、餌なしで生きるという話は信頼できません。

 梵天は法悦を糧としますが、人間にとって法悦は食物にならないとも述べられます。

 したがって例えの本意は、餌が得られない日が一日、二日と続いても、餌を望む欲求と意思が原因となってヒナの命を支える、という点にあります。

★両者の相違

 前生縁では、色(物質)が原因で名(心)が結果です。

 後生縁では、名が原因で色が結果です。

 この因果の方向の違いが両者を分けています。

★釈尊の意図

 終盤では、世代間の責務に触れられます。

 大人は次の世代の若者を、善良で規範を守る人間に育てなければならず、若者もまた大人と協力して国を支えるべきだとされます。

 そのうえで、釈尊が前生縁を説いた意図が示されます。

 それは、六つの対象と六つの依り所に魅了され、執着することから離れ、涅槃だけに喜びを見いだすよう促すためでした。

 後生縁についても、心や心所に惹かれず執着しなければ、輪廻から逃れられます。此岸という生存を捨てることで、彼岸である涅槃に触れられると、釈尊は衆生に注意を促されたのです。

■■■◉◉◉■■◉■■◉◉◉■■■  【本文】

10)プレージャータパッチャヨー(前生縁):先に生じ、後から生じる法が増強する原因として作用する法

11)パッチャージャータパッチャヨー(後生縁):先に生じた法が増大、増強するように、後から生じて原因として作用する法

●三つのプレージャータ(前生)

 プレージャータパッチャヨー(前生縁)には、①アーランマナプレージャータ(所縁前生)、②ヴァットゥプレージャータ(事前生)、③ヴァッターランマナプレージャータ(事所縁前生)、の三つがあります。

 形という対象であるルーパーランマナ(色所縁)を見た時、見て知る心であるチャックヴィンニャーナ(眼識)というチッタ(心)が生じます。形という対象であるルーパーランマナ(色所縁)とチャックヴィンニャーナ(眼識)というチッタ(心)、この二つのうち、形という対象であるルーパーランマナ(色所縁)が先に生じます。見て知る心であるチャックヴィンニャーナ(眼識)というチッタ(心)がその後に生じます。チャックヴィンニャーナ(眼識)というチッタ(心)が生じると直ちに、チャックヴィンニャーナ(眼識)というチッタ(心)に伴って生じるチッタ(心)、チェースィカ(心所)、名法、色法が次々と生じます。ですから、形という対象であるルーパーランマナ(色所縁)が先に生じ、それが原因となって、続いて生じるチャックヴィンニャーナ(眼識)というチッタ(心)、そしてそれに伴って生じるチッタ(心)チェースィカ(心所)という名法が強力になります。ルーパーランマナ(色所縁)という原因によりチャックヴィンニャーナ(眼識)という結果が生じます。

 この性質をプレージャータパッチャヨー(前生縁)「先に生じ、後から生じる法が増強する原因として作用する法」と呼びます。この性質をアーランマナプレージャータ(所縁前生)と呼ぶこともあります。

 もっと良く分かるように例えを挙げて説明します。太陽と私達とどちらが先に生じるかと言うと、まず太陽が先に生じます。太陽が放つ明かりが原因となり私たちを照らします。そして私たちに「見て知るチッタ(心)」が生じます。この性質をプレージャータパッチャヨー(前生縁)と呼びます。アーランマナプレージャータ(所縁前生)と呼ぶこともあります。

●ヴァットゥプレージャータ(事前生)について

  チャックヴァットゥという眼、ソータヴァットゥという耳、ガーナヴァットゥという鼻、ジヴァーヴァットゥという舌、カーヤヴァットゥという身体、ハダヤヴァットゥという心臓の内部、これらを総称して六つのヴァットゥルーパと呼びます。六つのヴァットゥルーパは見て知るチッタ(心)などの前に生じます。見て知るチッタ(心)などは六つのヴァットゥなどを頼りにしてその後に生じます。見て知るチッタ(心)などが生じるように、先に生じている六つのヴァットゥルーパが原因として働きかけます。この性質をプレージャータパッチャヨー(前生縁)と呼びます。ヴァットゥプレージャータ(事前生)と呼ぶこともあります。

 善いアーランマナ(所縁)であれ、不善なアーランマナ(所縁)であれ、アーランマナ(所縁)を受け入れるマノーダートゥ(意界)、受け入れたアーランマナ(所縁)を知るチッタ(心)であるマノーヴィンニャーナダートゥ(意識界)、心臓内の一部にあるハダヤヴァットゥ(心基)というルーパ(色法)に依存して生じます。

 アーランマナ(所縁)を受け入れるマノーダートゥ(意界)、アーランマナ(所縁)を知るチッタ(心)であるマノーヴィンニャーナダートゥ(意識界)、ハダヤヴァットゥ(心基)と言うルーパ(色法)、この三つの中でハダヤヴァットゥ(心基)というルーパ(色法)が先に生じます。マノーダートゥ(意界)とマノーヴィンニャーナダートゥ(意識界)は先に生じているハダヤヴァットゥ(心基)というルーパ(色法)に依存して後から生じます。ハダヤヴァットゥ(心基)というルーパ(色法)がマノーダートゥ(意界)とマノーヴィンニャーナダートゥ(意識界)が生じる原因となります。この性質をプレージャータパッチャヨー(前生縁)と呼びます。ヴァットゥプレージャータ(事前生)と呼ぶこともあります。

 より分かりやすくするため例を挙げて説明します。ヴァットゥプレージャータ(事前生)は親と子供に似ています。親と子供のうち、親が先に生じます。先に生じている親が原因となって子供が生じます。親に似ているハダヤヴァットゥ(心基)というルーパ(色法)が原因となって子供に似ているマノーダートゥ(意界)とマノーヴィンニャーナダートゥ(意識界)が生じます。この性質をプレージャータパッチャヨー(前生縁)と呼びます。ヴァットゥプレージャータ(事前生)と呼ぶこともあります。

 パッターナパーリ(発趣論:二十四縁起)の中でお釈迦様はこの性質を仔細にかつ包括的に説かれています。この本は初歩の方が対象なのでこれくらいにしておきます。ヴァッターランマナプレージャータ(事所縁前生)は説明するのが難しいです。説明したとしてもアビダンマ(論蔵)の基礎を学んだことがないと理解出来ないと思います。ここでは初級として説明しているので、ヴァッターランマナプレージャータ(事所縁前生)については説明しません。

●パッチャージャータパッチャヨー(後生縁)について

 パッチャージャータパッチャヨー(後生縁)とは、先に生じた法が増大、増強するように、後から生じて原因として作用する法です。

 例を挙げて説明します。私たちの身体に存在する物質、私たちに生じているチッタ(心)、この二つのうち身体に存在する物質が先に生じます。チッタ(心)は後から生じます。

 先に生じている身体を構成する物質が安定して存在し壊れないようにするため、後から生じるチッタ(心)が原因となって働きかけて支えます。考えてみてください。チッタ(心)が生じなくなった死体を想像してみてください。間もなく身体は腐敗して壊れてしまいます。このような性質をパッチャージャータパッチャヨー(後生縁):先に生じた法が増大、増強するように、後から生じて原因として作用する法、と呼びます。

●ハゲワシのヒナの例え(注釈書)

 パッターナ(二十四縁起)の注釈書に、パッチャージャータパッチャヨー(後生縁)の性質を理解するため、例を挙げて説明しています。「ハゲワシのヒナの身体に、食べ物を待ち望むチェータナー(意思)が原因として作用するようなものである」と書かれています。注釈書の作者が示したハゲワシのヒナの例とその意味を昔のセヤードー達が解説しています。

●セヤードー達の解説

 ハゲワシは巣を作って餌を探します。餌を探して食べるのはほとんど自分のためです。巣に戻っても残されたヒナには1日4回程度しか餌を与えません。ハゲワシは哺乳動物ではありません。

 ヒナは毎日餌をもらえるわけではありませんが死にません。何故かと言うと、「親鳥が帰れば自分たちに餌を運んでくれる、餌を食べられる」という食べ物に対する意思(チェータナー)が原因となって作用し支えるからと説明されています。食べ物に対する意思(チェータナー)とは食べ物を待ち望む、渇愛を伴った意思(チェータナー)です。この意思(チェータナー)はパッチャージャータパッチャヨー(後生縁)の一部を構成しています。

 ハゲワシのヒナは翼が揃い、自分で飛べるようになって初めて餌を探し出して食べます。自分で餌を探すことが出来ない間は、餌を食べません。このように、翼が揃う前には餌を得ることはできないのにハゲワシのヒナが死なないのは、食べ物に対する意思(チェータナー)が原因となり支えるからであると昔の大セヤードー達が解説しています。

●パーモゥッカチョウッ大セヤードーの見解

 パーモゥッカチョウッ大セヤードー・ドクターナンダマーラビワンサは、注釈書に書かれたハゲワシのヒナの例えについて、昔の大セヤードー達が前述のように解説したことについて「有り得ない。間違って理解されている可能性がある」と、パッターナ(二十四縁起)、第八章、パッチャージャータパッチャヨー(後生縁)の項について指摘されました。

 「パッチャージャータパッチャヨー(後生縁)を理解するには、ハゲワシのヒナの五蘊に、食べ物を待ち望む、渇愛を伴ったチェータナー(意思)である、とされています。注釈書の著者の言葉です。パッチャージャータパッチャヨー(後生縁)の理解としては、食べ物を待ち望むアーサーチャンダ(欲求)を伴ったチェータナー(意思)がハゲワシのヒナの身体を助け支えたとされています。」

 「それではどのように理解すれば良いかと言うと、ハゲワシのヒナが生まれます。ハゲワシのヒナの身体が先に生じます。食べたいというアーサーチャンダ(欲求)がその後に生じます。食べたいというアーサーチャンダ(欲求)が、先に生じたハゲワシのヒナの身体を支えます。このような意味です。」

 「これについては、様々な意味が提示されています。文献に書かれている意味を知識として憶えてください。文献に異なる解釈が提示されていることが時々あります。理解しなければならないのは食べ物を待ち望むアーサーチャンダ(欲求)を伴うチェータナー(意思)が後から生じて、先に生じているハゲワシのヒナの身体を支えるということです。待ち望むことにより寿命が伸びているということです。待ち望んでもまだ餌を得たわけではありません。待ち望むことにより寿命が伸びています。先に寿命が生じ、待ち望むのはその後です。」

 「ここで一つの解釈をお話します。どのような解釈かと言うと、ハゲワシのヒナの身体を、餌が欲しいと言うアーサーチャンダ(欲求)を伴うチェータナー(意思)が支えます。ハゲワシのヒナたちは翼ができる前、巣の中で過ごしている間は自分で餌を探し出すことはできないと言われています。親鳥は他の鳥たちのようにヒナの口に餌を与える習慣はありません。親鳥が巣を飛びたち、また巣に戻って来るとヒナたちは餌をねだります。翼が揃って自分で餌を探して食べられるようになるまでは餌に対してアーサーチャンダ(欲求)を伴うチェータナー(意思)がヒナの身体を支える、と説明されています。」

 「この解釈が正しいかどうかは動物のことを学べばわかると思います。ハゲワシは餌を探してヒナに与えることはしないと言うのは正しいでしょうか、間違っているでしょうか。現代はハゲワシについて系統的に研究する人たちがいます。ハゲワシは丈の高い巨木に巣を作り、卵を産みます。このため彼らがヒナにエサを与えるかどうか確かめるのは困難です。なぜ困難かと言うとハゲワシがエサをクチバシにくわえて運ぶのを見ることが無いからです。シラサギの場合は魚を口にくわえて運ぶ姿が見られます。クチバシからクチバシへとエサを与える様子を見ることがあります。ハゲワシの親がヒナのところへ行き口移しでエサを与えるのを見ることはほとんどありません。大変丈が高い木に住んでいるからです。そのため先ほど紹介した意味、解説が提示されたのです。」

 「けれどもハゲワシについて博学な研究者達は以下のように言っています。ハゲワシには喉袋があります。それを見たことがある人々が注意喚起しています。

 ハゲワシは食べたエサを全て飲み込むわけではありません。首に喉袋があり、飲み込んだ餌はそこに入ります。クチバシの部分に餌を咥えることはありません。そのような状況で飛び立ちます。巣に戻ると飢えたヒナたちの元へ行き、クチバシを開けてエサを与えます。ハゲワシはこのようにして喉袋に蓄えたエサを戻してヒナに与えます。ハゲワシはこのようにしてヒナに餌を与えます。」

 「そうであればハゲワシは餌をヒナに与えることはない、と言うのは正しくありません。見方を変えれば餌を食べずに生き延びるのは簡単ではありません。どのような生命であれ食物を食べずに命を長らえると言うのは信じられません。どのような生命であれ食べものから離れて存続することはできません。あらゆる生命は食物により支えられている(サッべーサッターアーハーラティティカー)と言われています。けれどもここで言うアーハーラ(食物)とは人間の食物だけではありません。梵天は食物を食べません。何を食べるかと言うとピーティ(法悦)を食べて生きています。梵天はピーティ(法悦)を糧として生きています。人間の中にもピーティ(法悦)で元気になったと言う人もいますが、本当のところピーティ(法悦)は食物にはなりません。実際、食物を食べなければ生き続けることできません。」

 「ハゲワシの場合も餌を食べることなく生きていけるという話はありません。ハゲワシは他の鳥と同様に親鳥が餌を探してきてヒナに与えるという説の方が、信頼性が高いです。ハゲワシはヒナに餌を与えません、成長して自分自身で飛び回って餌を見つけて食べられるようになってから餌を食べます、そこまで成長するために命を保つのは餌を欲しいと言うアーサーチャンダ(欲求)が支えるからであるという説明は一面では正しいかもしれません。しかし俗世間の観点から見るとあまり信頼できるとは言えません。先ほどお話ししたことは正しい可能性があります。ハゲワシはヒナたちのために餌を探します、そして喉にある喉袋に餌を蓄えます。巣に戻ると親鳥は口を開けます、ヒナたちは嘴で親鳥の喉袋から餌を掘り出して食べます。」

 「それでは先ほど説明した例えは何を語っているのかと言うと、動物が食べ物、栄養を恒常的に摂取するというのは大変難しいということです。鳥の種類によっては餌を得られるかどうか大変心配し気を使います。餌を食べられないことも多いかと思われます。親鳥は巣の外に出て餌を探します。餌が見つからない時には食べたいと言うアーサーチャンダ(欲求)とともに、餌を得ることを願いながらハゲワシのヒナたちは一日、二日と待ち続けることもあろうかと思われます。原因と結果として食べたいというアーサーチャンダ(欲求)が支えることでヒナたちは命を長らえ生き続けると言うことができます。餌を全く食べないという訳ではないと思われます。」

 パーモゥッカチョウッ大セヤードーの説明のように、ハゲワシは翼が揃って飛べるようになるまで餌を食べず、チェータナー(意思)の支えにより命を保つというのは間違っていると思われます。ハゲワシのヒナは毎日決まって餌を食べることはありません。一日であれ、二日であれ餌にありつけない日々があろうかと思います。このように餌が得られない日に、餌が食べられないけれども死なないのはアーハーラ(食物)を望むチェータナー(意思)が原因となって支えるからであると思われます。

 パッターナパーリ(発趣論:二十四縁起)では、どのルーパ(色:物質)が壊れず長く存続するように、どのチッタ(心)が原因として作用するか、支援するかについてお釈迦様が詳細かつ広範に説明しています。この本は初学者を対象としているのでこのぐらい説明しておけば良いと思います。

●プレージャータ(前生)とパッチャージャータ(後生)の相違

★プレージャータ(前生):ルーパ(色)が原因、ナーマ(名)が結果です。分かりやすく言うとプレージャータパッチャヨー(前生縁)に従ってルーパ(色法)がナーマ(名法)の原因となる性質です。

★パッチャージャータ(後生):ナーマ(名)が原因、ルーパ(色)が結果です。分かりやすく言うとパッチャージャータパッチャヨー(後生縁)に従ってナーマ(名法)がルーパ(色法)の原因となる性質です。このような相違があります。

●大人と次世代

 私たちは、私たちの次に大人になる世代の若者を、人間として生まれて、人間として成長するように、皆で協力して守り育てなければなりません。性格が善い若者になるように皆で協力して守り育てなければなりません。人間としての責務を果たし、人間としての規範を守る善良な人間、優れた人間になるように協力して守り育てなければなりません。そうであれば、次に大人になる世代の若者が、先に年配になった大人たちと協力して、善い国になるように、国自体を守り支えなければなりません。

 俗世間の六つのアーランマナ(所縁、対象)、六つのヴァットゥルーパ(事色)から離れるように努力して下さい

 目で見る形という所縁(対象)、ルーパーランマナ、耳で聞く音という所縁(対象)、サッダーランマナ、鼻で嗅ぐ臭いという所縁(対象)、ガンダーランマナ、舌で味わう味という所縁(対象)、ラサーランマナ、身体で感じ取る接触という所縁(対象)、ポゥッタッバーランマナ、心で感じ取る思考という所縁(対象)、ダンマーランマナという、俗世間の六つのアーランマナ(所縁、対象)、そして、セックヴァットゥ(眼事)、ソータヴァットゥ(耳事)、ガーナヴァットゥ(鼻事)、ジヴァーヴァットゥ(舌事)、カーヤヴァットゥ(身事)、ハダヤヴァットゥ(心基)という六つのヴァットゥルーパ(事色)に魅了され、それを好み、心が奪われ、執着することから離れられるように努力しなければなりません、涅槃という対象だけに喜びを感じるようにしなければなりません、と衆生に知らせたいとの思いでお釈迦様はプレージャータパッチャヨー(前生縁)を説き、注意を促されました。

 後から生じるチッタ(心)、チェータスィカ(心所)と言う名法が支え、助けることにより、また原因として作用することにより、先に身体に生じている(大種色)は安定して存在することができます。チッタ(心)、チェータスィカ(心所)という名法に惹かれ、魅了され、執着しないようにすれば、生存の繰り返し、輪廻から逃れることができます。此岸と呼ばれる生存を捨てることで、彼岸と呼ばれる涅槃に触れることができます、と衆生に知らせたいという思いからお釈迦様自らパッチャージャータパッチャヨー(後生縁)を説かれ注意を促されました。