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月刊サティ!|ヴィパッサナー瞑想協会(グリーンヒルWeb会)

巻頭ダンマトーク

落合隆先生「別住の作法」2026年10月号

★今月はタイ Phraphuttabat-tam寺副住職 Phra Takashi Mahāpungnyō、落合隆先生がご執筆なされた玉稿を掲載いたします。

 戒の厳守は、上座仏教が他の仏教教団と峻別される最重要ファクターです。

 「戒→定→慧」の「「戒」が崩れれば、仏教の全体が崩壊するからです。

 出家僧が在家者の尊敬を集めるのは、常人にはなしがたい227の戒律を厳守し、自らの姿で手本を示しているからでもあります。

 しかるに、その出家僧が破戒行為を犯してしまった場合の諸々の罰則規定の一つが「別住」です。

 本稿では、通常、在家者が知り得ない「別住」がどれほど凄まじいものであるかが詳述されており、私も一読し衝撃を受けました。

 タイの森林僧院で瞑想修行を再開して以来10年になりますが、リトリート期間中にこの「別住」の行に入っている比丘の姿を目撃したことがあります。

 その日本人比丘はスリランカの寺で破戒し、別住の行に入ろうとしましたが、スリランカでは厳密な別住の行をする環境が整わず、戒律が重視されるタイの当寺に移住して行を満了させようとしていました。3ヶ月という長期の別住期間を自ら志願していたとも洩れ聞きました。

 比丘の勤めである朝夕のチャンティングに際し、その破戒僧は清僧達との同席が許されず、ただひとり三賢堂で経を誦していました。歩行瞑想を終えクーティへの帰途、日が落ち始めた薄暮の堂には灯が点り、浮かび上がった仏像の前に座した別住の僧の後姿が鮮烈な印象を残しました。

 煩悩を滅尽して解脱を完成させようと命を懸けてきた者の一人として、身が引き締まる想いで粛然と歩行の感覚にサティを入れていました……。

■■■■■■■

【本文】

●別住の作法

 パーリ語でPARIVÃSAと記されるその語句は「別住」と和訳されている。

 テーラワーダ比丘としての出家儀礼を経過した者の面前に建てられた指標・世俗生活からの離別を示すパーティモッカと言われるニニ七条の戒律。

 たった一度の性交渉であっても、強制還俗となるのがパーラージカ罪。

 次に置かれているのが十三カ条のサンガーティセーサ罪で、その第一条から第四条までは、その行いが禁じられている出家比丘による性的行為が並んでいる。

 自慰行為、痴漢行為、女性への猥褻な言動、そして性的奉仕の強要。他には男女の仲立ちをすることや僧団内部での問題行動などが列記されている。

 パーラージカ罪を犯した者は直ちに僧団から追放され、再び出家することは認められないのだが、サンガーティセーサ罪は一定の謹慎期間を経れば元の比丘の立場に戻れる。この謹慎期間を「別住」といい、読んで字のごとく一般の比丘とは別れた場所を住居として修行生活を送ることになる。

 九十四項もある別住の作法の中で最も象徴的なものが出家年数の放棄で、たとえば出家歴が二十年の者であっても、別住期間中は座席が末端になり、新人比丘に対しても礼拝しなければならない、というもの。

 同様の作法として、托鉢の際に道端で他の寺院の比丘と出会ったら、その場所で自らき、別住にあることを告げて拝をする、といったものもある。

 ただ、別住といっても食料や日用品の分配は公平に為されていて、「苦行」や「断罪」の側に極度に傾けないところは、原始仏教から伝承されている修行理念を継承しているといえる。

 しかし、実際にこの別住の実践を単独の寺院で行う場合は、律に精通した長老がいて、なおかつ様々な条件がそろわないと行が完遂できない、ということがあるので、タイ国には多くの別住比丘を引き受け、常時その修行実践をさせる寺院が数か所ある。

 チョンブリー県の荒涼とした土地の上の、灼熱の陽に晒された粗末な僧房群。

 バンコクから3、4時間かかる場所にあるその別住寺院を見た時の印象は、そのようなものだった。

 百人以上の比丘が同じ時期に別住に入る状態になると僧房が足りなくなり、野外にひとり用の蚊帳をつって、そこで寝起きすることになっても不平不満をいうことは出来ない。毎日、全員が托鉢に行くのだが、いくつかに分けた托鉢のコースには10キロほどのものもあり、体の弱い者にはかなり過酷な日々となる。

 二週間に一度はある特別な日。

 同一の時期の修行実践ということもあって、多人数で使われる便所は細長い専用の建物を区分けしたつくりになっていて、糞尿水を溜める汚水漕はその建物の裏側にあった。その構造は南国のこの地ならではのものになっていて、バクテリアが汚物を分解するので1メートル弱の深さでも問題はないとのこと。

 特別な日、というのは、別住の比丘等がその糞尿水をバケツに組み上げ、雑木林に植えられた幼木の肥料として撒くために列をなして運ぶ日、ということ。

 比丘達が列に並び、それぞれが両腕に提げたバケツに糞尿水を汲み上げてゆくその姿は刑罰を与えられた罪人のようでもあるのだが、臭い、汚いといった表情を見せたら負けということか、誰もが淡々とした様子でその作業を繰り返していた。

 まだ若い、ひとりのカンボジアの青年比丘がいた。

 国境を越えてタイに入り比丘修行をしている彼は、その日、汲み取り係となって比丘達のバケツに糞尿水を分け入れていたのだが、とても間に合わないということで、汚水漕の中に入り、腰のところまで汚水に漬かりながら休みなく汲み取り作業をいていた。

 何度か会話もした人物なので彼に声をかけた。

 「ずいぶんとやるじゃないか」

 返事をする暇もないのだろう、こちらを見上げ白い歯を見せて笑い返した。

 その赤銅色の顔は、日没前の豊潤な陽を反照して明るく輝いていた。 (完)

「私の瞑想体験ー瞑想で訪れた人生の転機」(旧「Web会だより」改め)

『見失われた私 生きている実感』⑤大門満痴子

 さらに、かねてから地橋先生に勧めていただいた、信州内観所での1週間の集中内観に参加することができ、今までの人生を順を追って振り返ることができました。実は内観は20年前に別の研修所で5日くらい体験したことがありました。このときはどうしても仕事の休みがそれ以上とれず、せっかく軌道に乗ってきたところで終了となってしまい、目的であった「今後のキャリアについてのヒント」はあまり得られませんでした。今回も期待はせずとにかくやってみる、以外と何か得られればラッキーという気持ちで行きました。

 1週間って長くてつらそうだなーと思っていましたが、実際行ってみると、所長の中野先生はじめ、職員の方々がいろいろなことを気遣ってくださっているのが感じられ、その中で1週間も没頭できることが幸せに感じられました。食事はここで出していただける「酵素玄米」というものがどんなものか帰ってから調べて知ったのですが、炊いてから3日も保温して寝かせて完成させるとのこと。さらに地元の無農薬野菜を使っての玄米菜食でした。これだけでも用意するのに大変なのに、薬草茶飲み放題、お風呂は温泉ととても贅沢でした。面接してくださる先生方も、朝早くから夜遅くまで1時間ごとに面接をしてどうでもいい他人の自分語りを真剣に聞いて理解してくださるのが、身に染みてありがたく感じました。

 内観は、母、父から始まって親しい間柄の人にしてもらったことを中心に年代を追って思い出していくのですが、小さい時の楽しかった思い出、安心できる環境で好きなことに熱中した子供のころの気持ちを思い出せました。ここ数年間ずっとつらい気持ちで過ごしていたのですが、「つらかったこと」にフォーカスされていた気持ちが「あれもやってもらった、あんなこともしてもらって、今思うと相手にとっては大変だったと思うけど、楽しかったなあ。ありがたかった。想ってくれてたんだなあ」と思い出すことで、幸せな気持ちを思い出したのでした。

 6日目の夜からは、思い出がカラー映像で頭の中に再現できるようになりました。20年前に参加した時は走馬灯のように次から次へと思い出せるようになったので、その時に比べると格段に思い出す速さ、鮮明さは落ちるものの、そのときの感覚が思い出されました。記憶力が低下したり、物事がよく考えられなくなったり判断力が落ちたり、ということが最近自覚され、落ち込んでいたのですが、何日も「できるだけ具体的に、その場にいるような感覚で思い出す」ということを集中してし続けたせいか、思い出す能力は改善してきたような感じでした。

 結果、①うつ気分の改善。②記憶力の向上。ものごとを思い出す際に、画像イメージで詳細に思い出せるようになってきた。③瞑想するときの集中力の向上。④記憶の補正、気持ちの整理。⑤自分の気持ちがよりきちんと感じられるようになった。など大きな効果がありました。これをきっかけに、大きく流れが変わりました。

 帰ってからは、慈悲の瞑想→歩く瞑想→座る瞑想→本日の内観という順番でするようになりました。脳の動いてなかった部分が動き出したような感覚がして、きちんと自分にアクセスできる感覚、なにより生きている感覚がはっきりと感じられるようになりました。

 そして、苦しんで亡くなった母の死についても、整理ができました。

 ①当時訪問診療・看護の体制が地域になかったため、十分な在宅看取りができなかったことに関しては、母の死後、新たに訪問診療・訪問看護・訪問介護を利用して行える環境を整えるのに、一定の役割を果たしてきた。

 ②精神的苦痛に関しては、親戚間のトラブル、夫婦間の問題によるところが大きく、自分が解決できることではなかった。

 ③死への不安・恐怖に関しては、母自身がしっかりした死生観を持っていなかったことが大きいと思われ、今後の教訓にする。

 ④母の人生は愛情を与えるばかりで与えられず、苦難ばかりに満ちたものかと思っていたが、そういえば案外楽しんでいた様子もあった、などです。

 医師として役に立てなかったこと、苦しみを和らげてあげられなかったという思いがあり、どこかで自罰的な感情を抱きながら、一生罪滅ぼしのために仕事をするんだという想いを抱き続けてきました。さらに、母が苦しんで亡くなった経験は、自分の行く末を暗示されているようで、とても不安だったのです。苦しみの原因と、それに対して自分なりに解決法をしっかり考えることで、不安は鎮まっていきました。

 また、内観は「こんなにお世話になったのにお前はその分お返ししたんか?もっと頑張らんかい!」と叱咤激励されるようで、ちょっと苦しかったのですが、いっぽう、昔から頑張りすぎる私の性格をわかっていて、よく母が「アンタ、もういいからそんなつらいの、やめちゃいな。そんなに頑張らなくていいから」と言ってくれたことを返って思い出し、ちょっと楽になったのでした。

 このように瞑想に出会って50歳の節目に両親の看取りを終え、見失った自分を取り戻し、さらに内観に出会って、自分の半生を見つめ直すことができました。ふたつの「人生の宝」を得て、また新たなスタートを切ることができるのはこの上なく幸運で、幸せなことでした。指導いただいた地橋先生を始め、講座に一緒に参加した皆様にはいつも学びのヒントをいただきました。また、ジャーナリング、心理学などを教えていただいた講師の先生、信州内観研修所で面接やお世話をしてくださった方々、…たくさんの方々に心を分けていただきました。この場を借りてお礼申し上げます。

季節の写真

下館道場のルエリア

先生と話そう

瞑想が続く人、続かない人

 去る人は追わず


榎本 今回は、瞑想を長く続ける人とすぐ辞めてしまう人のことを伺いたいのですが、職業柄、辞める人の理由が気になったりしているので、その辺を伺えればと思いました。

地橋 どう気になるのですか。

榎本 仏教は出世間を目指す教えですが、小説は、完璧な勝者や穢れのない聖者よりも、煩悩に負ける堕落した者、堕ちていく弱き者を描くことが多いので。

地橋 なるほど。私も若い頃は、滅びゆくものの美しさや敗者の美学、頽廃の美学に強く惹かれていた時期がありました。

榎本 先生は瞑想修行を開始する以前に、何年もデカダンスな生活をされていたとお聞きしていますが……。

地橋 幼少期からの苦しかった過去のすべてを破壊したい衝動が込み上がってきたのです。過度の期待で私に重圧をかけてきた大人たちにも自分自身にも復讐したいような、怒りや怨念が煮えたぎって、グレてやる、と自分を破滅させることに情熱を持っていました。

榎本 相手に直接怒りをぶつけずに自己破壊に向かったのはなぜですか?

地橋 周囲の大人たちの愛情も十二分に感じてきましたから、愛憎並立のジレンマで、負のエネルギーは自分自身にしか向けられなかったのです。

榎本 なるほど。

地橋 生きよ、堕ちよ、と暗い、愚かな青春でしたが、原始仏教の苦の真理を身をもって検証するのに必要な歳月だったと思っています。

榎本 そのへんの詳しい話を具体的に聞いてみたいとなんどか水を向けているのですが……。(笑)

地橋 (笑)。まあ、そのうち……とお茶を濁しながら、黙って消えていくのではないでしょうか。(笑) 過ぎ去ったことは淡々と見送っていく瞑想ですからね。

榎本 では、私も食い下がるのはやめて、瞑想を辞めていった人の話を伺おうと思います。

地橋 いや、そう言われても困ります。

榎本 どうしてですか。

地橋 情報が乏しくて話せないのです。辞めていった人たちのデータは私の手元に残りづらいのですよ。瞑想を教えはじめた当初から「去っていく人は追わない」と決めていたので、追跡調査のようなことは一切してきませんでした。

榎本 なぜ、そう決めたのですか。

地橋 熱心に教えた生徒さんには愛着や愛執が起きやすい。渇愛が苦の元凶と心得ていたので、最初からルール化して苦の因を避けようとしたのです。

榎本 なるほど。

地橋 煩悩というのものは根深くて、人の意志を簡単に突き崩すものです。手強いものに対しては、制度化やルール化しないと太刀打ちできません。戒律の意義もそこにあります。戒の強制力によって守られないと、煩悩にやられてしまうものです。


 瞑想を辞めるのは……


榎本 瞑想を辞める人の理由を、僕なりに想像してみたんですが、まず、効果が実感できなかったので、というのがまず思い浮かびました。流行ものをちょっと体験してみたかっただけで、さほど必要としていなかった人はこの理由ですぐ辞めると思います。あとは、体力が続かないとか、瞑想している時間が停滞の時間のように思えるとか。あとは、瞑想が進むと、原始仏教の思想に触れざるを得ないのですが、その思想に心がついていけないとか。やっぱりお酒は飲みたいし、ゴキブリを見かけたら叩き潰さないと落ち着かない。また欲望を否定する原始仏教の思想は、向上心を否定されているようで受け容れられない……。

地橋 どれも的を射ているのではないですか。大別すると、興味本位でちょっと見に来た人と、原始仏教の教えが肌に合わない人ですね。

榎本 ええ、軽く覗きに来た人がすぐ辞めるのは当然といえば当然ですね。これはわかります。

地橋 瞑想の醍醐味を知るには、体調を整えたり、生活をそれなりに律していかなくてはならないので、本当は誰でも簡単にやれるものではないんですよ。瞑想は続かないものだ、というのが前提ですね。

榎本 なるほど。瞑想を続けるほうが例外的だと考えれば、辞める人の理由はあまり追わなくてもいいということになりますね。思いもよらない意見を頂戴しました。しかし、一日かそこらで辞めてしまう人は論外としましょう。だけど、ある程度までチャレンジしたのに、結局続かないで辞めてしまうのはなぜだと思いますか。

地橋 ヴィパッサナー瞑想は凄い! と感動して、怒涛のようにのめり込んできた人たちは、遅かれ早かれ辞めていきます。「集中豪雨型」のタイプは、ほぼ全員討ち死にですね。

榎本 「のめり込んだ」ということは、当初は手応えがあったということでしょうか。効果を感じたのに、どうして辞めたのでしょう?

地橋 思い込みが強いからだと思います。真正の瞑想体験をした人は長く続くものですが、仏教書やダンマトークなどに感動して、「これだ!これこそ自分が求めてきたものだ。これできっと救われる!」とのっけから夢中になるタイプは、まず辞めますね。

榎本 はじめた時に期待値が上がりすぎたのかな。

地橋 「一生やっていきます!」などと言い残して、それっきりの人もいますね。(笑)。 思い込みが強いタイプは、熱しやすく冷めやすいのです。一瞬にして目に金色のウロコを貼り付けてのめり込み、なにかで目からウロコが外れた瞬間、憑き物が落ちたように辞めていく。そうやって、同じ旅ガラスのパターンを繰り返しているんですね。

榎本 ということは知的理解が先行して体験が浅かったのかなあ。


 美は、瞑想にあり


地橋 例外的に、集中豪雨型でも1年以上続いた人もいました。寡黙な人で、来し方を何も語りませんでしたが、暗い、裏の社会のようなところから来たらしく、どういう経緯でか朝カル講座を聞き始めて心底カルチャーショックを受けたようでした。私のあらゆる講座や瞑想会に皆勤賞で通いつめ、五戒を厳守し、生まれ変わったように別世界を生き始めた感じでしたが、陰陽の振れ幅が大きすぎたのか、ある日プツンと糸が切れたように姿を消し、その後の消息は杳ようとして知られなくなりました。

榎本 いやあ、気になりますねえ、その人は。想像するに二つ考えられる。やはりストイックな生き方に無理があったので、元の世界に戻っていったか、それとも出家……?

地橋 汚れきった人にとっては、原始仏教のストイックな厳しさが魅惑的に見えたりするのですが、いったん辞めると反動で遊ぶ人が多いようです。熱心にやっていた女の人が続かなくて辞めていったのですが、偶然、駅の階段で見かけると、服装も化粧も派手な煩悩路線に一変し、瞑想会に初めて来たときとまったく同じ顔、同じ雰囲気にもどっていたのに鮮烈な印象を受けたことがありました。

榎本 すごい話だなあ。逆に、先生が修行の道に入ってから、荒れておられた日々の知人と出くわしたことなどはなかったのですか?

地橋 ありますよ。30歳で修行を始めて何年も経ったある日、デカダンス時代の知り合いにバッタリ再会したのですが、私の顔が変わっていて誰だかわからず、名な告のってもしばらくポカンとしていたことがありました。

榎本 そう言えば、1Day合宿でよく顔を合わせるTさんは、以前は怒りのコントロールに苦しんで「キング・オブ・アンガーだった」と告白しておられますが、そのTさんが昔と今の免許証写真を見せてくれたときも心底驚きました。とても同一人物とは思えなくて……。

地橋 単発の瞑想会でも、疲れて薄汚れた顔で会場入りした人がダンマトークを聞き、不善心所の妄想を一日中見送り続けて帰る頃には皆、清々しいきれいな顔になっているものです。


 瞑想病院


地橋 榎本さんは瞑想を始めて今どのくらいですか?

榎本 えーっと、3年半ですね。1Day合宿にも40回以上参加していますが、3~4回目に1-dayに出かけた時に、古参のスタッフのNさんに「よく続きますね」と意外そうな顔つきで言われたんです。どうやらすぐに辞めると思われていたらしいんです(笑)

地橋 私もすぐ辞めると思っていましたから。(笑) いちばん続かないタイプだろう、と。(笑)

榎本 まあ、僕も続けているのがちょっと不思議ではあります。瞑想が続かない人というのは、やはり効果が実感できないからでしょうか。

地橋 それが多いでしょうね。正確なやり方でヴィパッサナー瞑想を実践すれば必ず成果が得られることを私は知っていますが、よくわからないままやっていたり、曖昧なやり方をしていることに無自覚だったりすれば手ごたえがないし続かないでしょう。

榎本 正確なやり方を覚えようとする意欲は、モチベーションに比例するのでしょうね。

地橋 瞑想を始める人の大多数は、人生になんらかの苦を感じて、最初は自分の望むように外界の情況や相手を変えようとするが、それは無理だと覚った人たちですね。

榎本 外界は変えられない。ならば自分の心や認知を変えるしかない、ということですね。

地橋 そうです。瞑想は、願望実現や他人の心を変える念力ではなく、自分の心や考え方を浄らかな方向へ自己変革していくためのシステムです。

榎本 苦しみを乗り超えるためという切実な思いを抱えている人は、瞑想を正確に体得するまでがんばる。正確に実践すれば効果が検証できるが、適当にやって効果がない人はすぐ撤退するということですね。

地橋 人生苦を乗り超えたい人たちのモチベーションは強いので、必死でやります。仕事のストレス、深刻なトラウマ、親子関係や離婚問題、生き別れ死に別れの喪失の悲嘆などさまざまですが、苦が乗り超えられるまでは真剣ですね。

榎本 ということは、問題が解決し、苦を乗り超えてしまうと失速するんですか?

地橋 します。グリーンヒルが「瞑想病院」と呼ばれる所以ですね。病気が治れば、名残惜しそうにゆるやかに去っていくか、即日退院していきます。(笑) 「瞑想、スゴイ!」「仏教、素晴らしい!」と、ありがたくは思っているのですが、もうそれ以上、修行を続けるエネルギーが枯渇してしまうみたいですね。

榎本 しかし、撤退した人は、原始仏教の入口あたりでコースを変えたわけですね。当座の問題は解決し、病気は治ったけれど、瞑想は自分の人生のために続けるべきだとなんらか判断して残る人もおられると思います。実際に、僕の頭の中には、あの人はそうではないかと思い当たる人物が浮かんでいるのですが……。

地橋 もちろん、います。目先の人生苦の対処法などではなく、生きることの根本を見つめていこうとする智慧のタイプですね。

榎本 どのくらいの割合ですか? と訊きたくなりますが、病気が治った後も先生との接点がある人たちしか統計に表れないから、これは愚問でしょうか。

地橋 仏教は苦しみを無くすための教えですから、単発の苦をなくすために使い捨てにされても本望だと思っています。


 瞑想を辞めてしまう


榎本 グリーンヒルに姿を見せなくなった人たちは、ひそかに瞑想を続けているのか、煩悩の世界にもどってしまうのか、どうなのでしょう。

地橋 データが乏しくて、わかりません。サティの瞑想をやらなくなっても、慈悲の瞑想だけは続けている人が多い感じはします。

榎本 慈悲の瞑想のほうがやりやすいし、効果の検証がしやすいということはあるかもしれませんね。そう考えると、瞑想は辞めてしまっても、仏教の学びは続けるという人もいそうですね。

地橋 仏教がどこまで腹落ちしたか、ですね。五戒を守ってさえいれば悪い人生にならないし、善行をして徳を積んでいれば良い人生になりますが、エゴと煩悩の世界に舞い戻った人は再発してまた瞑想病院に来たりします。(笑)

榎本 治った! さあ、遊ぶぞ! という人がまた患って入院ってことですか。(笑) 引っ越してグリーンヒルの道場には通えなくなったり、基本を体得したのでこれからは自分でやっていくという人たちもかなりいるのではないでしょうか。

地橋 だといいのですが、完全に辞めてしまっても、どうということはありません。

榎本 徒労だった、と思わないのですか。

地橋 昔は、使命感や達成感を感じながら仕事をしていましたが、今は、誰とも一期一会、ダンマを伝えた一瞬だけで十分ですね。

榎本 本気モードで受け取ったことが無になることはない。何かが心に残るはずだ。縁に触れれば再起動するだろう、ということですか。なんだか芸術作品みたいですね。

地橋 まあ、そうですね。万物は相関関係の宇宙網目に織り込まれていますからね。複雑系の因縁と条件が交差しながら、そういう出会いがあり、エネルギーの流れが転変していったということです。


 後戻りしない……


榎本 ダンマを理解し、瞑想体験で検証もし、苦しみを乗り超えるご利益を得ても、そのあと瞑想を辞めてしまうケースもあるのですか。

地橋 あります。瞑想が定着するまでは大変ですが、辞めるのは実に簡単です。煩悩路線にもどるのも、一日中考えごとをしている世界にもどるのも、初期設定への原状回帰ですから、いとたやすきことなんです。

榎本 ふむ。飛び魚が水面上の世界をしばし垣間見ても、水中にもどればたちまち水の中にいることすら自覚されなくなる……と。

地橋 そこが泥水であっても、たちまち順応して居心地がよくなってしまうものです。たとえ解脱寸前まで行った人でも、欲の世界、煩悩の世界、エゴの世界に舞いもどります。

榎本 どうしたら後戻りしなくなるのでしょう。

地橋 条件しだいです。常にダンマの情報に触れていること。瞑想を捨ててしまうギリギリのところで瞑想会に足を運ぶこと。自分と同じかそれ以上の善き友、法友(カラヤナミッタ)との接触があること。もうひとつは、ドゥッカ(苦)を思い知ることです。

榎本 ドゥッカ(苦)を思い知るとは……どういうことでしょうか。

地橋 ブッダの瞑想は「苦・集・滅・道」の四聖諦です。苦の真理がわからなければ、次はありません。苦を熟知した人は、いつか必ずやり遂げていく道を歩みはじめます。

榎本 苦を感じなければ、苦から解脱しようとは思いませんね。では、人生が楽しいと思っている人はどうすればよいのでしょうか。

地橋 良いと思っているものを手放す人はおりません。人生がちっとも苦しくないのであれば、楽しく輪廻を続ければいいだろうということです。

榎本 「欲界」というのは、六門から入った情報を妄想で編集して楽しむ世界と定義されるそうですね。僕はこういう編集能力も生きるためには必要だと考えることがあります。苦の真理を心得ない凡夫は、妄想を楽しみながら生存を続けていなさい。「縁なき衆生は度しがたし」ということですか。

地橋 「縁なき衆生は度しがたし」というのは世俗の俚言であって、仏典のどこにも根拠は求められません。苦を苦と認識せず、楽しく輪廻を続けている者は法を聞く耳を持たないのだから、縁が熟すのを待つしかないというのが仏教の立場ですね。見放しているのではなく、機縁を待つのです。輪廻をくり返しながら、やがて痛切に苦を理解し、心底から解脱したいと道を求めた人のために仏教は存在しています。あるいは、さりげなく目からウロコを落としてあげて、苦から解脱する方向へそっと背中を押してあげる…。


 ブレない人


榎本 「苦しいときの神頼み」と「喉元過ぎれば熱さを忘れる」のピストン運動を繰り返す人も少なくないというお話でしたが、苦の真理に触れてブレない人と、何が、どう違うのでしょうか。

地橋 苦の深刻さ、苦の経験の仕方、苦から学び取る智慧、ですね。今は昔のことですが、30代で癌になり、5年後の生存可能性25パーセントと宣告された人の瞑想に取り組む姿は鬼気迫るものがありました。10日間合宿に何度も入り、命懸けの修行をしました。打てば響くように、私のインストラクションに一発で答えを出しながら瞑想を進めていきました。

榎本 素直な方だったんですね。

地橋 その反対でした。傲慢で、ひねくれていたので、若くして癌になったような性格でした。この人は死ぬだろうという前提で面接していましたから、手加減なしの鬼の指導をしましたね。胃を全摘出していましたが、瞑想も内観も下座行も命懸けで修行した結果、考え方も生き方も別人のように変わり、完治しました。見事に社会復帰しましたが、この人のドゥッカ(苦)の理解は徹底していたので、ブレることなくその後も瞑想を続けました。ときどき大きな難問を抱えると遠方から上京し、インストラクションを受けていましたが、「君はもう自分で仏教的な問題解決ができるから、瞑想会に来なくていいよ」と言ったのを最後にアクセスが途絶えました。多分、今も瞑想を続けているだろうし、どんな苦に遭遇しても仏教的な発想で対処しているはずです。生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされると、人はあそこまで真剣に瞑想するのだと感慨を覚えた事例ですね。


 パフォーマンス向上派


榎本 うーむ。そういう感動的な話のあとにお訊きするのは気が引けるのですが、パフォーマンス向上派についてもお尋ねさせてください。先生の本でも瞑想するとこういう効果があるよということは綴られています。おそらく、ご利益がないと人はなかなか瞑想などやらないだろうと思っておられるから、呼び水として語っておられることと思います。実際、パフォーマンス向上の効果があるからこそ、合理的に再編成したマインドフルネスという形で企業に取り入れられています。けれども先生は、そういうご利益はあるよと語られながらも、常に「それがどうした」という結構意地悪な一言をつけ加えられることが多いですよね(笑)。これはおそらく、パフォーマンス向上自体は原始仏教の教えとはあまり関係のないことである、と示唆するためではと想像しているのですが、その辺はいかがでしょうか。

地橋 瞑想のシステム上、修行すれば必ず脳内環境が整っていくし、集中力もストレス対処法も自己客観視もパワーアップします。前よりも仕事ができるようになるし、収入も増えるだろうし、出世もするでしょう。そのような状態になることと、幸福度が上がるのは別のことだと仏教は考えています。

榎本 でもそれらは、金がない、仕事ができない、昇進できない、などと対比すれば、やはり幸福のイメージとして説得力はありますよね。

地橋 執着が深くなれば苦しくなる、渇愛が苦の元凶、と仏教は考えています。いくら金があっても、昇進しても、もっと欲しい…という不満足感があるかぎり、苦しい人生です。どれほど良い立ち位置にいても、さらに上位と比べれば、醜い嫉妬や劣等感に苛まれます。上から目線で傲慢になれば顰蹙を買う人もいるでしょう。足し算の幸福原理は苦しい人生に向かっているのですよ。パフォーマンスが向上して何やね。能力開発したから、それがどうした……と言いたくなるわけです。

榎本 しつこいようですが、パフォーマンス向上派であっても、長く続ける人もいるでしょうか。

地橋 足し算の幸福原理を進めていこうとすれば、どこかで仏教の根本思想と衝突します。ここが分水嶺ですね。煩悩と執着の引き算の思想を受け容れられなければ、ブッダの瞑想からは撤退するでしょう。瞑想を辞めるか、続けるとしたらマインドフルネス瞑想に流れていくしかないでしょう。


 死の不安


榎本 すこし前にもどって、瞑想が続くか否かは条件しだいということですが、瞑想会に来なくなり、法友もいない人が「独り犀の角のように」瞑想を続けることはありませんか?

地橋 ときどきそういう人がいて驚かされることがあります。

榎本 いるんですね。ほお。どんな人ですか。

地橋 初心者講習で、最初から完璧に瞑想ができる人はほぼ皆無なのですが、ある日、微調整すら不要の、完璧な歩く瞑想をしていた人がいて驚いたことがありました。訊けば、二十歳のころ一度だけ私の瞑想会に参加し、それ以来20年間、たった独りで修行を続けてきたというのです。食事会での鋭い質問から、彼の修行レベルの高さも推測されました。なぜ瞑想が持続できたのか、突っ込みを入れると、死の不安を乗り超えたかったのだというのです。

榎本 うむう……。

地橋 この方は若い人でしたが、もっと年配の方で同じモチベーションの維持の仕方をしていた人もいます。外界の力を借りずに、何十年も黙々と独りで瞑想を続けてきたのは、死の不安を克服するために瞑想が不可欠だったと述懐していました。幼少期から死の問題に苦悩し、やっと瞑想という対処法が得られたので辞められるはずもないと言ってました。

榎本 生きる苦しみ、死ぬ苦しみ、苦の経験の仕方は千差万別ですが、やはり苦諦がヴィパッサナー瞑想の出発点のようですね。僕も、一切皆苦の世界に、慈悲の光が射し込むような表現を目指したいと思いましたが、いまよりさらに売れない気もします(苦笑)。今回もありがとうございました。(完)

今日のひと言

2026年10月号「マインドフルネス瞑想の限界」

(1)
★戒は倫理の別名であり、人格を整える修行と心得るべきだ。
 ヴィパッサナー瞑想から倫理を削除したマインドフルネスでは、苦しみを乗り超える仕事はできないだろう。
 瞑想をすればするほど、エゴと欲が強化されかねないからだ。
 欲と怒りを引き算して無我を目指す仏教は、世の流れに逆らう……。

(2)
★自分の心を直すのではなく、マインドフルネスでストレスを解消し、瞑想でパワーアップして昇進や高収入を目指す。
 いかにして価値あるものをゲットし、邪魔ものを排除し、勝者となるか。
 生存競争が激化すれば弱肉強食の論理がエスカレートして、集団は破綻するだろう。
 思いっきり貪って怒りたい本能の脳と、抑制する脳の葛藤が永遠に続く人類……。

(3)
★仕事効率を重視する企業が利用するマインドフルネス瞑想は、いずれ破綻するだろう。
 妄想を一時停止させる技術は対症療法に過ぎず、たとえストレスが解消しても、何度でもぶり返すだろう。
 心の基本構造が変わらないからだ。
 倫理なき瞑想は、闘牛士が恐怖感を駆逐するために、銃を撃つ兵士がトラウマを未然に防ぐために、万引きを落ち着いて成功させるためにも使われ、やがて瞑想の本質を喪失する……。

(4)
★殴りたい、奪いたい、ごまかしたい心に気づいて直ちに止める価値観もあれば、平然と実行する価値観もある。
 本能の脳に逆らって、奪わず、怒らず、欺かない心を確立していくのが戒の修行だ。
 倫理と気づきと洞察の智慧の伴ったヴィパッサナー瞑想が、苦しみを根本的に乗り超えていく……。

(5)
★涅槃経でブッダは言明する。
 「戒律と共に修養された禅定にも、定力の伴った智慧の修行にも、偉大な果報と功徳がある。
 智慧と共に修養された心は、諸々の汚れから完全に解脱する」
 戒(倫理)→定(サマーディ)→慧(洞察智)が、解脱(苦の終滅)を完成させるブッダの瞑想法……。

瞑想 山小屋だより

「強い」ということ

 高校時代からの友人が遊びにきた。もう半世紀以上の付き合いになる人だ。彼女は私と違って、スポーツ万能、文武両道、スラッとした長身に少し童顔の美貌、屈託ない性格で、男女問わず人気者だった。高校時代からバスケットをしていて、大学では名門大学の体育会バスケ部の主将を務めていた。痴漢にあって返り討ちにしたとか、バスケットの試合で相手に反則され負傷したときには、コートから担ぎ出されながら「ぶっ殺してやる~!」と叫んでいたり(これは私も目撃した)、数々のエピソードがある。言いづらくて口ごもってしまう私の横で、どんな相手にでもズバッと本音を言える彼女は私の憧れでもあった。

 そういう人だから、ひとりで運転して八ヶ岳まで来ると言っても、何も心配せず、馴染みのペンションを紹介して、勝手に来てもらった。彼女に限っては「怖いものなし」だと思い込んでいた。さて翌日、我が家でゆっくりしながら話をしていた際にふと彼女が「昨日は本当に怖かった!」と言い出した。「いったい何が怖かったの? 真っ暗な夜道の運転? クマかイノシシが出た? 変な人がいた?」と聞いたところ、どれも違うと言う。「おばけが怖かった!」のだそうだ。その宿の駐車場は真っ暗で、ぼんやりとソーラーライトが灯る細い道をたどって玄関に入らねばならない。真っ暗でザワザワと揺れる林の中の宿、人通りも無い。不気味と言えば不気味に違いない。実際出たのか聞いてみると、そうではないと言う。言うなれば、要するに「辺りが暗くて脚もとが覚束なかった。実体は無いが何となく怖かった。」ということらしい。そして続けて「この山小屋にひとりで寝泊まりして怖くないの? 私にはとても無理。怖くて寝られない。」と彼女は言った。全く怖くない、というのが私の本音だった。「できればひとりが良い。誰とも話さず、ひとりの時間を持てるのは本当に幸せだ。」と話すと「貴女は強いね。」としみじみ言われてしまった。

 強い? 強さとは何だろう? 強さとは、まず体が健康なこと、身体能力が優れていること、他人に対して気後れしないこと、論戦で負けないこと、批判されても気にしないこと、動じないことであるとぼんやり感じてきた。私にとって強い人とは「精神的にも肉体的にもタフな人」だと言って良いだろう。それは私が持っていない強さだから、特にそう感じたのかもしれない。

 だが、私にとっての「強い人」である彼女にそう言われて、ふと振り返ってみた。ひとりでいられること、暗闇を恐れないこと、死を直視すること、降り掛かるものごとを受け止められること、他人の意見を聞けること、そういうことも強さなのではないだろうか? 「強さ」は様々な見方がある。例えば地道な努力を続けられることも強さだろう。欲望を我慢できることも強さだろう。他人に誹られても自説を曲げないことも強さだろう。言葉を変えれば、人はみなそれぞれの強さを持っている、とも言えるのではないだろうか?

 自分は弱い人間だと思う人は多い。だがそれは求めている方向の強さが足りないということにすぎず、自分には自分なりの強さはあるのだ。

 そしてもうひとつ、彼女が「貴女は強いね。」と言った理由は、私がひとりで山の中の一軒家で寝泊まりすることを恐れないこと、幽霊を恐れないこと、だったが、これはヴィパッサナー瞑想をしているからだ。私は、本来はとても怖がりだ。恐怖心も人一倍ある方だと思っている。一軒家で寝泊まりして怖いのは、押し込み強盗と悪霊だろうか。もし強盗に入られるなら、それなりの悪業の清算と思うしかない。そうならないように一生懸命善業を積もうともしているから、それでそうなるなら、仕方ない。悪霊については、初めてこの家に泊まった時に、タイの森林僧院でいただいてきたミャンマー由来の仏像を安置したことで、安心を得た。瞑想を始める前に、仏像の前に座って祈る。私を守護してくださる存在、見たことは無いが守護霊とか祖霊、加護してくださる異界の存在に対して、「悪しきものからお守りください、瞑想修行が進むようにお力をお貸しください。」と祈る。そうすれば恐怖を感じることは無い。

 そもそも恐怖はほとんど妄想から生じる。「変な音がした。外に誰かうろついているのではないか?」「家の中で不気味な気配がする。悪霊ではないか?」これらは「音」とSatiを入れてやり過ごせば良いし、「不気味な気配」とSatiを入れれば良い。続いて「不安」とか「恐れている」とかSatiを入れ続ければ良いのではないか?「妄想」とだけ入れても良いかもしれない。つまり、Satiを入れることで、無用な恐怖は消えてしまうということだ。

 どんな時、どんな場合、どんな場所でも平常心を失わないことを強さだとするなら、ヴィパッサナー瞑想はまさに強さへの道だろう。satiを入れることで自分の怖れ暴れる心を御することができる。「自分は弱い人間だ」と下を向きがちな人にこそ、ヴィパッサナー瞑想をやってほしいと思う。きっとより胸を張って生きていけるようになるはずだ。

 そんなことを書いているが、いざ泥棒やクマに出くわしたら、satiはすっ飛んで「キャー!」と叫んでいそうな気がする。まあそうなったら、また「satiが入らなかった」から始めよう。

ダンマ写真

三賢堂を護る蛇神ムチャリンダ

ブッダを雨風から護る蛇神ムチャリンダ

【悟りを開いたブッダが樹下に座していると、突然、激しい雨と寒風が七日間、続いた。

 蛇の姿をしたナーガ(竜神)の王・ムチャリンダは、「世尊に寒さや暑さ、雨や風、虻や蚊などによる害がないように……」と自らの身体でブッダを取り巻き、頭巾状に頭上を覆って雨風から護ったとされる。(『ウダーナ』)

 以来、ムチャリンダは仏法を護る存在として、多くのテーラワーダ寺院建築を飾ってきた】

サンガの言葉

初学者でもよくわかる二十四縁起】第10回 モートゥ(マンダレー在住)著 影山幸雄訳

【ウパニッサヤパッチャヨー(親依止縁 / 強力な依止縁)】

●短い要約

★親依止縁は、強力な拠り所として結果をもたらす条件関係を指し、三種類あります。
①所縁依止縁は、目に見える物や考えなどの対象が、心の強い拠り所となって認識や感情を引き起こす場合です。
②無間依止縁は、一つの心が滅した直後に次の心が絶えず生じる、心の連続を支える関係です。
③共依止縁は、元来そなわる性質のとおりに、強い拠り所として結果をもたらすものです。例えば、信は、布施・持戒・聞法などの善行を支え、さらに定や観、ひいては道智・果智へと導きます。

★善・不善・無記
 法は善、不善、無記の三種に分けられ、無記には四種があります。
 異熟心(善悪の行為がもたらした結果としての心)、唯作心(阿羅漢が善行を行う際に生じる、新しい果報を生まない心)、色法(物質)、涅槃です。
 凡夫の善行は善心であり、阿羅漢の善行は唯作心ですが、行為の外見は同じ善行です。
 睡眠中の心や木や遺体などの物質は善でも不善でもないため無記とされ、阿羅漢の善行に伴う心も無記とされます。

★善・不善・無記(善でも悪でもない法)の三つの状態は、互いに原因となり複雑な因果関係を結びます。
 善は善を生みます。
 信を拠り所に布施や持戒を行い、定や観察の智慧、さらには道智・果智を得て涅槃に至るのがその例です。
 しかし善は不善の原因にもなります。
 布施をした後に「自分ほどの者はいない」という慢が生じたり、善行の報いを求めて貪りに基づいて生き物を殺したりするのがそれです。
 善は、行った後に生じる身体的な苦楽や果報としての心身(無記)の原因にもなります。

★逆に不善が善の原因となることもあります。
 自らの悪行を省みて戦慄し、二度と悪をせず善を行おうと決意して布施や持戒に励むのがその例です。
 また健康や豊かさ(無記)を保ちたい願いが善や不善の原因となったり、人との交際、食事や栄養、天候、住まいや持ち物といった身の回りの一切が、善行を行うこともあれば、遊びに溺れて不善に走ることもあり、善・不善・無記のいずれの原因にもなるのです。

★したがって、信を深め、善がさらなる善を生むようによく気をつけて行動することが求められます。
 信が生じれば戒が保たれ、心の幸福、安らぎ、喜び、軽安、楽、定と進み、物質と心をあるがままに見る智慧、厭離の智慧、観察の智慧、そして道智・果智へと至ります。
 智慧ある善人に親しみ、欲界の善が出世間の善の原因となるよう自ら実践する人になりなさいと説かれているのです」
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●長い要約

★依止縁とは、ある法が強力な拠り所となって結果をもたらす条件関係であり、二十四縁の一つとして三種に分けられます。
①所縁依止縁は、目に見える物や考えなどの対象が心の強い拠り所となり、認識や感情を引き起こす場合です。増上縁で説かれる所縁増上と同じ意味です。
②無間依止縁は、一つの心が滅した直後に次の心が途切れなく生じる、心の連続を支える関係で、無間縁と同じ意味です。
③共依止縁は、もともと備わっている性質に従って、強力な拠り所となり結果をもたらす関係です。特に重要なのがこの共依止縁で、善・不善・無記のいずれもが、次に生じるものの原因となります。

★善・不善・無記
 法は善、不善、無記の三つに分けられます。無記には、異熟心、唯作心、色法、涅槃の四種類があります。異熟心は過去の行為の結果として生じる心、唯作心は阿羅漢の行為に伴う心で、新たな果報を生まないものです。色法は物質であり、涅槃も善・不善のいずれにも分類されないため無記とされます。凡夫が善行を行うときは善心ですが、阿羅漢が同じ善行を行う場合は唯作心となります。

★次に、善・不善・無記が互いに原因となり合う複雑な因果が説かれます。
 善は善を生みます。信を拠り所に布施・持戒・聞法などの善行をなし、定や観察の智慧を経て道智・果智を得るのがその例です。
 しかし善は不善の原因にもなります。善行の後に「自分ほどの者はいない」という慢が生じ、善行の果報を得たいという貪りから、他の生命を傷つけることもあります。
 また、善行を行った後に生じる喜びや疲労など、善でも不善でもない状態を生じさせることもあります。

★逆に不善が善を生むこともあります。自らの悪行を省みて戦慄し、二度と悪をせず善を行うと決意して布施や持戒に励むなら、不善が善の原因となります。
 一方、窃盗や強奪で得た財産や生活を享受し、喜びや安らぎなどの無記が生じる場合もあります。
 無記もまた、善や不善の原因となります。心身の豊かさや喜びをきっかけに善行を行うこともあれば、快楽を求めて酒や遊興にふけるなど、不善を行うこともあります。。
 
★さらに人間関係、食事や栄養、天候、住居、寝床、衣服、乗り物、コンピューターなど、身の回りのあらゆる条件も、善・不善・無記の原因となります。同じ条件でも、瞑想や善行の助けになる場合もあれば、欲望や怠惰を助長する場合もあり、単なる喜びや満足などの無記を生じさせる場合もあります。

★したがって重要なのは、善を行うだけでなく、その善がさらに善を生むように、何を拠り所として生きるかを注意深く選ぶことです。
 信が生じれば戒を守るようになり、戒が清浄になることで心の幸福、安らぎ、喜び、軽安、楽、定へと進みます。そして定が生じると、物質と心をあるがままに見る智慧、厭離や観察の智慧が生じ、やがて道智・果智へとつながります。
 智慧ある善人を拠り所として信を深め、欲界の善が出世間の善へつながるよう実践する人になっていくことが、依止縁を理解する意義なのです。
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 【本文】
 9)ウパニッサヤパッチャヨー(親依止縁):強力な拠り所として原因となる法

●三種類のウパニッサヤパッチャヨー(親依止縁)
 ウパニッサヤパッチャヨー(親依止縁)は三種類あります。
アーランマヌーパニッサヤパッチャヨー(所縁親依止縁)、アナンタルーパニッサヤパッチャヨー(無間親依止縁)、パカトゥーパニッサヤパッチャヨー(自然親依止縁)の三種類です。
ここではテーラワーダ仏教徒なら知らない人はいない、知っておくべきパカトゥーパニッサヤパッチャヨー(自然親依止縁)を主に説明します。

★アーランマヌーパニッサヤパッチャヨー(所縁親依止縁)について
 アーランマヌーパニッサヤパッチャヨー(所縁親依止縁)は、アディパティパッチャヨー(増上縁)の部分で説明したアーランマナーディパティ(所縁増上)と意味は同じです。
 アーランマナーディパティ(所縁増上)と呼ばれるルーパーランマナ(色所縁)を始めとしたアーランマナ(所縁)は、ナーマ(名法)の強力な拠り所です。このように、ナーマ(名法)の強力な拠り所となっているので、アーランマヌーパニッサヤパッチャヨー(所縁親依止縁)と呼んでいます。よく分からなければアディパティパッチャヨー(増上縁)の項のアーランマナーディパティ(所縁増上)をもう一度しっかり読んでください。

★アナンタルーパニッサヤパッチャヨー(無間親依止縁)について
 アナンタルーパニッサヤパッチャヨー(無間親依止縁)は、アナンタラパッチャヨー(無間縁)と同じ意味です。一つのチッタ(心)が滅した後、続いて生じるチッタ(心)の連鎖が途切れることなく続くように、強力な拠り所として結果をもたらします。このような理由からアナンタルーパニッサヤパッチャヨー(無間親依止縁)と呼ばれています。理解出来ない場合はアナンタラパッチャヨー(無間縁)をしっかりと読み直して下さい。

★パカトゥーパニッサヤパッチャヨー(自然親依止縁)について
 パカトゥーパニッサヤパッチャヨー(自然親依止縁):元々持っている性質の通りに、あるいは普段の習慣や環境を通して、強力な拠り所として結果をもたらすことをパカトゥーパニッサヤパッチャヨーと言います。パカトゥーパニッサヤパッチャヨーはテーラワーダ仏教徒なら知らない人はいない、知っておくべき法です。そのためしっかりと説明します。
三種類のカンマ(業)とアビャーカタ(無記)
> カンマ(業)の対象となる法にはクサラ(善)、アクサラ(不善)、アビャーカタ(無記)の三種類があります。アビャーカタ(無記)と言うのは、クサラ(善)でもなく、アクサラ(不善)でもないと(お釈迦様によって)説かれた法を指します。

●四種類のアビャーカタ(無記)
 アビャーカタ(無記)とされているのは四種類です。ヴィパーカチッタ(異熟心)、キリヤーチッタ(唯作心)、ルーパ(色)、ニッバーナ(涅槃)です。
 ヴィパーカアビャーカタチッタ(異熟無記心)はたくさんあります。一例を挙げると、人が寝ている時に生じるチッタ(有分心など)はヴィパーカアビャーカタチッタ(異熟無記心)です。人間だけではありません。全ての生命において寝ている時に生じているチッタ(心)はヴィパーカアビャーカタチッタです。ヴィパーカアビャーカタチッタは多彩でたくさんの種類があります。全て説明しようとすると理解できずに目が回ってしまうかもしれませんが、このくらいは憶えておいてください。いずれアビダンマ教室に参加する機会があれば理解できると思います。
  阿羅漢が善行を行った際に生じるチッタをキリヤーアビャーカタチッタ(唯作無記心)と呼びます。覚りを得ていない凡夫が善行を行う時にはクサラチッタ(善心)と呼びます。阿羅漢が善行を行ったらキリヤーアビャーカタチッタ(唯作無記心)と呼びます。阿羅漢はその生涯で死を迎えたら新たに生を受けることはありません。今生で行った善行為が新たな結果(果報)を生み出すことはありません。これをキリヤーアビャーカタチッタと呼びます。正しくは凡夫が善行為を行ったらクサラチッタ(善心)、阿羅漢が善行為を行ったらキリヤーアビャーカタチッタ(唯作無記心)と区別して定義しています。誰が行ったかによって区別していますが、行った行為そのものは外見上同じ善行為です。
 ルーパダンマ(色法)をルーパアビャーカタ(色無記)と呼びます。ニッバーナ(涅槃)もアビャーカタ(無記)と呼びます。
 木はルーパダンマ(色法)です。木をクサラ(善)と言うことはできません。アクサラ(不善)と呼ぶこともできません。ですからルーパダンマ(色法)である木はアビャーカタ(無記)です。これは理解するための例です。木だからと言うわけではありません。ルーパダンマ(色法)の一切がアビャーカタ(無記)です。別の例を挙げてみます。人が死んだとします。死んでしまった後の遺体もルーパダンマ(色法)です。その遺体もアビャーカタ(無記)です。遺体をクサラ(善)とみなすことはできません。アクサラ(不善)とみなすこともできません。このためアビャーカタ(無記)と呼びます。
  ニッバーナ(涅槃)もこれと同じ(善でも不善でもない無記)です。ですが、説明してもアビダンマ(論蔵)の基礎知識が無いと理解できず目が回ってしまうと思うのでここでは説明しません。ここではルーパ(色)がアビャーカタ(無記)であることを憶えてください。いずれアビダンマ(論蔵)教室に通うようになったら理解できると思います。

●クサラ(善)がクサラ(善)の原因となる様子
 クサラ(善)はクサラ(善)の原因となります。クサラ(善)はアクサラ(不善)の原因にもなります。クサラ(善)はアビャーカタ(無記)の原因にもなります。分かりやすく言うと、クサラ(善)を行った後にクサラ(善)が生じます。アクサラ(不善)が生じることもあります。クサラ(善)を行った後、アビャーカタ(無記)が生じることがあります。良く理解できるように説明します。
 信じることであるサッダー(信)を依り所としてダーナ(布施)、スィーラ(戒)、スタ(博達)、チャーガ(施捨)という善行を行います。サッダー(信)によりサマーディ(定)、ヴィパッサナー(観)に励んでジャーナ(禅定)、アビンニャー(神通)、マッガニャーナ(道智)、パラニャーナ(果智)を得ます。これも、クサラ(善)がクサラ(善)という結果をもたらす、と呼びます。信じることであるサッダー(信)がクサラ(善)です。サッダー(信)というクサラ(善)が原因となってジャーナ(禅定)、アビンニャー(神通)を得ます。この性質をクサラ(善)が原因となってクサラ(善)が生じると言います。

●クサラ(善)がアクサラ(不善)の原因となる様子
 サッダー(信)が原因となってダーナ(布施)、スィーラ(戒)、スタ(博達)、チャーガ(施捨)という善行を行います。このようにクサラ(善)を行った後、「私だからこそこの様に布施ができるのだ」というチッタ(心)が入り込みます。「私のように布施できる人は他にいない」、「私のように戒律が清浄な人は他にいない」などマーナ(慢)が生じます。「過去生でダーナ(布施)、スィーラ(戒)、スタ(博達)、チャーガ(施捨)という善行を行ったので、今生でも豊かに暮らすことができる。今生でもダーナ(布施)、スィーラ(戒)、スタ(博達)、チャーガ(施捨)という善行を再び行えば来世でも豊かに暮らすことができるだろう」とローバ(貪)の見方で行為を行います。僧侶に食事のお布施をしようと、鳥を殺します。豚を殺します。他の人に鳥や豚を殺させます。善行為を行いながら、怒鳴り、荒々しい言葉で話します。このような状態をクサラ(善)がアクサラ(不善)の原因となる、と言います。

●クサラ(善)がアビャーカタ(無記)の原因となる様子
 クサラ(善)を行う時、身体的な快感や、体の疲れといった生理現象が生じます。このようにクサラ(善)を行った後に生じる異熟(果報)や肉体的な状態(色法)を、クサラ(善)がアビャーカタ(無記)の原因となる、と言います。布施を行っている際に生じる体の疲労なども、クサラ(善)がアビャーカタ(無記)の原因となった例です。

●アクサラ(不善)がアクサラ(不善)の原因となる様子
 ドーサ(瞋)が生じると、他人を口汚くののしり、殴ったり叩いたりします。ローバ(貪)が生じると、不正な方法で他人の所有物を強奪、略奪します。過去生で行ったアクサラカンマ(不善業)が原因で、今生で漁師や屠殺者になりました。今生でも漁をしたり殺したりします。殺しながら荒々しい言葉を発し、屠殺者たちは一人一人が互いに罵ります。このような状況を「アクサラ(不善)がアクサラ(不善)の原因となる」と呼びます。

●アクサラ(不善)がクサラ(善)の原因となる様子
 自分が行ったアクサラカンマ(不善業)を思い起こし、それに気づき、サンヴェーガ(戦慄・強い反省)が生じて「私は悪行為、アクサラ(不善)を二度としない、今日から善い事だけ行うぞ」と考えて布施や持戒を行います。漁師が捕えた魚を調理してそれを比丘方にお布施します。人々がお互いにメッター(慈)を育てて相手に送ります。蜂蜜を手に入れて、健康を害して蜂蜜が必要な人に蜂蜜を布施します。カップル達が不謹慎な行為をするために寺院の境内に行き、そのついでに仏塔を礼拝して頭を下げます。これらの状態をアクサラ(不善)がクサラ(善)の原因となると呼びます。

●アクサラ(不善)がアビャーカタ(無記)の原因となる様子
 泥棒、強盗、独裁者などが努力を重ね、苦労して窃盗、強奪、略奪し、不当に手に入れた財産と豊かな暮らしを享受しながら、身体的な安楽や受用(異熟生の色法・心)が生じます。このような状況をアクサラ(不善)がアビャーカタ(無記)の原因になる、と呼びます。

●アビャーカタ(無記)がアビャーカタ(無記)の原因となる様子
 健康な身体や適切な食事(アビャーカタである色法)を拠り所として、身体の安楽や異熟心(アビャーカタ)が生じます。このような状態をアビャーカタ(無記)がアビャーカタ(無記)の原因となる、と呼びます。

●アビャーカタ(無記)がクサラ(善)の原因となる様子
 何らかの原因により心身ともに豊かになり、身体の豊かさを感じます。心身の豊かさを感じながら、来世でも再び心身の豊かさを享受したいと願います。来世でも再び心身の豊かさを享受したいが故に善行功徳を行います。このような状況をアビャーカタ(無記)がクサラ(善)の原因となる、と呼びます。また、誕生日を迎えることで心豊かになり、「参拝に行こう」と言ってお寺に向かいます。お寺に着いたら鳩に餌を与えます。アビャーカタ(無記)がクサラ(善)の原因となるというのはこのような状況を指しています。

●アビャーカタ(無記)がアクサラ(不善)の原因となる様子
 何らかの原因により心身ともに豊かになり、身体の豊かさを感じます。心身の豊かさを感じながら、来世でも再び心身の豊かさを享受したいと願います。来世でも再び心身の豊かさを享受したいが故に不善行為を行います。このような状況をアビャーカタ(無記)がアクサラ(不善)の原因となる、と呼びます。また、誕生日を迎えることで幸せな気分になり、遊び尽くそうと言って酒場に行ったり、KTV(カラオケ店)に行ったりします。自宅に友人を招いて、酒をふるまい、飲みあかし、食べては飲んで面白おかしく過ごします。アビャーカタ(無記)がアクサラ(不善)の原因となると言うのはこのような状況を指しています。

●人、食事・栄養、季節などがクサラ(善)、アクサラ(不善)、アビャーカタ(無記)の原因となる様子
 人、食事・栄養、季節などもクサラ(善)、アクサラ(不善)、アビャーカタ(無記)の原因となります。
 知人が原因でクサラ(善)を行ったり、アクサラ(不善)を行ったり、クサラ(善)アクサラ(不善)いずれにも当てはまらないアビャーカタ(無記)を行ったりします。これが、人が原因となる例です。
 食事・栄養がクサラ(善)、アクサラ(不善)、アビャーカタ(無記)の原因となります。
 食事・栄養を飲んだり食べたりするとき、瞑想に励むことを目標にします。善人の法(サッダー:信、スィーラ:戒、ヒリ:慙、オッタッパ:愧、バーフサッチャ:聞、チャーガ:施、パンニャー:慧)を実践することを目標にします。食事・栄養を飲んだり食べたりした後は力が満ちて、善人の法の実践に励むことができます。これは、栄養がクサラ(善)の原因となっています。食事・栄養を口にする際にサティ(念)が欠けるとラサタンハー(味に対する渇愛)が生じます。食事・栄養を口にした後、力が満ちて五欲の心が生じ、興奮してはしゃぎまわります。これは食事・栄養が原因となってアクサラ(不善)が生じています。食事・栄養を摂取した後にお腹がきつくなり、坐るのも横になるのも難しくなります。これは栄養が原因でアビャーカタ(無記)が生じています。
 天候が原因でクサラ(善)を行うことがあります。「穏やかな天気だ、クサラ(善いこと)をしよう」と言って善行為を行います。天候が悪い時にはお釈迦様が説かれた経を読みます。これが、「天候が原因でクサラ(善)を行う」ということです。天気が悪いことを言い訳にしてアクサラ(不善)を犯してしまいます。これが「天候が原因でアクサラ(不善)を行う」ことです。穏やかな天候を見て心の中に喜びが生じます。これが「天候が原因でアビャーカタ(無記)が生じる」ということです。
 寝床、場所、学校、ベッド、マットレス、袈裟、衣服、車、コンピューターなどは、クサラ(善)の原因となる場合もあれば、アクサラ(不善)の原因になったり、アビャーカタ(無記)の原因になったりします。周囲の人々が静かであれば心地よい寝所、場所を得ることができます。周囲の人々が静かで、心地よい寝所、場所を得ると「邪魔されることなく瞑想に励むことができるぞ」と言って、慈悲の瞑想などに励みます。サマタ瞑想、ヴィパッサナー瞑想に励みます。これが、「寝所、場所がクサラ(善)の原因になる」ということです。周囲の人々が静かで、良い寝所、場所を得ると、意味の無いことをやりたいという心が生じ、文字通り意味のないばかげたことをします。これが「寝所、場所がアクサラ(不善)の原因になる」ということです。良い寝所、場所を見て心の中に喜びが生じます。気分が良くなり満足します。これが「寝所、場所がアビャーカタ(無記)の原因になる」ということです。
 ウパニッサヤパッチャヨー(親依止縁):強力な拠り所として原因となる法、というのはこのような性質を意味します。パッターナパーリ(パーリ聖典の二十四縁起)の中でお釈迦様が詳細に説かれています。

●クサラ(善)が必ずクサラ(善)の結果をもたらすようにしましょう
 私たちは人生という旅の最初から最後まで、他人にクサラ(善)という結果をもたらす人間になれるように奮闘努力しなければなりません。自分自身もクサラ(善)のみをもたらす人だけに依りかかり、頼りにし、付き合うようにしなければなりません。若者たちが周囲の人々に善行功徳の結果をもたらす善人になるように、その若者たちの世話をし、教育しなければなりません。
 善行功徳を行う度に、自分が行った善行功徳が結果として善行功徳をもたらすように気づきながら行動しなければなりません。国民が心身ともに幸福で善行功徳を実践し努力することができるように、良い結果をもたらす政党に投票し選出しなければなりません。

●信じることであるサッダー(信)が生じると、それに続いて起こること
 信じることであるサッダー(信)が生じると、スィーラ(戒)を守ることができます。スィーラ(戒)が清浄になると、チッタ(心)は幸福になります。チッタ(心)が幸福になると、心の安らぎが生じます。心の安らぎが生じると喜びであるピーティ(喜)が生じます。ピーティ(喜)が生じると心身の静寂であるパッサッディ(軽安)が生じます。心身の静寂であるパッサッディ(軽安)が生じると、心身の楽であるスカ(楽)が生じます。心身の楽であるスカ(楽)が生じると、心が対象に留まり静まるサマーディ(定)が生じます。心が対象に留まり静まるサマーディ(定)が生じると、ルーパ(色:物質)とナーマ(名:心)をあるがままに正しく見ることができるヤターブータニャーナ(如実知見・如実智)が生じます。ヤターブータニャーナが生じるとルーパ(色:物質)とナーマ(名:心)に嫌気がさすニッビダーニャーナ(厭離智)が生じます。ニッビダーニャーナが生じると、ルーパ(色:物質)とナーマ(名:心)を分析、熟慮するサンマサナニャーナ(思惟智)が生じます。サンマサナニャーナが生じると存在の本来の自然な真理に従って観察、洞察するヴィパッサナーニャーナ(観智・洞察の智慧)が生じます。ヴィパッサナーニャーナが生じるとマッガニャーナ(道智)、パラニャーナ(果智)が生じ、ニッバーナ(涅槃)に触れることができます。
 マッガニャーナ(道智)、パラニャーナ(果智)を得てニッバーナ(涅槃)に触れたいと願う人は、カンマ(業)とカンマ(業)の結果を信じることなどサッダー(信)を具えなければなりません。サッダー(信)が少ない人はサッダー(信)が増強し強力になるように智慧ある善人を拠り所として教えを請うようにしなければなりません。「サッダー(信)を増強させる教えを聴かなければなりません」と、生命たちに知らせたいとの思いからお釈迦様はウパニッサヤパッチャヨー(親依止縁)を説かれました。
 ですから、ウパニッサヤパッチャヨー(親依止縁)の本質を確実に理解し、強力なサッダー(信)というクサラ(善)が原因となって、次もクサラ(善)という結果が得られるよう実践できる人に皆さんがなりますように。カーマーヴァチャラクサラ(欲界善)がロークッタラクサラ(出世間善)の原因となるように、実践する力を具えた人に皆さんがなりますように。