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月刊サティ!|ヴィパッサナー瞑想協会(グリーンヒルWeb会)

巻頭ダンマトーク

「人の命は甘美なものだ」(後篇)

●6月号前篇の要約

 本稿は、「瞑想 山小屋だより」5月号執筆者の質問に答えて執筆された。
 ブッダが入滅直前に「ヴェーサーリーは楽しい…」と、あたかも存在の世界を讃美するかのごとき言葉を洩らされたのはなぜか、という問いは、修行時代の私も長く惑わされた疑問だった。
 断食・水行・サマーディ・人間関係の隔絶という条件は、煩悩を一時的に遮断し、悟ったかのような錯覚を生じさせるが、日常生活にもどると微かな欲や嫌悪や慢が立ち上がる瞬間に気づいてしまう。「煩悩が残存しても悟りと言えるのか」という違和感に苦しみ、梵我思想や「煩悩即菩提」の巧妙な論法で納得しようとしたが、これは悟れなかった学問僧がひねり出した詭弁に思われた。煩悩の是認は「汚れた体のまま布団に入る」ような不潔さが感じられ、真の悟りではないと直観されていた。
 その迷いをいっそう深めたのが、『大般涅槃経』の「ヴェーサーリーは楽しい。ウデーナ霊樹は楽しい…」というブッダの言葉と、中村元による「この世界は美しいものだし、人のいのちは甘美なものだ」という解説であった。もしこれがブッダの本音なら、生命や愛欲、さらには存在世界そのものを最終的に肯定することになり、煩悩滅尽を説く教えと根本的に矛盾するだろう。この質問者の問いに答えるべく、改めてテキストを精査して諸々の謎が解けてきた。

 中村の注釈は、原文に根拠のない創作的解釈であることが明らかになる。まず「楽しい」のパーリ語「ramaṇīyā」は、官能的な快楽ではなく、「閑静で修行に適した好ましい場所」を指す語である。『ダンマパダ』でも「聖者の住む土地は楽しい」「世俗の人が楽しまない森こそが出離を楽しむ者には楽しい」と、修行環境の好ましさを示す語として一貫して使われている。
 次に「霊樹」とは、樹木の景観を讃えているのではなく、神霊を祀った霊廟・ほこらであり、仏弟子たちが日常的に滞在して修行する聖地を意味する。つまりブッダがアーナンダに語ったのは、「あの霊廟でも、この霊廟でも、快楽を求めない仏弟子たちが出離を楽しみ、ダンマの道を歩んでいる。ヴェーサーリーはまことによく整った好ましい地だ」という意味に他ならない。
 「人の命は甘美だ」というサンスクリット本の記述はパーリ原典には存在しない。後代の付加であり、ブッダの言葉ではない。そこから「死を惜しみ人間の恩愛に打たれた」と導く中村の解釈は、原文にまったく根拠を持たないのである。自ら悟り、生涯にわたって一切皆苦と出離を説き続けたブッダが、その臨終において教えと真逆の感慨を洩らすことはあり得ないのである。
 さらなる根拠を示そうとしたところから、今回の後篇が始まる。
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●後篇

 ブッダの暗示

 上記のように霊廟の地を讃えた直後に、ブッダは続けます。
 「アーナンダよ、いかなる人であろうとも、四つの不思議な霊力(四神足)を体得した人は、もしも望むならば、寿命のある限りこの世に留まるであろうし、あるいはそれより長い間でも留まることができるだろう」
 「私は寿命を延ばすことができる」とブッダが暗示しているのに、アーナンダは、その意味を汲み取れず、「尊い方よ、どうか寿命のある限り、この世に留まってください。多くの人々の利益のために、世間の人々を憐れむために、神々と人々の幸福のために」と懇請することをしませんでした。ブッダが同じ言葉を三度告げたにもかかわらず、悪魔にとり憑かれていたアーナンダは、ブッダの寿命の延長を要請しなかったのです。
 ブッダの意図を言い換えるとこうなります。
 「ダンマと修行の環境は美しく整ったので、如来は涅槃に入ることができる。去るべき条件が整ったから涅槃に入ろうとしているが、それでも、仏法を盤石なものにするには、もう少しこの世に留まるべきかもしれない。だからアーナンダよ、お前が懇願するのなら、そうしてもよいのだ…」
 ポイントは、3つです。
 ①ダンマと修行の環境は美しく整った。
 ②だから如来は涅槃に入ることができる。
 ③しかし要請があれば、寿命の延長も可能だ。
その根拠は、経典を読み進めれば明らかになります。

 入滅の決意

 ブッダの心を察することができなかったアーナンダがその場を離れると、入れ替わるように悪魔が近づいてきてブッダに囁きます。
 「尊い方よ、今こそ入滅されるべき時です。かつて尊師は『弟子たちが教えを体得し、弁舌で人々を導き、敵対者を論駁ろんばくできるようにならなければ、私は涅槃に入らない』と仰せになりました。しかし今やその条件はすべて成就されました。今こそ尊師がお亡くなりになるべき時です」
 アーナンダが寿命の延長を要請しなかったからには、悪魔の言うとおり、この世を去るべき機縁は熟した、と涅槃に入ることを受諾し、ブッダは三ヶ月後に亡くなるだろうと宣言します。
 この悪魔とのやり取りから分かることは、「仏弟子たちのダンマと修行の環境は美しく整った」事実を、悪魔もブッダも認めていることです。
 ウデーナ霊樹の地でも、チャーパーラ霊樹の地でも、あの地でも、この地でも、仏弟子たちが聖なる修行に精励している現実が浮かび上がってきました。風になびきながら聳え立つ霊樹は仏法が継承され栄えている証しであり、そのようなヴェーサーリーは楽しい。まことに善いところだ…という解釈は経典に即していると言えるでしょう。



アーナンダよ、ヴェーサーリーは楽しい…
ヴェーサーリーのストゥーパとアショカ王柱

 16回の暗示

 さらなる証拠を挙げることもできます。
 その後ブッダはチャーパーラ霊樹の下で、よく気をつけて「寿命の素因」を自ら捨て去り、入滅は揺るぎないものとして確定し、後戻りの可能性は絶たれました。この期に及んでアーナンダは、「尊い方よ、寿命のある限りこの世に留まってください」と遅きに失した懇請をします。するとブッダは、取り返しのつかない今となって何をか言わんや、「これはお前の罪である。過失である」とアーナンダを叱責し、続けます。
 如来はかつて王舎城でも、霊鷲山りょうじゅせんでも、七葉窟でも、「ヴェーサーリーは楽しい。ウデーナ霊樹の地は楽しい…」と同じ文言を語り、アーナンダに暗示したにもかかわらず、ことごとく聞き流され、寿命の延長は要請されなかったのでした。その数は合計16回に及びます。
 「王舎城は楽しい(ramaṇīya:ラマニーヤ)。霊鷲山は楽しい。七葉窟も、マンゴー樹園も、栗鼠園もまた楽しい…」と、仏弟子たちの修行と法の環境が美しく整ったことを讃え、アーナンダよ、お前が懇請するなら、私はここで法を説き続けることもできる、と暗示していたのです。
 つまり、「楽しい(ramaṇīya:ラマニーヤ)」という言葉は、同型の構造で16回も繰り返されていたということです。ブッダは、法の継承された環境の成就を賛美したのであって、風にそよぐ霊樹の景観や命の甘美さを讃えて「楽しい」などと語ろうはずはないと結論してよいでしょう。
 私も40年前に、王舎城や竹林精舎を巡礼し、霊鷲山を登りながら中腹の洞窟を眺め、ブッダの直弟子達の面影を偲んだことがありました。今回、改めて『涅槃経』を再読し、万感の想いが胸に迫りました。

 中村元の功罪

 哲学者としての思想的立場から、強引な注釈で混乱を招いた一面もありましたが、中村元が日本人の仏教に残した偉大なる功績は揺るぎないものです。中村は若くして日本最高の学術賞である日本学士院恩賜賞を受賞した『初期ヴェーダーンタ哲学史』で登場し、ブラフマン(宇宙の根源的実在)と個人のアートマン(真我)が同一であるという梵我思想が中村の知的出発点であり、終生にわたって中村の仏教理解の土台となっていたことが指摘されています。仏教学者の松本史朗は、中村が「ブッダの涅槃の境地も、梵我一如の境地も全く同じものだ」と確信していたことを論証し、「中村博士の仏教理解の根底にヴェーダーンタ的な一元論が認められる」と批判しています。
 私もかつて『ヨーガ・スートラ』を拠りどころに、梵我思想の解脱観に基づく修行を必死でしていました。存在は至福であるとして、煩悩も肯定されていく思想なのです。思想家としての中村の注釈に惑わされたものの、偉大なる文献学者としての中村のパーリ原典翻訳から受けた学恩は私の人生を変えるほど深いものでした。
 正確でわかりやすい中村の翻訳で原始経典を読み進めるうちに、『テーラガーター(仏弟子の告白)』や『テーリーガーター(尼僧の告白)』に出会い、多くの仏弟子たちが煩悩を滅尽し、輪廻転生に終止符を打った感動の詩を残していることに衝撃を受けました。ああ、本当に煩悩を滅尽させて、ブッダの瞑想法を最後までやり抜いた祖師方がいたのだ、と中村の訳業によって道が開かれていったのです。梵我思想から原始仏教の悟りを目指すまでに紆余曲折はありましたが、学恩ある中村元への尊敬はいささかも変わりません。

 真の仏教徒

 蛇足ながら、最後に、中村がいかに真摯な仏教徒だったかを物語るエピソードを紹介しましょう。
 中村元が20年の歳月をかけて一人で執筆した『佛教語大辞典』は400字原稿用紙で約3万枚の大作でしたが、出版目前の1967年、出版社の保管ミスにより原稿がすべて紛失してしまいました。警察・探偵社・製紙会社・古紙回収業者・新聞やテレビで懸賞金付き呼びかけまで行なったが、結局見つかりませんでした。
 20年の歳月と労力が水泡に帰したにもかかわらず、中村は「怒ったって、原稿は出てこないでしょう」と言ったそうです。また正確な一次資料によると、原稿紛失の連絡受けた中村は電話を切り、家族に「原稿がなくなったというんだよ」と告げただけで、紛失者を責める言葉を一切口にしなかったといいます。そして一ヶ月後に再び最初から書き直し、8年後に完結させて別の出版社から刊行したのです。
 20年の歳月が失われたのに怒りもせず、訴訟もせず、非難もせず、紛失した出版社名を終生明かさなかった中村元の姿に、真の仏教徒を見る思いがしました。
 仏教の教理を知的に理解する学者は大勢いるが、自らの人生の修羅場でダンマの本質を見事に体現して生きた偉大な碩学に心から敬意を表さずにはいられません。(完)

「私の瞑想体験ー瞑想で訪れた人生の転機」(旧「Web会だより」改め)

『見失われた私 生きている実感』③大門満痴子

  父の介護

 よくわからないままとりあえず瞑想を続け、サティを入れながら、要介護の状態になっている父を見守りました。わたしが5歳の時に救急車で運ばれ、「心臓神経症(当時、鬱病などの精神疾患には人格的に問題があるという偏見があり、このような病名でぼやかすことはよくあったようです)」と診断されて入院を繰り返した父は、それまではやさしかったのに、怒鳴ったり、薬の副作用か廃人のように昼から寝ていたり、おびえたように夜中に突然叫んだりして、別人のようになりました。とても怖かったのですが、遠く離れた父の実家の事情も絡んでおり、子供には説明がなかったのです。
 成長するにしたがって、父には知的障害者の兄が二人いて後見人となって彼らの生活や財産を守っていること、祖父は父が10歳ごろに亡くなり後継ぎとして育てられてきたこと、父親が病死して障害者が複数いる家であり戦中戦後はかなり差別されたこと、現在は父の姉婿が家を継いでいることなどが分かりましたが、詳しい事情や経過は知りませんでした。私が高校生になると、両親特に父親と兄は激しくけんかを繰り返すようになり、現在に至るまで折り合えないのでした。
 わたしにとって、父は優しく知性的なところもありましたが、偏屈で人間不信なところがあり、怒りのスイッチがどこにあるか分からず、よく理解できない人間でもありました。しかし、一緒に母を看取ってからは「同志」のような絆ができ、それからはどんな父も受け入れて理解するよう努めてきました。「現在の父」はずっと見てきましたが、介護の過程で、そもそも昔家族に起こっていた出来事さえよく知らなかったことに気づきました。母も、わたしが仕事の忙しさにかまけて改めて昔のことを聞かないうちに、既に亡くなっていました。

  確執と和解

 兄とわたしも、わだかまりがありました。母を自宅で看取ったのは2009年。今でこそ在宅医療・看護は普及していますが、当時はこの地域では癌の人を自宅で看取るのは非常識に近い感覚があり、実際訪問診療や看護も受けてくださるところはありませんでした。3人の子育てで必死になっていた兄は同意しませんでした。しかし、母はいろんな事情が重なって積極的治療をまったく行えずに末期の状態となっており、「入院したくない。家に居たい」と強く望む母の願いを、わたしはなんとかかなえたかったのです。兄と決別する覚悟で勤務を続けながら父と二人体制で自宅での看取りを敢行しました。
 母の死後、兄は「あの時、どうして看てやらなかったのかと今でも悔やむ」と言っていました。「だって、あの状況だったから仕方ないよ。介護休暇だってあるのも知らなかったし…『もう、そんなこと思わなくていい』って、きっと母さんも言っているって」というような話をしたことがありますが、実は心の奥底では母の最期の希望をかなえることに協力せず、わたしたちと激しく言い合った兄を許せてはいませんでした。だって、同じ町内に住んで、3人も孫守りをしてもらいながら、親と喧嘩ばかりしてきたじゃない。あたしよりよっぽど両親に心配をかけてきたくせに!そして両親の世話になってたくせに!アンタがケンカした後の両親の心と身体のケア(主に愚痴聞きと、得意技である指圧治療)は、ほとんどわたしがしてたのよ(→怒り!)。 父の介護くらいは手伝ってもらわなきゃね。医療職で独身、子なしだからって、わたしだけに「お任せ」になんてさせるもんか。そのためにも今のところは良好な関係を保っておくべし(→計算高く、腹黒い女の心…)。
 とまあ、心の中はたくさんの怒りやわだかまり、不安を抱えていました。それでも慈悲の瞑想を続け、介護の最中もサティを入れながら、見守りをつづけました。結果的には、父はよいヘルパーさんやケアマネージャーさんに恵まれ、望みどおり最後まで自宅で過ごし、食べられるだけ好きなものを食べ、最期の瞬間は家族が全員集合し、一言ずつ声をかけて見送り、ひとすじの涙を流して穏やかな死に顔で旅立ちました。まさに大往生。2023年秋のことでした。自分としては父の病気中に孤軍奮闘してわたしたちを育ててくれた母が若くして苦しみながら死に、母より9歳も年上の病弱だった父が、長生きして大往生するのは何だか釈然としませんでしたが、とにもかくにも恵まれていました。
 介護の最中は兄とぶつかり合いながらも昔の話をすることも多く、「あれ?あの時そちらもそう思ってたの?」「あれは、そういうことだったのか…」などと昔のことを話して相互理解が深まり、なんだか勘違いしていることも多かったり、兄もつらかったんだな、と共感できたり。兄もまた同じように感じているようで、結果、心から許しあい、通じ合える仲になれたのは意外なことでした。

  伴侶との別れ

 父は無事に見送ることができましたが、それから間もなくパートナーとは別れることになりました。わたしは瞑想のおかげでうまく断酒できていましたが、パートナーはアルコールから完全に抜けられていない状態で、定期的に飲酒を繰り返していました。コロナ禍も終わりに近づいてきたし、同性愛者は都会の方が生きやすい。彼女はもともと大阪の人で、同性愛者としての自分を隠さずにつきあえるコミュニティや結婚して独立した娘さんもいるから、その方がいいだろうな…わたしが彼女を束縛して、依存症にした部分もあるだろうと思いいたりました。
 アルコール依存の場合、enabler(イネーブラー)という言葉があります。「酒を飲むのはやめろ」と言いながら、酔っぱらったときに面倒をみたり、本人の代わりにアルコール瓶を片付けたりする家族…「アルコール依存であり続けることを実質的には支えている人」をこういうのです。今回、わたしはまさにイネーブラーであることに気づきました。衝撃でした…。支える人がいて、依存であっても生活が成り立つから、「酒を飲み続けている場合ではない。何とかしなくてはいけない」ということを本人が自覚しにくいのです。さらに、依存症は「耐えられないストレスがあるために、それに耐えて何とかやっていくために依存する」という側面があるようです。わたしは彼女に家事をしてもらい精神的に支えてもらい、かわりに経済的には彼女を支えてアルコールを飲む生活を支えていたのです。このような共依存の状態から脱して、別れるほうが本人のためになるということ…。
 先生には「別れるにしても、最後まで相手を思いやった対応にしなさい。共に過ごして、人生に彩りを添えてくださったお方ではないですか」と言っていただき、慈悲の瞑想を必死に毎日やって、アルコールを止めないことへの恨みや、彼女がいなくなることへの不安をなんとか静め、2024年の8月、新しい門出を祝うつもりで別れました。

(続く)

季節の写真

行田の古代蓮
先生と話そう

「仏教の霊的存在」第2回

 第1回の要約

◆仏教は、しばしば科学的・哲学的な宗教として紹介されるが、その根底には輪廻転生という、現代科学では扱うことのできない霊的な世界観がある。
 科学とは、万人に開かれ、誰にでも検証でき、再現性があり、反証可能な知として整理されるが、一方、霊的世界は、特殊な知覚能力を持つ人だけが体験できるもので、誰もが検証できるものではない。科学の対象になりにくい所以だが、しかしブラックホールも湯川秀樹の中間子もヒッグス粒子も、実験で確認されるまでは仮説にすぎなかった。まだ科学で証明されていないという理由だけで、霊的存在そのものを否定することはできないだろう。

 輪廻を否定する和辻哲郎などの説は、パーリ原典や十二縁起の理解から見れば誤解である。原始仏教でいう輪廻とは、「業と無明による縁起構造が一瞬一瞬接続するプロセス」であって、永遠不変の自己(アートマン)が生まれ変わることではない。
 最初期の仏教教団は阿羅漢を中心に構成され、多くの修行者が超感覚的知覚(神通力)を備えていたことが知られている。彼らにとって神々や霊的存在は、現実に視認できる存在だった可能性がある。一般の人に見えないからといって、「妄想」「非科学」と決めつけることは、人間の知覚能力の多様性を見落としているのではないか。
 とはいえ、霊示や神示を絶対視する霊能者や教祖も疑問視される。重要なのは、それが神や霊から与えられたものかどうかではない。メッセージの内容がダンマ(真理)にかなっているかどうかだけが判断基準である。
  神も霊も輪廻の中にいる存在であり、愚かな者は霊界でも愚かなままであり、高い境地にある存在は優れた教えを伝えるだろうが、ただそれだけのことにすぎない。大切なのは、啓示の由来を問題にすることではなく、その内容を常識とダンマに照らして絶えず検証する姿勢である。という結論で、第2回へと話は続いていく。


 神霊の実在性

榎本 内容がダンマに即した高度なものであれば、霊示や神示の是非は問わないということですが、統合失調症患者の幻聴も非常にリアルで、外来の他者の声と区別がつかないようですね。
地橋 現在の神経科学では、脳内妄想なのか、外来信号の受信なのかは区別する方法がありません。脳内誤作動であれ、外来のメッセージであれ、認知される瞬間は脳神経細胞の発火に帰着するからです。
 おそらく統合失調症患者の中には、外来の霊的メッセージを受信している者がいるかもしれない。また、預言者やシャーマンの中には、脳内情報の混乱を誤解し錯覚した者がいるかもしれません。
榎本 ブッダは霊示や神示の「外来性」を保証するものについてどのように言われてるのでしょうか。
地橋 『サンガーラヴァ経』の中で、「世の中に神々というものは、果たして存在するのでしょうか?」と訊かれ、ブッダはこう答えています。「世の中に神々がいるということは、私にとって、最初から直接的な経験によって完全に分かりきっていることなのだ」と。
榎本 外在する、と断言されているわけですね。
地橋 そうです。これは、ブッダに限りません。『涅槃経』では、ブッダの遺体を荼毘だびに付す薪に、なぜか火を点けることができません。そこで天眼通第一で名高い十大弟子のアヌルッダ尊者に理由を訊ねます。すると、神霊たちの意向と異なっているので火が点かないのだと判明します。ブッダの後継者になるマハー・カッサパ尊者が500人の修行僧を引き連れてクシナーラに向かっている。到着し、ブッダの遺体に礼拝するまで火葬の薪は燃えないだろう、というのです。
榎本 ふむ。
地橋 ちなみに、アヌルッダ尊者は出家後に盲目になりましたが、神霊を視認する能力に関しては第一でした。また、ブッダが亡くなる直前、最期の禅定に入り、サマーディの究極である「滅尽定(想受滅)」に入定されたとき、涅槃に入ったとアーナンダが誤解します。「想(知覚)」も「受(感受)」も絶え果てた禅定というのは、生きている死体のようなものですから、アーナンダが誤解するのも無理からぬところです。しかしアヌルッダ尊者は、天眼通の能力で事実を正確に見抜いて、アーナンダの誤解を正すのです。
榎本 なるほど。霊的な存在を視認し、禅定と涅槃の微妙な差異を識別しているということですね。しかしブッダの直弟子たちはスーパーエリートが多すぎて、現代のわれわれとは次元が異なりますね。
地橋 最初期の阿羅漢たちは、六神通(①神足通・②天耳通・③他心通・④宿命通・⑤天眼通・⑥漏神通)とセットで悟りを開いていました。われわれはサマーディに入ることすら難儀しているのに、当時はサマーディの究極とも言うべき神通力を得て解脱していた方が多数いたのです。
榎本 霊的存在の実在性は、スーパーエリート達には再現性のある自明なことであっても、凡夫の共通感覚では判別できないということですね。
地橋 そんなのある訳がない、と真っ向から否定する人がいますが、存在しないことの証明は難しく、いわゆる「悪魔の証明」になるので断定するのは勇み足でしょう。

 霊的干渉

榎本 この際だから確認させていただきたいのですが、先生は霊示や神示から修行の道に入られたのですか。
地橋 ブッダは、霊的なことはアクセスできる者同士で話せ、と明確におっしゃっているので、答えづらいのですが、まあ、そういうことになりますか。…夜中に水をかぶって経を読む、というスタートでしたから、異界の存在からの干渉を感知してしまったというのが始まりですね。
榎本 つまり、異界、スピリチュアルな世界というものが実在すると感じられていたのですね。失礼ながら、ブッダのような神通力で検証されてないとしたら、何をもって実在と判断したのですか。ご自分の潜在意識の情報と混同しているという疑いは持たなかったのですか。
地橋 2つの理由から、外来の霊的干渉だと思いました。一つは、耳元で鼓膜が振動するような物理的印象を伴って聞こえたことです。『そんな修行は止めろ』といった囁き声の生々しさがあまりにもリアルに感じられたこと。
 二つめは、その霊示は私自身の脳内から浮上したものではあり得ないという確信です。私の人生の最大のターニングポイントで、揺るぎない心底からの決意を固めて修行の道に入った私に、修行を放棄するなどという発想は微塵もなかったからです。「修行を止めろ」という言葉が内部から生じる背景はゼロでした。
榎本 なるほど。同じような体験は、以前からも?
地橋 皆無ですね。修行を始めたこのときだけで、一時的な経験です。
榎本 耳元で囁かれるような生々しさが、その後は変化していった、と。
地橋 そうです。このときは有無を言わさぬ強さがあったので外来性を確信しましたが、その後は伝達のニュアンスが変わりました。
榎本 どんなふうにでしょう?
地橋 情報のコンテンツが直接私の意識に照り映えるような感じです。これは主観的な印象なので人には説明しづらいのですが、瞬間的なテレパシーのような感覚で、脳にアイデアや思念が浮かぶ感覚とは一線を画しています。しかし厳密な立証も難しいので、情報の真実性(コンテンツの内容)だけを拠りどころにすべきだという結論に達したのです。
榎本 脳内に浮上した情報だろうが、外来性だろうが、ダンマに基づくか否かだけが問題だ、と。
地橋 そうです。霊示だろうが、師匠のアドバイスだろうが、読書からの情報だろうが、内容に価値があるのかクズ情報なのかだけを問えばよい。
榎本 なるほど。で、先ほどの鼓膜が振動するような霊的干渉にはどのように対処したのでしょうか。
地橋 私は基本的に独覚タイプですから、対処法をいろいろ編み出しました。恫喝して蹴散らすようなやり方や、私に関わることの無意味さを諄々じゅんじゅんと諭すように伝えたり、優しい愛念で見送ったり、いろいろやりましたが、完全無視が一番よかったですね。最もコストがかからない。(笑)

 恐怖から脱け出す

榎本 恐怖感はなかったのでしょうか?
地橋 耳元で犬の喘ぐような声が生々しく聞こえたりすると一瞬の恐怖はありましたが、この世を捨て、聖なるものを目指す揺るぎない決意がありましたからね。また、闇もあれば光もありで、何ものかに護り導かれている感覚も明確だったので、心の安全基地があったことも大きいです。
榎本 実際に、恐怖に巻き込まれてしまったなどということは?
地橋 別件では、あります。
榎本 そのときは、どうされたのですか?
地橋 ここは大事なところで、恐怖感を外すやり方を知っているか否かが最重要です。ある経典に、「恐怖感を持たない者に、魔はけ入ることができない」と書いてあります。つまり、魔は、こちらの恐怖感を依り代にして襲来し、支配しようとしているということなのです。
榎本 ふむ。向こうは恐怖心を利用してくるわけですね。それは社会生活でもありがちなことですね。
地橋 この知識があれば、恐怖感をいかに外すか、その危険回避マニュアルを備えておけばよいということになります。
榎本 例えば、どうやるのでしょう?
地橋 いかに恐怖感を外すかは、いかにして安心感が得られるかです。一瞬にして安心感に包まれるやり方を自分流に整えておけばよいのです。
榎本 心を落ち着かせる心理的技法ということですね。
地橋 そうです。大乗仏教なら、マントラや真言や念仏を唱えるのでしょうが、テーラワーダ仏教では、「護経(パリッタ)」というのがあります。
榎本 どういうものでしょうか。
地橋 「慈経」「宝経」「吉祥経」などを普段から唱えて暗記していれば、イザというときに安心感が得られます。テーラワーダ圏では、危険や恐怖を感じた瞬間にパリッタ句を反射的に唱えるようです。

 あの手、この手…

榎本 先生の場合は、どんなやり方をされたのですか。
地橋 まず、どんなやり方でも、これさえあれば、という一本槍はダメです。唯一の安全装置が効かなかったときにパニックになるからです。危険回避マニュアルは、必ず複数の手段を用意しておくべきです。この手がダメなら、あの手で行く、と。
榎本 あの手この手をもう少し具体的におっしゃると?
地橋 今なら、まずサティを入れる、と言いたいところですが、当時は知りません。恐怖で総毛立つのもパニックを起こすのも、恐怖妄想に巻き込まれている状態ですから、明るいもの、善なるもの、光り輝くもの、ポジティブな概念やイメージに瞬間的に切り換えて集中するのです。当時はヨーガや大乗仏教を軸に修行していましたから、熟読していた『観音経』など効果的でした。なんせ野獣が出ようが毒蛇が出ようが、賊に襲われようが、落雷に打たれようが、観音のを唱えれば必ず救われるという経ですから。陀羅尼だらにという呪句も暗記していたし、密教系の僧から授かった「オンギャクギャク、エンノウバソク、アランキャソワカ」はとっさに口を突いて出ましたね。
榎本 先生が密教にも触れられていたというのは意外ですが、その真言はどういうものですか?
地橋 修験道の開祖・えんのづぬの真言です。当時の私は滝行などもしていましたからえんの行者ぎょうじゃが大好きで、日本人ナンバーワン霊能者の法力・霊験にあやかろうと崇めていました。
榎本 いろいろやっておられたんですね。
地橋 大事なポイントは、一瞬にして安心感が得られることです。鰯の頭も信心から、です。絶対に大丈夫、私は守られている!という確信があれば霊的なものなど恐るるに足りません。全ては、心より生ずる、です。
榎本 ちなみに、先生が真っ先に使っていたのは、どの手ですか?(笑)
地橋 巧いこと乗せられてますね。いいのかな、こんなにしゃべってしまって。
榎本 どうぞ、何でもお話になってください。まずかったら、後でオフレコにすればいいんですから。(笑)
地橋 私の一番得意なのは、崇高な、光り輝くイメージに、一瞬で意識のチャンネルを合わせるやつですね。マントラなどの言葉は、時間経過が伴います。唱えた直後に、安心感が得られ、恐怖感が外れるという微細な時系列があるでしょう。しかるに、イメージはほぼ時間ゼロ秒です。崇高なヒマラヤの雪嶺に陽光がキラキラと光り輝いている美しい画像が大好きでしたから、そのイメージを想起するや、一瞬にして恐怖感が雲散霧消するのです。
榎本 なるほど。そして、もしそれが効かなかったら、次の手を打つ、わけですね。真言や映像や経文など危険回避マニュアルの①がダメなら、②、②がダメなら③と、必ず引き出しのどこかで安心感が得られるという重層的な対処法を完備しておくということですね。
地橋 そのとおりです。霊が存在しようがしまいが、問題は恐怖感を外す技術を備えておくことです。今なら、サティがダメなら、三帰依、三帰依がダメなら慈悲……と、個人的な安全装置を複数用意しておくことです。
榎本 瞑想中におかしくなったときなんかにも活用できそうですね。



 ブッダの検証

地橋 ブッダの方法があまりにもヴィパッサナー的なのに感動したことがあります。悟りを開いたブッダが最初に伝道しようとしたのは五比丘ではなく、修行時代に「しょしょじょう(虚無を対象にした禅定)」を指導してくれた先生、アーラーラ・カーラーマでした。彼なら難解なダンマでも速やかに理解するだろうと考えたとき、ある神霊が「アーラーラ・カーラーマが死んでから7日になります」とブッダに伝えてきたのです。普通は、ああ、そうだったか、とその神示を鵜呑みにするでしょうが、ブッダは違います。自身の超感覚的知覚(天眼通)を使って、死後7日経つと確認しているのです。神霊のメッセージが明確であっても、伝聞は伝聞としてそのまま鵜呑みにせず、自ら検証しているのです。
榎本 ほお。
地橋 次にブッダは、サマタ瞑想の究極「そうそうしょじょう」の師だったウッダカ・ラーマプッタに伝道しようとする。すると再び神霊が「ウッダカ・ラーマプッタは昨夜死にました」と告げ、ブッダもまた自身の超感覚的知覚で、その死を検証しているのです。ものすごく感動しましたね。これぞヴィパッサナーの真骨頂だと思いました。自らの目で見、自らの直接知覚で確かめたものを拠りどころにせよと説かれた方にふさわしい実証的精神だと思いました。
榎本 手法は超感覚的ですが、仏教の科学性に通じてもいるし、霊的存在のリアル感もあるということでしょうか。
地橋 自分自身が現実を目の当たりにしていても、頭に妄想が充満していれば、真実が見えなくなるのですから、たとえ信頼できる筋であっても、伝聞を鵜呑みにしてはならないのです。権威のある存在の言葉だから信じる、というのはブッダの教えに反します。
榎本 と、ブッダがおっしゃってるのですか?
地橋 ええ。ブッダは「私の言葉を信じるな」と言う方です。黄金を火で熱したり、切断したり、試金石で純度を量ったりして本物と認めるように、「比丘たちよ、そのように、私の言葉も、私への敬意によってではなく、よく検証したうえで受け入れるべきである」と説いています。これが「あるがままに真実を観る」瞑想を教えた方の教えです。

 カーラーマ経

地橋 さらに『カーラーマ経』では、経典に書いてあろうが、師匠の言葉だろうが、理屈や理論に合っているからといって信じてはならない。自分の目で見、自分の手で確認し、検証せよ。それが悪であり苦しみをもたらすものか、善であり利益と幸福をもたらすものか、を自ら正しく理解して受け入れ、行うべきである、と言ってますね。
榎本 うーん、すこしわかりにくいですね。
地橋 ちょっと、読んでみましょうか。「カーラーマたちよ、伝聞によって、信じてはならない。伝統だからといって信じてはならない。世間で語り継がれているからといって信じてはならない。経典に書かれているからといって、信じてはならない。論理や推論だけで、信じてはならない。自分の見解に合うからといって、信じてはならない。権威者の言葉だからといって、信じてはならない。『この沙門はわれわれの師である』と考えて、信じてはならない。
 しかし、カーラーマたちよ、自らよく観察し、これらのことが善であり、非難されず、賢者たちが賞讃するものであり、行なうと利益と幸福をもたらすと、自分で理解したならば、そのとき、それらを受け入れて行わなければならない」
榎本 それは、衝撃的な言葉ですが、逆に突き放された気持ちにもなりますね。
地橋 私が、ヴィパッサナー瞑想の最初に、法と概念の仕分けを強調する背景には、ブッダのこの言葉があります。直接知覚によって、純粋に、あるがままの、法としての事実を確認し、拠りどころにしていくということです。
榎本 そのようなブッダが視認した神霊や悪魔がリアルな表現で経典に語られているのに、煩悩や心理的なものの象徴だというのは無理筋だということですね。
地橋 ブッダの時代の最初期の阿羅漢たちの多くは、三明六通という神通力を得て解脱していました。煩悩の滅尽を知る漏神通と、過去世の輪廻転生を知る宿命明と、天眼通が特に重要なので三明と呼ばれます。三番目の天眼通とは、神霊や鬼霊、人間、畜生などの衆生が、どこに生まれ、どう滅していくか、その行方を見る能力です。つまり、ブッダの悟りの修行を完成し解脱した方々の多くは、輪廻転生と霊的存在の視認と、衆生の因果と業報の構造を目の当たりにしていたということです。ということで、初期仏教の世界観では、霊的存在は当然の前提として語られていたと考えてよいでしょう。
榎本 ありがとうございました。瞑想修行は、がんばります。(笑)
   (完)

今日のひと言

2026年7月号

 (1)
★同じものを見ているのに、拍手喝采で絶賛する人もいれば、罵詈雑言を吐き散らす人もいる。
 あるがままに、ただ存在している世界から、無数の脳内認知ワールドが生まれてくる……。
 鯨が見ている世界もあれば、ダニが知覚している世界もある。
 あるがままに如実知見する瞑想が、迷いを解放に導く……。

(2)
★たとえ妄想の嵐が鎮まり、空っぽになっても、知識も経験も情報も何も仕込んでいない心に智慧が生じることはない。
 本能や遺伝子に組み込まれた知恵は、生存競争に勝ち抜くためのものばかりだ。
 貪って、怒って、柔らかくて小さな幼獣を我が子の餌食にしながら、生存を最優先する命のいとなみ。
 他の生命に苦しみを与えながら生き残ろうとする発想が、未来の我が身に苦をもたらす構造。
 一切皆苦の構造から解脱しようとする仏教は、世の流れに逆らう……。

(3)
★欲望と欲望が力で淘汰される生命の世界で、その欲望を自ら抑止する脳が搭載されたのは、群れを形成する必然に由来したのだろう。
 個体の欲望と怒りを制限するシステムがなければ、狼もゴリラも蟻も蜂も人類も…群れの統制が取れなくなる。
 貪瞋痴を抑止する脳は、生命の本質に根差している。
 戒の起源……。

(4)
★人間関係も孤独も将来不安もどんな人生苦も、瞑想に集中し、思考モードを離れれば、どうでもよくなるだろう。
 だが、瞑想が終わって日常意識に戻れば、心の反応パターンも元の木阿弥になる。
 深層から心を組み換える修行には、人生全体の総力戦を覚悟しなければならない……。

(5)
★深い禅定状態にも、完璧にサティが入り続けるマインドフルネスにも、終わりがある。
 思考モードが戻れば、喜怒哀楽も欲も怒りも自己チューも回帰してくる凡夫の悲しさ。
 本能を司る脳が残っているのに、煩悩滅尽状態が維持される聖者の不可思議……。
 量り知れない涅槃の衝撃力……。

瞑想 山小屋だより

命拾いと波羅蜜

 我が家は雑木林と野原に囲まれ、近くには小川が流れている。春先には庭にいっぱいフキノトウが顔を出してくれたので、それを摘んでは味噌汁に放したり、パスタにしたり、フキノトウ味噌にしたり楽しんだ。初夏ともなるとハチクやウルイ、マコモダケ等が地元の直売所で売られている。
 いつものように散策をしていると、頬かむりをして林の中で何やら採っている80代くらいの女性を見かけた。「何を採っているんですか?」と声をかけたところ、「ノビル採ってるの。美味しいよ。いっぱいあるよー」と教えてくれた。シュッと伸びた茎を引っこ抜くと小さい球が付いている。よく洗ってゴマ味噌炒めにするとお酒のアテにぴったりだとのこと。私は酒を飲まないけれど、ご飯のお供にも良いのではないかと気がそそられた。親切なお婆さんは、ビニール袋いっぱいに採っていたノビルを、半分くらい分けてくれた。その夜のノビルのゴマ味噌炒めが美味しかったこと!
 翌日、夫は我が家の庭や、裏の林でノビルをいっぱい採ってきた。「こんなにあるよ!」添付の写真の3倍ほどはあっただろうか。嬉しくなって、料理する前に知り合いに写真を送った。そうしたらすぐに「それ、タマスダレじゃないの?」と返信があった。調べてみると、そっくりだが、微妙に葉の形が違う。どうやら匂いも違うらしい。知らずに食べたら食中毒を起こすところだった。タマスダレのリコリンというアルカロイド成分が毒で、嘔吐や下痢、大量のよだれ、痙攣を起こすという。大量に食べると死に至ることもあるそうだ。危ないところだった。何しろ大量に採ってきていたので。
 また、別の日、山道を車で走っていたときのこと。この辺りは信号がほとんど無い。また山すそで傾斜があるので、坂道で交差しているし、きれいな十字路ではない。斜めに交差していたり、六差路だったりもする。見通しも悪い上に、皆さんかなり飛ばしている。車自体が少ないからだ。その六差路で、死角から突然車が現れ、すごいスピードで突っ込んできた。「あ、これはダメだ」と覚悟した。どう見ても側面に激突するタイミングで、「ぶつかる!」と身構えた。ところが次の瞬間、テレポートしたとしか思えないような位置に私はいたのだ。交差点に入ったばかりの位置から、次の瞬間には交差点を越えた位置に。件の車は何事も無かったようにクラクションも鳴らさずに走り去っていた。その後は心臓がバクバクしていたが、狐につままれたような気がしながら目的地まで走った。
 立て続けに起きたこの命拾いはどういうことなんだろう? 自分なりに考えてみた。まずタマスダレを食べずにすんだのは、情報系の善行の結果だろう。誰かに役に立つことを知らせたこと、例えば「この病院の○○というお医者さんは良かった」とか「その症状にはこの食材がいい」とか「そういう希望ならこんな方法がある」とか、そういう情報を誰かにあげた、ということなのではないか? その善行が「毒では?」という情報をもらえたことに繋がったとしか思えないのだ。
 では車がぶつからずに済んだのは、どういうことだろう? 激突されていたら無傷では済まなかったはずだから、ライフダーナ、命のお布施に関係するだろうか? 健康や命に関わる善行、何かしているだろうか? マイナスを積み重ねないことは常に気をつけている。虫は殺さない。生き物は傷つけない。だが保護犬を飼っているわけでもないし、病院にボランティアに行っている訳でもない。シジミを買って川に放したことも無い。辛うじて思い当たるのは、去年タイのお寺に修行に行ったときに、僧侶病院にお布施を届けに行ったことくらいだろうか……。
 車がぶつかっていたら修理費も嵩んだだろうし、治療費もかかっただろう。そうすると財施に関係するだろうか? 財施は思いついた時に、少しずつでもやるようにしている。難民キャンプに衣類を送ったり、災害地に募金したり。アフガニスタンで井戸を掘っていた方には継続して寄付を続けた。しかしその程度だ。
 私が命拾いした理由は、謎のままだけれど、いずれにせよ、わずかながら積み上げてきた波羅蜜はこれでスッカラカンだろう。貯金全額引き出しみたいなものだ。また明日からコツコツと善行を心がけて積み直さなければならない、と覚悟した。
 凡夫にとってこの道は楽なものではない。地橋先生によれば、「修行は総力戦」とのこと。修行も善行も頑張らなくては!



タマズダレ

ダンマ写真

霊鷲山登山道(ビンビサーラ・ロード)@王舎城
モッガラーナ(目蓮尊者)の修行洞窟@霊鷲山
サンガの言葉

【初学者でもよくわかる二十四縁起】第8回 モートゥ(マンダレー在住)著 影山幸雄訳

🌄短い要約

★本文は、「倶生縁」と「相互縁」という二つの因果関係の違いを説明しています。

 生命は、身体と心から成り立っています。
 身体は四つの基本的な性質(硬さ・流動性・運動性・温度性)によって構成され、心は心そのものと、感受・記憶・意志などの心の働きが一体となって生じます。

 倶生縁とは、原因と結果が同時に生じる関係です。
 例えば、炎と光が同時に現れるように、四つの基本的な性質や心と心の働きは同時に生じます。

 相互縁とは、同時に生じるだけでなく、互いに支え合う関係です。
 四つの基本的な性質同士や心と心の働きは、それぞれが互いの成立を支えるため、相互縁となります。

 一方、形や音などの物質的性質は四つの基本的な性質によって生じますが、逆にそれらを支えることはできません。
 同様に、心から生じる身体の変化も心を生じさせることはありません。
 このような関係は倶生縁には含まれますが、相互縁には含まれません。

 つまり、同時に生じるものはすべて倶生縁ですが、その中で互いに原因となって支え合うものだけが相互縁です。
 相互縁は必ず倶生縁でもありますが、倶生縁が必ず相互縁になるわけではありません。

 この因果関係を正しく理解することで、心身は条件によって生じる現象にすぎないと知り、執着や誤った認識を離れて苦しみを終わらせる智慧へと至ることができる、と説かれています。
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🌄長い要約①

★本文は、倶生縁と相互縁という二つの「縁」を通して、ルーパ(物質)とナーマ(心)の構造、そして輪廻と解脱の方向性を示すことにあります。

 まず生命は、四大(地・水・火・風)の性質が組み合わさって形成される物質的側面と、心と心所から成る精神的側面からなる集合体として説明されます。
 ここでの「地・水・火・風」は、土や水そのものではなく、硬さ・凝集・運動・温度といった性質のことです。
 これら四大は単独では生じず、必ず他の三つと同時に現れます。
 炎と光が同時に立ち上がるランプの喩えを用いて、四大が互いを原因・結果として支え合いながら同時に生じることが説かれます。
 この「同時に生じる」性質が倶生縁であり、「互いに原因にも結果にもなり合う」関係が相互縁です。四大同士は倶生縁であると同時に相互縁でもあります。

 しかし、形・音・香・味などの二十四種の所造色は、四大に依存して同時に生じる派生的な物質であり、四大を支える力はありません。
 四大がこれら所造色の原因とはなりますが、所造色は四大の原因にはなり得ないため、両者の関係は倶生縁にのみ分類され、相互縁には含まれないとされます。両親と乳飲み子の喩えにより、一方的に原因となる関係の性質が説明されます。

 心についても、チッタは単独で生じるのではなく、触・受・想・思・一境性・命根・作意という七つの心所と必ずセットで生じる「エイトインワン」の集合体であると説かれます。
 これを五蘊の観点から見ると、心は識蘊に、受は受蘊に、想は想蘊に、その他の心所は行蘊に分類され、これら四つの名蘊に物質としての色蘊を加えた五蘊が「生命」です。識蘊が原因で他の名蘊が結果となる場合もあれば、受蘊が原因になることもあり、どれが原因でどれが結果かは固定されていません。
 四つの名蘊は互いに原因にも結果にもなり合いながら同時に生じるので、倶生縁かつ相互縁です。

 一方で、心と心所が生じると、それに応じた心所生色も同時に現れます。
 善い心によって顔色が明るくなり、悪い心によってくすむという例がそれです。
 ここでは心と心所が、同時に生じる身体的現象の原因とはなりますが、その身体的現象が逆に心を成立させるわけではないため、この関係も倶生縁のみにとどまり、相互縁とは呼ばれません。

 まとめとして、同時に生じるものはすべて倶生縁に含まれ、そのうち「互いに原因・結果となる力があるもの」だけが相互縁に分類されると整理されます。 
 相互縁が起こる時には必ず倶生縁も伴いますが、倶生縁が必ずしも相互縁を含むわけではありません。
 倶生縁は範囲が広く「公益的」に一方的に支える縁、相互縁は範囲が狭く「互酬的」に助け合う縁として喩えられます。

 最後に、この縁起の理解が輪廻と解脱に結びつけられます。五欲の対象を喜ぶ受蘊によって五蘊と諸対象への執着が増大し、「生物・自我だ」と誤認する想顛倒が輪廻を回転させ続けます。
 逆に、欲楽の受を断ち、五蘊・六外所を無常・苦・無我と正しく観じて想顛倒を断ち切ることで、行蘊などのナーマ・ルーパの連鎖が断たれ、輪廻の歯車が止まり涅槃に触れることができると説かれます。
 その教示を伝えるために、釈尊は倶生縁と相互縁を説かれたのだ、と結ばれています。
▲▲▲§▲▲▲
🌄長い要約②

 本文は、「倶生縁」と「相互縁」という二つの縁(因果関係)の違いを説明しています。
 両者はよく似ていますが、「互いに支え合うかどうか」が重要な違いです。

 まず生命は、物質的な身体と心の働きから成り立っています。
 身体は四つの基本的な性質(硬さ・流動性・運動性・温度性)から構成され、心は心そのものと、それに伴う感受・記憶・意志などの心の働きによって成り立っています。

 倶生縁とは、「原因と結果が同時に生じる関係」です。
 例えば、ランプに火がつくと炎と光が同時に現れるように、四つの基本的な性質は常に同時に生じ、心もまた心の諸作用と同時に生じます。
 このように、一方が原因となって他方を生じさせながら、両者が同時に存在する関係を倶生縁といいます。

 一方、相互縁とは、「同時に生じるだけでなく、互いに支え合う関係」です。
 文章では、三本の棒を上で結んで立てた例が用いられています。
 一本が倒れれば他の二本も倒れるように、それぞれが互いを支えることで全体が成り立っています。
 四つの基本的な性質同士や、心と心の諸作用は、このように互いに原因となり結果となる関係にあります。

 しかし、同時に生じても相互縁にならない場合もあります。
 例えば、四つの基本的な性質から形・音・香り・味などのさまざまな物質的性質が生じますが、それらは四つの基本的な性質に支えられて存在するだけで、逆に四つの基本的な性質を支えることはできません。
 また、心から身体の変化や表情などが生じますが、それらは心によって生じるだけで、心そのものを生じさせる力はありません。このような関係は倶生縁ではありますが、相互縁ではありません。

 つまり、「同時に生じる」という条件を満たせば倶生縁ですが、「互いに原因となり支え合う」という条件まで満たす場合だけ相互縁となります。
 したがって、相互縁は必ず倶生縁でもありますが、倶生縁が必ず相互縁になるわけではありません。

 最後に、この教えは単なる理論ではなく実践につながるものだと説かれています。
 私たちは感覚的な快・不快に執着することで、自分や世界を実体あるものと誤認し、その結果、苦しみの連鎖が続きます。
 しかし、心と身体が互いに条件によって生じる現象にすぎないと正しく理解すれば、執着と誤った認識を断つことができ、輪廻の苦しみから解放される道が開かれます。
 このような因果関係を深く理解することが、智慧を育て、最終的な解脱へ向かうための重要な基礎であると説明されています。

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💎本文

6)サハジャータパッチャヨー(倶生縁)、7)アンニャーマンニャーパッチャヨー(相互縁)

⦿サハジャータパッチャヨー(倶生縁):同時に生じる原因となる法
⦿アンニャーマンニャーパッチャヨー(相互縁):相互に作用する原因となる法


 サハジャータとアンニャーマンニャーの性質には大きく異なるところはありません。そのためサハジャータとアンニャーマンニャーを一つにまとめて説明します。

●ルーパ(色)とナーマ(名)の意味
 生命は(1)パタヴィ(地)、テージョー(火)、ワーヨー(風)、アーポー(水)と言う四つのマハーダートゥ(四大界)からなるルーパ(色)、そして、(2)チッタ(心)、チェータスィカ(心所)と言うナーマ(名)の集合体です。
 ルーパ(色)とは「変化し壊れてしまうもの」と言う意味です。変化し壊れてしまうのでルーパ(色)と言います。命のあるルーパ(色)であれ、命の無いルーパ(色)であれルーパ(色)は熱さ冷たさを始めとした原因により様々に変化します。それは自分自身であれ、周囲であれ念を入れてよく観察すれば見ることができます。
 ナーマ(名)とは「対象がある方向へ心を向ける」という意味です。念を込めて観察して下さい。何らかの種類の対象に心が向いているのを見ることができます。体外の何らかの対象、あるいは何らかの思考にチッタ(心)が到達していることに思わず気づくでしょう。思考もアーランマナ(対象)です。思考をダンマーランマナ(法処)と呼びます。就寝中でさえもチッタ(心)は関連するアーランマナ(対象)の一つに向かいそこに留まります。この性質はアビダンマ(論蔵)教室に参加すればそこで学ぶだろうと思います。まだその時期ではないのでここではこれ以上の説明は控えます。

●四つのマハーダートゥ(四大界)で構成されているというのは
 生命はそれぞれがパタヴィ(地)、アーポー(水)、ワーヨー(風)、テージョー(火)という四つのマハーダートゥ(四大界)で構成されています。一方で本来の大地そのもの、本来の水そのもの、本来の風そのもの、本来の火そのものから成り立っていると考えがちですが、正しくは、地、水、風、火という四つのマハーダートゥ(四大界)が持つ性質が組み合わさって構成されています。本来の地、本来の水、本来の風、本来の火そのもので構成されているわけではありません。
 パタヴィ(地)、アーポー(水)、ワーヨー(風)、テージョー(火)という四つのマハーダートゥ(四大界)の性質を詳しく説明していると大事な部分にたどり着けない恐れがあるためこのくらいにしておきます。四つのマハーダートゥ(四大種)について知りたければアビダンマッタサンガハの注釈書442から448ページに詳しく書かれています。それを読んで勉強してください。

●ダートゥ(界)の意味
 パタヴィ(地)、アーポー(水)、ワーヨー(風)、テージョー(火)は四つのマハーダートゥ(四大界)とも呼ばれています。四つのマハーブータ(四大種)と呼ぶこともあります。
 ダートゥ(界)とは自分の性質を自分で発揮できる法と言う意味です。自分の性質を自分で発揮できると言うのは、どのような状態であっても自分自身の特長、性質が明瞭に存在するという意味です。パタヴィ(地)にはカッカリと言う、硬さが明瞭に存在します。硬さと言うのは触れて操作することができるという意味です。大地はパタヴィダートゥ(地界)が最も優勢で、それにアーポーダートゥ(水界)、ワーヨーダートゥ(風界)、テージョーダートゥ(火界)が力弱く加わり集合するルーパ(色)の一つです。
 このため大地は固まりになることもあれば粉末状になることもあります。堅固になることもあれば柔軟になることもあります。大地には硬さという性質があるので触れて操作することができます。水は本来アーポーダートゥ(水界)が最も優勢で、パタヴィダートゥ(地界)の力が弱いルーパ(色)の一つです。けれどもパタヴィダートゥ(地界)の硬さにより触れて操作することができます。

●マハーブータ(大種)の意味
 マハーブータ(大種)の意味は「大きくて明瞭なルーパ(色)」です。パタヴィ(地)、アーポー(水)、ワーヨー(風)、テージョー(火)と言う四種類のルーパ(色)は他のルーパ(色)よりも大きく、性質、特長も明瞭です。このためパタヴィ(地)、アーポー(水)、ワーヨー(風)、テージョー(火)を四つのマハーブータ(四大種)とも呼びます。

●四つのマハーブータ(四大種)がサハジャータ(倶生)となる様子
 オイルランプに火を灯す時、小さな炎が生じると同時に炎の光が生じて来ます。同様に、パタヴィ(地)が生じると、アーポー(水)、ワーヨー(風)、テージョー(火)がパタヴィ(地)とともに同時に生じます。アーポー(水)が生じるとパタヴィ(地)、ワーヨー(風)、テージョー(火)がアーポー(水)とともに同時に生じます。四つのマハーダートゥ(四大界)の中の一つが生じると、他の三つのマハーダートゥ(大界)が、最初に生じる一つのマハーダートゥ(大界)とともに同時に生じます。
 原因であるパタヴィ(地)が生じると同時にアーポー(水)、ワーヨー(風)、テージョー(火)という結果が、原因であるパタヴィ(地)とともに同時に生じます。このように、結果であるアーポー(水)、ワーヨー(風)、テージョー(火)が、原因であるパタヴィ(地)とともに同時に生じるように、原因であるパタヴィ(地)が働きかけて結果をもたらします。こうした原因と結果が同時に生じる性質をサハジャータパッチャヨー(倶生縁)、「同時に生じる原因となる法」と呼びます。
 パタヴィ(地)、アーポー(水)、ワーヨー(風)、テージョー(火)という四つのマハーブータ(四大種)は、パタヴィ(地)が原因であれば残りの三つが結果となり、アーポー(水)が原因であれば残りの三つが結果となり、ワーヨー(風)が原因であれば残りの三つが結果となり、テージョー(火)が原因であれば残りの三つが結果となります。四つのマハーブータ(四大種)は、どれが原因でどれが結果であると決めることができません。四つのマハーブータ(四大種)全てが原因になったり、結果になったりしています。
 原因として働きかける元となるのが原因の法、原因として働きかける対象となるのが結果の法であると理解し、憶えておく必要があります。

●四つのマハーブータ(四大種)がアンニャーマンニャーパッチャヨー(相互縁)となる様子
 木の枝を三本、上部を結わえて、平らな地面の上に立てたとします。このように上部を結わえた三本の木の枝の内の一本がずり落ちると残りの二本の木の枝もずり落ちてしまいます。木の枝三本全てが地面の上に立てるためそれぞれの枝が原因と結果として相互に働きかけています。
 三本の木の枝のように、原因であるパタヴィ(地)も自分だけでは安定しません。原因であるパタヴィ(地)が安定して存在するように、結果であるアーポー(水)、ワーヨー(風)、テージョー(火)も、原因であるパタヴィ(地)に対し、逆に原因として働きかける必要があります。このように一つ一つが互いに原因として働きかけている性質を、アンニャーマンニャーパッチャヨー(相互縁):相互に作用する原因となる法と呼びます。

●サハジャータ(倶生縁)にはなるけれどもアンニャーマンニャー(相互縁)にはならない場合の様子
 四つのマハーブータ(四大種)が生じる場合、四つのマハーブータ(四大種)と同時にウパーダールーパ(所造色)が生じます。ウパーダールーパ(所造色)とは、マハーブータ(大種)に依存して生じるルーパ(色)という意味です。四つのマハーブータ(四大種)に依存して生じるウパーダールーパ(所造色)というのは、形、音、臭い、味を始めとした二十四個のルーパ(色)のことです。四つのマハーブータ(四大種)と二十四個のウパーダールーパ(所造色)は同時に生じます。四つのマハーブータ(四大種)が、二十四個のウパーダールーパ(浄色)と同時に生じて、二十四個のウパーダールーパ(所造色)の原因となります。「サハジャータパッチャヨー(倶生縁):同時に生じる原因となる法」とはこの性質のことです。二十四個のウパーダールーパ(所造色)について詳しく知りたい方はアビダンマッタサンガハ注釈書のルーパ(色)の項をご覧ください。

<訳者注釈>
*二十四個のウパーダールーパ(所造色)
(1)パサーダールーパ(五浄色)
①チャック(眼)
②ソータ(耳)
③ガーナ(鼻)
④ジヴァー(舌)
⑤カーヤ(身)
(2)ゴーサラルーパ(五境色)
⑥ルーパ(色)
⑦サッダ(声)
⑧ガンダ(香)
⑨ラサ(味)
*ポーッタッバ(触):地、水、風の三大種と同じなので所造色には含めない。
(3)バーヴァルーパ(二性色)
⑩イッタッタ(女性)
⑪プリサッタ(男性) 
(4)ハダヤルーパ(心色)
⑫ハダヤヴァットゥ(心基)
(5)ジーヴィタルーパ(名色)
⑬ジーヴィティンドゥリヤ(命根)
(6)アーハーラルーパ(段食色)
⑭アーハーラカバリカーラーハーラ(食色)
(7)パリッチェーダルーパ(限界色)
⑮アーカーサダートゥ(虚空界)
(8)ヴィンニャーッティルーパ(二表色)
⑯カーヤヴィンニャーッティ(身表)
⑰ヴァチーヴィンニャーッティ(語表)
(9)ヴィカーラルーパ(五変化色)
⑱ラフター(軽性)
⑲ムドゥター(軟生)
⑳カンマンニャター(適業性)
(10)ラッカナルーパ(四相色)
ウパチャヤ(集積性)
サンタティ(相続性)
ジャラター(老性)
アニッチャター(無常性) 
 
 四つのマハーブータ(四大種)が二十四個のウパーダールーパ(所造色)に対し、同時に生じる法としての原因となりますが、逆に、二十四個のウパーダールーパ(所造色)は四つのマハーブータ(四大種)が生じる原因とはなりません。何故原因にならないのかと言うと、二十四個のウパーダールーパ(所造色)には四つのマハーブータ(四大種)の原因となる力が無いからです。四つのマハーブータ(四大種)と二十四個のウパーダールーパ(所造色)はアンニャーマンニャー:互いに原因となったり結果となったりすることはありません。四つのマハーブータ(四大種)だけが一方的に二十四個のウパーダールーパ(所造色)の原因となります。両親は乳飲み子に対しあらゆる面で原因となり結果をもたらしますが、乳飲み子は両親に対し原因となったり、結果をもたらしたりする力はありません。
 そのため、四つのマハーブータ(四大種)と二十四個のウパーダールーパ(所造色)が原因となり結果をもたらすサハジャータパッチャヨー(倶生縁)の中にだけ分類されています。アンニャーマンニャーパッチャヨー(相互縁)の中には分類されていません。なぜアンニャーマンニャーパッチャヨー(相互縁)の中に分類されていないかと言うと、四つのマハーブータ(四大種)だけが二十四個のウパーダールーパ(所造色)の原因として作用しますが、逆に二十四個のウパーダールーパ(所造色)が四つのマハーブータ(四大種)の原因として作用することができないからです。
 
●集合体としてチッタ(心)が生じる様子
 チッタ(心)は単独で生じるのではありません。チッタ(心)は少なくとも、
1)パッサー(触):アーランマナ(対象)とチッタ(心)を遭遇させる働き、
2)ヴェーダナー(受):感受、
3)サンニャー(想):記憶、
4)チェータナー(思):関連するチッタ(心)、チェータスィカ(心所)がそれぞれの働きを実行できるように促す働き、
5)エーカッガター(一境性):チッタ(心)を集めて一つの対象に向かうように促す働き
6)ジーヴィティンドゥリヤ(命根):年齢(ないし)生じて来た法、性質が壊れないように、制御し、保護し、守る働き
7)マナスィカーラ(作意):心に取り込む(あるいは)チッタ(心)とアーランマナ(対象)が寄り添うように促す働き
 以上の七つのチェータスィカ(心所)がチッタ(心)とともに生じます。チッタ(心)と言うのはエイトインワン(八つ入りのパック)のようなもので、少なくとも八つの成分の集合体です。

<訳者注釈>
*ここで示されている七つのチェータスィカ(心所)はどのようなチッタ(心)でも必ず一緒に生じます。これをサッバチッタサーダーラナチェータスィカ(共一切心心所)と呼んでいます。

●チッタ(心)、チェータスィカ(心所)をグループにまとめると
 エイトインワンであるチッタ(心)をグループ(蘊)にまとめると、チッタ(心)がヴィンニャーナッカンダ(識蘊)、ヴェーダナー(受)というチェータスィカ(心所)がヴェーダナーッカンダ(受蘊)、サンニャー(想)というチェータスィカ(心所)がサンニャーッカンダ(想蘊)、残りの50個のチェータスィカ(心所)がサンカーラッカンダ(行蘊)となります。これらは四つのナーマッカンダ(名蘊)です。

<訳者注釈>
*チッタ(心)は89、ないし121あります。
*チェータスィカ(心所)は全部で52あります。
*上記の四つのナーマッカンダ(名蘊)にルーパッカンダ(色蘊)すなわち物質としての身体を加えて五蘊(パンチャーッカンダ)と呼びます。生命は五蘊の集合体です。

●ナーマ(名)がサハジャータパッチャヨー(倶生縁)となる様子
 チッタ(心)が生じると、チッタ(心)とともにチェータスィカ(心所)が生じます。チッタ(心)が原因、チェータスィカ(心所)が結果です。原因であるチッタ(心)が生じると同時に、結果であるチェータスィカ(心所)が生じるようにチッタ(心)が働きかけます。燈明に火を灯すと、燈明の火と同時に光が生じます。サハジャータパッチャヨー(倶生縁):同時に生じる原因となる法とはこのような意味です。
 ウィンニャーナッカンダ(識蘊)が生じると同時にヴェーダナーッカンダ(受蘊)、サンニャーッカンダ(想蘊)、ティンカーラッカンダ(行蘊)という三つのナーマッカンダ(名蘊)もヴィンニャーナッカンダ(識蘊)と同時に生じます。ヴィンニャーナッカンダ(識蘊)が原因で、ヴェーダナーッカンダ(受蘊)、サンニャーッカンダ(想蘊)、サンカーラッカンダ(行蘊)が結果です。原因であるヴィンニャーナッカンダ(識蘊)が生じると同時に結果であるヴェーダナーッカンダ(受蘊)、サンニャーッカンダ(想蘊)、サンカーラッカンダ(行蘊)という三つのナーマッカンダ(名蘊)が生じるように、原因であるヴィンニャーナッカンダ(識蘊)が働きかけます。燈明の炎が生じると同時に光が生じるようなものです。サハジャータパッチャヨー(倶生縁):同時に生じる原因となる法とはこのような意味です。

<訳者注釈>
ヴィンニャーナッカンダ(識蘊)はチッタ(心)のことです。

 ヴィンニャーナッカンダ(識蘊)、ヴェーダナーッカンダ(受蘊)、サンニャーッカンダ(想蘊)、サンカーラッカンダ(行蘊)という四つのナーマッカンダ(名蘊)の中でヴィンニャーナッカンダ(識蘊)が原因であれば、残りの三つが結果です。ヴェーダナーッカンダ(受蘊)が原因であれば、残りの三つが結果です。サンニャーッカンダ(想蘊)原因であれば、残りの三つが結果です。サンカーラッカンダ(行蘊)が原因であれば、残りの三つが結果です。四つのナーマッカンダ(名蘊)の内どれが原因でどれが結果になるかは決まっていません。四つのナーマッカンダ(名蘊)全てが原因になったり結果になったりします。結果を出すように作用するのが原因の法、結果が出るように促されるのが結果の法であると理解し、憶えてください。

●ナーマ(名)がアンニャーマンニャー(相互縁)となる様子
 チッタ(心)も単独で生じることはできません。このためチェータスィカ(心所)がチッタ(心)に対しアンニャーマンニャー(相互縁)、すなわち互いに双方向で原因になったり結果になったりする必要があります。ヴィンニャーナッカンダ(識蘊)も単独で生じることはできません。ですからヴェーダナーッカンダ(受蘊)、サンニャーッカンダ(想蘊)、サンカーラッカンダ(行蘊)がヴィンニャーナッカンダ(識蘊)に対しアンニャーマンニャー(相互縁)、互いに双方向で原因になったり結果になったりする必要があります。木の枝を三本、上部を結わえて、平らな地面の上に立てたとします。このように上部を結わえた三本の木の枝の内の一本がずり落ちると残りの二本の木の枝もずり落ちてしまいます。木の枝三本全てが地面の上に立てるためそれぞれの枝が原因と結果として相互に働きかけています。この喩えのように相互に原因として働きかける状態がアンニャーマンニャーパッチャヨー(相互縁):相互に作用する原因となる法です。
 
●ナーマ(名)がサハジャータ(倶生縁)になるけれどもアンニャーマンニャー(相互縁)にはならない様子
 チッタ(心)、チェータスィカ(心所)という四つのナーマッカンダ(名蘊)が生じると、同時にチッタジャルーパ(心所生色)も生じます。チッタジャルーパ(心所生色)というのはチッタ(心)が原因となって生じるルーパ(色)という意味です。チッタ(心)が生じると、チッタ(心)が原因となってチッタジャルーパ(心所生色)が生じます。善いチッタ(心)であれば善いチッタジャルーパ(心所生色)が生じ、善くないチッタ(心)であれば善くないチッタジャルーパ(心所生色)が生じます。ですから善いチッタ(心)がある人は顔色が良く、穢れなく、輝いています。善いチッタ(心)がない人は、顔色がくすんでどんよりしています。サハジャータパッチャヨー(倶生縁):同時に生じる原因となる法とはこのようなものです。
  チッタ(心)、チェータスィカ(心所)というナーマッカンダ(名蘊)がチッタジャルーパ(心所生色)も同時に生じるように原因として働きかけますが、チッタジャルーパ(心所生色)はどうかと言うと、チッタ(心)、チェータスィカ(心所)というナーマッカンダ(名蘊)に対し原因として作用することはありません。どうして原因として作用しないかと言うと、チッタジャルーパ(心所生色)にはチッタ(心)、チェータスィカ(心所)というナーマッカンダ(名蘊)に原因として働きかける力が無いからです。このためチッタ(心)、チェータスィカ(心所)というナーマッカンダ(名蘊)とチッタジャルーパ(心所生色)はアンニャーマンニャー(相互縁)、互いに原因として働きかける関係にはなっていません。ナーマッカンダ(名蘊)のみが一方的にチッタジャルーパ(心所生色)に対し原因として働きかけます。両親は乳飲み子に対しあらゆる面で原因となり結果をもたらしますが、乳飲み子は両親に対し原因となったり、結果をもたらしたりする力はありません。
 以上より、チッタ(心)、チェータスィカ(心所)というナーマッカンダ(名蘊)とチッタジャルーパ(心所生色)とは原因結果の観点からはサハジャータパッチャヨー(倶生縁)にのみ分類されます。アンニャーマンニャー(相互縁)には分類されません。チッタ(心)、チェータスィカ(心所)というナーマッカンダ(名蘊)だけがチッタジャルーパ(心所生色)に一方的に原因として働きかけます。チッタジャルーパ(心所生色)がチッタ(心)、チェータスィカ(心所)というナーマッカンダ(名蘊)に原因として働きかけることはありません。
 アビダンマ(論蔵)についての基礎知識がないと理解できずに目が回ってしまうかもしれません。このためサハジャータ(倶生縁)とアンニャーマンニャー(相互縁)の相違点を説明します。

●サハジャータ(倶生縁)とアンニャーマンニャー(相互縁)の相違点
 相互に原因となったり結果となったりする場合でもそうでない場合でも、同時に生じたら、サハジャータパッチャヨー(倶生縁)に分類されます。サハジャータ(倶生縁)の力により原因として作用すると言います。四つのマハーブータ(四大種)とウパーダールーパ(所造色)、四つのナーマッカンダ(名蘊)とチッタジャルーパ(心所生色)などがこれに該当します。
 相互に原因となったり結果となったりすることが可能であればアンニャーマンニャーパッチャヨー(相互縁)に分類されます。アンニャーマンニャー(相互縁)の力により原因として作用すると言います。四つのマハーブータ(四大種)はそれぞれが相互に原因となったり結果になったりします。四つのナーマッカンダ(名蘊)もそれぞれが相互に原因となったり結果になったりします。
 アンニャーマンニャー(相互縁)が生じる度にサハジャータ(倶生縁)も生じます。アンニャーマンニャー(相互縁)の性質には、常にサハジャータ(倶生縁)の性質が加わります。一方でサハジャータ(倶生縁)が生じたからと言って必ずしもアンニャーマンニャー(相互縁)が生じるわけではありません。サハジャータ(倶生縁)の性質に常にアンニャーマンニャー(相互縁)の性質が加わるわけではありません。アンニャーマンニャー(相互縁)の性質が加われる部分にだけ加わります。
 サハジャータ(倶生縁)が関連する範囲は広く、アンニャーマンニャー(相互縁)が関連する範囲は狭いです。サハジャータ(倶生縁)の性質は強力に見えます。アンニャーマンニャー(相互縁)は狭くて入り組んでいるように見えます。サハジャータ(倶生縁)は公益事業従事者のように見えます。アンニャーマンニャー(相互縁)は営利事業従事者のように見えます。公益事業従事者は相手が自分に対して手助けするかしないか気にすることなく出来る限り相手を手助けします。営利事業従事者の場合は自分が手助けしたら相手も自分を手助けし、自分が手助けしなければ相手も自分を手助けしないという関係になります。
 親友が集まっているとします。その中の一人が他の親友たちにご馳走します。相手が自分に見返りとしてご馳走してもしなくても彼はその親友たちにご馳走します。これがサハジャータ(倶生縁)の性質です。また別の一人が他の親友たちにご馳走します。相手が自分にご馳走したらその相手に自分もご馳走します。相手が自分にご馳走しなければその相手には自分もご馳走しません。これがアンニャーマンニャー(相互縁)の性質です。サハジャータ(倶生縁)とアンニャーマンニャー(相互縁)の間にはこのような違いがあります。

●祖国ミャンマーが時代に即し発展するために
 私たちはミャンマー国民としてミャンマー国内にサハジャータ(倶生縁)、一緒に住んでいます。私たちはアンニャーマンニャー(相互縁)、お互いにミャンマー国民であるとの自覚を高め、一人一人が人種、宗教の違いを乗り越え、身体の行為、口の行為、心の行為としてのメッタ―(慈)を具える必要があります。
 そのように人づきあいし暮らせば私たちの周囲の人たちも静かで穏やかになります。私たちの国も静かで穏やかになります。周囲の人たち、国家が静かで穏やかになれば人事、経済、健康、学問などあらゆる面で発展し国家は繁栄します。私たちも心身ともに豊かに暮らすことができます。私たちは世界の中心となり、おお、あれがミャンマー人たちだと称賛を受け国家も繁栄するだろうと思います。

●サンサーラ(輪廻)を経めぐる
 五欲の対象を喜ぶヴェーダナーッカンダ(受蘊)が生じることにより、記憶であるサンニャーッカンダ(想蘊)などの四つのカンダ(蘊)、ルーパ(色法)とナーマ(名法)が生じ、増大します。次いで生命でもなく、自我でもない、アニッチャー(無常)、ドゥッカ(苦)、アナッター(無我)に過ぎない五蘊、六外所(六つの対象)を、生物、人間、神、自我であると誤解し、誤って認識するサンニャーヴィパリータ(想顛倒)が生じます。このように誤った認識、サンニャーヴィパリータ(想顛倒)が生じ、ヴェーダナーッカンダ(受蘊)、サンニャーッカンダ(想蘊)などのカンダ(蘊)、アーヤタナ(12所)が間断なく生じて、サンサーラ(輪廻)の輪が止まることなく回転を続けます。

●サンサーラ(輪廻)を断ち切る
 五欲の対象を喜ぶヴェーダナーッカンダ(受蘊)を断ち切ることができれば、サンニャーッカンダ(想蘊)などのルーパ(色法)とナーマ(名法)を断ち切ることができます。次いで生命でもなく、自我でもない、アニッチャー(無常)、ドゥッカ(苦)、アナッター(無我)に過ぎない五蘊、六外所(六つの対象)に対し誤って認識するサンニャーヴィパリータ(想顛倒)を断ち切ることができれば、サンカーラッカンダ(行蘊)などのルーパ(色法)とナーマ(名法)を断ち切ることができます。そうすることでのみサンサーラ(輪廻)の歯車の回転が止まり一切の苦しみから離れてニッバーナ(涅槃)に触れることができます。お釈迦様はこのことを私たちに伝えるためサハジャータパッチャヨー(倶生縁)を説かれました。
 アンニャーマンニャーパッチャヨー(相互縁)もサハジャータパッチャヨー(倶生縁)に似ています。両者の性質が大きく異なるということはありません。まだ初歩の段階なのでこのくらい憶えておけば十分だと思います。いずれ系統立てて学ぶ機会があれば明確に知ることができると思います。