去る人は追わず
榎本 今回は、瞑想を長く続ける人とすぐ辞めてしまう人のことを伺いたいのですが、職業柄、辞める人の理由が気になったりしているので、その辺を伺えればと思いました。
地橋 どう気になるのですか。
榎本 仏教は出世間を目指す教えですが、小説は、完璧な勝者や穢れのない聖者よりも、煩悩に負ける堕落した者、堕ちていく弱き者を描くことが多いので。
地橋 なるほど。私も若い頃は、滅びゆくものの美しさや敗者の美学、頽廃の美学に強く惹かれていた時期がありました。
榎本 先生は瞑想修行を開始する以前に、何年もデカダンスな生活をされていたとお聞きしていますが……。
地橋 幼少期からの苦しかった過去のすべてを破壊したい衝動が込み上がってきたのです。過度の期待で私に重圧をかけてきた大人たちにも自分自身にも復讐したいような、怒りや怨念が煮えたぎって、グレてやる、と自分を破滅させることに情熱を持っていました。
榎本 相手に直接怒りをぶつけずに自己破壊に向かったのはなぜですか?
地橋 周囲の大人たちの愛情も十二分に感じてきましたから、愛憎並立のジレンマで、負のエネルギーは自分自身にしか向けられなかったのです。
榎本 なるほど。
地橋 生きよ、堕ちよ、と暗い、愚かな青春でしたが、原始仏教の苦の真理を身をもって検証するのに必要な歳月だったと思っています。
榎本 そのへんの詳しい話を具体的に聞いてみたいとなんどか水を向けているのですが……。(笑)
地橋 (笑)。まあ、そのうち……とお茶を濁しながら、黙って消えていくのではないでしょうか。(笑) 過ぎ去ったことは淡々と見送っていく瞑想ですからね。
榎本 では、私も食い下がるのはやめて、瞑想を辞めていった人の話を伺おうと思います。
地橋 いや、そう言われても困ります。
榎本 どうしてですか。
地橋 情報が乏しくて話せないのです。辞めていった人たちのデータは私の手元に残りづらいのですよ。瞑想を教えはじめた当初から「去っていく人は追わない」と決めていたので、追跡調査のようなことは一切してきませんでした。
榎本 なぜ、そう決めたのですか。
地橋 熱心に教えた生徒さんには愛着や愛執が起きやすい。渇愛が苦の元凶と心得ていたので、最初からルール化して苦の因を避けようとしたのです。
榎本 なるほど。
地橋 煩悩というのものは根深くて、人の意志を簡単に突き崩すものです。手強いものに対しては、制度化やルール化しないと太刀打ちできません。戒律の意義もそこにあります。戒の強制力によって守られないと、煩悩にやられてしまうものです。
瞑想を辞めるのは……
榎本 瞑想を辞める人の理由を、僕なりに想像してみたんですが、まず、効果が実感できなかったので、というのがまず思い浮かびました。流行ものをちょっと体験してみたかっただけで、さほど必要としていなかった人はこの理由ですぐ辞めると思います。あとは、体力が続かないとか、瞑想している時間が停滞の時間のように思えるとか。あとは、瞑想が進むと、原始仏教の思想に触れざるを得ないのですが、その思想に心がついていけないとか。やっぱりお酒は飲みたいし、ゴキブリを見かけたら叩き潰さないと落ち着かない。また欲望を否定する原始仏教の思想は、向上心を否定されているようで受け容れられない……。
地橋 どれも的を射ているのではないですか。大別すると、興味本位でちょっと見に来た人と、原始仏教の教えが肌に合わない人ですね。
榎本 ええ、軽く覗きに来た人がすぐ辞めるのは当然といえば当然ですね。これはわかります。
地橋 瞑想の醍醐味を知るには、体調を整えたり、生活をそれなりに律していかなくてはならないので、本当は誰でも簡単にやれるものではないんですよ。瞑想は続かないものだ、というのが前提ですね。
榎本 なるほど。瞑想を続けるほうが例外的だと考えれば、辞める人の理由はあまり追わなくてもいいということになりますね。思いもよらない意見を頂戴しました。しかし、一日かそこらで辞めてしまう人は論外としましょう。だけど、ある程度までチャレンジしたのに、結局続かないで辞めてしまうのはなぜだと思いますか。
地橋 ヴィパッサナー瞑想は凄い! と感動して、怒涛のようにのめり込んできた人たちは、遅かれ早かれ辞めていきます。「集中豪雨型」のタイプは、ほぼ全員討ち死にですね。
榎本 「のめり込んだ」ということは、当初は手応えがあったということでしょうか。効果を感じたのに、どうして辞めたのでしょう?
地橋 思い込みが強いからだと思います。真正の瞑想体験をした人は長く続くものですが、仏教書やダンマトークなどに感動して、「これだ!これこそ自分が求めてきたものだ。これできっと救われる!」とのっけから夢中になるタイプは、まず辞めますね。
榎本 はじめた時に期待値が上がりすぎたのかな。
地橋 「一生やっていきます!」などと言い残して、それっきりの人もいますね。(笑)。 思い込みが強いタイプは、熱しやすく冷めやすいのです。一瞬にして目に金色のウロコを貼り付けてのめり込み、なにかで目からウロコが外れた瞬間、憑き物が落ちたように辞めていく。そうやって、同じ旅ガラスのパターンを繰り返しているんですね。
榎本 ということは知的理解が先行して体験が浅かったのかなあ。
美は、瞑想にあり
地橋 例外的に、集中豪雨型でも1年以上続いた人もいました。寡黙な人で、来し方を何も語りませんでしたが、暗い、裏の社会のようなところから来たらしく、どういう経緯でか朝カル講座を聞き始めて心底カルチャーショックを受けたようでした。私のあらゆる講座や瞑想会に皆勤賞で通いつめ、五戒を厳守し、生まれ変わったように別世界を生き始めた感じでしたが、陰陽の振れ幅が大きすぎたのか、ある日プツンと糸が切れたように姿を消し、その後の消息は杳として知られなくなりました。
榎本 いやあ、気になりますねえ、その人は。想像するに二つ考えられる。やはりストイックな生き方に無理があったので、元の世界に戻っていったか、それとも出家……?
地橋 汚れきった人にとっては、原始仏教のストイックな厳しさが魅惑的に見えたりするのですが、いったん辞めると反動で遊ぶ人が多いようです。熱心にやっていた女の人が続かなくて辞めていったのですが、偶然、駅の階段で見かけると、服装も化粧も派手な煩悩路線に一変し、瞑想会に初めて来たときとまったく同じ顔、同じ雰囲気にもどっていたのに鮮烈な印象を受けたことがありました。
榎本 すごい話だなあ。逆に、先生が修行の道に入ってから、荒れておられた日々の知人と出くわしたことなどはなかったのですか?
地橋 ありますよ。30歳で修行を始めて何年も経ったある日、デカダンス時代の知り合いにバッタリ再会したのですが、私の顔が変わっていて誰だかわからず、名告ってもしばらくポカンとしていたことがありました。
榎本 そう言えば、1Day合宿でよく顔を合わせるTさんは、以前は怒りのコントロールに苦しんで「キング・オブ・アンガーだった」と告白しておられますが、そのTさんが昔と今の免許証写真を見せてくれたときも心底驚きました。とても同一人物とは思えなくて……。
地橋 単発の瞑想会でも、疲れて薄汚れた顔で会場入りした人がダンマトークを聞き、不善心所の妄想を一日中見送り続けて帰る頃には皆、清々しいきれいな顔になっているものです。
瞑想病院
地橋 榎本さんは瞑想を始めて今どのくらいですか?
榎本 えーっと、3年半ですね。1Day合宿にも40回以上参加していますが、3~4回目に1-dayに出かけた時に、古参のスタッフのNさんに「よく続きますね」と意外そうな顔つきで言われたんです。どうやらすぐに辞めると思われていたらしいんです(笑)
地橋 私もすぐ辞めると思っていましたから。(笑) いちばん続かないタイプだろう、と。(笑)
榎本 まあ、僕も続けているのがちょっと不思議ではあります。瞑想が続かない人というのは、やはり効果が実感できないからでしょうか。
地橋 それが多いでしょうね。正確なやり方でヴィパッサナー瞑想を実践すれば必ず成果が得られることを私は知っていますが、よくわからないままやっていたり、曖昧なやり方をしていることに無自覚だったりすれば手ごたえがないし続かないでしょう。
榎本 正確なやり方を覚えようとする意欲は、モチベーションに比例するのでしょうね。
地橋 瞑想を始める人の大多数は、人生になんらかの苦を感じて、最初は自分の望むように外界の情況や相手を変えようとするが、それは無理だと覚った人たちですね。
榎本 外界は変えられない。ならば自分の心や認知を変えるしかない、ということですね。
地橋 そうです。瞑想は、願望実現や他人の心を変える念力ではなく、自分の心や考え方を浄らかな方向へ自己変革していくためのシステムです。
榎本 苦しみを乗り超えるためという切実な思いを抱えている人は、瞑想を正確に体得するまでがんばる。正確に実践すれば効果が検証できるが、適当にやって効果がない人はすぐ撤退するということですね。
地橋 人生苦を乗り超えたい人たちのモチベーションは強いので、必死でやります。仕事のストレス、深刻なトラウマ、親子関係や離婚問題、生き別れ死に別れの喪失の悲嘆などさまざまですが、苦が乗り超えられるまでは真剣ですね。
榎本 ということは、問題が解決し、苦を乗り超えてしまうと失速するんですか?
地橋 します。グリーンヒルが「瞑想病院」と呼ばれる所以ですね。病気が治れば、名残惜しそうにゆるやかに去っていくか、即日退院していきます。(笑) 「瞑想、スゴイ!」「仏教、素晴らしい!」と、ありがたくは思っているのですが、もうそれ以上、修行を続けるエネルギーが枯渇してしまうみたいですね。
榎本 しかし、撤退した人は、原始仏教の入口あたりでコースを変えたわけですね。当座の問題は解決し、病気は治ったけれど、瞑想は自分の人生のために続けるべきだとなんらか判断して残る人もおられると思います。実際に、僕の頭の中には、あの人はそうではないかと思い当たる人物が浮かんでいるのですが……。
地橋 もちろん、います。目先の人生苦の対処法などではなく、生きることの根本を見つめていこうとする智慧のタイプですね。
榎本 どのくらいの割合ですか? と訊きたくなりますが、病気が治った後も先生との接点がある人たちしか統計に表れないから、これは愚問でしょうか。
地橋 仏教は苦しみを無くすための教えですから、単発の苦をなくすために使い捨てにされても本望だと思っています。
瞑想を辞めてしまう
榎本 グリーンヒルに姿を見せなくなった人たちは、ひそかに瞑想を続けているのか、煩悩の世界にもどってしまうのか、どうなのでしょう。
地橋 データが乏しくて、わかりません。サティの瞑想をやらなくなっても、慈悲の瞑想だけは続けている人が多い感じはします。
榎本 慈悲の瞑想のほうがやりやすいし、効果の検証がしやすいということはあるかもしれませんね。そう考えると、瞑想は辞めてしまっても、仏教の学びは続けるという人もいそうですね。
地橋 仏教がどこまで腹落ちしたか、ですね。五戒を守ってさえいれば悪い人生にならないし、善行をして徳を積んでいれば良い人生になりますが、エゴと煩悩の世界に舞い戻った人は再発してまた瞑想病院に来たりします。(笑)
榎本 治った! さあ、遊ぶぞ! という人がまた患って入院ってことですか。(笑) 引っ越してグリーンヒルの道場には通えなくなったり、基本を体得したのでこれからは自分でやっていくという人たちもかなりいるのではないでしょうか。
地橋 だといいのですが、完全に辞めてしまっても、どうということはありません。
榎本 徒労だった、と思わないのですか。
地橋 昔は、使命感や達成感を感じながら仕事をしていましたが、今は、誰とも一期一会、ダンマを伝えた一瞬だけで十分ですね。
榎本 本気モードで受け取ったことが無になることはない。何かが心に残るはずだ。縁に触れれば再起動するだろう、ということですか。なんだか芸術作品みたいですね。
地橋 まあ、そうですね。万物は相関関係の宇宙網目に織り込まれていますからね。複雑系の因縁と条件が交差しながら、そういう出会いがあり、エネルギーの流れが転変していったということです。
後戻りしない……
榎本 ダンマを理解し、瞑想体験で検証もし、苦しみを乗り超えるご利益を得ても、そのあと瞑想を辞めてしまうケースもあるのですか。
地橋 あります。瞑想が定着するまでは大変ですが、辞めるのは実に簡単です。煩悩路線にもどるのも、一日中考えごとをしている世界にもどるのも、初期設定への原状回帰ですから、いとたやすきことなんです。
榎本 ふむ。飛び魚が水面上の世界をしばし垣間見ても、水中にもどればたちまち水の中にいることすら自覚されなくなる……と。
地橋 そこが泥水であっても、たちまち順応して居心地がよくなってしまうものです。たとえ解脱寸前まで行った人でも、欲の世界、煩悩の世界、エゴの世界に舞いもどります。
榎本 どうしたら後戻りしなくなるのでしょう。
地橋 条件しだいです。常にダンマの情報に触れていること。瞑想を捨ててしまうギリギリのところで瞑想会に足を運ぶこと。自分と同じかそれ以上の善き友、法友(カラヤナミッタ)との接触があること。もうひとつは、ドゥッカ(苦)を思い知ることです。
榎本 ドゥッカ(苦)を思い知るとは……どういうことでしょうか。
地橋 ブッダの瞑想は「苦・集・滅・道」の四聖諦です。苦の真理がわからなければ、次はありません。苦を熟知した人は、いつか必ずやり遂げていく道を歩みはじめます。
榎本 苦を感じなければ、苦から解脱しようとは思いませんね。では、人生が楽しいと思っている人はどうすればよいのでしょうか。
地橋 良いと思っているものを手放す人はおりません。人生がちっとも苦しくないのであれば、楽しく輪廻を続ければいいだろうということです。
榎本 「欲界」というのは、六門から入った情報を妄想で編集して楽しむ世界と定義されるそうですね。僕はこういう編集能力も生きるためには必要だと考えることがあります。苦の真理を心得ない凡夫は、妄想を楽しみながら生存を続けていなさい。「縁なき衆生は度しがたし」ということですか。
地橋 「縁なき衆生は度しがたし」というのは世俗の俚言であって、仏典のどこにも根拠は求められません。苦を苦と認識せず、楽しく輪廻を続けている者は法を聞く耳を持たないのだから、縁が熟すのを待つしかないというのが仏教の立場ですね。見放しているのではなく、機縁を待つのです。輪廻をくり返しながら、やがて痛切に苦を理解し、心底から解脱したいと道を求めた人のために仏教は存在しています。あるいは、さりげなく目からウロコを落としてあげて、苦から解脱する方向へそっと背中を押してあげる…。
ブレない人
榎本 「苦しいときの神頼み」と「喉元過ぎれば熱さを忘れる」のピストン運動を繰り返す人も少なくないというお話でしたが、苦の真理に触れてブレない人と、何が、どう違うのでしょうか。
地橋 苦の深刻さ、苦の経験の仕方、苦から学び取る智慧、ですね。今は昔のことですが、30代で癌になり、5年後の生存可能性25パーセントと宣告された人の瞑想に取り組む姿は鬼気迫るものがありました。10日間合宿に何度も入り、命懸けの修行をしました。打てば響くように、私のインストラクションに一発で答えを出しながら瞑想を進めていきました。
榎本 素直な方だったんですね。
地橋 その反対でした。傲慢で、ひねくれていたので、若くして癌になったような性格でした。この人は死ぬだろうという前提で面接していましたから、手加減なしの鬼の指導をしましたね。胃を全摘出していましたが、瞑想も内観も下座行も命懸けで修行した結果、考え方も生き方も別人のように変わり、完治しました。見事に社会復帰しましたが、この人のドゥッカ(苦)の理解は徹底していたので、ブレることなくその後も瞑想を続けました。ときどき大きな難問を抱えると遠方から上京し、インストラクションを受けていましたが、「君はもう自分で仏教的な問題解決ができるから、瞑想会に来なくていいよ」と言ったのを最後にアクセスが途絶えました。多分、今も瞑想を続けているだろうし、どんな苦に遭遇しても仏教的な発想で対処しているはずです。生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされると、人はあそこまで真剣に瞑想するのだと感慨を覚えた事例ですね。
パフォーマンス向上派
榎本 うーむ。そういう感動的な話のあとにお訊きするのは気が引けるのですが、パフォーマンス向上派についてもお尋ねさせてください。先生の本でも瞑想するとこういう効果があるよということは綴られています。おそらく、ご利益がないと人はなかなか瞑想などやらないだろうと思っておられるから、呼び水として語っておられることと思います。実際、パフォーマンス向上の効果があるからこそ、合理的に再編成したマインドフルネスという形で企業に取り入れられています。けれども先生は、そういうご利益はあるよと語られながらも、常に「それがどうした」という結構意地悪な一言をつけ加えられることが多いですよね(笑)。これはおそらく、パフォーマンス向上自体は原始仏教の教えとはあまり関係のないことである、と示唆するためではと想像しているのですが、その辺はいかがでしょうか。
地橋 瞑想のシステム上、修行すれば必ず脳内環境が整っていくし、集中力もストレス対処法も自己客観視もパワーアップします。前よりも仕事ができるようになるし、収入も増えるだろうし、出世もするでしょう。そのような状態になることと、幸福度が上がるのは別のことだと仏教は考えています。
榎本 でもそれらは、金がない、仕事ができない、昇進できない、などと対比すれば、やはり幸福のイメージとして説得力はありますよね。
地橋 執着が深くなれば苦しくなる、渇愛が苦の元凶、と仏教は考えています。いくら金があっても、昇進しても、もっと欲しい…という不満足感があるかぎり、苦しい人生です。どれほど良い立ち位置にいても、さらに上位と比べれば、醜い嫉妬や劣等感に苛まれます。上から目線で傲慢になれば顰蹙を買う人もいるでしょう。足し算の幸福原理は苦しい人生に向かっているのですよ。パフォーマンスが向上して何やね。能力開発したから、それがどうした……と言いたくなるわけです。
榎本 しつこいようですが、パフォーマンス向上派であっても、長く続ける人もいるでしょうか。
地橋 足し算の幸福原理を進めていこうとすれば、どこかで仏教の根本思想と衝突します。ここが分水嶺ですね。煩悩と執着の引き算の思想を受け容れられなければ、ブッダの瞑想からは撤退するでしょう。瞑想を辞めるか、続けるとしたらマインドフルネス瞑想に流れていくしかないでしょう。
死の不安
榎本 すこし前にもどって、瞑想が続くか否かは条件しだいということですが、瞑想会に来なくなり、法友もいない人が「独り犀の角のように」瞑想を続けることはありませんか?
地橋 ときどきそういう人がいて驚かされることがあります。
榎本 いるんですね。ほお。どんな人ですか。
地橋 初心者講習で、最初から完璧に瞑想ができる人はほぼ皆無なのですが、ある日、微調整すら不要の、完璧な歩く瞑想をしていた人がいて驚いたことがありました。訊けば、二十歳のころ一度だけ私の瞑想会に参加し、それ以来20年間、たった独りで修行を続けてきたというのです。食事会での鋭い質問から、彼の修行レベルの高さも推測されました。なぜ瞑想が持続できたのか、突っ込みを入れると、死の不安を乗り超えたかったのだというのです。
榎本 うむう……。
地橋 この方は若い人でしたが、もっと年配の方で同じモチベーションの維持の仕方をしていた人もいます。外界の力を借りずに、何十年も黙々と独りで瞑想を続けてきたのは、死の不安を克服するために瞑想が不可欠だったと述懐していました。幼少期から死の問題に苦悩し、やっと瞑想という対処法が得られたので辞められるはずもないと言ってました。
榎本 生きる苦しみ、死ぬ苦しみ、苦の経験の仕方は千差万別ですが、やはり苦諦がヴィパッサナー瞑想の出発点のようですね。僕も、一切皆苦の世界に、慈悲の光が射し込むような表現を目指したいと思いましたが、いまよりさらに売れない気もします(苦笑)。今回もありがとうございました。(完)