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月刊サティ!|ヴィパッサナー瞑想協会(グリーンヒルWeb会)

巻頭ダンマトーク

休載

次回にご期待ください。

ヴィパッサナー瞑想をやってみたら―瞑想で訪れた人生の転機(Web会だより 改め)

【寺女になりました】(タイ森林僧院滞在記) なな(筆者名)

 寺女

 2023年12月から2024年1月、タイの森林僧院に約3週間滞在した。
 先生と法友Iさんは沈黙行で過ごしていた。私が話せる相手は、寺の副住職をなさっている日本人のアチャン(先生)やタイ語しか話せない寺男ラーさんとお寺に住んでいる在家のおばあちゃん(ドンさん)のみ。出家した比丘は、馴れ馴れしく接してはならない存在だ。特に女性が触れることは固く禁じられている。滞在中、副住職のアチャンと話したのも数回のみ。
 先生からは、何をしていいかわからなくなったら寺男ラーさんの手伝いをすればよいと言われていた。コミュニケーションを取るためにポケトーク(音声の翻訳機)は必須アイテムとなるはずだとアドバイスをもらった。9000円で買ったポケトークは実際本当に役に立った。
 ラーさんから、私の名前は言いにくいから他に呼びやすいニックネームをつけようと言われ、「なな」という呼び名をつけてもらった。タイでは、本名の他にニックネームで呼ばれることはよくあることらしい。
 アチャンからは「比丘の生活は多くの戒律が定められているが、あなたは在家修行者なので自由にやってもらってかまいません」と言われて、なんだかほっとした。滞在中、とてもリラックスして過ごすことができたのも、この言葉のお陰だ。
 お寺から頂ける食事は朝ごはんの1回だけ。私は、この朝ごはんの準備を毎日手伝おうと思った。
 毎朝、比丘は5時半から托鉢に出かける。お寺に戻ってくるのは7時半頃。8時から食堂で朝食がスタートする。私は寺女見習いとして、7時半には台所に行って果物の皮むきをしたり、ホットサンドを作ったりした。その時間、ラーさんやドンさんは、托鉢で布施された野菜を茹でたりして大忙しだ。ゆったりとした時間が流れる森林僧院に少しだけ緊張感が漂うのは、この朝食準備の時だ。
 食材や日用品などの買い出しなどにもついて行った。

 気持ちの良い瞑想体験

 地橋先生のもとに通い始め10年以上過ぎた。通い始めの頃は先生に「瞑想とお掃除がしたくありません」と恥ずかしげもなくレポートしていた。瞑想会に通う前は、15年間ほど毎晩泥酔するまでお酒を飲み続けていた。瞑想とは程遠い暮らしだった。
 その頃から私がグリーンヒルに留まる理由は、ただ先生の法話を聞くためだった。長年、法話を繰り返し聞いていると、考える癖が少しずつ変化し、ネガティブな出来事に対する自分の反応が変わっていくのを実感した。さらに内観やロールレタリングなどの心の反応系の修行をして、自分を厳しく責める癖が知らず知らずのうちに弱まっていき、どんどん生きやすくなっていった。その心の変化と先生・法友とつながっている状態にとても満足していた。
 時々先生が「とにかく良い瞑想体験をすることが大切です」と言っていたが、瞑想自体できない私にそのような体験ができるわけないと、ほとんど諦めていた。自宅ではまったく瞑想ができず、カルチャースクールの教室や瞑想会の会場でしか瞑想をしていなかった。その頃は静かに座ると心がザワつき、次から次へと妄想が湧きあがり瞑想することができなかった。
 次第に、少しずつ自分自身への嫌悪感が軽減すると、瞑想すること自体への嫌悪感も軽くなっていった。ここ数年は、痛みの観察と妄想だらけの瞑想ができるようになり、時折ニミッタも現れるようにもなっていたのだが、気持ちの良い瞑想体験はしたことはなかった。さほど熱心に取り組んでもいなかったが、これが森林僧院を訪れる前の私の状態だった。
 お寺で初めて迎えた朝、本堂に残ってIさんと座る瞑想をしていたら、今まで経験したことのない気持ちの良い状態となった。静かに座っている間、聞こえてくるのは御堂の屋根の尖塔に無数についている風鐸(風鈴)の響き。シャンシャン、チリリン、シャンシャン、リンリン、チリリン、チリン…、風が吹くとさまざまな音階で鳴り、その音色が心地よく堂内に響き渡る。さらに陽がのぼりはじめると名も知れぬ南国の鳥が信じられないほど美しく鳴き始める。明け方は少し肌寒いのだが、上着を着こんだおかげで丁度よい体感である。隣には、法友がいて不安感がまったく無い。本当に全ての条件が整った。気がついたら1時間半以上、気持ちよくサティを入れながら瞑想をすることができた。瞑想を終えたのは、寺男ラーさんが運転する車が境内に入ってきた音を聞いた時だ。日本では、足を組んで30分もすると痛みが出始め、最後は痛みの観察で瞑想を終えるのが常だったのだが、この時は瞑想を続けるのに努力がまったく必要なく、中断するのが残念であった。このような体験をいきなり経験した。
 この経験から思ったことは、経験する全ての現象はカルマの結果生起するのだということだ。日本ではまったく瞑想できなかった私が、あのような素晴らしい瞑想体験を森林僧院到着直後にすることができたのは、ここ数年、瞑想会でスタッフを務め、瞑想者の手助けをしてきたカルマのお陰としか考えられなかった。これからもただ「諸悪莫作、衆善奉行」を愚直に続けていけば良いのだ、という思いがストンと腹に落ちた。
 また、隣で瞑想していた法友の存在はとても大きかった。そもそも彼女がいなければこの寺を訪れることもなかった。初日以降も、彼女の隣に座っていると、本当に気持ちの良い瞑想を何回も経験することができた。そばにいる人から大きな影響を受けているのだということをこれほど実感することはなかった。ブッダが説かれた、善き法友が得られないならば、犀の角のようにただ独り歩め、という言葉の重みを感じた。
 先生も私の瞑想修行が進むように祈っていてくれていた。先生の祈りの力と法友の影響力…この両輪のお陰で、私の瞑想修行が進んだと心から感謝をしている。

 クーティ

 森林僧院に到着した時、アチャンがお寺の中を案内してくれた。私たちが暮らすことになる「クーティ」という独居房を紹介してくれた。想像していたよりもとても綺麗でびっくりした。嬉しい誤算だ。クーティは比較的新しく建設されたもので3軒並んでいた。
 周囲は林でとても静かだ。名も知らぬ鳥のさえずりや虫の鳴き声に満ち、風が吹くと、少し離れた白い本堂の風鐸の音が響いてくる。心底リラックスできる場だと思った。「ここは天国か」と思わずつぶやいた。
 アチャンから、これらのクーティは全てお布施で建設されたと聞いた。グリーンヒルから寄せられたお布施がかなりの比重を占めているとのことだった。ブッダ、その教えを伝え続けてくれた比丘の方々、そして仏教を支え続けてくれた方々、このお寺を建立し・支え続けてくれたカレン族の人々、そしてお寺にお布施してくれた多くの人々に対する感謝の気持ちが溢れ出た。

 一日の流れ

4:00〜5:00頃 起床・ストレッチ・暖かい飲み物を飲む
5:00〜5:30 本堂に行って比丘と共に読経
5:30〜7:00過ぎ頃 本堂にて瞑想
7:30〜8:00 朝食の準備(フルーツのカット、ホットサンド作りなど)
8:00〜8:30 食堂にて朝食をもらう
8:40〜 クーティで朝食
洗濯
瞑想
掃除(外の掃き掃除、お堂の掃除)
18:00頃 クーティの扉を閉める
夕食
21:00頃 就寝

 朝8時の朝食以外は、特に何時に何をしなければならないという決まりはない。自由に一日を過ごした。
 結婚し、子育てしながら、いつも誰かのために何かをしなければならない生活を30年近く送ってきた私にとって、この何も決まりがない生活は自由であり、孤独でもあった。何もしなくてよい生活、外部からの情報がほとんどない生活に、最初はとまどいを感じたのだが、徐々にお寺に流れるゆったりした時間に慣れていった。帰国してからとてもなつかしく思い出されるのはあの時間の流れだ。

 元気な生き物たち

 お寺生活で一番困ったことは虫、特にアリに対しては何度も絶望感を味わった。到着した日から、部屋やシャワールームの壁にアリが歩き回っているのが気になった。ある時はベッドで昼寝をして起きたら服に10匹くらいアリが背中を歩きまわっていた。また、いくつか食べ残したもみじ饅頭をトランクに一晩入れていたら完全個包装されていないお菓子がアリで真っ黒になっていた。それを見た時は本当にげっそりした。即座にもみじ饅頭のビニール袋を外して森の中に投げ入れた。後日、トイレの水汲み用に置いてある大きなバケツを動かしたところ、大量のアリが隠れていた。バケツの底がアリの巣になっていたようだ。浴室の床面がアリで真っ黒になってしまった。ここでも、また、気を失いそうになった。殺さないように、ほうきで排水溝に掃き出した。
 アリの忌避剤として赤ちゃん用のシッカロールが有効だと教えてもらった。寺男ラーさんに買ってきてもらい、クーティの周りやトイレ・浴室の床にまいて、やっとアリに悩まされなくなった。
 アリの他には、寒い季節だというのに日中は蚊に何度か刺された。家を出入りする時は中に入らないように細心の注意を払った。入り口付近に、日本から持参した蚊を殺さない蚊遣り線香を一日中ずっと焚いた。虫除けスプレーも役立った。
 「ゲッコー」というヤモリは、毎晩屋根裏でドンドンと足音を立てて歩き回っていた。その足音に最初はびっくりしてすぐに寝ることができなかったほどだ。しかし、その音にもすぐに慣れた。
 サソリも出ると聞いていたが、滞在中一度も目にすることはなかった。

 慈悲の言葉

 毎朝、お堂でお経を読んでいた。アチャンが日本語・パーリ語の冊子を用意してくれたお陰で意味を理解しながら一緒に読むことができた。そこで出会ったのが「Metta(慈しみの言葉)」の言葉だ。

 Metta(慈しみのことば)

 私が幸福でありますように
 私に苦しみがありませんように
 私に怨みがありませんように
 私に怒りがありませんように
 私に悩みがありませんように
 私の幸福が守られますように

 すべての命あるものが幸福でありますように
 すべての命あるものに怨みがありませんように
 すべての命あるものに怒りがありませんように
 すべての命あるものに悩みがありませんように
 すべての命あるものの幸福が守られますように
 すべての命あるものが、一切の苦しみから解き放たれますように
 すべての命あるものの、その得たるものの失われることがありませんように

 自己の業(kamma行為、作用)を持つ、すべての命あるものは自らそれを引き継ぐものである
 業を因(yoni原因、生まれ)として、業を縁者(bandhu付き従う者)として、業を拠り所として…
 すべての命あるものはその、為すであろう事柄が、善であろうと、悪であろうと、自らそれを引き継ぎ、その果を引き受けて行くのである

 日本で唱えていた「慈悲の瞑想」とまったく異なる。「私に悟りの光が現れますように」などの文言はない。ただ、自分と命ある者の幸せを願う。そして、私たちは業の結果を受け取るのみであると断言する。最初は冷徹な印象を受けたのだが、毎朝読経しているうちに段々と心にしみこんできた。他者を救おうなんておこがましいことなんだと思った。どんなに大切な人でもそれぞれ引き継いできた業の結果を受け取って生きるしかない。家族だから、こうなってほしい、ああなってほしいと願っても、私にはどうにもならないのだ。各自が業の結果を受けるのを傍でただ見守るしかない。遠い異国の地で、家族を想い、タイの慈悲の言葉に出会い「捨」の心を教えてもらった気がした。成人した子ども達への執着心が少しだけ薄まった気がした。

 お寺での修行に関するあれこれ

★比丘の方々に対して
 様々な戒律を守らなければならない。たくさんある戒律のうちで滞在中に聞いたものは以下の通り:
・女性と部屋に一緒にいてはならない。同室になってしまった場合は必ずドアを開ける。(車に女性と同乗する場合も横並びに座ってはならない。)
★お寺で修行する人の服装:上下白。
★お寺の敷地内は走ってはならない。
★沈黙行の間は何も希望してはならない。ただ、与えられたものを受けるのみ。

 お寺のサウナ

 お寺には比丘が手作りしたサウナがある。薬草を大きな炉で煮出してその蒸気を小屋にためたスチームサウナだ。週に一回程度、サウナで体を温める日があった。私も比丘の方々が入った後にサウナを体験させてもらった。薬草の爽やかな香りが漂うスチームサウナだった。15分くらい入っていたら汗だくになった。
 南国なのだが、滞在したのは比較的寒い季節で朝晩は冷えた。あったかいお風呂もないお寺生活で、体の芯まであったまることができた。
 アチャンから伺ったところによると、ブッダの時代からこのサウナは存在していたそうだ。
 お坊さんの健康には必要不可欠なものだと実感した。

 お料理

 お正月をはさんでお寺に滞在した。冷蔵庫にお餅が冷蔵されているとアチャンが教えてくれた。せっかくなのでお汁粉を作ることにした。ラーさんに周辺のお店に連れていってもらったが小豆は売っていなかった。仕方がないのでレッドキドニービーンズで代用してお汁粉を作った。
 二度作った。一度目はラーさんの家で奥さんが柔らかく煮てくれた。それを使って美味しいお汁粉もどきができた。豆をつぶしたらお汁粉の様だった。
 二度目は豆から煮たのだが、なかなか柔らかく煮えなかったが、なんとか食べられるレベルまで柔らかく煮て、前回同様砂糖をいれてつぶしてお汁粉もどきにしようとしたのだが、あまり上手くできなかった。
 大豆の煮物も作った。豆は柔らかくなるまで何時間も煮なければならなかった。お寺の調理はプロパンガスだったので、途中、買い替えなければならなかった。
 ラーさんは買ってきたプロパンガスを器用にくるくると回しながら運んで交換していた。高齢なラーさんに重労働させてしまって申し訳ないと思った。
 あとは毎朝チーズホットサンドをホットサンドメーカーで作った。チーズは現地では高級品で、珍しいのか毎食比丘の方々がお皿から取ってくださった。
 南国の名前もわからないフルーツの皮むきをしたり、カットしたりしてお皿に並べた。
 楽しい修行だった。

 落ち葉掃き

 訪れた季節が比較的寒い季節だったせいか、風が吹くとハラハラと枯れ葉が落ちてきた。一瞬掃き浄められた道が、すぐに枯れ葉だらけになってしまう。
 気が向いた時に落ち葉掃きをした。これが、本当に勉強になった。掃けども掃けども、枯れ葉が舞い続ける。一瞬綺麗になったとしても、次の瞬間、枯れ葉が落ちてくる。自分がやった仕事(=掃き掃除)の痕跡がすぐに消え失せる。
 無常について、枯れ葉が教えてくれた。
 朝からずーっと落ち葉掃きをしている比丘が居た。彼はただ一心に掃き掃除をしていた。その姿は今でも心に焼きついている。彼はどんな心境で一日掃き掃除をしていたのだろうか…。

 支える力

 滞在最終日近くに沈黙行を終えたIさんと共にカレン族の村に托鉢する比丘たちの様子を見学させてもらった。
 5時半に読経を終えると比丘たちは、1時間かけてカレン族の住む村まで裸足で歩いて行く。Iさんと私は時間をおいて、車で送ってもらった。
 初めて見るカレン族の村は、何十年も前の日本の田舎のような風景だった。各家には大きな雨水をためるカメが設置されていた。
 建物は強風が吹いたら倒れてしまうような簡素な木造住宅が多かった。
 タイで最も貧しい少数民族・カレン族の人々が、托鉢に訪れた比丘達に食べ物や飲み物をお布施している姿を目の当たりにして、心から感動した。
 彼らのような存在が、原始仏教を支えてきた。仏陀の教えを長らく伝えてきた比丘を支えてきた在家信者に対する深い感謝の念がわきあがった。
 今回、お寺で生活してみて、とても感心したのが寺男ラーさんの働きぶりだ。早朝からラーさんの奥さんが食事の準備をし、その料理が入った鍋などを車に積み込み、托鉢に出かけた比丘を車で迎えに行く。お寺に着いたら、托鉢でもらった野菜を茹でたりして朝食の準備もする。日中はお寺の掃除やお買い物など、夕方まで本当によく働いている。大晦日、お正月なども休みなく献身的に働いていた。ラーさんに「いつお休みされるのですか?」と質問したら「死ぬ時だ」と返ってきた。ラーさんのような人に出会えたことも大きな収穫だった。

 最後に

 さして熱心な修行者でもない私が、タイの森林僧院を訪れることができたのは、法友のIさんに声をかけていただいたお陰だ。
 そもそも地橋先生が教えてくれなかったら、このような寺の存在すら知らなかっただろう。
 今回の滞在記は、お寺にいた時から先生に「寺女修行日記、書いてくださいね。楽しみにしていますよ」と言われていた。そう、言われた時から「書きたくない」と思っていた。なぜならば、そのとき感じていた幸福、森林僧院の持つ『場の力』と清浄な雰囲気など、とても言葉に変換できる気がしなかったからだ。「天国のよう」とか「本当に幸せ」など…陳腐な使い古された言葉しか浮かばない。諦めの境地でこの文章を書いている。
 今回の体験を言葉に変換することであの体験が色褪せてしまうことを恐れた。
 サン・テグジュペリの「星の王子さま」で王子様が『大切なものは目に見えない』と語るくだりがある。今回、思ったのは『大切なものは言葉にできない』だ。
 今でも、お寺で得た大切なものは、心の中に星のように輝いている。森林僧院滞在後の私は何かが変わった。それは、「慈悲の言葉」から学んだ捨の心、本堂で経験した気持ちの良い瞑想体験、枯れ葉掃除で感じた無常、貧しいながらもお布施を続けるカレン族の人々の心意気、熱心に修行する比丘・先生・法友の美しい姿に触れることができたからなのか…。
 この世界にこのようなお寺が実際にあると知ることができただけでもこの世に生まれてきて良かった。

季節の写真

秘境の池

秘境の池

五行川乱流@下館道場

今日のひと言

2026年4月号

(1)
★妻と息子夫婦と孫娘が一瞬にして津波に呑まれ、ただ独り生き残ってしまった消防団の老人が泣き崩れた。
 20歳になった孫娘の親友が訪ねてくれたので笑顔で迎えたが、突然、抑えがたく激しく嗚咽した。
 9年の歳月が流れても、悲嘆は癒えないのだ。
 愛する者への執着が深ければ、孤独地獄は耐えがたく、豊かな孤独は至難の業……。
……………………
(2)
★わびしい孤独、物欲しそうな孤独、怒りに満ちた孤独、ひねくれた孤独、哀れな孤独……。
 悠然とした孤独、優しさも信頼も安心も十分に得てきた孤独、豊かな孤独、自己完結した孤独……。
 自らの中に顕わになる法(ダンマ)のみを拠りどころにした孤独……。
……………………
(3)
★欲望を刺激し、怒りのエネルギーでヤル気を駆り立て、バカ騒ぎをしては、この世を楽しむ。
 そんな貪瞋痴の世界に逆らい、孤独に自己を客観視する瞑想修行……。
 物理的な孤独には耐えられても、自分に向き合い続けるのは至難の業だ。
 他人を、外界を、ネットの世界を眺めたい、見物したい、バーチャルな情報の濁流に呑み込まれ、押し流され、溺れたい……。
……………………
(4)
★愛する家族、財産、地位、名誉があれば、反射的に守ろうとして、エゴ的反応が起きやすい。
 家族を持たず、野望も、不満も、守るものも、失うものもなければ、怖れるものがない。
 未だに道を極められないドゥッカ(苦)は続くが、生じてきた優しい気持ちは、不特定多数への慈悲の瞑想に昇華されていく……。
……………………
(5)
★人と交わり集団で生き延びてきた人類は、本能的に孤立や孤独を嫌う。
 しかるに、感染症の猛威に緊急事態宣言が発動し、人流が止められ、巣籠もりせよ、孤立しろ、と強いられてきた。
 起きたことは全て正しいのであれば、出歩かず、自宅に隠棲し、ひたすら瞑想せよ、という天の声と解釈すべきだろうか。
 雨が降ろうが槍が降ろうが、樹の下で、廃屋で、瞑想せよ、群れるな、と説き続けたブッダ・・・。

瞑想 山小屋だより

温泉と瞑想

温泉と瞑想

八ヶ岳は火山である。それも活火山であるらしい。知らなかった。
浅間山や阿蘇山、桜島のように煙を上げてはないし、山頂にカルデラ湖を持っているわけでもない。なので、なんとなく火山ではないと思い込んでいた。それにしては温泉がたくさんあるなと思って調べてみたところ、立派な活火山であったのだ。

八ヶ岳、正しくは八ヶ岳連峰は、夏沢峠を境に北八ヶ岳と南八ヶ岳に分かれ、北の方が比較的新しい年代に噴火している。硫黄を含む温泉があるのはこの火山活動の影響だろうか。
私が住んでいるのは八ヶ岳南麓。こちらの泉質は、中性のナトリウム-炭酸水素塩泉だ。匂いは無くとろみのある湯である。行きつけの温泉は噴出温度39℃で、少しぬるいかなという程度。露天風呂だとさらにぬるい。夏は良いけれど冬場はもう少ししっかり温まりたい。

私は自宅の風呂場を使っていない。寒いからである。

前回も書いたが、北側にある風呂場は冷蔵庫を通り越して冷凍庫だ。おまけに追い焚き機能が無い。
真冬に凍りつくので、むしろ不便だとか、水抜きが面倒とか、購入する際に説明されたのだが、よく分からなかった。とにかくお湯を張ってもすぐ冷める。風呂場が寒い。床が冷たい。二人で使うとなると、後で入る方は熱い湯をたっぷり足さないといけない。
出たら出たで、脱衣所で震え上がりながら着替えねばならない。水道の蛇口を少しだけ開けてチョロチョロと水を流しておくのだが、それも朝には凍っている。湯を張ったままにしておいたら、おそらく朝には氷が張っているだろう。破裂しないだけありがたいと思うことにしている。

そういうわけで、毎日近所の温泉に通っている。
住民票を移して地元の北杜市民になったので入浴料が半額なのがありがたい。毎日通えば受付の人とも顔馴染みとなり、お風呂仲間もできて、「どこそこで熊を見かけた」などという情報ももらえる。

観光シーズンではない冬場の温泉は空いている。広い湯殿にひとりだけということもある。そういう時はたっぷり1時間の瞑想タイムとなる。
1Day合宿での食事の瞑想の要領で、ひとつひとつの動作や感覚にSatiを入れていく。移動するときの足の裏の感覚もていねいに取っていく。露天風呂に出た時の空気の感覚、岩場の感触、サウナでの熱感、温泉でしか得られない感覚があるのが新鮮だ。
温泉に浸かれば、瞑想をしない人でもそうだと思うが、心の奥から色々なものが浮かび上がってくる。過去の失敗や後悔、微細な怒り、そういうものも受け止めて、言語化し、捨て去る。実にいい時間だ。

だが、問題もある。快と不快を比べると不快の方が鋭いSatiになる。

例えば歯医者さんの椅子の上で、キーンという音を聞きながら、「不安」「接触」「痛み」「安堵」とやっている時の切実な集中、精度と比べると明らかに鋭敏さには欠ける。
座る瞑想で、膝のジンジンする痛みを見ている時は、それ以外に意識の逸れようが無いのだが、温泉に浸って心地よさを感じ、心身ともにリラックスしている時のSatiは、鋭さに欠ける。少なくとも私はそう感じる。

今までの人生の中で、耐えられない程の悲嘆、逃げられない人間関係の苦しみ、そのまっ只中にいる時の方がかえって瞑想に真剣になれた。
今は持戒や布施のおかげか、ほとんどの苦から解放されたような毎日を送れているのだが、私に瞑想を続けさせてくれるのはかつて深く刻まれた苦の記憶だと思われてならない。そうなると、苦に襲われ続ける人生の方が実は素晴らしい人生で、苦痛の無い人生とはろくでもない、ということになりはしないか?
瞑想を始める契機となるのは、今の苦しみから逃れたいからという人が多いのに、これはまるで本末転倒ではないか。

できるなら苦に襲われることなく、安穏な生活を送りたいものである。
だがもしまた苦しみがやってくるなら、それも「ありがたい修行の機会」と喜んで受けて立ちたいと思う。

熊も鹿も入りに来るという、傷が癒える湯に浸かりながら、「生きとし生けるもの」のひとりとなって大地の恩恵をいただく日々である。

ダンマ写真

グリーンヒル道場庭の涅槃仏

サンガの言葉

【初学者でもよくわかる二十四縁起】第4回 モートゥ(マンダレー在住)著

●不善なヘートゥ(因)の反対
 アローバ(不貪)、アドーサ(不瞋)、アモーハ(不痴)の三つが善なるヘートゥ(因)です。アローバ(不貪)はローバ(貪)の反対です。アドーサ(不瞋)がドーサ(瞋)の反対です。そしてアモーハ(不痴)がモーハ(痴)の反対です。

 

●欲しいと思わない時はその都度アローバ(不貪)になりますか?
 欲しいと思わないことだけをアローバ(不貪)とは呼びません。アローバ(不貪)と言うのはローバ(貪)を追い払う力を持っています。人が眠りについている間は欲しいと言う心は生じません。寝ている間に欲しいという心が生じないことはアローバ(不貪)とはみなしません。ローバ(貪)を追い払いその結果として欲しいと言う心が無くなればそれはアローバ(不貪)とみなすことができます。
 不正な方法で奪い取れば必ず手に入れることができます。けれども業と業の結果を考えて不正な方法で奪い取ることはしません。合法的に手に入れたものだけを手にします。不正な方法で自分の物を奪われることを嫌い、他人の物を不正な方法で奪い取ることもしません。合法的に手に入れるようにします。合法的に手に入れることができない場合でも不正な方法で奪い取ることはしません。アローバ(不貪)とはこうした性質を意味します。
 他の人々のためになるように、尊く喜ばしい対象に布施をします。アローバ(不貪)とはこのような状態を示しています。

 

●ドーサ(瞋)が生じなければその度ごとにアドーサ(不瞋)が生じていると言うのは正しいですか、誤りですか?
 ドーサ(瞋)が生じないことだけをアドーサ(不瞋)とは呼びません。アドーサ(不瞋)と言うのはドーサ(瞋)を追い払うことができる力、能力が含まれています。寝ている時、普通に過ごしている時にはドーサ(瞋)は生じません。そのようなドーサ(瞋)の無い状態をアドーサ(不瞋)とは言いません。苦しめたり、憎んだりする状態になっても苦しませない、憎まないことをアドーサ(不瞋)と言います。誰かが被害を受けたり、苦しんだりすることを喜ばず、望みもしません。相手が健やかで豊かであることを望みます。
 アドーサ(不瞋)と言うのはそのような状態を指します。元気で幸せでありますようにと口から唱えても心の中で憎んだり嫌ったりするとしたらそれはアドーサ(不瞋)でもメッター(慈)でもありません。そのように取り繕っているだけです。

 

●アモーハ(不痴)を生じさせるためには
 自分自身の知識、智慧で正誤を区別吟味して知ることをアモーハ(不痴)と言います。
 そのように知るためには善い知人が必要です。優れた書籍を読み、学ぶことが必要です。
 そのようにすればやがて自分の智慧で正誤を吟味し理解することができるようになります。
 善いことをすれば善い結果を、善くないことをすれば善くない結果を得るという、業と業の結果を知り、観察し、理解し、大切な物、気に入っている物を分け与え、施し、布施します。与え、施し、布施をする時、私が与え、施し、布施したことで彼らの身体が元気で幸せでありますように、彼らの心が元気で幸せでありますように、困難を乗り越えることができますようにと、メッター(慈)の心で布施します。
 善いことをすれば善いことが起こり、善くないことをすれば善くないことが起きると知り、観察し、理解するのは八正道の正見(サンマーディッティ)です。八正道の正見はパンニャー(智慧)という心所(心と同時に生じて滅し、心と同じ対象を取り、心を修飾する法)です。アモーハ(不痴)というのは正誤を区別して知り、観察することです。正誤を区別して知り、観察するのは智慧(パンニャー)という心所です。善いことをすれば善いことが起こると知り、観察し、理解すれば、モーハ(痴)が消え去り、アモーハ(不痴)が生じています。アモーハ(不痴)という智慧のヘートゥ(根)が強力になっています。

 

●アローバ(不貪)が現れて、ローバ(貪)が消える
 大切なもの、気に入っている物を手放し、布施するのがアローバ(不貪)です。ローバ(貪)という、対象に執着する心を追い払い、手放して、布施します。ローバ(貪)が消え去り、アローバ(不貪)が現れています。アローバ(不貪)と言う根が出てきています。

 

●アドーサ(不瞋)が現れて、ドーサ(瞋)が消える
 他の人が不自由なく過ごせるようにと願う心、良心はメッター(慈)という心所です。
 アドーサ(不瞋)もメッター(慈)という心所です。ドーサ(瞋)が消え、アドーサ(不瞋)が現れています。アドーサ(不瞋)と言う根が出てきています。

 

●原因と結果
 アローバ(不貪)が根を出し、強力になると、他の人に対し不正なこと道徳に反することはしたくない、いかなる場合でも不正、不道徳に関わりたくないと言う心が生じます。
 大切なもの、気に入っている物を、他の人のために手放し、施すことができます。アローバ(不貪)が原因です。他の人に対し不正なこと道徳に反することはせず、不正、不道徳に関わりたくないと言う心が生じ、他の人が不自由なく暮らせるように大切なもの、気に入っている物を手ばなし施すことができるのが結果です。
 この結果が増大するように、しっかりと長続きするようにしている原因は何かと言うと、水を吸い上げる根のようなアローバ(不貪)です。「ヘートゥパッチャヨ―(因縁):結果に関連する対象に心がしっかりと留まるように、水を吸い上げる根のごとく作用する法」と言うのはこのような性質、法を示しています。アドーサ(不瞋)、アモーハ(不痴)、も同じように憶えて理解して下さい。

 

●罪とその結果
 ローバ(貪)、ドーサ(瞋)、モーハ(痴)と言う毒の根が強力になると、関連する色法(身体)、名法(心)も強力になり、その後の生で四悪趣(地獄、動物、餓鬼、阿修羅)に落ちてしまう可能性があります。アローバ(不貪)、アドーサ(不瞋)、アモーハ(不痴)という根が強力になると、最低でも人間界、天界、その上であれば梵天界、最高で涅槃に触れることができます。

 

●注意すべき点
 毒のある木から出る毒のあるその根をこそぎ落さなければ、毒のある木、毒のある枝、毒のある葉、毒のある花、毒のある蕾が生い茂ってたわわに実をつけるように、ローバ(貪)、ドーサ(瞋)、モーハ(痴)と言う、毒のある根をこそぎ落さなければ五蘊(色受想行識)色法(心)、名法(物質としての身体)という毒のある木の花が咲き、たわわに身をつけます。それが怖ければローバ(貪)、ドーサ(瞋)、モーハ(痴)という、毒のある根を掘り出してこそぎ落とし捨て去る必要があります。
 皆さんが自分の中にあるローバ(貪)、ドーサ(瞋)、モーハ(痴)という毒のある根を掘り出してこそぎ落とし捨て去ることが出来ますように。