今月の「私の瞑想体験」は長い。原稿をいただいた時に、その長さから、切りどころを探しつつ読み始めたのですが、読んでいるうちにどんどん引き込まれ、これはまとめて掲載した方が面白いと判断して、そのようにいたしました。瞑想に出会うことで人生に転換期を得た人の率直な語りを味わっていただきたいと思います。(編集長)
「生きるのが楽になってきました」
ペンネーム: 滅
これが、瞑想をしてきた、今の率直な感想です。生活していても、仕事をしていても、随分と楽に過ごせるようになってきました。このたび、瞑想体験を書かせていただく機会を頂けたことに、大変恐縮しております。自己承認欲求に抗いながら書いた内容ですので、笑って読んで頂ければ幸いです。
禅や瞑想になんとなく興味がある中で、書店で地橋先生の『ブッダの瞑想法』に出会いました。読み進めるうちに、これは学びに行かないといけないと直感し、2019年7月に初心者講習会に参加し、11月に1day合宿に参加させて頂きました。定期的に通わなければと感じましたが、その後コロナ禍もあり、なんとなく疎遠になってしまいました。
当時の私は、常にイライラしていて、怒りの感情の中で生きていました。ちょっとしたことでも怒ったり怒鳴ったりしていました。今思うと、本当に荒んでいたと思います。家業を継ぎ、個人の仕事量は多く、責任も重く、経営的な不安もありました。毎晩のように酩酊するまでお酒を飲み続け、体調も崩しました。両親との関係は上手くいかず、従業員の大量退社もありました。
家族に迷惑をかけてしまったことをきっかけに、『このままではいけない』と思い、きちんと瞑想に取り組もうと決意しました。それが2023年の終わり頃で、2024年1月に1day合宿に改めて参加しました。
★妄想とジャーナリング
最初の頃の瞑想は考えごとばかりで、歩いても座っても妄想ばかりで、サティ以前の問題でした。先生からジャーナリングが良いと教わり、毎朝30分以上、頭に浮かんだことをどんどん書きました。昼間でも妄想でどうしようもない時は、作業を止めてジャーナリングをしました。怒りや恨み、後悔など、読み返すのが嫌になるような感情ばかりでした。言葉が出なくなると、言語化できない感情をギザギザや大小さまざまな丸など、形にして描きました。言語化できない感情を表現して落ち着いてくると、また言葉で表現できるようになりました。この習慣は、今でも続けています。
ジャーナリングを続けていくと、頭の中が少しずつ静かになってきました。妄想が減ると時間ができ、余計なことを考えなくなり、作業効率も良くなってきました。時間が余っていることを先生に相談したところ、仏教の勉強をするとよいと教えていただき、朝日カルチャーセンターに参加するようになりました。先生の御著書や原始仏教関連の本も貪るように読みました。
瞑想はマイペースに続けました。妄想が少なくなると、今まで感じていなかったことが感じられるようになり、感覚だけでなく、心の状態も観察できるようになりました。最初は「怒り」などの簡単なラベリングだけでした。そのため、心がすっきりすることは稀でした。そこで、サティが入った時の心の状態を覚えておき、ジャーナリングの時に思い出し、その時の感情を分析しました。すると、怒りの感情は、焦り・不安・怖れ・後悔・自己中心的思考・無知など、さまざまな感情が絡み合っていることに気づきました。ジャーナリングの時にラベリングを考えておき、その感情に気づいた時に使うようにすると、心がすっきりすることが増えてきました。
このようにヴィパッサナー瞑想で観察力を高め、ジャーナリングで感情と思考を整理整頓し、聞法によりダンマを理解していきました。この三つが絡み合いながら深まっていく中で、印象的な体験や気づきがいくつもありました。
★感覚と苦痛の識別
冬の日、外を歩いていた時のことです。寒かったので、「寒い」とラベリングしてみました。しかし、何か違和感がありました。そこで「寒さ」とラベリングし直してみると、不思議なことに、苦痛が無くなったのです。それまでの私は、「寒さ」と「苦痛」をひとまとめにして「寒い」と認識していたようです。感覚そのものと、心の反応は別物だったのです。
早速この体験を、朝の洗顔で活用してみました。冬の冷たい水に変え、冷水が手や顔に触れた瞬間に「冷たさ」とラベリングすると、嫌気なく洗顔することができるようになりました。
★自分が崩れる
ある夜、歩きの瞑想をしていると、体が動かなくなりました。でも、視覚と聴覚はしっかりしていて、気づきも十分ありました。眼識と耳識に気づき、それに関するラベリングがしばらく続いていました。『きりがない』と思ったとき、『なんだ、自分って成り立たないじゃん』と腑に落ちたのです。「自分」という存在は確固たる実体ではなく、感覚の連続を受け取りながら組み上げることで作られた概念に過ぎないのだと理解できました。
★怒りの奥にあったもの
また、怒りの感情を観察しているなかで、大きな気づきもありました。他人や環境に対して怒っていると思っていましたが、その奥には「自分自身に対する怒り」がありました。成功とは言えない状況。期待が失望になる日々。人から見捨てられるかもしれないという恐怖。自分を赦すことができない人生。その苦しさが、怒りという形で外側に向けられていただけでした。原因も分からず悩みながら「自分でかってに苦しむ方向を選んでいた」と気づいたのです。そのとき「苦しんでいる」とラベリングが入り、「ああ、自分が悩んでいることにすら気づかず、自分で自分を苦しめていたんだ」と理解でき、少し肩の力が抜けた気がしました。同時に、これからは苦を選ばない方向へ進もうと決意しました。
自分が苦しんでいることを客観的に気づく機会が増えると、周りの人もまた苦しみの中にいることに気づけるようになり、慈悲の瞑想のカルナー(悲)に取り組む姿勢が自然と変わってきました。
★お金への執着と、アイデンティティの罠
ある時、歩きの瞑想をしていると、いつものように仕事の妄想が出ました。いつもなら「妄想」とラベリングするのですが、その時だけは、いつも同じ内容の妄想をしていることに気づき、「お金のことを考えている」というラベリングが出てきました。いつもお金のことばかり考えていた自分に愕然としました。お金に執着していて、その執着対象であるお金を自分自身だと思っていたことに気づきました。気づきと共に、執着を手放すことができた気がします。
私は、このように、執着対象に自分を重ねてアイデンティティを作り、それを自分として大切に守っているパターンが多いです。家族・仕事・お金・成功・立場・美味しさ・楽しみ・期待・評価・基準など、執着しているものに気づくたびに、「今まで何やってたんだろう」というガッカリ感があります。最近では「ガッカリ感」とラベリングすらできるようになりました。気づくと同時に、心が楽に自由になっていくことを感じています。
心が軽くなってくると、趣味の水泳にも変化がありました。考えながら泳ぐことはほとんどなくなり、疲れも極端に少なくなりました。腕を入水するたびに生まれる無数の泡の流れの美しさを見ながら、その泡のはじける音を聴き、肌を流れる水の大小の渦を感じる。以前とは感覚が全く変わりました。初めてその感覚を得たときは、ずっと泳いでいたいという気分でした。あまりにも感動的で、泳いでいて楽しいです。でも、このことに執着しないで、プールに通っています。考えごとをしている時間が少なくなるにつれ、「今」を感じられる時間が増えてきたのだと思います。
★食事の瞑想が教えてくれたこと
印象的な体験は、瞑想の場だけに限りません。私は食事の瞑想が大好きで、毎回1時間以上かけています。驚きと共に、素晴らしい気づきがいくつもありました。
① 箸の上に乗る人々
『美味しいな』となんとなく食べていると、目の前のお弁当が途方もない労力の結晶であることに気づきました。これは大変なことだと思いました。目の前のお弁当を並べてくれた人、購入の手配をしてくれた人、運搬してくれた人がいる……と思考が続けて浮かびました。その後も、どんどん関係する人が頭に浮かんできました。お弁当を詰めた人、料理を作った人、味付けをした人、ご飯を炊いた人、お米を洗った人、お米を収穫した人、お米を育てた人、さらに、その背景にいる多くの人たちまで、具体的に、次々と浮かび上がりました。きりがないほど次々と浮かんでくるので、「妄想」とラベリングして終わりにしました。
たった一食のお弁当が、多くの人の関わりによって成り立っていることを改めて感じ、ありがたい気持ちになりました。
② お弁当が消えた魔法
料理を口に入れ、目を閉じて噛んで呑み込み、次の一口のために目を開く。カーテンが見える。下を向くとお弁当が見える。「見た」とラベリングする。何度も繰り返すうちに、本当に「見た」だけになりました。色合いも見えている。立体感もある。でも、お弁当や料理としての認識がない。ただ見えているだけ。食べたい気持ちも生まれてこない。今思うと、サンニャー(想)が働く直前にラベリングがヒットした瞬間だったのだろうと思います。これをきっかけとして、ごく稀に日常でも似た状態が発生するようになりました。臨場感なく、ただ見えているだけの時。そんなときは思考を始めると認識が動き出すので、状況を理解できるようになります。
③ 前後際断
よく噛む。味が、口の中いっぱいに広がります。そして、飲み込む。それでも、味は残っている。味の余韻が完全になくなってから「味」とラベリングすると、箸を持つ手は止まったままです。でも、少しでも味が残っている状態でラベリングすると、手が少し動いてしまっています。一つ一つの動作を完全に切り分けないと、次の動作が自然に発生してしまう。日常では連続して動作をしてしまっているので、多くの動作が積み重なったものを一つの動作と勘違いしているのだろうと気づきました。
④ 美味しさバンザイ
『美味しいなぁ』と、お弁当を食べていました。「美味しい」とラベリングしても、切れがイマイチだったので、もっとよく観察しようと、味という感覚に集中しました。すると、塩味に気づきました。次は、酸味、甘味、旨味に気づきました。(いわゆる五味とは違いました……)強かったり弱かったり、尖っていたり丸かったり、後味の残り具合が違うなど、それぞれに様々な個性がありました。細かな味を感じるたびにサティを入れながら、分析するように食べている時は、「美味しい」という判断も「美味しさ」という感覚も生まれませんでした。
「美味しさ」という魅力は、食べ物そのものに備わっているのではなく、心が内側で作り上げていたものでした。「美味しい」という判断と「美味しさ」という魅力が、絡み合っていたのです。残念ながら、「美味しい」も「美味しさ」も、よく観察してみると実体として見当たりませんでした。物事を細分化して観察すると、渇愛するほどのものではないことが良く分かります。
でも、まだまだ、美味しそうな物には惹かれてしまっている今日この頃。
🎯~ 美味はなし 氷屋の前 足止まる ~
⑤ お米への怒り
お弁当箱の左の手前からお米を食べてみる。沢庵が乗っていたご飯は塩味がする。塩味を味わいながら「味」とラベリング。次に、手前の真ん中あたりのお米を食べる。ここも沢庵が乗っていたので、しょっぱいです。塩味を感じながら「味」とラベリング。次は、手前の右側のお米を食べる。ここは、梅干しが乗っていたので、酸味があります。ほのかな酸味を感じながら「味」とラベリングしたが、キレがない。それまでの消滅感がない。何かある。「何かある」とラベリングして正体を探る。それをじっくり観察すると、見えた!なんと怒りだった。「怒り」とラベリングして、ちょっと安心する。
なんで怒りが生まれたのか思い返してみると、梅干しの酸味の残ったご飯を口に入れる前から、それまで続いていた塩味を期待していたのです。こんな些細なことまで、期待しながら生きて、期待どおりにならないと怒りを発していたのです。己の器の小ささを痛感しつつ、執着と渇愛の根深さに恐ろしさを感じました。
⑥ 勝手に食べられていくお弁当
その日は、お弁当の蓋を開けた時から、唾液が出ていました。今日はずいぶんと食事を楽しみにしているんだなぁと感じつつ、食事を始める。まずは、お米から。30回は噛もうと思っている。噛んだら「噛んだ」とラベリングする予定。
口の中にお米が入る。「入れた」とラベリング。お米を噛む。「噛んだ」とラベリング。舌が動く。ゆっくり下顎を下げて、次を噛む。「噛んだ」とラベリング。舌が動く。すると、あまりよく噛んでいないお米を、なぜか呑み込んでしまう。勝手に呑み込まれていく。まだまだ噛もうと思っていたのに、米粒のままで喉を通っていくのが分かる。まだ少し口の中に残っているお米を噛む。「噛んだ」とラベリング。舌は勝手に動き、お米を呑み込んでしまう。自分の意志とは関係ない。お米は、勝手に呑み込まれていく。噛むたびに、なぜか口の中のお米は減っていく。呑み込もうと思うことなく、お米は口の中から無くなった。お米は、すべて呑み込まれてしまった。二口目も同様。
呑み込む動作は、因縁の流れで起きていたのです。食事での呑み込むタイミングさえ、自分でコントロールできないんだと驚愕し、こんなことすらコントロールできないのなら、外部のことなんかコントロールできるわけがないと理解できました。
その後しばらく食事をしていると、勝手に呑み込まれることはなくなり、自分のタイミングで呑み込めるようになりました。この変化も、因縁の流れで諸々の条件が整い、意志と動作のタイミングがたまたま合っているだけのことなのに、自分の意志で呑み込んでいると勘違いしているのだろう。
⑦ 世界が変わる理由
お米を食べようとする。「運ぶ」→「入れる」→「噛む」。柔らかい食感を感じる。また、お米を食べようとする。「運ぶ」→「入れる」→「噛む」。柔らかい食感を感じる。次に、山芋を食べようとする。「運ぶ」→「入れる」→「噛む」。シャリッとした食感を感じる。『あれ、さっきと違う』『ああ、そういうことか』と因縁を体験しました。
自分の行為はずっと同じなのに、条件が変わると、受け取る感覚が変わる。すべては条件と因縁によって決まる。結果は、自分の意志や力だけでは決まらない。
山芋に教えてもらいました。(笑)
★ダンマ的な生き方へ
ダンマを学ぶうちに、原始仏教的な認知や生き方が分かり始めてきました。朝日カルチャーセンターで業論や因縁について繰り返し学んでいくうちに、以前ならイライラしていた出来事への受け止め方が変わってきました。日常の行動や心の反応を客観的に見ることが増え、いつの間にか、因縁の流れとして出来事が起きているのだと考えられるようになっていました。
何か嫌なことや受け入れがたいことが起きても、「ダンマ的にはどういう現象なのかな」「因縁で考えると、どういうことなのかな」と、以前とは違うダンマ的な思考で乗り越え、楽に受け容れられるようになりました。隠れていた執着があらわになって、渇愛を手放せるようになってきました。思いどおりにいくことも、いかないことも、さまざまな条件の結果であると思えるようになり、ウペッカー(捨)の心で受け止められることが増えてきました。
例えば、「他人が時間を守らなくても、イライラしなくなりました。その人とはそういう因縁で関わっているのだと考えるようになりました」。
「他人が約束を守らなくても、諦めがつくようになりました。結果は今の自分の業によって決まる。相手が悪いわけではなく、諸々の条件が整って起きただけの事だと思えるようになりました」。
「自分のやるべきことをやりきったら、成果をコントロールしようとせず因縁の流れに委ねることにより、安心していられるようになりました。心配するくらいなら、五戒を守り、善行するようになりました」。
特に大きいのは、思考を手放せることが増えてきた点です。すべては因縁の流れによるのだから、自分の理想を手に入れる必要はないと解釈するようになり、そもそも「理想」を考える必要がないことを理解できました。そのときになれば、因縁の流れで、周りが整ってくるはずです。人生すべて塞翁が馬。自分の基準によって良い悪いと判断している限りは一喜一憂してしまいます。理想をはじめとする諸々の執着を手放しやすくなった今、結局やることはシンプルです。やるべきことはやる。整うときには整うので、ジタバタせずに待つ。結果は因縁の流れとして受け容れる。そう考え、思考を手放し、穏やかに過ごせるようになりました。
そうはいっても、ダンマに沿った生き方は、いつもいつもできるものではありません。最初のうちは、頭で理解しても全然できませんでした。「10回のうち1回でも出来ればバッチリ」と考えながら、少しずつダンマに沿った生活にシフトしていきました。失敗を重ねるうちに、ダンマ的な思考や反応ができる場面がだんだんと増えてきました。
★道半ば、そして前へ
今でも、怒りに飲み込まれ、周りにイライラを放出し、一段落したころになって人に諭されることがあります。妄想に囚われることも多々あります。執着しているものもたくさんあります。まだまだ修行の道半ばです。それでも、圧倒的にイライラすることが減りました。生きている苦しさが減り、生きるのが楽になってきました。
修行を積んでいくにつれ、子供のころから感じていた「誰かの作った虚構の中に生きている感覚」、若い頃からの「肩にずっしりのしかかる重荷」、常にべったりとつきまとう「束縛感」「不自由さ」、手に入れたとたんに喜びが薄れ始める「満たされない想い」、どんなに努力しても「越えられない壁」、「自分で自分を苦しめるようなことをしている感覚」、「砂上の楼閣に住んでいる感覚」——それらの正体が、瞑想と聞法で少しずつ見えてきました。その正体は「心の反応で作られている妄想」であると、頭では分かっています。体験として深く理解し、腹落ちするまで、精進を続けたいと思っています。
今後も、在家として与えられている義務を果たしていきます。エゴを出さず、慈悲喜捨を中心に据え、ダンマに沿った生活をしていきたいです。苦を感じる出来事は、これからも因縁によって起きてくるでしょう。無常な世界の中で、出会う方々に感謝をしながら歩んでいきたいです。これからも「一所懸命、淡々と」修行を続けようと思っています。
★感謝を込めて
最後に、未熟な私をここまで導いてくださった地橋先生に、心より感謝を申し上げます。本当にありがとうございます。
そして、ダンマに、修行をご一緒してくださった皆様に、心が荒れていた頃から変わらず支えてくださった方々に、感謝の気持ちでいっぱいです。皆さまとのご縁に恵まれ、ここまで歩んでくることができました。本当に、ありがとうございました。
今回、瞑想体験の寄稿を勧めていただいたことにも感謝しております。書くことによって自分自身を振り返ることができ、大変貴重な経験になりました。
最後まで読んで頂き、ありがとうございます。
皆様が幸せでありますように。



















