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月刊サティ!|ヴィパッサナー瞑想協会(グリーンヒルWeb会)

巻頭ダンマトーク

「人の命は甘美なものだ」(後篇)

●6月号前篇の要約

 本稿は、「瞑想 山小屋だより」5月号執筆者の質問に答えて執筆された。
 ブッダが入滅直前に「ヴェーサーリーは楽しい…」と、あたかも存在の世界を讃美するかのごとき言葉を洩らされたのはなぜか、という問いは、修行時代の私も長く惑わされた疑問だった。
 断食・水行・サマーディ・人間関係の隔絶という条件は、煩悩を一時的に遮断し、悟ったかのような錯覚を生じさせるが、日常生活にもどると微かな欲や嫌悪や慢が立ち上がる瞬間に気づいてしまう。「煩悩が残存しても悟りと言えるのか」という違和感に苦しみ、梵我思想や「煩悩即菩提」の巧妙な論法で納得しようとしたが、これは悟れなかった学問僧がひねり出した詭弁に思われた。煩悩の是認は「汚れた体のまま布団に入る」ような不潔さが感じられ、真の悟りではないと直観されていた。
 その迷いをいっそう深めたのが、『大般涅槃経』の「ヴェーサーリーは楽しい。ウデーナ霊樹は楽しい…」というブッダの言葉と、中村元による「この世界は美しいものだし、人のいのちは甘美なものだ」という解説であった。もしこれがブッダの本音なら、生命や愛欲、さらには存在世界そのものを最終的に肯定することになり、煩悩滅尽を説く教えと根本的に矛盾するだろう。この質問者の問いに答えるべく、改めてテキストを精査して諸々の謎が解けてきた。

 中村の注釈は、原文に根拠のない創作的解釈であることが明らかになる。まず「楽しい」のパーリ語「ramaṇīyā」は、官能的な快楽ではなく、「閑静で修行に適した好ましい場所」を指す語である。『ダンマパダ』でも「聖者の住む土地は楽しい」「世俗の人が楽しまない森こそが出離を楽しむ者には楽しい」と、修行環境の好ましさを示す語として一貫して使われている。
 次に「霊樹」とは、樹木の景観を讃えているのではなく、神霊を祀った霊廟・ほこらであり、仏弟子たちが日常的に滞在して修行する聖地を意味する。つまりブッダがアーナンダに語ったのは、「あの霊廟でも、この霊廟でも、快楽を求めない仏弟子たちが出離を楽しみ、ダンマの道を歩んでいる。ヴェーサーリーはまことによく整った好ましい地だ」という意味に他ならない。
 「人の命は甘美だ」というサンスクリット本の記述はパーリ原典には存在しない。後代の付加であり、ブッダの言葉ではない。そこから「死を惜しみ人間の恩愛に打たれた」と導く中村の解釈は、原文にまったく根拠を持たないのである。自ら悟り、生涯にわたって一切皆苦と出離を説き続けたブッダが、その臨終において教えと真逆の感慨を洩らすことはあり得ないのである。
 さらなる根拠を示そうとしたところから、今回の後篇が始まる。
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●後篇

 ブッダの暗示

 上記のように霊廟の地を讃えた直後に、ブッダは続けます。
 「アーナンダよ、いかなる人であろうとも、四つの不思議な霊力(四神足)を体得した人は、もしも望むならば、寿命のある限りこの世に留まるであろうし、あるいはそれより長い間でも留まることができるだろう」
 「私は寿命を延ばすことができる」とブッダが暗示しているのに、アーナンダは、その意味を汲み取れず、「尊い方よ、どうか寿命のある限り、この世に留まってください。多くの人々の利益のために、世間の人々を憐れむために、神々と人々の幸福のために」と懇請することをしませんでした。ブッダが同じ言葉を三度告げたにもかかわらず、悪魔にとり憑かれていたアーナンダは、ブッダの寿命の延長を要請しなかったのです。
 ブッダの意図を言い換えるとこうなります。
 「ダンマと修行の環境は美しく整ったので、如来は涅槃に入ることができる。去るべき条件が整ったから涅槃に入ろうとしているが、それでも、仏法を盤石なものにするには、もう少しこの世に留まるべきかもしれない。だからアーナンダよ、お前が懇願するのなら、そうしてもよいのだ…」
 ポイントは、3つです。
 ①ダンマと修行の環境は美しく整った。
 ②だから如来は涅槃に入ることができる。
 ③しかし要請があれば、寿命の延長も可能だ。
その根拠は、経典を読み進めれば明らかになります。

 入滅の決意

 ブッダの心を察することができなかったアーナンダがその場を離れると、入れ替わるように悪魔が近づいてきてブッダに囁きます。
 「尊い方よ、今こそ入滅されるべき時です。かつて尊師は『弟子たちが教えを体得し、弁舌で人々を導き、敵対者を論駁ろんばくできるようにならなければ、私は涅槃に入らない』と仰せになりました。しかし今やその条件はすべて成就されました。今こそ尊師がお亡くなりになるべき時です」
 アーナンダが寿命の延長を要請しなかったからには、悪魔の言うとおり、この世を去るべき機縁は熟した、と涅槃に入ることを受諾し、ブッダは三ヶ月後に亡くなるだろうと宣言します。
 この悪魔とのやり取りから分かることは、「仏弟子たちのダンマと修行の環境は美しく整った」事実を、悪魔もブッダも認めていることです。
 ウデーナ霊樹の地でも、チャーパーラ霊樹の地でも、あの地でも、この地でも、仏弟子たちが聖なる修行に精励している現実が浮かび上がってきました。風になびきながら聳え立つ霊樹は仏法が継承され栄えている証しであり、そのようなヴェーサーリーは楽しい。まことに善いところだ…という解釈は経典に即していると言えるでしょう。



アーナンダよ、ヴェーサーリーは楽しい…
ヴェーサーリーのストゥーパとアショカ王柱

 16回の暗示

 さらなる証拠を挙げることもできます。
 その後ブッダはチャーパーラ霊樹の下で、よく気をつけて「寿命の素因」を自ら捨て去り、入滅は揺るぎないものとして確定し、後戻りの可能性は絶たれました。この期に及んでアーナンダは、「尊い方よ、寿命のある限りこの世に留まってください」と遅きに失した懇請をします。するとブッダは、取り返しのつかない今となって何をか言わんや、「これはお前の罪である。過失である」とアーナンダを叱責し、続けます。
 如来はかつて王舎城でも、霊鷲山りょうじゅせんでも、七葉窟でも、「ヴェーサーリーは楽しい。ウデーナ霊樹の地は楽しい…」と同じ文言を語り、アーナンダに暗示したにもかかわらず、ことごとく聞き流され、寿命の延長は要請されなかったのでした。その数は合計16回に及びます。
 「王舎城は楽しい(ramaṇīya:ラマニーヤ)。霊鷲山は楽しい。七葉窟も、マンゴー樹園も、栗鼠園もまた楽しい…」と、仏弟子たちの修行と法の環境が美しく整ったことを讃え、アーナンダよ、お前が懇請するなら、私はここで法を説き続けることもできる、と暗示していたのです。
 つまり、「楽しい(ramaṇīya:ラマニーヤ)」という言葉は、同型の構造で16回も繰り返されていたということです。ブッダは、法の継承された環境の成就を賛美したのであって、風にそよぐ霊樹の景観や命の甘美さを讃えて「楽しい」などと語ろうはずはないと結論してよいでしょう。
 私も40年前に、王舎城や竹林精舎を巡礼し、霊鷲山を登りながら中腹の洞窟を眺め、ブッダの直弟子達の面影を偲んだことがありました。今回、改めて『涅槃経』を再読し、万感の想いが胸に迫りました。

 中村元の功罪

 哲学者としての思想的立場から、強引な注釈で混乱を招いた一面もありましたが、中村元が日本人の仏教に残した偉大なる功績は揺るぎないものです。中村は若くして日本最高の学術賞である日本学士院恩賜賞を受賞した『初期ヴェーダーンタ哲学史』で登場し、ブラフマン(宇宙の根源的実在)と個人のアートマン(真我)が同一であるという梵我思想が中村の知的出発点であり、終生にわたって中村の仏教理解の土台となっていたことが指摘されています。仏教学者の松本史朗は、中村が「ブッダの涅槃の境地も、梵我一如の境地も全く同じものだ」と確信していたことを論証し、「中村博士の仏教理解の根底にヴェーダーンタ的な一元論が認められる」と批判しています。
 私もかつて『ヨーガ・スートラ』を拠りどころに、梵我思想の解脱観に基づく修行を必死でしていました。存在は至福であるとして、煩悩も肯定されていく思想なのです。思想家としての中村の注釈に惑わされたものの、偉大なる文献学者としての中村のパーリ原典翻訳から受けた学恩は私の人生を変えるほど深いものでした。
 正確でわかりやすい中村の翻訳で原始経典を読み進めるうちに、『テーラガーター(仏弟子の告白)』や『テーリーガーター(尼僧の告白)』に出会い、多くの仏弟子たちが煩悩を滅尽し、輪廻転生に終止符を打った感動の詩を残していることに衝撃を受けました。ああ、本当に煩悩を滅尽させて、ブッダの瞑想法を最後までやり抜いた祖師方がいたのだ、と中村の訳業によって道が開かれていったのです。梵我思想から原始仏教の悟りを目指すまでに紆余曲折はありましたが、学恩ある中村元への尊敬はいささかも変わりません。

 真の仏教徒

 蛇足ながら、最後に、中村がいかに真摯な仏教徒だったかを物語るエピソードを紹介しましょう。
 中村元が20年の歳月をかけて一人で執筆した『佛教語大辞典』は400字原稿用紙で約3万枚の大作でしたが、出版目前の1967年、出版社の保管ミスにより原稿がすべて紛失してしまいました。警察・探偵社・製紙会社・古紙回収業者・新聞やテレビで懸賞金付き呼びかけまで行なったが、結局見つかりませんでした。
 20年の歳月と労力が水泡に帰したにもかかわらず、中村は「怒ったって、原稿は出てこないでしょう」と言ったそうです。また正確な一次資料によると、原稿紛失の連絡受けた中村は電話を切り、家族に「原稿がなくなったというんだよ」と告げただけで、紛失者を責める言葉を一切口にしなかったといいます。そして一ヶ月後に再び最初から書き直し、8年後に完結させて別の出版社から刊行したのです。
 20年の歳月が失われたのに怒りもせず、訴訟もせず、非難もせず、紛失した出版社名を終生明かさなかった中村元の姿に、真の仏教徒を見る思いがしました。
 仏教の教理を知的に理解する学者は大勢いるが、自らの人生の修羅場でダンマの本質を見事に体現して生きた偉大な碩学に心から敬意を表さずにはいられません。(完)

「私の瞑想体験ー瞑想で訪れた人生の転機」(旧「Web会だより」改め)

『見失われた私 生きている実感』③大門満痴子

  父の介護

 よくわからないままとりあえず瞑想を続け、サティを入れながら、要介護の状態になっている父を見守りました。わたしが5歳の時に救急車で運ばれ、「心臓神経症(当時、鬱病などの精神疾患には人格的に問題があるという偏見があり、このような病名でぼやかすことはよくあったようです)」と診断されて入院を繰り返した父は、それまではやさしかったのに、怒鳴ったり、薬の副作用か廃人のように昼から寝ていたり、おびえたように夜中に突然叫んだりして、別人のようになりました。とても怖かったのですが、遠く離れた父の実家の事情も絡んでおり、子供には説明がなかったのです。
 成長するにしたがって、父には知的障害者の兄が二人いて後見人となって彼らの生活や財産を守っていること、祖父は父が10歳ごろに亡くなり後継ぎとして育てられてきたこと、父親が病死して障害者が複数いる家であり戦中戦後はかなり差別されたこと、現在は父の姉婿が家を継いでいることなどが分かりましたが、詳しい事情や経過は知りませんでした。私が高校生になると、両親特に父親と兄は激しくけんかを繰り返すようになり、現在に至るまで折り合えないのでした。
 わたしにとって、父は優しく知性的なところもありましたが、偏屈で人間不信なところがあり、怒りのスイッチがどこにあるか分からず、よく理解できない人間でもありました。しかし、一緒に母を看取ってからは「同志」のような絆ができ、それからはどんな父も受け入れて理解するよう努めてきました。「現在の父」はずっと見てきましたが、介護の過程で、そもそも昔家族に起こっていた出来事さえよく知らなかったことに気づきました。母も、わたしが仕事の忙しさにかまけて改めて昔のことを聞かないうちに、既に亡くなっていました。

  確執と和解

 兄とわたしも、わだかまりがありました。母を自宅で看取ったのは2009年。今でこそ在宅医療・看護は普及していますが、当時はこの地域では癌の人を自宅で看取るのは非常識に近い感覚があり、実際訪問診療や看護も受けてくださるところはありませんでした。3人の子育てで必死になっていた兄は同意しませんでした。しかし、母はいろんな事情が重なって積極的治療をまったく行えずに末期の状態となっており、「入院したくない。家に居たい」と強く望む母の願いを、わたしはなんとかかなえたかったのです。兄と決別する覚悟で勤務を続けながら父と二人体制で自宅での看取りを敢行しました。
 母の死後、兄は「あの時、どうして看てやらなかったのかと今でも悔やむ」と言っていました。「だって、あの状況だったから仕方ないよ。介護休暇だってあるのも知らなかったし…『もう、そんなこと思わなくていい』って、きっと母さんも言っているって」というような話をしたことがありますが、実は心の奥底では母の最期の希望をかなえることに協力せず、わたしたちと激しく言い合った兄を許せてはいませんでした。だって、同じ町内に住んで、3人も孫守りをしてもらいながら、親と喧嘩ばかりしてきたじゃない。あたしよりよっぽど両親に心配をかけてきたくせに!そして両親の世話になってたくせに!アンタがケンカした後の両親の心と身体のケア(主に愚痴聞きと、得意技である指圧治療)は、ほとんどわたしがしてたのよ(→怒り!)。 父の介護くらいは手伝ってもらわなきゃね。医療職で独身、子なしだからって、わたしだけに「お任せ」になんてさせるもんか。そのためにも今のところは良好な関係を保っておくべし(→計算高く、腹黒い女の心…)。
 とまあ、心の中はたくさんの怒りやわだかまり、不安を抱えていました。それでも慈悲の瞑想を続け、介護の最中もサティを入れながら、見守りをつづけました。結果的には、父はよいヘルパーさんやケアマネージャーさんに恵まれ、望みどおり最後まで自宅で過ごし、食べられるだけ好きなものを食べ、最期の瞬間は家族が全員集合し、一言ずつ声をかけて見送り、ひとすじの涙を流して穏やかな死に顔で旅立ちました。まさに大往生。2023年秋のことでした。自分としては父の病気中に孤軍奮闘してわたしたちを育ててくれた母が若くして苦しみながら死に、母より9歳も年上の病弱だった父が、長生きして大往生するのは何だか釈然としませんでしたが、とにもかくにも恵まれていました。
 介護の最中は兄とぶつかり合いながらも昔の話をすることも多く、「あれ?あの時そちらもそう思ってたの?」「あれは、そういうことだったのか…」などと昔のことを話して相互理解が深まり、なんだか勘違いしていることも多かったり、兄もつらかったんだな、と共感できたり。兄もまた同じように感じているようで、結果、心から許しあい、通じ合える仲になれたのは意外なことでした。

  伴侶との別れ

 父は無事に見送ることができましたが、それから間もなくパートナーとは別れることになりました。わたしは瞑想のおかげでうまく断酒できていましたが、パートナーはアルコールから完全に抜けられていない状態で、定期的に飲酒を繰り返していました。コロナ禍も終わりに近づいてきたし、同性愛者は都会の方が生きやすい。彼女はもともと大阪の人で、同性愛者としての自分を隠さずにつきあえるコミュニティや結婚して独立した娘さんもいるから、その方がいいだろうな…わたしが彼女を束縛して、依存症にした部分もあるだろうと思いいたりました。
 アルコール依存の場合、enabler(イネーブラー)という言葉があります。「酒を飲むのはやめろ」と言いながら、酔っぱらったときに面倒をみたり、本人の代わりにアルコール瓶を片付けたりする家族…「アルコール依存であり続けることを実質的には支えている人」をこういうのです。今回、わたしはまさにイネーブラーであることに気づきました。衝撃でした…。支える人がいて、依存であっても生活が成り立つから、「酒を飲み続けている場合ではない。何とかしなくてはいけない」ということを本人が自覚しにくいのです。さらに、依存症は「耐えられないストレスがあるために、それに耐えて何とかやっていくために依存する」という側面があるようです。わたしは彼女に家事をしてもらい精神的に支えてもらい、かわりに経済的には彼女を支えてアルコールを飲む生活を支えていたのです。このような共依存の状態から脱して、別れるほうが本人のためになるということ…。
 先生には「別れるにしても、最後まで相手を思いやった対応にしなさい。共に過ごして、人生に彩りを添えてくださったお方ではないですか」と言っていただき、慈悲の瞑想を必死に毎日やって、アルコールを止めないことへの恨みや、彼女がいなくなることへの不安をなんとか静め、2024年の8月、新しい門出を祝うつもりで別れました。

季節の写真

行田の古代蓮
先生と話そう

準備中

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今日のひと言

準備中

瞑想 山小屋だより

命拾いと波羅蜜

 我が家は雑木林と野原に囲まれ、近くには小川が流れている。春先には庭にいっぱいフキノトウが顔を出してくれたので、それを摘んでは味噌汁に放したり、パスタにしたり、フキノトウ味噌にしたり楽しんだ。初夏ともなるとハチクやウルイ、マコモダケ等が地元の直売所で売られている。
 いつものように散策をしていると、頬かむりをして林の中で何やら採っている80代くらいの女性を見かけた。「何を採っているんですか?」と声をかけたところ、「ノビル採ってるの。美味しいよ。いっぱいあるよー」と教えてくれた。シュッと伸びた茎を引っこ抜くと小さい球が付いている。よく洗ってゴマ味噌炒めにするとお酒のアテにぴったりだとのこと。私は酒を飲まないけれど、ご飯のお供にも良いのではないかと気がそそられた。親切なお婆さんは、ビニール袋いっぱいに採っていたノビルを、半分くらい分けてくれた。その夜のノビルのゴマ味噌炒めが美味しかったこと!
 翌日、夫は我が家の庭や、裏の林でノビルをいっぱい採ってきた。「こんなにあるよ!」添付の写真の3倍ほどはあっただろうか。嬉しくなって、料理する前に知り合いに写真を送った。そうしたらすぐに「それ、タマスダレじゃないの?」と返信があった。調べてみると、そっくりだが、微妙に葉の形が違う。どうやら匂いも違うらしい。知らずに食べたら食中毒を起こすところだった。タマスダレのリコリンというアルカロイド成分が毒で、嘔吐や下痢、大量のよだれ、痙攣を起こすという。大量に食べると死に至ることもあるそうだ。危ないところだった。何しろ大量に採ってきていたので。
 また、別の日、山道を車で走っていたときのこと。この辺りは信号がほとんど無い。また山すそで傾斜があるので、坂道で交差しているし、きれいな十字路ではない。斜めに交差していたり、六差路だったりもする。見通しも悪い上に、皆さんかなり飛ばしている。車自体が少ないからだ。その六差路で、死角から突然車が現れ、すごいスピードで突っ込んできた。「あ、これはダメだ」と覚悟した。どう見ても側面に激突するタイミングで、「ぶつかる!」と身構えた。ところが次の瞬間、テレポートしたとしか思えないような位置に私はいたのだ。交差点に入ったばかりの位置から、次の瞬間には交差点を越えた位置に。件の車は何事も無かったようにクラクションも鳴らさずに走り去っていた。その後は心臓がバクバクしていたが、狐につままれたような気がしながら目的地まで走った。
 立て続けに起きたこの命拾いはどういうことなんだろう? 自分なりに考えてみた。まずタマスダレを食べずにすんだのは、情報系の善行の結果だろう。誰かに役に立つことを知らせたこと、例えば「この病院の○○というお医者さんは良かった」とか「その症状にはこの食材がいい」とか「そういう希望ならこんな方法がある」とか、そういう情報を誰かにあげた、ということなのではないか? その善行が「毒では?」という情報をもらえたことに繋がったとしか思えないのだ。
 では車がぶつからずに済んだのは、どういうことだろう? 激突されていたら無傷では済まなかったはずだから、ライフダーナ、命のお布施に関係するだろうか? 健康や命に関わる善行、何かしているだろうか? マイナスを積み重ねないことは常に気をつけている。虫は殺さない。生き物は傷つけない。だが保護犬を飼っているわけでもないし、病院にボランティアに行っている訳でもない。シジミを買って川に放したことも無い。辛うじて思い当たるのは、去年タイのお寺に修行に行ったときに、僧侶病院にお布施を届けに行ったことくらいだろうか……。
 車がぶつかっていたら修理費も嵩んだだろうし、治療費もかかっただろう。そうすると財施に関係するだろうか? 財施は思いついた時に、少しずつでもやるようにしている。難民キャンプに衣類を送ったり、災害地に募金したり。アフガニスタンで井戸を掘っていた方には継続して寄付を続けた。しかしその程度だ。
 私が命拾いした理由は、謎のままだけれど、いずれにせよ、わずかながら積み上げてきた波羅蜜はこれでスッカラカンだろう。貯金全額引き出しみたいなものだ。また明日からコツコツと善行を心がけて積み直さなければならない、と覚悟した。
 凡夫にとってこの道は楽なものではない。地橋先生によれば、「修行は総力戦」とのこと。修行も善行も頑張らなくては!



タマズダレ

ダンマ写真

モッガラーナ(目蓮尊者)の修行洞窟@霊鷲山
霊鷲山登山道(ビンビサーラ・ロード)@王舎城

サンガの言葉

準備中