【ウパニッサヤパッチャヨー(親依止縁 / 強力な依止縁)】
●短い要約
★親依止縁は、強力な拠り所として結果をもたらす条件関係を指し、三種類あります。
①所縁依止縁は、目に見える物や考えなどの対象が、心の強い拠り所となって認識や感情を引き起こす場合です。
②無間依止縁は、一つの心が滅した直後に次の心が絶えず生じる、心の連続を支える関係です。
③共依止縁は、元来そなわる性質のとおりに、強い拠り所として結果をもたらすものです。例えば、信は、布施・持戒・聞法などの善行を支え、さらに定や観、ひいては道智・果智へと導きます。
★善・不善・無記
法は善、不善、無記の三種に分けられ、無記には四種があります。
異熟心(善悪の行為がもたらした結果としての心)、唯作心(阿羅漢が善行を行う際に生じる、新しい果報を生まない心)、色法(物質)、涅槃です。
凡夫の善行は善心であり、阿羅漢の善行は唯作心ですが、行為の外見は同じ善行です。
睡眠中の心や木や遺体などの物質は善でも不善でもないため無記とされ、阿羅漢の善行に伴う心も無記とされます。
★善・不善・無記(善でも悪でもない法)の三つの状態は、互いに原因となり複雑な因果関係を結びます。
善は善を生みます。
信を拠り所に布施や持戒を行い、定や観察の智慧、さらには道智・果智を得て涅槃に至るのがその例です。
しかし善は不善の原因にもなります。
布施をした後に「自分ほどの者はいない」という慢が生じたり、善行の報いを求めて貪りに基づいて生き物を殺したりするのがそれです。
善は、行った後に生じる身体的な苦楽や果報としての心身(無記)の原因にもなります。
★逆に不善が善の原因となることもあります。
自らの悪行を省みて戦慄し、二度と悪をせず善を行おうと決意して布施や持戒に励むのがその例です。
また健康や豊かさ(無記)を保ちたい願いが善や不善の原因となったり、人との交際、食事や栄養、天候、住まいや持ち物といった身の回りの一切が、善行を行うこともあれば、遊びに溺れて不善に走ることもあり、善・不善・無記のいずれの原因にもなるのです。
★したがって、信を深め、善がさらなる善を生むようによく気をつけて行動することが求められます。
信が生じれば戒が保たれ、心の幸福、安らぎ、喜び、軽安、楽、定と進み、物質と心をあるがままに見る智慧、厭離の智慧、観察の智慧、そして道智・果智へと至ります。
智慧ある善人に親しみ、欲界の善が出世間の善の原因となるよう自ら実践する人になりなさいと説かれているのです」
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●長い要約
★依止縁とは、ある法が強力な拠り所となって結果をもたらす条件関係であり、二十四縁の一つとして三種に分けられます。
①所縁依止縁は、目に見える物や考えなどの対象が心の強い拠り所となり、認識や感情を引き起こす場合です。増上縁で説かれる所縁増上と同じ意味です。
②無間依止縁は、一つの心が滅した直後に次の心が途切れなく生じる、心の連続を支える関係で、無間縁と同じ意味です。
③共依止縁は、もともと備わっている性質に従って、強力な拠り所となり結果をもたらす関係です。特に重要なのがこの共依止縁で、善・不善・無記のいずれもが、次に生じるものの原因となります。
★善・不善・無記
法は善、不善、無記の三つに分けられます。無記には、異熟心、唯作心、色法、涅槃の四種類があります。異熟心は過去の行為の結果として生じる心、唯作心は阿羅漢の行為に伴う心で、新たな果報を生まないものです。色法は物質であり、涅槃も善・不善のいずれにも分類されないため無記とされます。凡夫が善行を行うときは善心ですが、阿羅漢が同じ善行を行う場合は唯作心となります。
★次に、善・不善・無記が互いに原因となり合う複雑な因果が説かれます。
善は善を生みます。信を拠り所に布施・持戒・聞法などの善行をなし、定や観察の智慧を経て道智・果智を得るのがその例です。
しかし善は不善の原因にもなります。善行の後に「自分ほどの者はいない」という慢が生じ、善行の果報を得たいという貪りから、他の生命を傷つけることもあります。
また、善行を行った後に生じる喜びや疲労など、善でも不善でもない状態を生じさせることもあります。
★逆に不善が善を生むこともあります。自らの悪行を省みて戦慄し、二度と悪をせず善を行うと決意して布施や持戒に励むなら、不善が善の原因となります。
一方、窃盗や強奪で得た財産や生活を享受し、喜びや安らぎなどの無記が生じる場合もあります。
無記もまた、善や不善の原因となります。心身の豊かさや喜びをきっかけに善行を行うこともあれば、快楽を求めて酒や遊興にふけるなど、不善を行うこともあります。。
★さらに人間関係、食事や栄養、天候、住居、寝床、衣服、乗り物、コンピューターなど、身の回りのあらゆる条件も、善・不善・無記の原因となります。同じ条件でも、瞑想や善行の助けになる場合もあれば、欲望や怠惰を助長する場合もあり、単なる喜びや満足などの無記を生じさせる場合もあります。
★したがって重要なのは、善を行うだけでなく、その善がさらに善を生むように、何を拠り所として生きるかを注意深く選ぶことです。
信が生じれば戒を守るようになり、戒が清浄になることで心の幸福、安らぎ、喜び、軽安、楽、定へと進みます。そして定が生じると、物質と心をあるがままに見る智慧、厭離や観察の智慧が生じ、やがて道智・果智へとつながります。
智慧ある善人を拠り所として信を深め、欲界の善が出世間の善へつながるよう実践する人になっていくことが、依止縁を理解する意義なのです。
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9)ウパニッサヤパッチャヨー(親依止縁):強力な拠り所として原因となる法
●三種類のウパニッサヤパッチャヨー(親依止縁)
ウパニッサヤパッチャヨー(親依止縁)は三種類あります。
アーランマヌーパニッサヤパッチャヨー(所縁親依止縁)、アナンタルーパニッサヤパッチャヨー(無間親依止縁)、パカトゥーパニッサヤパッチャヨー(自然親依止縁)の三種類です。
ここではテーラワーダ仏教徒なら知らない人はいない、知っておくべきパカトゥーパニッサヤパッチャヨー(自然親依止縁)を主に説明します。
★アーランマヌーパニッサヤパッチャヨー(所縁親依止縁)について
アーランマヌーパニッサヤパッチャヨー(所縁親依止縁)は、アディパティパッチャヨー(増上縁)の部分で説明したアーランマナーディパティ(所縁増上)と意味は同じです。
アーランマナーディパティ(所縁増上)と呼ばれるルーパーランマナ(色所縁)を始めとしたアーランマナ(所縁)は、ナーマ(名法)の強力な拠り所です。このように、ナーマ(名法)の強力な拠り所となっているので、アーランマヌーパニッサヤパッチャヨー(所縁親依止縁)と呼んでいます。よく分からなければアディパティパッチャヨー(増上縁)の項のアーランマナーディパティ(所縁増上)をもう一度しっかり読んでください。
★アナンタルーパニッサヤパッチャヨー(無間親依止縁)について
アナンタルーパニッサヤパッチャヨー(無間親依止縁)は、アナンタラパッチャヨー(無間縁)と同じ意味です。一つのチッタ(心)が滅した後、続いて生じるチッタ(心)の連鎖が途切れることなく続くように、強力な拠り所として結果をもたらします。このような理由からアナンタルーパニッサヤパッチャヨー(無間親依止縁)と呼ばれています。理解出来ない場合はアナンタラパッチャヨー(無間縁)をしっかりと読み直して下さい。
★パカトゥーパニッサヤパッチャヨー(自然親依止縁)について
パカトゥーパニッサヤパッチャヨー(自然親依止縁):元々持っている性質の通りに、あるいは普段の習慣や環境を通して、強力な拠り所として結果をもたらすことをパカトゥーパニッサヤパッチャヨーと言います。パカトゥーパニッサヤパッチャヨーはテーラワーダ仏教徒なら知らない人はいない、知っておくべき法です。そのためしっかりと説明します。
三種類のカンマ(業)とアビャーカタ(無記)
> カンマ(業)の対象となる法にはクサラ(善)、アクサラ(不善)、アビャーカタ(無記)の三種類があります。アビャーカタ(無記)と言うのは、クサラ(善)でもなく、アクサラ(不善)でもないと(お釈迦様によって)説かれた法を指します。
●四種類のアビャーカタ(無記)
アビャーカタ(無記)とされているのは四種類です。ヴィパーカチッタ(異熟心)、キリヤーチッタ(唯作心)、ルーパ(色)、ニッバーナ(涅槃)です。
ヴィパーカアビャーカタチッタ(異熟無記心)はたくさんあります。一例を挙げると、人が寝ている時に生じるチッタ(有分心など)はヴィパーカアビャーカタチッタ(異熟無記心)です。人間だけではありません。全ての生命において寝ている時に生じているチッタ(心)はヴィパーカアビャーカタチッタです。ヴィパーカアビャーカタチッタは多彩でたくさんの種類があります。全て説明しようとすると理解できずに目が回ってしまうかもしれませんが、このくらいは憶えておいてください。いずれアビダンマ教室に参加する機会があれば理解できると思います。
阿羅漢が善行を行った際に生じるチッタをキリヤーアビャーカタチッタ(唯作無記心)と呼びます。覚りを得ていない凡夫が善行を行う時にはクサラチッタ(善心)と呼びます。阿羅漢が善行を行ったらキリヤーアビャーカタチッタ(唯作無記心)と呼びます。阿羅漢はその生涯で死を迎えたら新たに生を受けることはありません。今生で行った善行為が新たな結果(果報)を生み出すことはありません。これをキリヤーアビャーカタチッタと呼びます。正しくは凡夫が善行為を行ったらクサラチッタ(善心)、阿羅漢が善行為を行ったらキリヤーアビャーカタチッタ(唯作無記心)と区別して定義しています。誰が行ったかによって区別していますが、行った行為そのものは外見上同じ善行為です。
ルーパダンマ(色法)をルーパアビャーカタ(色無記)と呼びます。ニッバーナ(涅槃)もアビャーカタ(無記)と呼びます。
木はルーパダンマ(色法)です。木をクサラ(善)と言うことはできません。アクサラ(不善)と呼ぶこともできません。ですからルーパダンマ(色法)である木はアビャーカタ(無記)です。これは理解するための例です。木だからと言うわけではありません。ルーパダンマ(色法)の一切がアビャーカタ(無記)です。別の例を挙げてみます。人が死んだとします。死んでしまった後の遺体もルーパダンマ(色法)です。その遺体もアビャーカタ(無記)です。遺体をクサラ(善)とみなすことはできません。アクサラ(不善)とみなすこともできません。このためアビャーカタ(無記)と呼びます。
ニッバーナ(涅槃)もこれと同じ(善でも不善でもない無記)です。ですが、説明してもアビダンマ(論蔵)の基礎知識が無いと理解できず目が回ってしまうと思うのでここでは説明しません。ここではルーパ(色)がアビャーカタ(無記)であることを憶えてください。いずれアビダンマ(論蔵)教室に通うようになったら理解できると思います。
●クサラ(善)がクサラ(善)の原因となる様子
クサラ(善)はクサラ(善)の原因となります。クサラ(善)はアクサラ(不善)の原因にもなります。クサラ(善)はアビャーカタ(無記)の原因にもなります。分かりやすく言うと、クサラ(善)を行った後にクサラ(善)が生じます。アクサラ(不善)が生じることもあります。クサラ(善)を行った後、アビャーカタ(無記)が生じることがあります。良く理解できるように説明します。
信じることであるサッダー(信)を依り所としてダーナ(布施)、スィーラ(戒)、スタ(博達)、チャーガ(施捨)という善行を行います。サッダー(信)によりサマーディ(定)、ヴィパッサナー(観)に励んでジャーナ(禅定)、アビンニャー(神通)、マッガニャーナ(道智)、パラニャーナ(果智)を得ます。これも、クサラ(善)がクサラ(善)という結果をもたらす、と呼びます。信じることであるサッダー(信)がクサラ(善)です。サッダー(信)というクサラ(善)が原因となってジャーナ(禅定)、アビンニャー(神通)を得ます。この性質をクサラ(善)が原因となってクサラ(善)が生じると言います。
●クサラ(善)がアクサラ(不善)の原因となる様子
サッダー(信)が原因となってダーナ(布施)、スィーラ(戒)、スタ(博達)、チャーガ(施捨)という善行を行います。このようにクサラ(善)を行った後、「私だからこそこの様に布施ができるのだ」というチッタ(心)が入り込みます。「私のように布施できる人は他にいない」、「私のように戒律が清浄な人は他にいない」などマーナ(慢)が生じます。「過去生でダーナ(布施)、スィーラ(戒)、スタ(博達)、チャーガ(施捨)という善行を行ったので、今生でも豊かに暮らすことができる。今生でもダーナ(布施)、スィーラ(戒)、スタ(博達)、チャーガ(施捨)という善行を再び行えば来世でも豊かに暮らすことができるだろう」とローバ(貪)の見方で行為を行います。僧侶に食事のお布施をしようと、鳥を殺します。豚を殺します。他の人に鳥や豚を殺させます。善行為を行いながら、怒鳴り、荒々しい言葉で話します。このような状態をクサラ(善)がアクサラ(不善)の原因となる、と言います。
●クサラ(善)がアビャーカタ(無記)の原因となる様子
クサラ(善)を行う時、身体的な快感や、体の疲れといった生理現象が生じます。このようにクサラ(善)を行った後に生じる異熟(果報)や肉体的な状態(色法)を、クサラ(善)がアビャーカタ(無記)の原因となる、と言います。布施を行っている際に生じる体の疲労なども、クサラ(善)がアビャーカタ(無記)の原因となった例です。
●アクサラ(不善)がアクサラ(不善)の原因となる様子
ドーサ(瞋)が生じると、他人を口汚くののしり、殴ったり叩いたりします。ローバ(貪)が生じると、不正な方法で他人の所有物を強奪、略奪します。過去生で行ったアクサラカンマ(不善業)が原因で、今生で漁師や屠殺者になりました。今生でも漁をしたり殺したりします。殺しながら荒々しい言葉を発し、屠殺者たちは一人一人が互いに罵ります。このような状況を「アクサラ(不善)がアクサラ(不善)の原因となる」と呼びます。
●アクサラ(不善)がクサラ(善)の原因となる様子
自分が行ったアクサラカンマ(不善業)を思い起こし、それに気づき、サンヴェーガ(戦慄・強い反省)が生じて「私は悪行為、アクサラ(不善)を二度としない、今日から善い事だけ行うぞ」と考えて布施や持戒を行います。漁師が捕えた魚を調理してそれを比丘方にお布施します。人々がお互いにメッター(慈)を育てて相手に送ります。蜂蜜を手に入れて、健康を害して蜂蜜が必要な人に蜂蜜を布施します。カップル達が不謹慎な行為をするために寺院の境内に行き、そのついでに仏塔を礼拝して頭を下げます。これらの状態をアクサラ(不善)がクサラ(善)の原因となると呼びます。
●アクサラ(不善)がアビャーカタ(無記)の原因となる様子
泥棒、強盗、独裁者などが努力を重ね、苦労して窃盗、強奪、略奪し、不当に手に入れた財産と豊かな暮らしを享受しながら、身体的な安楽や受用(異熟生の色法・心)が生じます。このような状況をアクサラ(不善)がアビャーカタ(無記)の原因になる、と呼びます。
●アビャーカタ(無記)がアビャーカタ(無記)の原因となる様子
健康な身体や適切な食事(アビャーカタである色法)を拠り所として、身体の安楽や異熟心(アビャーカタ)が生じます。このような状態をアビャーカタ(無記)がアビャーカタ(無記)の原因となる、と呼びます。
●アビャーカタ(無記)がクサラ(善)の原因となる様子
何らかの原因により心身ともに豊かになり、身体の豊かさを感じます。心身の豊かさを感じながら、来世でも再び心身の豊かさを享受したいと願います。来世でも再び心身の豊かさを享受したいが故に善行功徳を行います。このような状況をアビャーカタ(無記)がクサラ(善)の原因となる、と呼びます。また、誕生日を迎えることで心豊かになり、「参拝に行こう」と言ってお寺に向かいます。お寺に着いたら鳩に餌を与えます。アビャーカタ(無記)がクサラ(善)の原因となるというのはこのような状況を指しています。
●アビャーカタ(無記)がアクサラ(不善)の原因となる様子
何らかの原因により心身ともに豊かになり、身体の豊かさを感じます。心身の豊かさを感じながら、来世でも再び心身の豊かさを享受したいと願います。来世でも再び心身の豊かさを享受したいが故に不善行為を行います。このような状況をアビャーカタ(無記)がアクサラ(不善)の原因となる、と呼びます。また、誕生日を迎えることで幸せな気分になり、遊び尽くそうと言って酒場に行ったり、KTV(カラオケ店)に行ったりします。自宅に友人を招いて、酒をふるまい、飲みあかし、食べては飲んで面白おかしく過ごします。アビャーカタ(無記)がアクサラ(不善)の原因となると言うのはこのような状況を指しています。
●人、食事・栄養、季節などがクサラ(善)、アクサラ(不善)、アビャーカタ(無記)の原因となる様子
人、食事・栄養、季節などもクサラ(善)、アクサラ(不善)、アビャーカタ(無記)の原因となります。
知人が原因でクサラ(善)を行ったり、アクサラ(不善)を行ったり、クサラ(善)アクサラ(不善)いずれにも当てはまらないアビャーカタ(無記)を行ったりします。これが、人が原因となる例です。
食事・栄養がクサラ(善)、アクサラ(不善)、アビャーカタ(無記)の原因となります。
食事・栄養を飲んだり食べたりするとき、瞑想に励むことを目標にします。善人の法(サッダー:信、スィーラ:戒、ヒリ:慙、オッタッパ:愧、バーフサッチャ:聞、チャーガ:施、パンニャー:慧)を実践することを目標にします。食事・栄養を飲んだり食べたりした後は力が満ちて、善人の法の実践に励むことができます。これは、栄養がクサラ(善)の原因となっています。食事・栄養を口にする際にサティ(念)が欠けるとラサタンハー(味に対する渇愛)が生じます。食事・栄養を口にした後、力が満ちて五欲の心が生じ、興奮してはしゃぎまわります。これは食事・栄養が原因となってアクサラ(不善)が生じています。食事・栄養を摂取した後にお腹がきつくなり、坐るのも横になるのも難しくなります。これは栄養が原因でアビャーカタ(無記)が生じています。
天候が原因でクサラ(善)を行うことがあります。「穏やかな天気だ、クサラ(善いこと)をしよう」と言って善行為を行います。天候が悪い時にはお釈迦様が説かれた経を読みます。これが、「天候が原因でクサラ(善)を行う」ということです。天気が悪いことを言い訳にしてアクサラ(不善)を犯してしまいます。これが「天候が原因でアクサラ(不善)を行う」ことです。穏やかな天候を見て心の中に喜びが生じます。これが「天候が原因でアビャーカタ(無記)が生じる」ということです。
寝床、場所、学校、ベッド、マットレス、袈裟、衣服、車、コンピューターなどは、クサラ(善)の原因となる場合もあれば、アクサラ(不善)の原因になったり、アビャーカタ(無記)の原因になったりします。周囲の人々が静かであれば心地よい寝所、場所を得ることができます。周囲の人々が静かで、心地よい寝所、場所を得ると「邪魔されることなく瞑想に励むことができるぞ」と言って、慈悲の瞑想などに励みます。サマタ瞑想、ヴィパッサナー瞑想に励みます。これが、「寝所、場所がクサラ(善)の原因になる」ということです。周囲の人々が静かで、良い寝所、場所を得ると、意味の無いことをやりたいという心が生じ、文字通り意味のないばかげたことをします。これが「寝所、場所がアクサラ(不善)の原因になる」ということです。良い寝所、場所を見て心の中に喜びが生じます。気分が良くなり満足します。これが「寝所、場所がアビャーカタ(無記)の原因になる」ということです。
ウパニッサヤパッチャヨー(親依止縁):強力な拠り所として原因となる法、というのはこのような性質を意味します。パッターナパーリ(パーリ聖典の二十四縁起)の中でお釈迦様が詳細に説かれています。
●クサラ(善)が必ずクサラ(善)の結果をもたらすようにしましょう
私たちは人生という旅の最初から最後まで、他人にクサラ(善)という結果をもたらす人間になれるように奮闘努力しなければなりません。自分自身もクサラ(善)のみをもたらす人だけに依りかかり、頼りにし、付き合うようにしなければなりません。若者たちが周囲の人々に善行功徳の結果をもたらす善人になるように、その若者たちの世話をし、教育しなければなりません。
善行功徳を行う度に、自分が行った善行功徳が結果として善行功徳をもたらすように気づきながら行動しなければなりません。国民が心身ともに幸福で善行功徳を実践し努力することができるように、良い結果をもたらす政党に投票し選出しなければなりません。
●信じることであるサッダー(信)が生じると、それに続いて起こること
信じることであるサッダー(信)が生じると、スィーラ(戒)を守ることができます。スィーラ(戒)が清浄になると、チッタ(心)は幸福になります。チッタ(心)が幸福になると、心の安らぎが生じます。心の安らぎが生じると喜びであるピーティ(喜)が生じます。ピーティ(喜)が生じると心身の静寂であるパッサッディ(軽安)が生じます。心身の静寂であるパッサッディ(軽安)が生じると、心身の楽であるスカ(楽)が生じます。心身の楽であるスカ(楽)が生じると、心が対象に留まり静まるサマーディ(定)が生じます。心が対象に留まり静まるサマーディ(定)が生じると、ルーパ(色:物質)とナーマ(名:心)をあるがままに正しく見ることができるヤターブータニャーナ(如実知見・如実智)が生じます。ヤターブータニャーナが生じるとルーパ(色:物質)とナーマ(名:心)に嫌気がさすニッビダーニャーナ(厭離智)が生じます。ニッビダーニャーナが生じると、ルーパ(色:物質)とナーマ(名:心)を分析、熟慮するサンマサナニャーナ(思惟智)が生じます。サンマサナニャーナが生じると存在の本来の自然な真理に従って観察、洞察するヴィパッサナーニャーナ(観智・洞察の智慧)が生じます。ヴィパッサナーニャーナが生じるとマッガニャーナ(道智)、パラニャーナ(果智)が生じ、ニッバーナ(涅槃)に触れることができます。
マッガニャーナ(道智)、パラニャーナ(果智)を得てニッバーナ(涅槃)に触れたいと願う人は、カンマ(業)とカンマ(業)の結果を信じることなどサッダー(信)を具えなければなりません。サッダー(信)が少ない人はサッダー(信)が増強し強力になるように智慧ある善人を拠り所として教えを請うようにしなければなりません。「サッダー(信)を増強させる教えを聴かなければなりません」と、生命たちに知らせたいとの思いからお釈迦様はウパニッサヤパッチャヨー(親依止縁)を説かれました。
ですから、ウパニッサヤパッチャヨー(親依止縁)の本質を確実に理解し、強力なサッダー(信)というクサラ(善)が原因となって、次もクサラ(善)という結果が得られるよう実践できる人に皆さんがなりますように。カーマーヴァチャラクサラ(欲界善)がロークッタラクサラ(出世間善)の原因となるように、実践する力を具えた人に皆さんがなりますように。
サンガの言葉