(承前)
一つ例を出させてください。6月のある日、直島という島にある地中美術館に見学に行きました。すると、美術館の敷地内には盲導犬は入ることができないと言われたのです。(後に書きますが私は目が見えず、盲導犬を同伴しています)。遠方からはるばる行ったのに見学できないのは後悔するので、仕方なく、美術館から1キロ弱離れた駐車場近くの屋内に盲導犬を係留して見学しました。犬がかわいそうでした。犬への不安と、それに勝るベネッセホールディングスに対する強い怒りで胸が張り裂けそうで、胃袋がひっくり返りそうでした。
帰宅してからも怒りは収まりませんでした。一人になると、そのときの怒りが再度わき上がってきました。すぐに「地中美術館が許せないという怒り」とか、「不本意に扱われた事への怒り」など、いろいろとサティを入れてみました。でも、なかなか収まりませんでした。カルマの話を講座でお聞きして、なるほどと思う一方で、理不尽なという気持ちも起きます。それでも今はずいぶん、その怒りをまるで空の上から眺めるように客観化できるようになっています。きっと、怒りもエネルギーですから、そのエネルギーに負けずに根気強くサティを入れることをした結果、破壊的な事態に至らなかったのだと思います。怒りの感情とのつきあい方は私の瞑想鍛錬にとって大きな課題です。
3不安、恐怖
Sさんとの仕事のトラブルは怒り以外に、不安や恐怖の感情も起こしてくれました。「協同で行う仕事を突然キャンセルしたら周囲の人々、特に雇用主からの評価が下がるのではないか」、「どうやったら自分の仕事をいっしょにやってくれる人を探せるのだろうか」という恐怖と不安が心の中にわき上がってくるのでした。「他人からの評価への不安」、「(アシスタントを)見つけられないという不安」というように、思い浮かんだら間髪入れずにサティを入れるようにしてみました。だから意外に心は平安でした。
実は、ずっと私に貼りついてきた不安と恐怖があります。ふと、自分一人になり、ぼうっとしているとき、まどろんでいるとき、あるいは夢かうつつかわからないような状況でそれは突然に浮かんできます。真っ白な壁、真っ白なベッドシーツ、四畳半くらいの細長い部屋、奥には窓がある。小さい子どもは一人で白いベッドの上にいる。よく見ると、うずくまっている私。冷たい空気、曇り空の窓、音もなく、とても寂しい。この情景とともに、強い不安、恐怖が首をもたげて心を覆う。直感的に私の幼少の頃の光景だと感じる。おそらく、病院のベッドの上でしょう。この情景が過去の事実の出来事なのか、それとも空想(妄想)なのかはわかりません。母が情景に含まれていないことから、おそらく空想だと思います。風景とともに立ち現れる感情、不安や恐怖が重要なのでしょう。
私は生まれながらにして眼の欠陥を持っていましたので、視力が弱く眼の状態もしばしば悪化していました。そのため、生後90日目にして初めて大学病院で眼の手術を受けて以来、3歳になるまで数十回の手術を受けていたそうです。まぁ、そこまでしても結果的には現在、別の眼の病気で全盲になってしまいましたので、視力温存のための手術は徒労に終わったわけですが。
それらの手術はもちろん覚えていません。しかし、推測ですが、私の無意識の中にしっかりと刻印されているのでしょう。それらの手術と病院での入院生活は乳幼児期の私にとっては強烈なストレスとなっていたに違いありません。理解不能な眼の痛み、麻酔の臭い、命がなくなるのではないかという危機的不安、そして、母親から引き離されるのではないかという分離不安を潜在意識の中に抱くようになったのだと思います。この光景と不安、恐怖は理由もわからずずっと断続的に私を苦しめてきました。 (続く)