(承前)
今となってはこういう感情や風景に飲み込まれることなく、自己と対峙した状態として直観できるようになってきました。それを助けてくれたのはヴィパッサナー瞑想です。一番やっかいなのは悪夢としてこの情景を見ることです。目が覚めて、気分が落ち込んでしまうのです。そして、なにより怖い。
身につけた対処方法はこれです。まず飛び起きてから瞑想します。たぶん1分くらい。そして、寝床を抜け出してキッチンに行って水を1杯飲みます。そして、再度、「怖い」とサティを入れてみます。それでもうまくいかないときには、鎖骨の辺りから鳩尾まで両手を重ねてなで下ろします。瞑想以外のことは2年くらい前からやってみて効果を実感していましたが、坐る瞑想とサティを入れること、そして慈悲の瞑想は悪夢と付き合うための良い道具となってくれています。
4 瞑想について
なぜ私がヴィパッサナー瞑想を朝カルで受講してみようと思ったかについて書いてみます。一言で言うと、「流れ」でした。無意識の心理学で有名なC.G.ユングの言う「共時性」(シンクロニシティ)がありました。8年前から気功を始めていました。気功には動功という太極拳のような動きを伴う瞑想と、坐ったままや立ったままで瞑想を行う静功というものがあります。気功のお稽古ではそれらをともに行います。
動功と静功とは車の両輪のようなもので、両方ともに鍛錬することが気功の熟練には不可欠です。それで、もっと静功、すなわち瞑想について深く知りたいと思っていました。さらに、不安・恐怖、怒りなどの感情で時々自分自身が痛めつけられていましたから、それらの感情とうまく付き合う方法を探していました。
あるとき、これらの感情が過去の経験から生まれているのだから、過去を何度も思い出さなければいいと気づきました。つまり、不安、恐怖、怒り、そして痛みで苦しければ、まずは「今、ここ」に集中!と気づいたのです。4年くらい前でした。自分で「今、ここに集中」と言葉にしていました。それと同時に、今の瞬間の刻々と感じられる身体の感覚に注意を集中するようにしていました。
昨年、この「今、ここに集中」がマインドフルな状態ととても類似していることを知りました。それで、マインドフルネス関係の本を読んでみると、実は、仏教のヴィパッサナー瞑想にその起源があることを知り、改めて東洋思想の奥深さに感動するとともに、マインドフルネステクニック(マインドフルネスは心理療法にも応用されていますが、心理療法ではなくてgoogleが取り入れたような、ある意味テクニックとしてのマインドフルネス)ではなくて、ヴィパッサナー瞑想に取り組んでみようと思ったわけです。
それでまずは、グリーンヒルの初心者講習会に参加しました。数時間でしたが、あっという間に終わってしまいました。歩く瞑想、坐る瞑想、慈悲の瞑想までサティの入れ方も含めて一通りの入門コースでした。あえて地橋先生の本も他のヴィパッサナー瞑想の本も読まずにナイーヴな心で講習を受けました。あっという間の半日でした。瞑想実習をしている間、時間が止まったように感じました。こういう感覚を私は無時間的経験と呼んでいますが、気功の動功を行っているときにも時々経験する感覚でした。きっとこの瞑想は自分に合っていると直感と直観しました。それで4月からの朝カルの3カ月講座を受けることにしました。
ヴィパッサナー瞑想を始めてまず気づいたことは、注意の対象が微細になっていくことでした。まるで顕微鏡の倍率を拡大していくかのようでした。例えて言うならば、最初は青々としたたくさんの葉が着いた枝全体が注意の対象だったとすると、瞑想をするにつれて注意の対象が1枚の葉っぱになり、その葉の表面の葉脈になり、やがて、さらに1個の細胞というように注意の対象が絞られていきました。歩く瞑想においては、教えていただいた直後は「足が上がった」、「足が下りた」くらいにしかサティを入れられない、つまり、注意の対象というか、「身随観」が身体の動きの大きな単位にしか分けられませんでした。
何度か練習をしていると、自分の足が離れる瞬間の足裏の触感がわかるようになってきました。感じられればそこで即サティを入れることができます。「足裏が床面から離れ始める」とか、「足裏が絨毯に接触してきた」など。その後に、足のどの部分が床面にまだあって、どの部分が空間に浮いているかが分化してきました。「柔らかい床面からかかとが離れた」、「親指の先が床面から離れた」、「足(全部)が浮いている」など。
おもしろいことに、このように身随観が細かく分化してくると、集中力が増したように思いました。というのは、先にも書いた無時間経験をするようになったからです。つまり、時間が止まったような感覚です。けっこう、これはおもしろくて心地よい感覚です。この感覚を追体験したくて今でも歩く瞑想の練習をする気になるのかもしれません。(続く)