私は幽霊や精霊を見たことはない。UFOを見たこともない。龍や天狗、河童を見たことも。そういう霊能力は備わっていないようだ。憧れもあり、霊的存在とコンタクトできる能力にはすこしばかり羨望を感じる。

 だが、金縛りにあったことは数回ある。こちらは全く不愉快な経験だったが……。金縛りというのは霊的な現象ではなく、肉体が寝ているのに脳だけが目覚めてしまった状態だというのが科学的な説だ。レム睡眠中に脳が起きてしまうのだが、その間は感情情報の処理に関わる扁桃体が活発になっているため、不安で恐ろしい夢を見ることが多いという。つまり、金縛りにあった際の、怪しい声を聞いたり、上から人にのしかかられたりという恐怖体験は「扁桃体が見せる夢」というわけだ。もちろん、霊的現象であろうと、医学的に説明可能な睡眠麻痺であろうと、そこから抜け出したいという思いは揺らがない。ひたすら「この不快な状態からどう脱出するか?」と願っている。

 最初の金縛り体験は10代の頃だったと思う。誰かと思われるなにかにのしかかられて身動きが取れなかった。恐怖以外の何ものでもなくて、必死に「十句観音経」を心の中で唱えた。10の句、42文字の大変短いお経で、「法華経・観世音菩薩普門品」の要約、禅宗でよく唱えられる。私の祖父は熱心な在家仏教徒で子や孫は全員座ってこの経を唱え、座禅をするのが習慣だった。祖父が亡くなるまでのことだが。平仮名で書いた「かんぜおん なーむーぶつ ようぶつ……」という紙を持たされ暗記するまでそれを唱えた。幼児から子供の時分に刷り込まれた記憶なのでこれは強力で、ありがたい加護が得られると刷り込みがなされたらしく、何か危機的状況に陥ると咄嗟にこの経文が口をついて出る。最初の金縛りの時はこれで撃退できた。すーっと体の上の存在が消えるとともに体が動いた。

 その後数回金縛りにあったのだが、「あ、金縛りだ。寝てしまおう。」というなんとも呑気な対処法を使ったこともある。あに図らんや、目が覚めた時には金縛りが解けていた。

 「足元に誰かいる」というぞっとするような気を感じる金縛りもあった。その時はもう必死でまたひたすら十句観音経である。実際、これで脱出できなかったことはない。

 ただし、今の私は祖父の信じた永平寺・曹洞宗道元禅師の門徒ではない。決して道元禅師を否定する訳ではないし、今でも「修証義」は大好きで時々読み直している。だがヴィパッサナー瞑想の修行者としては、この金縛りにこそSatiを入れなければならないのではないか? どんな時でも「よく気をつけて」自分を見張っていることが修行だからだ。「体が動かない」「胸のあたりが重い」「誰かが乗っているような気がする」「恐怖」などとSatiを入れることになるのだろうか?

いやいやいやいや、そんなことをやっていたら、どんどん心身ともに何かに侵食されて気がおかしくなってしまうかもしれない。体を乗っ取られる、憑依される、そんな恐怖も感じる。だがやはり、ここで踏みとどまってSatiを入れることで、一歩進めるのではないか?

これから避けがたい死に向かっていく道程では、金縛りどころではない恐怖体験もあるかもしれない。俗に言う「お花畑」や「愛しい係累が向こう岸で呼んでいる」といった美しく幸せな旅立ちとは限らないではないか。そういうことがあっても、平常心を失わずSatiを入れ続けることができたら、修行者としては満足いく旅立ちではないだろうか。金縛りは滅多にない素晴らしい修行体験となるかもしれない。

 そう思い至って、「さあ来い! 金縛り!」と思って待っているのだが、それ以来どういうことか一度も金縛りにあわない。少し残念なような、ほっとするような、そんな気持ちで寝ているのである。