日本中の避暑地、避寒地には、そこに馴染んで定住する移住者がいるものだ。こういう土地は、どこか余所者よそものを許容する空気がある。決して同化するわけではないし、村人として受け入れているわけでもないのだが、お互いに気持ちよく共存しようという雰囲気があるように思う。地元としては移住者がもたらす経済的メリットもあり、都会から来る者には景色、空気、水、地場の野菜などは大きな魅力だからだとなる。そういう訳で、ほとんどの移住者は、付かず離れずという距離感でうまく生活しているように思う。

 だが、時には地元とはほとんど交わらずに、定住している強者つわものもいる。直接の知り合いではないのだが、高齢者の入り口にさしかかった年代の男性、仮にA氏としよう、A氏は我が家より100mほど標高の低い場所に単身で移り住んで来られた。もう10年ほど前のことらしい。畑付きの古民家を買い取り、自分で住みやすく改築したとのこと。鶏を飼って卵を採り、ヤギを飼って乳を絞り、飲むだけでなくチーズも作る。畑にはりくとうを育て自分の食べる分だけを賄う。野菜、果物はもちろん自前。さほど大きくはないものの、太陽光発電設備を持っていて最低限の電気は調達できる。井戸があるので水はそこから引いている。暖房は薪ストーブ。炭焼きもする。そうなのだ、ほとんど自給自足の生活をしておられる。おそらく最低限必要な衣類や寝具などは地元のスーパーで購入していると思われるので、完全な自給自足の生活とは言えないけれど、ほとんど孤独な生活を満喫できているのではないだろうか。

山の上の方には猟師さんがいて、鹿や熊、イノシシなどを撃って生活しているので、A氏も猟銃を持つ許可を得ていれば、もっと食生活は豊かだったかもしれない。だが大型獣の処理は大変だし、そのために多くの人と関わることにもなるだろうから、今の形がベストなのかもしれない。

A氏は大地震でライフラインが止まっても、ほとんど困ることがないので安心しているそうだ。

これはひとつの理想の生活ではないか? 私も憧れる。数ヶ月に渡って誰とも接触しないで暮らせる。もしSatiをいれながらこの生活ができるのであれば、素晴らしい毎日だろう。タイの森林僧院での経験からすると「しゃべらない」というだけで、かなり心身の状態は変化する。変性意識状態にも入りやすい。瞑想も良い状態になる。

しかし自分に置き換えてシミュレーションしてみると、色々問題があるのも見えてくる。まず毎日とても忙しいのではないか? 鶏やヤギの世話、畑の世話、できあいの物を買ってくるわけでないから料理や後始末もやらねばならない。洗濯や掃除もひとりでやる。日の出と共に起き、日の入りと共に寝るとすると、ほとんど働きづめなのではないか? さらによほど頑健でない限り、体調不良の日もあるだろう。生来虚弱な私では、ほとんど不可能な生活だ。寝込んでいる間に畑は草茫々、鶏やヤギは死んでしまうかもしれない!

 ブッダは托鉢をし、寄進を受けて生活しておられた。生産活動に関わっていては修行の時間が無くなってしまうということか。A氏の生活に憧れるけれども、やはり修行者としては目指すべき道では無いように思う。他人と極力関わらずに、自分と向き合って暮らすのは理想だけれど、スーパーやコンビニ、宅配などなど便利なものを上手に使いながら、瞑想の時間を取り日々過ごすのが在家修行者としては望ましいのではないか? 何事もバランスを取って、自分にできる範囲で進んで行くのが良いのだ。今世でできることは限られている。残念ながら凡人はまた再生して修行を続ける。ならば焦らず淡々としかし真摯に、今やれることをやる。

完全な自給自足生活で、他人と関わらず、孤独に犀の角のように歩めたらそれは素晴らしいことだが、到底ひ弱な凡夫には不可能な生き方だ。おそらく一日が終わる頃は疲労困憊で、瞑想をする余力は無いだろう。

 そう思いながら、少しでも自給自足の生活に近づきたくて、ささやかな畑で野菜などを育てる暮らしをしているのである。