草下シンヤ著『怒られの作法』(筑摩書房 2023)
著者は彩図社(出版社)の書籍編集長、そして作家で漫画の原作者でもある。新聞に載った書評によれば、「著者はヤクザや裏社会を得意ジャンルとして長年活躍してきた名編集者」だという。
著者は自身が関わるさまざまな出版物に対する外部からの、それも時には危険に感じるほどのしばしばのクレームの現場に対応しながらさまざまな気づきを重ねていく。本書は若かった時代の自らの歩みも背景に、そうした気づきの一環を具体的に、しかも説得力をもって著わしている。
その一つをあげるとすれば「怒られ」という言い回し。私もはじめは「何これ?」と思ったが、2010年代後半頃から若い世代を中心にSNS上で使われるようになっているという。著者によれば、例えば「発生」と組み合わせて「社内会議で怒られが発生した」「上司に仕事のミスがばれて怒られが発生しそう」というふうにも使われるという。(下線は本稿筆者)
ではなぜこのような表現が使われるのか。著者によればその理由はこうなる。
「怒りを感情ではなく現象として捉えている点に」あって、「『怒られ』の部分をたとえば『事件』『事故』『災害』といった言葉に置き換えても、ほとんど違和感がありません。つまり怒られることを、天変地異のように自分とは無関係に発生した現象として捉えているのが『怒られ』の特徴と言えます」
つまり、一見客観視しているようにも見えるが、実はそんなかっこいいものではない。単に逃げているにすぎないと著者は考える。と言うのは、こうした対処法は昔からあって、「雷親父」とか「虫の居所が悪い」などというのもそうした例だが、「相手だけでなく自分も含めて怒りを外在化している」ところに「怒られ」の特徴があるという。
さらにこの「怒られ」は、「ネット社会で生まれ、SNS上で使われている点と無関係ではない」とされる。なぜなら、「対面での直接的なコミュニケーションが求められる実社会では、(心の中で思うのは自由であるにせよ)『怒られ』として無関心、無責任を貫くことは許されない」が、ネットでは、「怒られた事実も傍観者のように俯瞰することが可能」だからだ。ということで、「怒られ」とはSNSというツールを利用して、「相手の怒りを自分とは無関係な場所に遠ざけ、怒りの原因や責任を外在化させることで自分の精神を疲弊させない、傷つけないための一種の自己防衛策とも言えます」と結んでいる。
本書で著者はこうした考えに至った背景にある多くの経験を、筋道を立てながら具体的に述べている。私たちは、普通に考えれば著者が携わる仕事にまつわる経験があるわけではないだろう。しかし根っ子のところで似たような思いをすることもあるのではないだろうか。そうであれば、本書には数々のヒントを得るところもあるに違いない。なお本書では、要点と思われるところが著者によって太字で書かれ、より理解しやすくなっている。
書評者は、私たちは「怒られると恐怖で萎縮してしまい、とにかくひたすら謝ってその場をおさめようとする人も多いのではないだろうか」として、本書は「まさにそんな人に読んでほしい」と言う。さらには、「恫喝や理不尽なクレームが日常茶飯事という日々を送る」著者が「実践を通して学んだ怒られ術は、とにかく面白いとしか言いようがない。怖い人たちからどんな目に遭い、どう危機を切り抜けてきたのか、そんな興味本位から読んでも十分に楽しめる」とも。
また書評者は異なる面からも本書の魅力を語る。それは「怒られ」の場面を「相手の心に向き合うチャンス」と捉えること。どういうことかと言うと、著者は「決して彼らの言いなりにはならずに、かつ、怒りの背後にある傷に触れることで信頼関係を築いていく」が、そのときの「瞬間的な判断や、厳しさとやさしさの絶妙な使い分け、相手を見抜いて形勢を逆転させていく様子の記述は、まるで合気道の本でも読んでいるかのようだ」とも言い、最大級の賛辞を贈っている。
本欄では太字になっている要点をもとにそれぞれの概要だけを紹介する。
第1章では、「怒られ」というのは「怒り」の外在化、「感情に片足を残しながら、一方で相手の怒りに引きずられないように距離を取っている状態」と捉える。なぜそうするのか。それは「心が傷つけられることを防ぐため」であり、また一方では「相手との関係性を破壊しないため」。このようにして「怒られ」を究めると人間に対する「諦観」にはなるけれどしかし、「怒り」のすべてを「怒られ」と捉えるのは決して得策とは言えないのだとも。「怒り」と向き合う方法は他にもあるとする。
第2章は怒りの種類による対処法。怒りには「意思表示」、「自己防衛」、「目的達成」という3つのパターンがあるという。
「意思表示」というのは「反応としての怒り」で、傷つけられた負の感情の現れ。そのような怒りに直面したらその背後の傷に目を向けるようにする。
「自己防衛」は怯えからの怒りで、多くの場合言われた方はその理由がわからない。なので、できるだけ距離を置いたり環境を変える。
「目的達成」は例えば金銭が目的のような手段としての怒り。よくある「誠意を見せろ」には「それはどういう意味ですか?」「考えたけどわからないのではっきり言ってください』と食い下がる。そして何を言われても気にせず「すみません、わからないのでもうー度説明してもらえますか?」と質問を繰り返していくと、ついには相手も疲れて「もういいわ」と音を上げるという。言った時点で恐喝罪になるから、相手も「金を出せ」とは言わずに「誠意を見せろ」なわけなので、こちらからは絶対に忖度しないこと。「とことん議論の姐上に載せて話し合うことが重要です」と言っている。
第3章では、いかに「怒られ」として無力化しようとしても、否応なく巻き込まれてしまい、無視続けることが出来ない時もある。そのような場合にもっとも怖いのは怒られること自体ではなく、「心にもない言動を取ってしまうこと」。
ではどうするか。それは前もってリスクをきちんと評価して対処の仕方を考えておくことだと言う。そのリスクは著者によると「身体的リスク」「訴訟(金銭的)リスク」「信頼性のリスク」の3つに分けられる。内容は略すが、3つ目は「ミスを隠したために信頼を失うこと」ということ。(←よくある話しです)
否応なく巻き込まれた場合の最悪手は「過剰に自分を守ろうとすること」。重要なのは相手が怒っている原因に意識を向けることであり、その場合、「怒りから逃げるコスト」と「問題に決着を付けるコスト」とは同じだと著者は言っている。
第4章では「謝罪するべき場面」と「謝らなくてもよい場面」を見分けることが大切だという。そしてダメな謝罪のパターンの一つは「相手の感情に飲み込まれてしまう」こと、もう一つは「相手の感情を無視して聞き耳をもたない」ことの二つ。むしろ、「謝罪の場面は、人間の心理や社会について理解を深める絶好の機会」でもあり、また「謝意は主観で、実害は客観で」と切り分けることも大切だという。
そして究極的な心構えとして二つの重要なことは、「トラブルを解決しようとは思わない」ことと「相手にも赦してもらおうとも思わない」こと。
なぜなら、トラブルの解決には相手の合意が必要であり、また、相手が赦してくれるかどうかもわからない。つまり、「どちらも自分にはコントロールできないことなので、深く考えても意味がない」からだ。それなのに、「問題を解決したい」とか「赦してほしい」というのは「別の見方をすれば、相手の意思や行動を恣意的に変容しようとしている」ことにもなってしまうから。(←まさに「あるがまま」ではない)
この章を著者は次のようにまとめている。
「つまり相手の怒りを鎮めようとするのも、自分を許してほしいと思うのも、どちらも相手のためではなく自己保身でしかない。厳しい言い方になりますが、それでは謝罪になっていないのです。
問題の解決とは、個人が実現するものではなく、条件が整った局面で起こる“現象”だと私は考えています。ほとんどの問題は不確定な要素が複雑に絡まり合っていて、その全ての流れを自分で操作するのは土台無理な話です。まずは自分でコントロールできることと、できないことをしっかりと区別する必要があります」と。
第5章はネットでの炎上の傾向と対策を取り上げているが、ここでは省略する。
第6章では先ずこれまで述べてきたことを端的にまとめている。そして、「怒りに向き合うとは、この彼我の間に横たわる断絶の谷を埋めていく作業」であって、そこでは「『あなたと私は違う』という事実をまずは認めることが大切」なのだとする。
ここからが著者の結論になるが、読んでいてまさにヴィパッサナーに通じると思われる個所を紹介したい。(←本文はもっと長く、ここでは一部だけ)
第6章の見出し「能動的に諦めるということ」に次のように書かれている。
「・・・自分の主観から一旦離れ、全体的な視点から自他の違いを明らかにし、自分の感情を納得させる。『能動的に諦める』ことで見えてくる物事や道はたしかにあります。
諦めることはまた、執着を捨てることでもあります。強い執着があるときは、自分が問題や関係性の壷に組み込まれている状態です。当然ながら全体像を客観的に捉えることはできないし、自分の立ち位置を見失いやすくなる。
そこで執着を捨てて、-歩引いて俯瞰で見ることを意識する。具体的に言うと、『あいつはむかつく』と考えているのが主観であり、執着している状態。一方で、『むかついてるな、自分』と考えるのが客観です。
客観視ができると、自分さえもひとつの駒として見られるようになる。その結果、『ここは相手の言い分を飲んであげよう』とか『この方向から解決策を出すこともできるな』とか、多面的に思考できるようになります。
つまり『諦観』とは、相手だけでなく、自分を含めて客観視することです。相手だけでなく、自分の感情も冷静に見つめられるようになれば、多くの人間関係の苦しみは和らぐ」
さらに、
「『相手が○○だから××する』という考え方は、主体が相手にある状態で、自分の思考や感情の決定権を相手に委ねている状態であるとも言えます。そうではなくて、『自分はそのときこう感じた、だからこう決めたんだ』と、行動の主体を常に自分に置く。そうすれば、結果的に不利益を被ったり、不本意な結末になりたりしても、『自分が決めたことだから仕方ないよな』と明るく諦めることができます。過去の自分を呪うことなく、自己肯定感を損なうこともない。まずは自分がどう感じたのか。そこをしっかりと拾い上げた上で、それは自分の行動で変えることができるのかどうかを考える。そして自分では解決しようのないことであれば、すっぱりと諦める。順序立てて感情に向き合う必要があります」
最後に著者は、本来の自分は気の大きな人間ではなく、むしろ「これは大丈夫かな」とすぐに心配になってしまうほうだったのが、「叩かれて叩かれて、これ以上は小さくならないというところまで叩かれたことで、自分という人間を客観的に見つめられるようになった」、そして「不思議なことに、自分のことがわかると他者を許せるように」なってきたという。
こうしたところに至るまでのかずかずの具体的なエピソードは、ぜひ本書を直接読まれたら良いと思う。
(雅)