著者は南山大学人文学部人類文化学科准教授。南山大学言語学研究センター長。専門分野は、常語哲学、意味論。また、言語のダークサイドに興味があり、罵詈雑言をはじめ、差別語、ヘイトスピーチの仕組みとその倫理的帰結についての研究も行う。著書に『悪い言語哲学入門』(ちくま新書)、『名前と対象―固有名と裸名詞の意味論』(勁草書房)など。

2023年9月16日付けの毎日新聞『今週の本棚』欄に次のような紹介文が載っていた。
「悪口の『悪さ』を説明するのは結構難しい。人を傷つけるから?悪意があるから?いや、それだけでは不十分だ。恋人からの別れの言葉のように、人を傷つける言葉は他にもあるし、いじめの加害者による悪口には悪意がないことだってある。
そうした具体例を示しながら、『悪口はなぜ悪いのか』『どこからどこまでが悪口なのか』『悪口はどうして面白いのか』を考察する本書は実に明快だ」
※この3つは目次のパートを表し、中は合計20の節に分かれているがスペースの関係からここでは転記しない。

これを読んで、八正道の「正語」とのかかわり方はどうなのかが頭に浮かび、そこで早速読んでみた。言うまでもなく「正語」には「悪口を言わない」というのがある。ただ「その中身は?」と言われると、「誹謗や中傷」以外にはあまり浮かんでこないし、「これがなぜ『悪口』?」などとも考えたことがなかった。だからもしかすると「悪口」に当たる言葉を気づかないまま日頃使っていたこともあったに違いないと思う。
本書は「悪口」というのはどういうことなのかを整理しているので、それを理解しておけば日常での失敗も防げるのではないかと思う。その意味から、本欄では上にあげた最初のテーマ「悪口はなぜ悪いのか」だけに限って取り上げることにした。また著者は、悪口の考察を進めると攻撃的なことばや悪口を生み出す人間や社会についてもいろいろわかってくると言っているが、そのことにもここでは触れない。

著者は「はじめに」ですでに、悪口とは「誰かと比較して人を劣った存在だと言うこと」だと結論を述べている。しかしそこに「人を傷つけることば」とか「悪意を持ってことばで攻撃すること」といった常識的なことを言っていないことにも気づいてほしいと言う。本書の主要な課題はその証明だとしている。

○人を傷つけるから?
まず常識的に言われる「悪口が悪いのは人を傷つけるから」というのはあまりうまい説明ではないと言う。なぜなら悪口以外にも、例えば「残念ながら不合格です」のように、人を傷つけたり精神的にダメージを与える発言はたくさんあるから。こうした言葉はもちろん悪口ではない。
このポイントを論理的なことばを使って言いかえると、「人を傷つけることば悪口の十分条件ではない」ということだ(p.14)。
一方、こうした「人が傷つく」とか「不快に思う」と言うような基準ばかりに焦点を当てるとむしろ不都合が生じることがあるという。
例えば、「いじめられている側が、『やめろバカ!』と、多少乱暴なことばを使って、自分の身を守ろうとしたとします。そのとき、そのことばづかいは他人に不快感を与えるからやめましょう、などといじめられている側を注意したとすると、これほど不公平なことはないでしょう」(p.14)。
似たようなことは、差別を被っている人たちが批判の声をあげるような社会でのやりとりでも見られる。
「そのとき、その批判の内容ではなく、ことばづかいや言い方に論点をそらせて、黙らせようとする反応があります。『乱暴な発言なので怖いです』『そんな言い方では誰も協力してくれませんよ』といったものです。そうした行為は、『トーン・ポリーシング』(tone-policing口調の取り締まり)と呼ばれています」(p.18)。
このように、不快さや痛みのような感覚だけですべてを説明しようとすると、「まっとうな説教ですら悪口になってしまいますが、それはおかしな結論です。したがって、人を傷つけるから悪口は悪いという発想で、悪口を理解することばできないのです」(p.18)。

○悪意のせい?
では言う側の心に「悪意」があるから「悪口」なのか。
しかしそれもぴったりとは当てはまらない。なぜなら、「悪意は悪口の必要条件でも十分条件でもないからです。悪意がなくても、悪口を言うことができます」(p.19)。
これには、無邪気な子供がおとなをからかって言う悪口は悪意がなくただ面白がっていたりする例や、冒頭の紹介文のようなことがあげられている。
さらに、悪意を込めてわざと「褒め」たりすることもあったり(その場合は伝わらないので傷つかない)するし、おまけに、「『悪意はなかった』という言い訳ひとつでどんな発言も許されてしまう」可能性も生じてしまう。(p.23)

○人のランクを下げるから?
悪口が悪い理由は、社会の中での立場という「ランク」概念から考えられるという。
例えば、「きもい」とか「うざい」は否定的な評価を表していて、「うざい」人は「うざくない」人よりも「良くない」「悪い」あるいは「劣っている」ということだ。
「『うざい』を使う人は、普通の場合、自分のことは『うざくない』と思っているのでしょう。すると、誰かに『うざい』といった悪口を言うことは、標的は自分より劣っているのだ(自分は標的より優れているのだ)、と言っていることになります」(p.27)。
優劣は「上下」のランキングとしても理解できるから、「悪口は、一般的に、標的が自分よりもランクが下だと言うことなのです。これが、本書でのメインの主張になります」(p.28)。
このようなことで、ランクを下げられて社会的な立ち位置があやうくなった「人物には不都合が生じ、なにかと生きづらくなります。だから悪口は嫌なことであり、不快なことであり、屈辱的なことでもあるのです。そして悪口が悪いのは、そのような序列を作り出し、誰かを劣った存在として取り扱うことは悪いことだからです」(p.30)。

○記述のランキングと優劣のランキング
「人と比べるな」「比較なんてしない方がいい」というのはどだい無理な話だという著者は、これを「記述のランキング/優劣のランキング/存在のランキング」という3つに区別して考える。
記述のランキングは身長・体重のような単なる事実関係。しかし、そこになんらかの価値を加えると、優劣のランキングが重なってくる。例えば、「背は高い方が良い、足は長い方が良い、目は大きい方が良い、偏差値は高い方が良い、給料は高い方が良い、などと思ってしまいます。状況次第ではそうではない、そして自分自身がそうではないかもしれないのにです」(p.34)。
「順位をつけたり、競争したりしない方がよい、などとは言っていません。競技も切琢磨も大歓迎です。同じ評価軸で素晴らしい結果を出す人が誉められる、賞賛されることも大事です。重要なのは、すごい人だから『評価する』ことと、同じ人間だから『尊重する』ことの区別です。これから見ていくように、すごい人だろうがすごくない人だろうが、人間として同じように尊重されるべきだからです(p.35)。
○存在のランキング
私たちは上記2つを一切無視して、人物そのもののランキングを作成することがある。これを「存在」のランキングという。つまり「人として上」「人間として下」というような考え方で、客観的な基準はなく、一種の価値観を表しているに過ぎない。
「人間の何に本来的な価値があるのでしょうか。文化でしょうか。言語でしょうか。どうしてそれにクラゲの生よりも価値があるのでしょうか。(略)しかし、『人間は人間自身や人間の文化に価値を見出すよね』『人間は人間を大事にするよね』以上のことを言うのはとても難しいのです」(p.40)。
これが人間に適用されるとレイシズム(人種差別主義)やセクシズム(性差別主義)になり、また、「居住地、出身地、親の仕事や学歴や年収、そういった基準で人々を分類し、この連中は自分たちより上だ、下だと存在のランキングを作成」(p.41)することにもなる。さらに、職種によって人に接する態度をがらりと変えたりもする。
なので、「どのように人に接するか、どのように人が取り扱われるのかという『処遇』は、人のランキングについて考えるのに重要な観点」(p.42)となる。

○尊厳としてのランク
このパートのまとめとして著者は次のように言う。
「現代人にとって、人間の間に存在のランキングをつけるのは悪いことだと言えます。これが悪口が悪くなる根本的な理由です。言い方を変えると、すべての人間は同じランクにある、つまり平等なはずなので、誰かをランクが下の存在として扱うことは良くないことです。
(略)
悪口だけでは、少ししかランクを下げられないかもしれませんが、悪口からエスカレートして、人を見下し、文字通り足で踏みつけるというところまで進むかもしれません。悪口には人の尊厳を傷つける力があるのです」(p.47)。

この第1のパートでの結論は2つ。
第1に、「悪口」が悪いのは、「悪口には必ず比較がともない、誰かが誰かより劣っている」と「人を同じランクの人間として扱わないことが悪いから」ということ。
第2に、「悪口」はそれを実現させるひとつの手段なので、「人を傷つけるかどうかや、悪意があるかどうかは、あくまで悪口の中心ではなく、オプションのようなもの」だ。
これが著者の主張だった。いかがだろうか。このことを記憶しておくだけでも、少なくとも「悪口」に陥る危険を少しは避けることができるのではないかと思う。(文責編集部)