🎯短い要約

★依縁とは、あるものが他のものの拠り所となって結果を生じさせる法則です。
 油絵がキャンバスを拠り所とし、木が大地を拠り所とするように、心や身体も互いに依存し合って成り立ちます。
 これには、心と心所(感情など)のように同時に生じて互いに支え合う性質(倶生依)と、あらかじめ存在する眼や耳といった感覚器官が、後から生じる認識作用の土台となる性質(事前生依)が含まれます。 

 拠り所の質が結果を決定します。
 良き政府が国民を栄えさせるように、良い拠り所は良好な結果をもたらします。
 しかし聖者の目には、凡夫の生存は毒の木が生える土地と映ります。
 生・老・死・愛欲・瞋・痴・愁・悲・苦・憂・悩の十一の火に常に焼かれているからです。
 欲界の善心(布施や戒律)は甘美でも死後に苦をもたらす毒の実に似ており、無知な庭師のように私たちは貪・瞋・慢という毒の木を育てています。
 特に慢心は智者の汚れとされ、いかなる功徳を積む時も生じさせてはなりません。

 釈尊は、欲界の功徳自体を否定するのではなく、それを涅槃への足がかりとして正しく用いるよう説かれました。
 功徳を積むたびに、道智・果智・涅槃への到達を誓願し、ヴィパッサナー瞑想に励むことが求められます。

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🌄長い要約

★拠り所となる原因の法則
 仏教における「拠り所となる原因の法則」とは、ある結果が生じるために不可欠な土台となる働きを指します。
 例えば、絵の具にとってのキャンバスや、木にとっての大地のようなものです。
 これには大きく分けて二つの性質があります。
 一つは、心とそれに伴う感情などのように、同時に生じて互いに支え合う性質です。
 もう一つは、あらかじめ備わっている眼や耳などの感覚器官が土台となり、後から「見て知る心」や「聞いて知る心」といった認識作用を引き起こす性質です。

★聖者の視点と輪廻の苦悩
 視力が良ければはっきりと物が見えるように、私たちにとっても良好な拠り所は重要です。
 しかし、悟りを開いた聖者の眼には、私たちの感覚器官やこの身体は「毒の木が生える土地」として映ります。
 どのような生命として生まれ変わろうとも、そこには必ず、誕生、老い、死、愛欲、怒り、愚かさといった十一の火が燃え盛っているからです。
 さらに、いつ訪れるかわからない死や、死後の不安など、八つの恐るべき現実が待ち受けています。
 聖者は、いかなる生存の形態であっても、これら生死を繰り返す輪廻の苦しみから逃れられない事実を直視しています。

★愚かな庭師と慢心への戒め
 それにもかかわらず、私たちはしばしば「愚かな庭師」のように振る舞ってしまいます。
 毒の土地である身体を美しく飾り立てようと執着し、さらには布施や道徳的な行いといった善行でさえも、「自分は他人より多く施した」「自分は特別に恵まれている」という慢心や競争心で行ってしまうことがあります。
 どれほど知恵があっても、慢心が生じればそれは心の汚れとなり、不善な行いに転じてしまいます。
 現世や来世の幸福だけを求めて善行を積むことは、一見甘くて美味しくても、やがては苦しみをもたらす毒の実を喜んで食べているのと同じなのです。

★正しい善行と誓願のあり方
 だからといって、善行を積むことが否定されているわけではありません。
 究極の心の平安に至るためには、世俗的な善行の積み重ねという補助が不可欠です。
 大切なのはその目的にあります。
 善行を行う際は、単に人間や天界の神として生まれ変わることで満足するのではなく、必ず悟りの智慧を得て苦しみを完全に滅ぼすことを固く誓う必要があります。

 そして、険しい道のりを快適な車で進む方が楽であるように、悟りへ至る過程においても良い環境が助けとなります。
 したがって、「この善行の力によって悟りに至ることができますように。そして、その過程で生まれ変わる際にも、良い環境、立派な指導者のいる時代、健康な身体、十分な知識と豊かさに恵まれますように。これらを具えた賢者として、確実に悟りを開くことができますように」と誓願を立て、日々の気づきの瞑想に励むことが極めて重要なのです。

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 【本文】

8)ニッサヤパッチャヨー(依縁):拠り所として、拠りかかるための原因となる法

●ニッサヤパッチャヨー(依縁)の例
 皆さん、絵画を見たことがあると思います。紙の上、布の上、その他の物の上に物質の形を描きます。絵の具で描いた絵は、台紙を拠り所とします。台紙は絵の具の拠り所として原因となります。
 木は大地の上で生い茂ります。木が拠り所とするのは大地です。木に対し、大地が拠り所として原因となります。ニッサヤパッチャヨー(依縁):拠り所として、拠りかかるための原因となる法と言うのはこの性質のことを指しています。

●三種類のニッサヤ(依)
 ニッサヤ(依)には、(1)サハジャータニッサヤ(倶生依)(2)ヴァットゥプレージャータニッサヤ(事前生依)(3)ヴァットゥランマナプレージャータニッサヤ(応供前世依)の三種類があります。

★サハジャータニッサヤ(倶生依)
 サハジャータニッサヤ(倶生依)は、サハジャータ(倶生)と同じです。サハジャータ(倶生)を忘れてしまった人はサハジャータパッチャヨー(倶生縁)の部分をもう一度読んでください。サハジャータニッサヤ(倶生依)はサハジャータ(倶生)とニッサヤ(依止)の二つの意味をつなげたものです。
 サハジャータ(倶生)とサハジャータニッサヤ(倶生依)の意味はほぼ同じですが、一部だけ異なります。サハジャータ(倶生)の場合ナーマッカンダ(名蘊=受、想、行、識)が同時に生じます。一方サハジャータニッサヤ(倶生依)の場合は、同時に生じる他に、一方が他方の拠り所として結果をもたらします。拠り所として結果をもたらす点が異なります。
 ヴィンニャーナッカンダ(識蘊)、ヴェーダナーッカンダ(受蘊)、サンニャーッカンダ(想蘊)、サンカーラッカンダ(行蘊)と言う四つのカンダ(蘊)が同時に一緒に生じるように、一つのカンダ(蘊)が残りの三つのカンダ(蘊)に原因として作用し結果をもたらします。これを、サハジャータ(倶生)の力で原因として作用し結果をもたらすと言います。ニッサヤ(依)とは拠り所です。四つのナーマッカンダ(名蘊=受、想、行、識)の内のいずれか二つが互いに拠り所となります。つまり、一つが他の一つに依りかかる場合、他の一つが拠り所となります。サハジャータニッサヤ(倶生依)と言うのは、同時に生じ、そのいずれかが他の拠り所として結果をもたらすことを示しています。
 ヴィンニャーナッカンダ(識蘊)、ヴェーダナーッカンダ(受蘊)、サンニャーッカンダ(想蘊)、サンカーラッカンダ(行蘊)と言う四つのカンダ(蘊)が同時に生じます。それだけでなく、ヴィンニャーナッカンダ(識蘊)が、ヴェーダナーッカンダ(受蘊)、サンニャーッカンダ(想蘊)、サンカーラッカンダ(行蘊)の拠り所となり、その原因となって作用します。同時に生じ、拠り所となって、結果をもたらすことをタハザータニッサヤ(倶生依)と呼んでいます。こうした性質をニッサヤパッチャヨー:拠り所となり、依りかかれることが出来るように、原因となり結果をもたらす法、と言います。
 様々なルーパダンマ(色法)となる、四つのマハーブータ(四大種)も四つのナーマッカンダ(名蘊)の場合と同じで、サハジャータニッサヤ(倶生依)の性質を持つことを憶えて理解して下さい。

★ヴァットゥプレージャータニッサヤ(事前生依)について
 形という対象が見えるようにするチャックパサーダルーパ(眼浄色)は自身が拠り所となり、見て知るチッタ(心)であるチャックヴィンニャーナ(眼識)、そしてチャックヴィンニャーナ(眼識)と同時に生じるチッタ(心)チェータスィカ(心所)に、原因として作用し結果をもたらします。
 眼が見えない人は、形を見ることが出来ません。ですから、見て知るチッタ(心)と呼ばれるチャックヴィンニャーナ(眼識)の拠り所は、チャックパサーダルーパ(眼浄色)、すなわち眼です。ニッサヤパッチャヨー(依縁):拠り所として拠りかかるための原因となり結果をもたらす、と言うのはこの性質のことを指しています。
 音と言う対象が聞こえるようにするソータパサーダルーパ(耳浄色)と呼ばれる耳は、ソータヴィンニャーナ(耳識)と呼ばれる、聞いて知る心、そしてソータヴィンニャーナ(耳識)と同時に生じるチッタ(心)チェータスィカ(心所)に原因として作用し結果をもたらします。
 音が聞こえない人は、音を聞くことができません。音が聞こえないので、聞いて知るチッタ(心)は生じません。ですから、聞いて知るチッタ(心)と呼ばれるソータヴィンニャーナ(眼識)の拠り所は、ソータパサーダルーパ(耳浄色)すなわち耳です。ニッサヤパッチャヨー(依縁):拠り所として拠りかかるための原因となり結果をもたらす、と言うのはこの性質のことを指しています。
 眼、耳は生まれた時に既に備わっています。先に生じています。見て知るチッタ(心)はその後、見て知るチッタ(心)が生じる原因に遭遇した際に生じます。後から生じる、見て知るチッタ(心)は、先に生じている眼に依りかかります。依りかかることで初めて生じることができます。眼、耳は、それぞれ見て知るチッタ(心)、聞いて知るチッタ(心)の前に生じ、見て知るチッタ(心)、聞いて知るチッタの拠り所として原因として作用し結果をもたらします。これを、ヴァットゥプレージャータニッサヤ(事前生依)と呼びます。ニッサヤパッチャヨー(依縁):拠り所として拠りかかるための原因となり結果をもたらす、と言うのはこの性質のことを指しています。

●六つのヴァットゥルーパ(事色)
 チャックヴァットゥ(眼事)と呼ばれる眼、ソータヴァットゥ(耳事)と呼ばれる耳、ガーナヴァットゥ(鼻事)と呼ばれる鼻、ジヴァーヴァットゥ(舌事)と呼ばれる舌、カーヤヴァットゥ(身事)と呼ばれる身体、ハダヤヴァットゥ(心基)と呼ばれる心臓の一部を六つのヴァットゥルーパ(事色)と呼びます。六つのヴァットゥルーパ(事色)は、見て知るチッタ(心)などの拠り所です。この六つのヴァットゥルーパ(事色)は見て知るチッタ(心)などの前に生じ、見て知るチッタ(心)などが依りかかる場となり、見て知るチッタ(心)などに原因として作用し結果をもたらします。そのためヴァットゥプレージャータニッサヤ(事前生依)と呼ばれています。
 これは、皆さんが理解できるだろうと思ったことを少しだけ説明したものです。アビダンマ(論蔵)の基礎をしっかりと学んだことが無い人を対象として説明しなければならないので、初歩の初歩だけお話するのが妥当と思います。パーリ聖典のパッターナ(発趣論)にはお釈迦様が、どのルーパ(色)がどのナーマ(名)の拠り所となるか、どのナーマ(名)がどのナーマ(名)の拠り所となるかを詳細かつ広範に説かれています。
 ヴァットゥランマナプレージャータニッサヤ(応供前生依)については説明するのが困難です。アビダンマ(論蔵)の基礎についての知識が無いと、説明しても理解するのは簡単ではありません。そのため、ここではヴァットゥランマナプレージャータニッサヤ(応供前生依)については説明しません。今後、パッターナ(発趣論)の教室に通って勉強することがあれば、憶えて理解できると思います。

●良好な拠り所が必要です
 眼の状態が良ければ見て知るチッタ(心)も良好です。眼の状態が悪ければ見て知るチッタ(心)も不良となります。視界が悪い人は何かを見ても何を見ているかすぐにはわかりません。視界がぼやけているので、見て知るチッタ(心)もぼやけたものになります。
 同様に生き物もまた良い拠り所が必要です。能力は同等であっても良い拠り所がある者の方がより早く栄えます。政府が良い国では国民はより多くの賃金を得ます。トイレの清掃の仕事でさえも、賃金は少なくとも10倍の差があります。ミャンマー国民は丸一日働くと3600チャットぐらい得ることが出来ます。アメリカやイギリスの国民は1時間あたり働くと30000チャットぐらいもらえます。このように差が出る根本には政府の違いがあります。

●国民の拠り所
 良い政府、有能な国会議員は国民の拠り所、頼りの綱です。国民が政治に興味を持ち、政情を理解すれば、良い政府、有能な国会議員を選びます。国民が国政に興味を持たず、政治について知識がなければ、良い政府、有能な国会議員を選ぶことは無くなります。
 国民が良い政府、有能な国会議員を選出することが出来なくなれば政情不安となり人々は長期間にわたり苦しみます。ですから私たちの拠り所である、良い政府、良い国会議員が現れるように、私たちも国民として政治に興味を持つ必要があります。政治を知ることが必要です。

●聖者の見方
 凡夫のチャック(眼)、ソータ(耳)、ガーナ(鼻)、ジヴァー(舌)、カーヤ(身体)、ハダヤ(心臓)と言う六つのヴァットゥルーパ(事色)は、毒のある木が生えた土地のようなものだと言われています。パティサンディチッタ(結生心)を始めとしたアヴャーカタ(無記:善でも悪でもない)の法は不善な見方により、苦く塩辛い味がする、人を酩酊させる木のごとくになります。人間としての生涯であれ、神としての生涯であれ、梵天としての生涯であれ、聖者の眼には醜い木々に映ります。四悪趣(地獄、阿修羅、動物、餓鬼)に比べれば、人間の生涯はまだましと言えます。それでも聖者の見方からすればどのような生涯も不善です。なぜなら、どのような生涯であれ十一の火に焼かれるだけだと言うことを自分の眼で見て知っているからです。生涯で十一の火に焼かれる様子について、私の恩師であるアマラプーラマハーガンダーヨゥンセヤードーが書かれた詩をご紹介します。

●十一の火に焼かれる様子
 誰であってもまず最初に待ち構える「ジャーティ(誕生)」という火によって焼きつくされる定めです。
 壊れないものは何一つも無く、誕生の後に「ジャラー(老い)」という火が燃え続けます。
 「マラナ(死)」という、一つの生涯を破壊して焼き尽くす火が常に燃え続け、まとわりつきます。
 見た目は静かでも、若く純粋な乙女の年頃であっても、「ラーガ(愛欲)」の火が湧き起こり、激しい「ドーサ(瞋)」と「モーハ(痴)」に縛られています。逃れられないほどの後悔の中、燃え盛り抑圧する「ソーカ(愁)」という火を原因とするあらゆる悲しみ、「パリデーヴァ(悲)号泣」に「ドゥッカ(苦)」も加わり、「ドーマナッサ(憂)」、そしてそれに関連し不可分の「ウパーヤーサ(悩)」が強烈となり、命ある限り目をそむけることができない十一個の火に焼かれています。
 この十一の火に焼かれなければならないこの生涯でサンヴェーガ(悔恨)が生じる八つの原因について恩師であるアマラプーラマハーガンダーヨゥンセヤードーが詩を書かれました。

●サンヴェーガ(悔恨)の八つの対象
 母の胎内で十カ月身を宿し人間界、人間の社会に再び生まれても老病死という苦しみ、災厄に見舞われ、頑強な身体で心安らかに過ごすこともできない。それぞれがドゥッカ(苦)に見舞われた後、ほとんどが四悪趣(餓鬼、畜生、阿修羅、地獄)に落ちてしまう。遠い昔からこの輪廻の苦しみを受け、未来でもドゥッカ(苦)に苛まれ、現在の生存でも絶え間なく食を探し続け、昼夜を分かたず常に心身ともに苦しみ、誰一人として安らかに過ごすことができません。八つのサンヴェーガ(悔恨)の対象はジャーティ(生)、ジャラー(老)、ヴャーディ(病)、マラナ(死)、マラナアニッチャター(死は確実だがいつくるか分からない)、マラナサマイェーアブッディ(死の瞬間、気づきを失い悪趣に落ちるかもしれない)、カンマサカタ(死後はカルマに応じて次の生を受ける)、アナーガタバヤ(将来さらに多くの苦しみを受けることになる)。
 このように、聖者の目にはどのような生涯も善くないと映ります。それを憶えて理解しなければなりません。

●様々な毒
 ローバムーラチッタ(貪根心)、ドーサムーラチッタ(瞋根心)は食べている時も、食べ終わった時も、食べた人を苦しませることができる毒の木に似ています。
 人間や神に生まれ変われるように布施をし、行動がより善いものになるようにコントロールするカーマーヴァチャラクサラチッタ(欲界善心)は、食べている時は甘くて美味ですが食べた後、その人を直ちに死に追いやることができる毒の木に似ています。

●愚かな庭の番人
 智恵に乏しい愚かな庭の番人は毒の木が芽生えた毒のある土地に水を撒き、肥料を撒き、手入れします。このように手を入れるにつれて毒の木が生い茂り、花が咲いて実が成ります。その毒の木に毒があることを知らない人たちは実をもいで食べます。そしてたくさんの人たちが身体を壊し苦しみます。
 私も皆さんも毒のある土地に手を入れる愚かな庭の番人です。毒のある土地のような私たちの身体をきれいに見せるために、眼や鼻をより美しく見せるために手を加えて整えます。この身体、この眼、この鼻が希望通りになるように手を加えます。この身体、この眼、この鼻を美しくしたいと願い手を加えるのはその多くが不善な行為となります。説法さえも言い訳を並べて聞かないようになります。政府関係者は政治についての内容を盛り込んだ説法師の法話のみ聞きたくなります。お笑いが好きな人はお笑いを交えた説法を好みます。誹謗中傷が好きな人は玉座に坐って誹謗中傷する説法師の法話のみ聞きたくなります。このようになります。サティ(念)を絶やさずしっかり見てください。
 善行功徳を行う際には、自分はあの人よりもたくさんの功徳を積もうと、競争になることがよくあります。それもまた不善なチッタ(心)です。時に、私だったらこのくらいたくさん布施しなくてはとマーナ(慢)の心が生じることがあります。これも不善行為になります。私たちはどのくらい不善行為を好んでいるかを良く観察してください。毒の木をどのくらい夢中になって栽培しているかを、サティ(念)を入れながらよく見れば明瞭に観察することができます。

●どのような状況でもマーナ(慢)を生じさせないようにしましょう
 苦くて辛い味がする、食べている最中でも、食べ終わった後でも、苦しみをもたらし、身体を壊す可能性がある毒の実をもぎ取り夢中になって食べている人のように、私にも皆さんにもローバ(貪)、ドーサ(瞋)、マーナ(慢)があり、「俺は特別な運命で生まれて幸せに恵まれている人間だ」と思い込みます。ある人はピンニャーマーナ(智恵慢)があるのは善いことだと噂を流布します。「パンディターナン マラン マーノー(智慧がある人の心の汚れはマーナである)」ローカニーティ(処世訓)に書かれています。どんなことがあってもマーナ(慢)を生じさせてはいけません。何のためであれマーナ(慢)が生じるのは善くないことです。どのような原因であってもマーナ(慢)が生じると不善業になるからです。
 ある時、アヌルッダ尊者が「私は千の宇宙を天眼で見ることができます。でも道の智慧、果の智慧に触れることがまだできません」と言いました。するとサーリプッタ尊者が「アヌルッダよ、千の宇宙を天眼で見ることができるというマーナ(慢)を捨て去りなさい」と答えました。そしてマーナ(慢)を捨て去ったアヌルッダ尊者は道の智慧、果の智慧に触れることができました。
 食事(食べている最中は美味ですが食べ終わってから苦しみをもたらします)の布施や身体の行為が善くなるように慎み守ることなど欲界の善行意を行う時には、私も皆さんもそれに酔いしれてしまいます。
 毒を含む大地のようなこの身体に様々な毒の木を栽培し、いかなる時も浮かれ楽しんで過ごし、いかなる時も混乱してうろたえ、いかなる時も快楽に夢中になっていたら、輪廻の苦しみから逃れて苦しみの生存から解放されることは無いと言うことを、全ての生きものに知らせたくて、お釈迦様はこのニッタヤパッチャヨー(依縁)を説き、注意を促されました。

●お釈迦様からの注意
 布施すること、品位のある行動をとり戒律を守ることなど欲界の功徳を積むことが必要です。欲界の功徳の補助がなければ涅槃に触れることはできません。欲界の功徳を積んでも道の智慧、果の智慧、涅槃を目指すことなく、人間や神々になることを目指すことで満足していると甘美な毒のある実、毒のある木がはびこることになるとお釈迦様が注意されています。欲界の功徳を積んではいけないと言っているわけではありません。正しい方法で実践するように注意を促し指導されています。欲界の功徳を積むのは善くないことだと誤った考えを持たないようにしてください。
 ですから欲界の功徳を積む度に、必ず道の智慧、果の智慧、涅槃を目指して誓願してください。力の限りを尽くしてヴィパッサナー瞑想に励んでください。
 バスでシェーダゴンパゴダを参拝したことがあると思います。とても疲れます。快適な自家用車で参拝するのが楽です。誰でもできれば快適な自分の車で参拝したいと考えます。
 このようなものです。涅槃に触れると言っても、誰もがアナータピンディカ長者やヴィサーカのように恵まれた生涯で涅槃を悟りたいと願います。身体が曲がり、やせこけた侍女クッザッタヤーや、ハンセン病に罹ったスッパブッダ王(お釈迦様の叔父)のような生涯で涅槃を悟ろうとは願いません。ですからここで誓願の方法を教えます。
 「お釈迦様の弟子である私はこの善行功徳、チェータナー(意思)、カルマ(業)の助けにより道の智慧、果の智慧を得て、涅槃を悟ることができますように。涅槃に達する前輪廻を経めぐる際にも善い生涯、世界に生まれますように(ガティサンパッティ)、智慧と徳をそなえた君主が治める時代に生まれますように(カーラサンパッティ)、四肢や身体に不自由のない、健康な身体に恵まれますように(ウパディサンパッティ)、豊富な知識と智慧により巧みに商売をこなし豊かに暮らす人になりますように(パヨーガサンパッティ)、この四つのサンパッティを具えた善人、賢者になり、道の智慧、果の智慧を得て、涅槃を悟ることが確実にできますようにお釈迦様に誓願いたします。」
 
 このように誓願してください。祈りを捧げてください。ヴィパッサナー瞑想に励んで下さい。このくらいで、ニッサヤパッチャヨー(依縁)について少し理解できただろうと思います。