八ヶ岳南麓の小さな山小屋に移り住んでしばらくした頃のこと。朝カルの講座の後、地橋先生に呼びとめられた。「新居を購入されたそうですね。由々しいことが起きていないか心配していました。この世はエネルギーが循環する世界です。大きな価値あるものを得たときには、それ相応の出力をしないでいると、まるで強制徴収されるかのように不幸が起きる事例をいろいろ見てきました。お金がいちばん無いときに大変でしょうが、住関係には住関係のお布施をしておくといいですよ」と言われた。そう言えば新築すると病気になるとか、転勤を命じられるとか聞いたことがある。中古の購入でもそういうことがあるかもしれない。劣善も劣善、強制徴収から逃れるための劣善だが、とにかく色々調べて、住む場所が無い難民に住居を提供しているNPO法人に寄付をした。

 その少し前、大雨が三日ほど続いて、ある夜ポタッポタッとどこからか雨漏りの音が聞こえてきた。特定はできないものの吹き抜けの高い梁のあたりから音がする。翌日慌てて管理会社の工事部の人に来てもらったが場所が分からない。「次の大雨の時に呼んでください。現場をおさえないとどうにも……」と言って帰っていった。それからは暗澹として雨を待つ日々となった。せっかく買ったばかりの家なのに、雨漏りとなると屋根の修理? 大変だなあ……と落胆していた。

 さて、雨が全く降らない日が続いて、そんなことも忘れてしまった頃、地橋先生の助言をいただいて寄付をした。寄付をした時は、雨漏りのことにどうしてか結びつかなかった。事故や病気のことばかり心配していたからかもしれない。その後、土砂降りの日があって、「すわっ!」とばかりに工事部の人が来てくれたのだが、雨漏りしているところは見当たらない。確かに聞いたはずの音さえもしない。「屋根から外に落ちる雨音が、家の中で響いて雨漏りのように聞こえたんでしょう。」という結論になった。その時になってやっと、難民へのお布施と、雨漏りのことが関連しているのでは? と思い至った。いや関連しているに違いない。確かに雨漏りの音はしていたのだ。世の中には不思議なことは色々起きる。あったはずの物が消えてしまったり、無かったはずの物が出てきたり。やったはずの無い仕事が済んでいたりする。きっとそんな一例だったのではないか。

 あらゆる事象は、物理法則のように、なんらかの因果関係をともなって現れる、と私は考えている。地橋先生のお話をたびたび朝カルで聴講するうちに、そう考えるようになった。今回は難民が雨風や暑さ寒さをしのぐ場所を提供するNPOに寄付をした。だから雨漏りは消えてしまったのではないか?都合のいい捉え方かもしれないが、私にとっては検証がひとつできたような気持ちになっている。

 それにしても、自分の利益のための布施は劣善であって、しないよりマシという程度のものだろう。本当は心の底から他者の幸せ、苦痛が無くなることを願うものでなくてはならない。そもそも徳の無い者には布施をするチャンスさえ無いという。だから機会があったらすぐ布施をしよう。そうしているうちに劣善も本物に変わっていくかもしれない。

財施だけが布施では無い。「無財の七施」というものもある。
 眼施(温かく優しいまなざし)、和顔施わがんせ(笑顔)、言辞施ごんじせ(愛情ある言葉)、身施しんせ(身体を使う)、心施しんせ(心くばり)、床座施しょうざせ(場所を譲る)、房舎施ぼうしゃせ(泊めてあげる)…(曹洞宗による)の七つの布施だが、これらは純粋な善意のみでできることだろう。こんな小さなことからでも一歩一歩積み重ねていけば、いずれは少しの邪念も無い美しい布施ができるのではないか?

 そう思いながらも、自分の健康を考えて、何か良いライフダーナ(命の布施)は無いものか……と思いめぐらしているのだから、まだまだ劣善の域を出ていないのである。