10月に入ると、ここ八ヶ岳南麓にははやばやと初冬の気配が漂う。森の木々は日々色を変え、季節がどんどん進んでいくのを感じる。小さな我が二階屋の屋根の倍以上の高さのある木々に囲まれているからだろうか、自分が本当に小さくなったようで、大木の巨大な命のエネルギーに圧倒され、季節が自分を巻き込んで変化していくようだ。


 そんなことを感じられるのも、ようやく夏の客が途切れたからで、この夏は千客万来、満員御礼だった。こちらでも土地の老人たちが「こんなに暑い夏は初めてだ!」というくらいなので、東京はさぞ暑かったのだろう。実際気象情報では38℃と発表されていても、アスファルトの照り返しのなかを歩くと、50℃くらいあるのではと思ったものだ。


 ここに移住した理由のひとつは年々ひどくなる猛暑から逃げるためである。夏生まれのくせに暑さに滅法弱くて、毎夏半病人のように過ごしていたから。梅雨明けと同時に「夜行性動物化宣言」を出して、太陽が出ている間は極力外に出ないで生活していた。買い物も夜8時に出かけるありさま。「こんな暑い夏は初めて」と言われても、八ヶ岳南麓の最高気温は31℃の日が3日ほどで、あとは30℃を超えなかった。日が落ちればスーっと涼しくなるので夜はよく眠れる。辛うじてエアコンがなくても大丈夫だったのである。


 エアコンのない生活は体にやさしい。東京に暮らしていたら、エアコンが無くては命にかかわるが、徒歩で駅まで歩いて汗だくになり、電車内でキンキンに冷やされてほっとするのもつかの間、乗り換えでまた汗だく、冷えた電車を降りて目的地まで歩いてまた汗だく。自律神経がおかしくなって帰宅する頃には頭痛と吐き気という生活だ。ここでも30℃になると確かに辛くてエアコンが欲しいなあとは思うものの、そう言えば子供の頃の夏はこんな風だったなとも思い出した。井戸で冷やしたスイカが美味しくて、昼寝の蚊帳かやの中で祖母が送ってくれる団扇うちわの風がやさしくて。


 そういう訳だから、7月末から9月半ばまで、ほぼひっきりなしに来客のアテンドの毎日だった。「移住した」と聞いて「どんな生活をしているのか」と興味を持って訪ねてくれる人、「自分も涼しい場所に避難所が欲しい」と家探しに来る人、「数日でいいから涼しいところに泊めてくれ」という人、私の関係と夫の関係と両方あって、結果ほとんど休みなくアテンドという仕儀になった。中には「合宿」と称する法友の訪れもあって、彼らの宿に私も合流してささやかなダンマトークができたりという嬉しいこともあったが(地橋先生には煩悩探検隊と言われている)、他は通常のアテンドとならざるを得なかった。


 瞑想を始めてから人間関係はどんどん変化した。いわゆる「煩悩フレンド」はいつの間にか減り、一緒にいて不愉快な人、疲れてしまう人はほぼいなくなった。不思議なことだと思う。絶交したわけではない。気がつけば自然と消えてしまっていた。いつの間にか引っ越してしまったり、コミュニティから抜けてしまったりした。入れ替わるように、思わず頭を下げたくなるような人と交流が始まったり、以前から知りあいではあったが、こんな素晴らしい人柄とは知らなかったという人と親しくなったりした。何よりも見えざる力や不思議な現象を否定しない友人が増えた。見えない存在を感じたり、信じている人は総じて謙虚だ。己だけの力で生きている訳ではないと思えば、当然そうなっていくのだろう。


 この夏の来客はみんな歓迎できる人たちだったが、それでも瞑想修行者としてはペースを崩してしまった。まともに瞑想できない日もあった。反省するに、結局これは私の問題で、「せっかく来てくれるのだから喜んでもらいたい」という欲が、「修行したい」という気持ちより勝ってしまうからだ。地縁血縁から離れ、山小屋住まいを始めても、自分の心が変わらないならこんな体たらくにもなってしまう。全く情けない。


 しかしこうも思う。出家者でない限り、在家の修行者はどうしても他人と関わって生きていかざるを得ない。仕事をしているなら、その人間関係があろうし、配偶者や子供がいればその関係もある。生きていくには避けられない由無よしな事がたくさんあって、それが「娑婆しゃばで生きる」ということだ。どこまで削ぎ落として生活するかは、在家の修行者ひとりひとりが個々選んでいくもので、どれが正解ということはないように思う。近隣にヨガの行者がアシュラムを営んでいるのだが、彼は修行最優先で、たまに会食する時でも時間は修行時間外に設定、食べるもの飲むものも厳選してくる。そうなると、なかなか家族と一緒に生活するのは大変のようだ。俗世に生きていれば、思わぬトラブルに巻き込まれることもあり、驚くような言葉をかけられることもある。注意していれば、我が身に何故それがやってきたのか、カルマを考えるし、何が足りないか気づくことができる。目前の人や出来事に全身全霊で向き合うことで、より気づけるのだと思う。それが出家にはない在家修行者の醍醐味ではないだろうか。


 千客万来の夏が過ぎて、夫も出張で、数日間ひとりで誰ともしゃべらず修行する機会を得た。ようやく自分のチューニング(調律・調弦)ができた気がする。こんなユルユルの修行者だけれど、そういう自分であることを自覚しつつ、修行を続けていたいと思う。