近く(と言っても歩いて30分くらいはかかるだろうか)に友人が働いているブルーベリー農園がある。大粒のブルーベリーを5種類栽培していて、時々食べさせてもらうが大変美味しい。都会で買う値段からすると格安で分けてもらえる。シーズン中はブルーベリー狩りもできる。
その友人からこんな話を聞いた。ある朝農園に行ったら、ブルーベリーを囲んで設置してしたネットに絡んで鹿が死んでいた。角が立派なオスで、角がネットに絡まって取れなくななったようだ。お尻の肉は動物に食べられていた。狼はもう日本にいないし、この標高だとツキノワグマは下りてこない(今のところは)ので、イタチか、テン、あるいはタヌキの仕業だろう。
オスの成獣だと150キロから200キロと言われる。とても一人で動かせるものではない。彼女はまず近くの農家の直売所のおじさんのところへ走り、地元の猟師さんを紹介してもらった。猟師さん、既に80歳を超えていて、「軽トラックで行ってあげるけど乗せるのはやってもらわないと、腰が無理だから」と言われた。近所から人を呼び集め、4、5人がかりで引きずりながらトラックまで運んだという。真夏ということもあって、死んだ鹿はすぐに腐敗し臭い始める。その上野生動物はどんな雑菌、寄生虫を持っているか分からないので素手で触ってはいけないそうで、軍手をしておっかなびっくり作業をし、その場で作業着は脱いですぐ洗濯機に放り込んだとのこと。彼女も神奈川からの移住者で「野生動物の近くで農業をやるってこういうことなのね」という感想だった。
ちょうどその数日前に、近所で立派な角のオスと、小柄なメスの番を見たところだった。人間など歯牙にもかけない堂々たる佇まいで、悠々と連れ立って森へ帰っていった。あのオスだろうか? と気になったが、どうやらもう少し若いオスのようだった。「ああ、あの鹿じゃない。良かった」と感じている自分。たった一度かい邂こう逅しただけで、既に「あの鹿」と「この鹿」に違いが生じ、自分が見た鹿に執着が生まれている。その事にもハッとした。
農業を営むものにとっては、鹿は間違いなく害獣だ。ネットを張ったり、電流が流れる柵を設置したりしている。それでも足りず積極的に罠や猟銃で駆除もしている。鹿も人間も、そしてタヌキやイタチも、自分の暮らしや命を守ろうとしているだけだ。共存など甘い考えだ。このような場所で生活を営んでいて「ふ不せっ殺しょう生かい戒」を守ることは難しい。しかしそれでも思ってしまう。山にどれだけの鹿がいるだろう。数頭殺すことにどれほどの意味があるのだろう。罠にかかった鹿は、近づいてくる人間を見て殺されることを悟って恐怖するだろうし、子鹿はそれを見ているかもしれない。しかしこれがこの世のシステムだ。食べて食べられて、駆除し駆除される。そうである以上、このシステムから離れる以外にこの痛みから逃れるすべは無いのだ。
その夜、9時を回ったころ、電話が鳴った。同じ事務所に所属していた10歳ほど若い作詞家の急死を告げる電話だった。卵巣ガンの闘病中に急変して亡くなったということだった。いつも前向きで明るい人だった。私の方が先に逝くだろうと勝手に思っていた。人は必ず死ぬ。人の死亡率は100%だ。生き物は必ず死ぬ。様々な死にざまがあり、悲しみや痛みがある。当人にとっても、周囲にとっても。そう思いつつ少しだけ俯瞰してみると、みな生まれて生きて死ぬ道を歩いている訳で、似たような物語を生きている気がする。それから2日間の間にすい膵ぞう臓ガン末期という話と、らん卵そう巣ガンで数回目の手術という話を立て続けに聞くことになった。どちらも私よりずっと若い人だった。
全てに偶然は無く、起きることは全て正しく意味がある。――とするならば、鹿の死から始まる一連の死の話は、私が今聞かねばならないことなのだろう。起きることは当人にとってだけでなく、それを受け取る人にはまた全く別の課題となる。ネットに絡んで死に、他の動物に食べられ土に還ることなく人間に処分される鹿の死、病院であらゆる手を尽くした人間の死、今まさに生と死の狭間で格闘している者が見る死、冷徹な言い方をするなら、私にとってそれは、その意味を考えるために与えられた機会なのだ。
テーラワーダ仏教の修行に「死」を見るというものがある。タイの森林僧院で短期の瞑想修行をしていたときに、「び比く丘たちが死体の解体に立ち合うから一緒に行きますか?」と誘っていただいた。肉体への執着を弱めるための修行のひとつだが、腰が引けて遠慮してしまった。けれど、逃げた課題は、さまざまな姿で私の前に現れる。それは今までの経験から分かっている。「死」を見つめ、生身の肉体への執着を離れる(せめて減じる)ことは、この先修行を進めるために、避けて通れないことなのだろう。
どんなに美しく見える動物も人間も、パーツに分ければ肉と骨と皮と様々な液体だ。肉体は滅びて腐ってゆく。必死に執着しているものを直視すれば、全く違う様相が現れる。「ありのままに見よ」それがヴィパッサナーだ。
八ヶ岳の森は豊かな生と死に満ちている。虫や小動物の死骸はそこかしこにあって、それが生の実相なのだと教えてくれる。まだまだ道は遠いけれど、自らの死もふ俯かん瞰して静かに受け止められるようになれたら、と梢を渡る風の音を聞きながら切に思った。