私はもともと熱心な仏教徒ではありませんでしたが、たまたま実家が浄土真宗の檀家だったため、小さい頃からお経や浄土真宗の教えには親しみがありました。ですので、原始仏教の考えにはまったく抵抗感はありませんでした。ただ、原始仏教を知れば知るほど大乗仏教とのギャップに気づくようになり、これにはちょっとしたカルチャーショックを受けました。
  とにかく乗りかかった船ですし、やってみるかと思い、毎日10分間だけ歩く瞑想と座る瞑想を実践してみました。ところがいざやってみると、妄想や思考が出るわ出るわ、まともに体の感覚に集中できるのは30秒も持ちません。中学受験をさせない方がよかったのだろうかとか、子どもは将来ちゃんとした職業につけるのだろうかなど、過去の後悔や将来を憂える不安など、次から次へと余計なことが頭に舞い降りてきて10分がとても長く感じました。まるで心は暴れ馬のようでした。
 しかし、曲がりなりにも数か月間続けていると、少しずつ妄想や思考が出てくるまでの時間が長くなってきました。変な例えですが、スキーも最初はだれでも転びまくりますので、嫌になってやらなくなる人もいますが、それを乗り超え、少しうまくなってくると楽しくなってくるということがあります。何となくこれに似ている気もしました。
 この瞑想を数か月間続けると、すぐに私の苦悩がなくなったというわけではありません。ですが、思わぬ副産物が出てきました。それは仕事に集中できるようになり、タイピングなどが早くなったということです。
 それから以前よりは怒りの気持ちが出てこなくなり、いわゆる「ぶち切れる」というようなことはほとんどなくなりました。ただ、私はもともと負けん気が強い性格で、嫌いな人を毛嫌いする傾向が人一倍強かったのです。この気持ちはこれまでも私の人生でマイナス方向にばかり足を引っ張り、プラスになったことはありませんでした。でもこれは心の反応ですから、どうしようもありません。
 それが仏教に関する本を読む中で、四苦八苦の中に怨憎会苦というのがあり、2500年も前に仏陀が8つの苦しみの1つに定義していたことを知りなぜだかほっとしました。また、地橋先生から事実にだけ目を向け、反応の妄想を膨らませないということを教わりました。これまではそういう人と出会ったら、「なんでこんなところで会ってしまうんだ?今日は運が悪いな」などと、嫌悪の気持ちを自分で増幅させていましたが、「まだ自分の心の中に嫌う気持ちが残っているんだな」などと客観的に見るように心がけるようにしました。
 極めつけは慈悲の瞑想です。自分の嫌いな人が幸せになることや悩みや苦しみがなくなることを祈ることは至難の業でした。今でも心底できているかというと、若干疑問ですが、少なくとも嫌悪が自らをも苦しめることになるということを理解し、その心の氷ともいえる恨みの塊を溶かしていこうと努力しています。

 肝心の子どもの不登校に関する心の変化についてです。まず、原始仏教の経典に財産も子どもも自分の持ち物ではないと書かれていました。親としては子どもの幸せを願うばかりにレールを引いてその上を歩いていってもらいたいと思っていました。これが渇愛であり、執着だったということです。教育論的には、過干渉とか過保護ということかと思います。
 また、姉が教えてくれた「手放す」ということは、煩悩を捨てるということにも通じていることに気づかされました。比較する気持ちを仏教的には「慢」というそうですが、これも瞑想修行で手放すべき煩悩の一つに挙げられているそうです。比較して苦しむくらいなら比較しない方がいい、人を嫌って苦しむくらいなら嫌わなければよい。
 地橋先生からは、事実が変わらない限り、認知を変えるしかない。「<捨て育て>という言葉もある。決して見捨てるということではなく、黙って見守りながら、子どものやりたいことをやらせてあげる。お金は出すが、親の押し付けや干渉は一切しない。子供が失敗することを恐れず、仮に行き詰ったとしても、愛情のある眼差しで見守られているかぎり、人にはそれを乗り超えていく力が内在している。人間が本当に成長できるのは人生のどん底まで落ちた時である」というインストラクションをいただきました。
 確かに学歴がなくても立派に人生を切り開いていっている人はたくさんいます。「どうあがいても変わらないものは変わらない。それなら子どもが後悔しないように、好きなことをやらせてあげればいい。もし人生に行き詰まったらその時に考えればいい」。少しずつではありますが、最近はこのように考えられるようになってきました。人の人生は1度きりですし、明日死ぬかもしれないわけです。この心の変化も私にとっては、「まさか」でした。
 地橋先生の本の中に、「自分を苦しめるものは菩薩である」というフレーズがありました。これを私に当てはめると、子どもが不登校にならなければ私は瞑想とも原始仏教とも出会っていなかったということになります。私の子育てもあと数年ですし、決して永遠に続くわけではありません。子育ては親育てと思い、子どもがめぐり合わせてくれたまさかの瞑想を続け、自分の苦悩がどこまでなくなるのか、挑戦してみたいと思います。(完)