祇園精舎はブッダが雨安居(遊行せず雨期に滞在すること)を過ごされた場所です。日本人には平家物語の冒頭に出てくるので、馴染み深いと思います。経典には祇園精舎にまつわる、以下の有名な話があります。
 舎衛城にはスダッタ長者という裕福な商人が暮らしており、預流果に覚っていた居士(在家のブッダの弟子)でした。スダッタ長者は教団に雨安居の場所を寄進したいと考えていたところ、コーサラ国のジェータ王子(漢訳で祇陀王子)が所有している園林を見つけました。王子に購入したいと持ちかけますが、最初は断られます。
 交渉していくうちに、土地に金貨を敷きつめない限りは売りませんと王子が言いました。それに対しスダッタ長者が買いましたと言いました。私は、王子が売らないと言ったのにスダッタ長者が買いましたという話のやり取りは少し変だと思いましたが、当時のインドではいかなる状況であっても価値を表現した以上は、それで支払うのであれば売買は成立する慣習だったそうです。売る気のない王子は無効だと主張しますが、裁判の末、スダッタ長者に購入の権利が与えられます。その後、スダッタ長者自身が金貨を土地に貼り詰めていきますが、敷き詰めている金貨が無くなってしまいます。スダッタ長者は後で準備して払います、と王子に釈明します。一連のスダッタ長者の真摯な態度を見て、王子はもう結構ですと言い、全ての土地の売却に合意します。
 スダッタ長者は別名をアナータピンディカ居士と呼ばれています。アナータピンディカ(漢訳で給孤独)は、貧しく孤独な者に食を給する善徳者という意味です。経典には、「アナータピンディカ居士の祇園精舎である。持ち主はアナータピンディカ居士である」と記載されています。前所有者である王子の名前を冠した精舎にしたこと、本名のスダッタの名前は出さないところに、スダッタ長者の美徳を感じます。現在の祇園精舎は公園のように整備されており、建物はありません。跡地には建物基礎のレンガが残されており、当時の面影を忍ばせています。そのレンガは当時のものはごくわずかで、大部分は後から積み上げていったものだそうです。
 今回の聖地巡りは、ブッダの残した仏跡を肌で感じて、今後の修行の励みにしたいと思って参加しました。聖地の細かい部分を見れば、史実とは異なる、当時の時代のものではない、など多くの相違点が出てきます。そして聖地巡りの間には、聖地への真偽や聖地にいた比丘のモラルなど、疑う心がその都度出てきました。しかしブッダがこの世に生誕されて、ブッダの教えが今も生き続け、それを伝えてきてくれたサンガがあるから、今この聖地に来たのだと実感しました。疑念はできる限り気にしないようにし、聖地で清らかな喜びを感じることに最大限努めました。
 祇園精舎ではガンダクティと呼ばれるブッダが滞在された部屋に対して、正座で三帰依を行いました。今回は一般の旅行会社のツアーに参加した為、周りのツアー参加者の人たちからは奇異に映ったかもしれません。お寺関係の人ですかとも言われました。しかし今回の聖地巡りは、ただの観光では終わらせたくなかったので、他人がどう言おうがどう思おうが、原始仏教の礼拝スタイルで巡礼を通そうと思いました。
 以前タイに行った際、一日中お寺巡りを行ったことがあります。ダーナ(布施)を行うのが目的で、現地のガイドさんに原始仏教の作法を教えてもらったことがあります。今回はタイで教えてもらったやり方で行いました。具体的には比丘に財施をする、布施箱に財施を入れる、献花の布施をする、三帰依の礼拝をする、聖地では時計周りに礼拝をすることです。加えて、可能な場合は歩きの瞑想、座りの瞑想も行いました。祇園精舎では東南アジアから来ている比丘がいたので、財施を行いました。比丘の方からマネーと要求されたのには面食らいましたが、ここでイライラして疑念を大きくするよりも、聖地で比丘に布施したことは良いことだと割り切りました。
 また祇園精舎にはアーナンダ・ボーディというアーナンダ菩提樹があります。雨安居が終わると、ブッダは覚る可能性のある人を導くために、祇園精舎を離れて遊行に出ていきます。人々は、ブッダが祇園精舎を不在にしているときもブッダの代わりになるものがないか、とアーナンダ尊者に相談しました。アーナンダ尊者はブッダの秘書役で、ブッダの十大弟子の一人です。アーナンダ尊者は菩提樹を植えておけばいいのではと提案します。植える菩提樹は、ブッダが覚りをひらいたガヤーの森の菩提樹を採用することになりました。
 今の樹木は植樹した当時の樹木ではなく、第5世代の樹木だそうです。現地ではこの樹木の周りを3周しました。通常タイだと3周ですが、現地のガイドさんに聞いたらインドでは7周とのことでした。7周はヒンドゥー教の教えだと思いますが、宗教や文化が違えば変わるのかと思いました。ここでは3周できましたが、時間の関係で1周しかできない場合がほとんどでした。その為、1周や半周しかできなかったときは、ブッダへの思いが確かであれば回数は大きな問題にはならない、と自分を納得させることにしました。
 次にマヘートに行きました。マヘートは舎衛城と呼ばれ、コーサラ国の首都だったところです。ブッダの時代には祇園精舎の比丘たちが約15分歩いて、舎衛城にあるスダッタ長者の邸宅に托鉢に行っていました。
 現在、舎衛城にはスダッタ長者の遺構と、阿羅漢になった後にアングリマーラ長老が住んでいた遺構が残されています。遺構はストゥーパと呼ばれます。ストゥーパは、その場所が巡礼者の足跡で踏み消されないようにレンガなどで積み上げられたもので、記念碑のようなものです。ストゥーパには記念碑以外にも仏舎利や阿羅漢を祀ったものもあります。大商人だったスダッタ長者のストゥーパが大きいのは分かるのですが、アングリマーラ長老のストゥーパがスダッタ長者に劣らず大きいのは意外でした。
 アングリマーラ長老のような聖者であれば当時、清貧な家屋に住んでいたと思いますが、後世にレンガがどんどん積まれて、今のストゥーパが大きくなったと勝手に想像しました。昔の人々がレンガを積んだのは、本来はブッダの聖地を守る為ですが、人々は徳を積みたいからとも思いました。経典ではアングリマーラは学友や師匠にそそのかされて、999人の人殺しを犯してしまいます。そして母親殺しの重業を犯す直前に、ブッダが救いの手を差し伸べた人物です。999人という大量殺人は、理由はともあれ大罪です。アングリマーラ長老が覚りをひらくことができたということは大きな意味を持ちます。どんな過去の過ちであっても重業を犯さない限り、今世で諦めることはないことを実証しました。アングリマーラ長老の生い立ちが人々を勇気づけて、ストゥーパが大きくなったと想像しました。
 サヘート・マヘート近郊には日本人が設置した祇園精舎の鐘があります。昔は日本から、多くのお寺の檀家が団体でインド巡礼にやってきました。巡礼者達が祇園精舎に鐘がないことにがっかりした反動かどうかは不明ですが、近年に設置されたものです。せっかく来たので、鐘を大きくつきました。またサヘート・マヘート周辺には各国の寺院等も建立されています。中にはヴィパッサナー瞑想のメディテーションセンターもありました。他の聖地でも周辺には数多くの寺院や瞑想センターがあり、世界の人々の仏教に対する信仰の篤さを感じました。
 聖地巡りの後は、サヘート・マヘート近くのシュラバスティーという町のホテルに宿泊しました。(つづく)

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