私がヴィパッサナー瞑想に出会ったのは10年ほど前になります。当時、合宿へ参加したり、地橋先生の指導を受けたりした後に環境が整い始め、そのため苦が少なくなってくるとモチベーションも下がりだし、数年の間仏教から離れてしまいました。
そのうち、無常に変化していく人生の中で再び苦が生じ始め、やはりもう一度仏教を学びたい、今度はやめずに続けたいと思うようになりました。そこで、朝カルに通うというルールを自身に課し、今度は真剣に修行に取り組もうと決心をしました。以下はそのレポートです。
赦しの瞑想に取り組む
修行を再開し、これまでの生き方を振り返りました。そしてサティよりもまずは反応系の修行を徹底的にしなくてはと思い、取り組んだのは赦しの瞑想でした。なぜかと言うと、先生の「許し」と「赦し」は違うという朝カルの法話を聴いて心に響くものがあったからです。
私はこれまでの人生で、「承認」のような「許し」はしてきたつもりでしたが、私に対して明らかな害や屈辱を加え、こちらに怒りの感情を生じさせた人に対しては、「赦す」ということは全くしてこなかったと痛感したからです。今まで私が「ゆるし」てきたのは、積極的に自らの意志でそうしたのではなく、「まあ、仕方ない。許してあげよう」程度の、自分が上に立つような感覚からのエゴ的な「許し」にすぎませんでした。
自分の罪を懺悔し、赦しを乞うとともに積極的に隣人の罪を赦すというような、ダンマに基づいた「赦し」に触れたのは今回が初めてでした。そこで、法話を聴いた翌日から、赦しの瞑想と懺悔の瞑想に毎日取り組みました。
赦しの瞑想はなかなか思うように進展はしませんでしたが、ある日の瞑想中に怒りと憎しみに満ちた自分が他者を睨みつけている顔のイメージ(ヴィジョン)が浮かび、同時に、「人を憎み、恨んでいる自分は、醜くて無様でみじめだ」という、内語のようなものも浮かんできました。
これまで私が赦すことが出来ないできた人物のなかには、他人に対していつも憎しみの波動を出し、怒り散らしているような人がいました。そういうタイプの人に出会うと、これまでは反射的にこちらも臨戦態勢に入ってしまい、喧嘩波動、怒り波動で対抗していたのが現実でした。今になってそれは過剰反応だったと言えるように思っています。
どうしてそんな反応が起きるのだろう、その理由は?と真剣に考えました。そうすると、慈悲の瞑想を定期的に行っていたことで人間関係も良くなりはじめ、介護職という仕事柄、「あなたは優しい人ね」と言ってもらえる機会も増えた私にとっては、自分が潜在意識で他者に対して憎しみや怒りや嫌う心が強くあるのは明らかに目を背けたくなる事実だったからではないか、と気づきました。またそうして赦しの瞑想と並行して心随観の修行を行っているうちに、自分に怒りの波動が出てしまうのは、それから目を背けるばかりではなくむしろ抑圧しようとしていること、加えて自分の闇をその相手に投影していたためではなかったかとも思い至ったのです。
こうして赦しの瞑想にも次第にすなおに取り組めるようになっていきました。
その理由の一つは、ヴィパッサナー瞑想を続けていることがきっかけになって、人生や心が整いはじめたからではないかとも思います。たしかにここ数か月は、家族と過ごしながら幸せだと思うことや、仕事でやりがいを感じることも増えてきました。そのため、たとえ自分の醜い心を随観しても、以前のように必死に目を背け、蓋をしなくてもいられるような心の余裕?環境的な余裕?が出来てきたのではないかと思っています。そして、公私ともに今以上に良い人生を歩んでいくには、これまで目を背けてきた他者に対する憎悪や嫌う心、恨み、復讐心を自分でしっかり認識し、それらを仏教徒として手放していく決意が必要だと思うようになりました。
おそらく今のままでも、たとえ浮き沈みがあったとしてもそれなり幸せな人生も送れるのかも知れません。しかし、朝カルに通い続けるというルールを自ら定めることで「法(ダンマ)」に触れる仕掛けが出来たせいか、上辺だけではなく、もっと根深いところまでの心の便所掃除がしたいと思い始めました。
また上に述べたようなヴィジョンが浮かんでからは、人を憎んでいる自分に気づくと、すぐにその自分の姿を思い浮かべるようにしています。そして、「こんな自分は嫌だな。無様だな。できれば憎みたくないな。どうすればいいだろう?」と考えるようになり、その後で瞑想をすると憎しみや嫌悪の心が少なくなっているという当たり前の事実に気づくようになりました。
こうして心の変化を観たり感じ取ることが出来てきてからは、「やはり瞑想をしなきゃ」と意欲も沸き、また、「瞑想をもし止めてしまったら、醜い汚れた憎む心がまた強まってしまうかも知れない、それは怖いな」とも思うようになりました。
たしかに、毎日赦しの瞑想を行って「赦し」を心がけていても、日々の生活の中では怒りや憎しみの心が湧いてきてしまうことがあります。それは事実です。しかし、これまでのようにそれから目を背けたり抑圧したりするのではなく、「まだまだ憎しみや嫌う心の反応が根深いな。なんとかしなきゃ」と思うように、少しづつではありますが反応も変わってきました。
ある日、仕事で些細なケアレスミスをして家に帰ってきたことがありました。これまでだとそんな時には自分を責めたり後悔することが多いのですが、その日は、「こんなに他者を赦そうと努力しているのだから、自分のことも赦してあげればいいじゃない?」というメッセージのようなものが心に浮かんできました。その時には、自分のミスから逃げたり後悔するのではなく、反省した上で気持ちを切り替えられるような気持ちになり、同時に、他者を積極的に赦そうとすることではじめて自分のことも赦せるようになってきたのだなと腑に落ちました。また、これまで積極的に懺悔の瞑想をしてきてもあまり心が変わったような効果を感じられなかったのは、自分が赦されることばかりを望んで、他者を赦そうという心がほとんどなかったからではなかったか、そのこともまた実感されました。
今は、以前にヴィジョンで見たような、人を憎み続け自分も責め続けるような人生はもう終わりにしたい、そのヒントがヴィパッサナー瞑想にはあるはずだから修行したいと、心から思っています。(続く)