(承前)
確かに、人は親や周囲の影響によって作られると説く文献は多くあります。でも私は、その悪い環境や人に対して赦しの瞑想を心の底から続けているうちに、「なんだ結局悪かったのは自分ではないか」と思い知り、まさに、「ついにバレてしまった」というような心境になりました。「やはり、自分の汚れた心を作っているのは自分でしかなかった。そのことを知りたくないとエゴが抵抗していたのだな」と悟ったのです。
「サティからも反応系の修行からも遠ざかり、受けた刺激に煩悩のまま反応していた期間があったんだから、そりゃカルマは悪くなるよな」
「刺激を与えたのは他者や外部環境でも、その反応は自分がしたものだし、人にさせられたわけではないよな」
このことは、朝カルで、六門から受まではブッダも誰でも同じ、そこからの反応が違うのだという基本を再確認した時にも思いました。環境にどう反応するのかは、周囲でなく自分自身なのだと。
仏教に縁を戻そうと修行に真剣に取り組んでいなければ、なんとなく誤魔化しながら生きていけたかも知れません。でも、修行を重ねているうちに、もうこれ以上自分を誤魔化せないぞと理解され、それが「自己欺瞞」という言葉に繋がっていく流れになったのだな、と、今文章を書いていて再び強く感じます。また、文言を繰り返すだけでも「赦し」と「懺悔」の瞑想を毎日続けていたのが功を奏したのだなとも思いました。
こうしたことに気づいた後、私の懺悔の瞑想の文言は次のように変わりました。
「私は自分の弱さから仏教を離れたのを、周囲の人や環境のせいにして身口意で不善なことを沢山しました。また、仏教の法や因果論に疑いを持ちました。愚かな私をどうかお許しください。これからは悔い改め生活を正して生きていきますので仏教から離れないようにお導きください」
本当にそう思います。
ある日懺悔について調べていると、キリスト教の「懺悔・悔い改め」の教えが見いだされ、それもまた心に響きました。その解説では、キリスト教の懺悔というのは、①.罪に気づき認める、②.罪を告白する、③.罪について悲しむ、④.罪を繰り返さないと悔い改める、⑤.罪を悔い改めた行動を実行する、⑥.罪を悔い改めた行動を維持する、ここまでがセットだそうです。
懺悔とは生き方を変えること、悔い改めることであって、罪を犯したことに対して悲嘆に暮れることではないと言うのです。悔い改めることこそが重要なのだとそのキリスト教の教えには書かれていました。これは、地橋先生の法話の、懺悔し、視座を変え、善の総力戦で生き方を変えるアングリマーラの話とセットで私の心に衝撃を与えました。
私は悔い改めたいと心の底から思いました。
「汚れてしまった生き方と心を綺麗にしたい、あきらめたくない、心から懺悔して生き方を変えたい。変えなければ、このままズルズルと汚れを隠し、なんとなくは幸せだけどすっきりしない人生を送って死ぬだけだ」という恐怖感も生まれました。また、倫理的にも正しく生きていきたいと思いました。
「再度仏縁に触れたことで今は認知の視座が変わってきている。それを身口意の行動レベルで現さなければ意味がない」とも考えました。そして、「そこから離れずに維持していきたい」と。
自分の非を懺悔して、生き方を変えようと強く思った時に、心が爽快になり、すっきりし、軽くなった気がしました。当然、瞑想にも以前に比べて身が入るようになり、幸せだなと感じることが増えていきました。
執筆へ
その後、参加させて頂いた1day合宿で、これまでの経験をふまえてレポートにまとめて報告したところ、先生から褒めて頂き、同時に「Web会だより」への執筆を依頼され、二つ返事で快諾いたしました。その時は褒められた嬉しさもあり、「文章を書くのは嫌いじゃないから大丈夫! 今は苦も減ってとても幸せだし、きっといい文章が書けるはず」と当初は考えていました。
しかしいざ書こうとすると、なんだか気分が乗らないなという思いが起こり、ズルズルと書くのが先延ばしになって、締め切りの日が近づいて来てしまいました。で、思い直して、「よし書こう!」と書き始めてみても、どうしても途中で何かが違う感じとなり、書けなくなってしまう日々が続きました。書きたくないわけではないのに、書こうとすると筆が止まってしまうのです。
そんな状態でも私は、この心のありようを深く洞察することを避けてしまいました。そして、これは自分に執筆するだけの徳がないからだと考えたのです。
「私は自分の苦をなくすことばかりを考えて修行をし、利他業をして徳を積んでこなかった。そうだ執筆は徳を積んでからにしよう。そしてそのことを書かせて頂こう」と思いました。そして先生には、「書いてみたい」という本心から目を背け、執筆のお断りのメールを書きました。
先生から、返ってきた答えは、
「徳を積んだ自分の体験を書きたい。それは典型的な劣等感からくる自己承認欲求の現れです。自分の自慢話をするようなクサイ話を書きたいのですか?」という厳しくも的確な指摘でした。
この厳しい言葉を受けた時、ショックと同時に何故かスッと腑に落ちる感覚を覚えました。おそらくそのころの私は、力を込めて赦しと懺悔の瞑想をしていた結果、次第に周囲との関係が調和的になってきたため、心理学者マスローによる欲求階層説の、いわゆる社会的欲求が満たされつつある状況だったのだろうと思います。
そして次には、「何か価値あることをしたい!」「自分の達成した成果を認めてほしい!」という自己承認や自己実現の欲求が表出し、そこから、苦と向き合いながらもがいていた過去の自分は褒められるようなものではないし、もうあまり見せたくないという、どこか慢に通じるような心が生まれて執筆を中断してしまったのだと痛感しました。そして自分の心の中を冷静に見つめてみると、執筆するならこの修行の取り組みを価値あるものとして書きたいという自己顕示欲があること、また潜在意識ではそれに気づいていて、「それは違うだろう」という葛藤のようなものが生じており、心が揺らぎ続けていたのだと理解できました。(続く)