(承前)
慈悲の瞑想へ
このような諸々のことから、自分の中に強い劣等感や承認欲求があるのは母に褒められなかった過去が関係していると考え、地橋先生に相談すると、「それなら人を褒めたり、認める修行が必要です」との言葉を頂いた私は、人を褒め認めるには、「まずは自分も含めた人々の幸せを願うことから始めねば!それならば基本である慈悲の瞑想しかない!」と考えました。
偶然その時読んでいた上座仏教の比丘の本に、「朝出かける前に慈悲の瞑想をすると一日が穏やかに過ごせるようになります」と書いてあるのを見つけ、毎朝の瞑想を慈悲の瞑想に充てることにしました。
まずは、劣等感の強い自分自身への慈悲の瞑想を真剣に行い、そして、家族、友人、法友、職場の同僚、嫌いな人々と順々に広げていきました。会社員である私は特に、当然苦手な人もいる職場の同僚には意識的に強く慈悲の瞑想を行いました。好き嫌いを問わず慈悲の心をもって接しなければ、他者を認めたり褒めるのを習慣とすることなど到底出来ないと思ったからです。
ところが、最初に効果が感じられたのは意外にも自分自身への慈悲でした。「私はまだ未熟で劣等感や承認欲求も強い。でも、それが今の『あるがまま』だ。そんな自分にも幸せを願おう」と思えるようになったのです。
このように修行を続けているうちにまた発見がありました。それは、自分が仏教から離れた期間を取り戻そうと、本を読んだり瞑想する時間を増やそうと必死になるあまり、自分を美化したり聖者コンプレックスのような状態になっていたんだなと気づいたことです。自分なりに修行を積み、先生にも褒めて頂いたことで、私は仏教徒でそれなりの修行を積んでいるんだという慢心が現れ、瞑想者である自分のあるべき姿はこうでなければならないというような妄想を抱き、それが知らず知らずのうちに本当の自分との乖離を生んで苦しくなっていたのだなと自覚されたのです。
このことに気づいた時には、懺悔の瞑想をした時のように心が軽くなる感じがありました。そして、「瞑想修行に取り組む人間にはこういうことはよく起こることだと、確か本で読んだことがあるな」と思い、そんな状態になった自分を素直に認めようと、これも受け入れることができました。
慈悲の瞑想をすると未熟な自分でも認めてやることが出来、受容的で優しくなれ、それに加えてその気持ちを周囲にも同じように広げられるんだなと感じました。悩んでいた時に先生から教えられた、「まずは堂々と自分の幸せを願いなさい。そして、自らを清めてから他を清める順番です!」という言葉の意味がすっと腹に落ちました。
自分で自分を認めてやる。すると他者への祈りも義務感のようなものでなく、少しづつですが、祈りたいなという優しい気持ちになっていきました。その結果、周囲との関係性の中で変化も生まれました。それは、他者を「積極的に褒め」たりするようなことではなく、他者への怒りや怨み、復讐心のような悪い気持ちを「自然と手放しやすくなった」ことでした。かつては、人から悪意のようなものを向けられるとこちらの劣等感からか感情がストレートに刺激され、「何だとっ!」という怒りの心が即座に立ち上がり、それに巻き込まれて気づきを失い、手放せずにいたのです。自分ではそれをどうにかしたいなと思いながらもできなかったのですが、このごろは少し手放せるようになってきたなと感じています。
この些細な変化が現れただけでも周囲との摩擦が減ってきました。そして、自分でも気持ちが軽いし、なんか笑顔になれる時間が増えたな、鏡で見ても表情が柔らかくなったなとも思えます。それが他の人にも不思議と伝わるのか、職場で人に話しかけられたり、親切にしてもらえることが増えてきました。また自然と良い縁にも触れたり、忙しさから疎遠になりかかっていた学生時代の友人たちと関係が戻ったり、仏教の話ができる法友もできました。
地橋先生は「瞑想をすると人生が変わる」と言われていますが、人生が変わるとは、世界が変わるのでなく、自分自身の心や考え方や視座が変わることなんだなと考えが及ぶようになりました。また、この瞬間瞬間にも自分は変化し続けている、悪い反応をするか善心所で反応するかでこれからの人生が変わっていっていくのだと、法話で繰り返し教えて頂いたことが少しづつ体感出来るようになりました。そしてこんな変化を、不善な方向にではなく、清らかな善なる方向に向けるための方法がブッダのダンマと瞑想にはあると、これが私が修行を通して確信することになったひとつの検証ではないかと思っています。
そして今思うことは、まだまだ未熟で弱い心のある私は、朝カルに通うことやさまざまな媒介を通して法話に触れること、そうした仏教から離れないための仕掛けを自分で意識して作らなくてはならないんだな、そこも含めての瞑想修行なんだな、と言うことです。
自分は独覚タイプではなく、周囲の影響を受けやすいので、周りの方々との縁を大切に、仏教の修行を通して、残された人生と自分自身を善なる方向へ変容させていければと強く思っています。(完)