それでも地球は回っている
 地橋先生の朝日カルチャー講座に通い始めてしばらくした頃、最後の質疑応答で、「心を浄らかにするには、如理作意が何よりも大事」というアドバイスを頂いたことがあります。如理作意というのは、パーリ語でヨニソ・マナシカーラと言って、その意味は「理の如く心のドミノが倒れていくこと」だそうです。外界から心に情報が入った瞬間、心のドミノが欲望や嫌悪や煩悩の悪い方向へパタパタと倒れていきがちですが、それを「真理の方へ」「善なる方へ」「真の原因の方へ」正しく倒していくのが「如理作意」だといいます。
 仏教の因果法則から言えば、理に叶うように冷静に分析し、因と果の面から正しく考えていくことだろうと思い、やってみました。当時の私の悩みの種に対してです。なぜなら、悩みの種を思い浮かべるだけで苦を感じていたからです。
 そこで、「この苦の原因は何か?」「どうして私はこのことを考えると苦を感じるのか?」「苦を感じている時の心と身体の状態は?」「どんな欲や執着がこの苦を生み出しているのか?」等々……、しっかり考えました。
 そして発見しました。「無常や因果法則を受け入れきれていないから苦を感じている」ということを。
 気に入ったものごとはずっとそのままであって欲しい、ものごとは自分の願い通りになって欲しい、心の底でそう思っていました。しかし、当然そうはなりません。だから苦を感じていた、ということでした。
 「結局、因果法則しかないのですよ」という有名なお坊さんの言葉を思い出しました。世界は因果法則だけで回っていて、私の願いや都合なんてどうでもいいことだったというわけです。私の願いや都合、そんなものはそもそも因果法則から見たら塵や埃みたいなものでしかありませんでした。ちっぽけな私の思惑など完璧に無視されて、因果法則だけが平然と作用していく……、ここはそういう世界なのだと。
 因果法則や無常を受け入れられないと言うことはどういうことなのか……? それは、地球の自転を止めようと素手で地面を必死に押さえているようなものだったということです。ということは、「期待通りにならない」と腹を立てるのは、「なんで太陽は東から昇るのだ!私は北から昇って欲しいのにっ!!!」と騒いでいるようなものでしかなかったわけです。
 こんなことがだんだんわかってきてからは、「ずーっとバカなことをやって来たなぁ……」と思えてきて、願い通りにならないことに腹を立てたり悲しんだりしていることに気づいた時には、必死に地球を抑えている自分の姿を想像します。すると何だかバカバカしくなって、「しょうがないな〜」という諦めの気持ちが出てきます。
 こうして私は因果法則にパタパタと白旗をあげることにしました。以来、私の苦はかなり減ったと実感しています。

心の水やり
 「いいですか、悟れるのは人間に生まれた時だけなのですよ! 人間に生まれるのはなかなか難しいのです! 次はどんな生命に生まれ変わるかわかりません。だから、人間でいる間に悟りを開かなければならないのです! 頑張ってください!!!」と、最初の仏教の先生に言われました。
 単純な私は、「そ、そうなのか……じゃあ頑張ろう」と、かなり真面目に修行していました。毎日1時間歩いて、5分立って、30分坐って、と。仏教の本を読み、合宿にも参加しました。
 しかし何だか変なのです。一所懸命頑張れば頑張るほどものごとが空回りして、変な方向に進んで行きました。老人介護のストレスも加わってノイローゼ状態になってしまったのです。
 そんな時、アーチャン チャー大長老の本を読みました。そのなかには、こんなことが書かれていました。
 「私たちは自分で植えた木の成長をコントロールすることができないように、智慧の果実がすぐになるか、ゆっくりなるかをコントロールすることはできません。智慧の木は、自分自身のペースで成長します。あなたの仕事は穴を掘り、水や肥料をあげ、木を虫から守ることです。それがあなたの仕事であり、信(サッダー)なのです。しかし、木の成長の仕方は、その木次第です。もし、あなたの修行がこのようであるなら、すべてはうまくいき、自身の木は育つと確信することができます。
 このように、私たちは自分の仕事と木の仕事の違いを理解しなければいけません。木の仕事は植物に任せて、自分自身に責任を持ってください。もし、私たちが何をすることが必要なのかを知らなければ、一日で木に花を咲かせ、実をならせようと無理強いすることになってしまうでしょう。これは間違った見解であり、苦しみを生じさせる主たる原因です。ただ正しい方向性に則って修行をし、あとはあなたのカルマに委ねなさい。そうすれば、一回の、百回の、千回の生を経てかは分かりませんが、あなたの修行は、やがて平安へと達するのです」(増補版『手放す生き方』、サンガ出版より)
 今から思うと私は「欲」で修行していました。種を蒔いたばかりだというのに、まだ実がならないと怒っていたのです。「悟りたい。解脱したい」と、修行を始めたばかりにもかかわらず、大それた目標を掲げてしまっていました。
 「そう、私は庭師なんだね。毎日丁寧に木に水をやり、色々お世話をするだけ。木の成長は木に任せて見守るだけ。文句言っちゃいけないのね」
 そう反省しました。
 「空手の時と同じなのかも……」
 今ではそう思っています。
 「昇段したい、黒帯が欲しい」
 そう思っている間は昇段の話は全然ありませんでした。
 「もう帯なんて何色でもいいや。ピンクでもシマシマでも水玉でも。私は空手が好きでやっているんだもの」
 「一所懸命に稽古して、昨日より今日、今日よりも明日、少しでも強くなれたらそれでいい。帯なんて何色でも良いから、空手着が乱れないように一本紐があればそれで十分」
 そう思い直して楽しく稽古を続けていると、ある時、昇段審査を受けさせて頂けることになりました。空手を始めて10年後でした。
 今は、悟るとか解脱とか、そういうことは考えず、空手の時と同じように、「昨日より今日、今日より明日、心が少しでも清らかになれたらそれでいい」、そう思って修行しています。
 「瞑想は心の歯磨き。毎日コツコツ磨きましょう。やらないと心が汚れてしまいますからね」
 そんな感じです。決死の覚悟で修行に邁進するより、こちらの方がのんびり屋の私には合っているようです。
 コツコツ稽古していたら気がつくと黒帯を締めていた。仏教の修行も、気づいたら悟っていたというふうになれたら良いなと思いっています。(そうなる前に、あと何百回 何千回と生まれ変わる必要があるだろうとは思いますけれど……)
 とりあえず今しばらくは、虫歯にならないよう心の歯磨きをコツコツ頑張ろうと思います。(続く)