これまでの人生を振り返ると、何か寂しい気持に覆われて、そこから逃れたくてもがいていているような感じでした。そんな気持ちがあったからでしょう、何かに救いを求めておりましたが、幸いにも変なものに騙されることもなく、大乗仏教を経てヴィバッサナー瞑想に出会うことができました。
◆仏教との出会い
私が生まれた頃は高度成長期であり、幼稚園と言えばお寺が経営している事が多く、私や近所の同級生や同世代の子供たちは家が近所のお寺の檀家でありましたので、そのお寺の幼稚園に通っていました。幼稚園に行けば毎朝本堂に集められて念仏を唱えて仏像を拝み、天女の絵画を見ては「仏様はあの世(極楽)にいるんだぁ。あの世には綺麗な女の人がいるんだぁ」と信じていましたが、「あの世はきらびやかな世界だけど、死なないと行けない世界なので怖い」と仏教に関しては、憧れる反面、恐れを含んだ想いの感覚を持っていました。
進学した高校が浄土真宗系の学校だったので、体育館の壇上に阿弥陀様の仏像があり、節目の学校行事の際には、パーリ語の三帰依文を唱えていました。入学式の時に初めて聞いたパーリ語の三帰依文には、「何語?どこの国の言葉?」と不思議な感覚を覚えたものです。
週に1回宗教の授業があり、八正道等の代表的な仏教教学を学びましたし、日本史が好きなこともあり、各宗旨宗派の事を興味を持って学びました。
幼稚園の頃から何故かしら「不安・寂しさ・虚しさ・悲しさ・焦燥感」を感じてしまう事が多く、小学生の頃もそんな心の状態は変わることなく、中学生になるとその「不安・寂しさ・虚しさ・悲しさ・焦燥感」のせいか、訳のわからない事が気になる傾向(机の横に掛けている学生カバンの開閉止め金具を何度も開けたり閉めたりする)等の、今考えれば精神的におかしいのではないかと思うような拘りが顕著になってきました。高校生になっても「不安・寂しさ・虚しさ・悲しさ・焦燥感」が無くなることは無かったですし、性格的には相手に気を遣う反面、些細なことから突然喧嘩になる傾向がありました。
そんなやるせない精神状態から救われたい解放されたい願望は常にあり、大学生になる頃にある密教系の教団の本を目にして「これで今までの問題が解決できる」と思い入信しました。
以上のような経緯で仏教(大乗仏教)と縁があり、仏教教学・仏教史を学ぶようになりました。そこで初めて大乗仏教には仏陀直説のパーリ仏典を依経とする宗派がないことを知り驚愕したものです。
◆ヴィバッサナー瞑想との出会い
密教系の教団に入った頃には、「これで社会でも成功して幸せな人生が送れる」と思っていましたが、なかなか自分が思い描いていたような人生とはならず、社会人になり結婚をして娘が一人出来ましたが、自分の不徳故に娘が成人した頃に離婚しました。
「仏陀の教えを知りたい。苦しみから解放されるのは仏教しかないはずだ」との思いはありましたが、仕事に忙殺される日々が続き仏教に関わる機会が薄い期間を過ごしていました。
このままでは悔いが残る人生になってしまうと悶々と思っていた頃、母親が肝臓がんで亡くなり、数か月後には軽トラックの荷台から誤って後頭部からコンクリートの床面に転落、頭部を強打し半年間入院する程の大怪我をしました。
離婚、母親の死、大怪我による長期入院等を経験し、これからの人生どうしたものかと千思万考している折に、知人から日本に原始仏教を布教する日本テーラワーダ仏教協会があるという事を教えてもらいました。それで協会のHPやスマナサーラ長老の本を読んでヴィバッサナー瞑想があることを知りました。そして、その知人から地橋先生のご著書「ブッダの瞑想法ヴィバッサナー瞑想の理論と実践」を勧められました。この様な経緯で私はヴィバッサナー瞑想と出会うことが出来ました。
テーラワーダ仏教を学ぶとヴィバッサナー瞑想で解脱、悟りに至る事が出来る。苦から解放されるのはやはり仏教しかない。また、そのことを地橋先生は論理的に説明されており、正に苦からの解放は仏教しかないとの思いに至りました。
◆瞑想への着手
スマナサーラ長老のご著書、地橋先生のご著書を読み、ヴィバッサナー瞑想のやり方を学び実践に着手しました。本だけでは我流に陥る可能性があるので、2019年2月に初心者講習会に参加して初めて地橋先生の指導を受ける事が出来ました。次のステップの瞑想会も考えていましたが、遠方(広島)ということもあって機会を逃している中、コロナウイルス感染拡大という状況に至り、その後瞑想会に参加することなく幼稚ながらも瞑想実践に取り組んでいました。
瞑想により煩悩を減らして、心を清らかにして、苦を無くしていこうと、少しずつでも取り組んでいました。以前に比べ、煩悩(貪瞋痴)を制御出来ているような気はするものの、幼い頃からある、何か得体のしれない「不安・寂しさ・虚しさ・悲しさ・焦燥感」が常に靄の様に心を覆っている感じが拭えず、心随観でその心の状態を観ようとしても、その心の状態を嫌って目を背ける傾向がありました。
怒ることは不善心であり善くない事と頭ではわかっているのですが、職場やプライベートでも激怒してしまうことが出てしまい、煩悩(貪瞋痴)を滅尽させるために瞑想をしているのに怒ってしまう。時には怒ることを楽しんでいるかのように怒ってしまう。何のための瞑想か?自分には瞑想のセンスが無いのか?やり方が間違っているのか?本気でやる気があるのか?等々紋々と考えしまう事が続いていました。(続く)