やっぱり全然わかってなかったんだ、と受講してよく分かった。というか、今まで、本気でやろうとしてなかったんだ、ということが分かった。
 地橋先生のウェブサイト【月刊サティ!】を読んで「懺悔の瞑想」を知った。自分が悪いことをした相手に真剣に謝罪して、今後は二度と過ちを犯さないで、五戒を守り精進していくと誓って赦しを請うのだ。朝カル受講を開始してから、毎日一人づつ、真剣に謝った。自分の身勝手さを思い出して、本当に詫びた。いったい何人いるんだよ、というぐらい、謝罪相手が途切れなかった。瞑想ができない訳である。本気で慈悲が出てこない訳である。あの毎朝私を苦しめてくる悪霊、なかなか死なない奴は、自分だった。
 20人を過ぎたあたりで、誰も出てこなくなった。でも、これは謝罪相手がいなくなったのではなくて、自分で「許される無礼」の度合いを決めているせいである。先生に質問すると、少しでも心に引っかかる相手は、謝罪して懺悔の瞑想をしたほうがいい、とのアドバイスだった。心に刺さった小さなトゲを放っておくと、いつの間にか魚の目がひどくなって、最後には痛い思いをして手術で切除することになるから、と。それからは、小さなことでも思いつけば懺悔の瞑想をするようになった。
 懺悔の瞑想は、日常生活で効果がとてもよくわかる。怒りを止めようと努力しなくても、怒れなくなることが増えた。なぜなら、自分がどれだけ極悪人か知ってるから。周りが私にかける迷惑なんて、迷惑とは言えない可愛いものだよねと思えるようになった。たまに怒ることがあっても、長年の仕事の癖で怒りが自動的に出ているということが分かるようになった。
 だから、怒った瞬間に「怒り」とサティを入れて消せるようになった、と言いたいところだが、今はまだ、「あ、いま怒った(内的言語化)」→ しばらく怒りを観察して、どうして怒ったかを分析する→「これは長年の癖だな(内的言語化)→身体に怒りが走った感じがしばらく続くので(肩が張った、肩をすくめた、息を殺した)などを観察する→怒りの完了。
 このように、今はまだ、一瞬にして怒りが消えるサティは入れられていない。これでいいのか悪いのか分からないが、今できる精いっぱいのことである。今後サティ一発で消えるようになればうれしい。
 懺悔の瞑想の効果は実感できていたが、ヴィッパサナー瞑想がうまくいっていなかった。「妄想、妄想、妄想」といって打ち消すと、またすぐに「怒り、怒り、怒り」と別のラベリングで、ラベリングの連続になってしまった。相当焦っていたのである。何しろ、今回出来なかったらもう瞑想は止めようと思っていたから。何としても結果を出さなければと焦っていた。
 朝カル開始から1日15分づつ座る瞑想をするが、やりたくない気持ちと戦うのが大変だった。『お前ほんとに幸せになる気あるのか!これでダメなら終わっちゃうんだよ……!』と言い聞かせたり、なだめたりして、なんとかやった。歩行瞑想は得意じゃなかった。グラグラするし、目が開いてるから簡単に集中が散った。だから歩行瞑想は、座る瞑想が嫌になった頃に行う、そんな感じだった。

★瞑想よ、こんにちは(2) One day camp (合宿に参加)
 なかなかヴィッパサナー瞑想がうまくいかない。できることは全てやろう。背水の陣。1Day合宿に申し込んだ。人数制限があるから今回は参加できないかもと思ったが、有難いことに参加することができた。実は朝カルのインストラクションで、先生から『瞑想修行が正しく導かれるように、三宝に守っていただく祈りを捧げると良い』とアドバイスいただいたので、それ以来、瞑想時間の前後どちらかで28過去仏のお経をあげていた。その効果だったのかどうかは誰にも分からない。でも、合宿後もずっと続けている。
 合宿で、もう一度歩行瞑想を習った。朝カルの時と違って、他の方々が行う歩行瞑想時に、実際にラベリングを声に出して、それをチェックしてもらうのを共有する時間があった。おかげで、やり方が吞み込めた。
 『(事象の)滅を感じ切ってから、ラベリングをすること。例えば、お寺の鐘がゴーンと鳴る。その音が完全に消え去る瞬間まで聞いて、「音」とラベリングする。滅の瞬間を味わうこと』という説明が腑に落ちた。これをきっかけにサティが入れやすくなった。滅まで待つと、心の中の焦りが落ちたのが体験として分かった。
 それから、動きのサティをカット(省く)したり、いくつかの動きをまとめて1つのサティにしたりしないよう注意を受けた。これは、まとめてしまうと曖昧になり、サティが成立しないということ。また、まとめるということは、一番最新の事象、目の前の一瞬を逃して本当のサティが入っていないということだった。
 この抽象化は普段からやっており、だから妄想しやすく、他者の話を聞くときも誤解したりするのだと思った。これはちょうど合宿前夜の朝カルで聞いた八正道の<正語>にならない、ということでもあった。目の前の動きに常に集中し、「正確な言葉」で表すというのは、ラベリングの正しさも意味しており、客観性がなければ出来ない。客観性がなければ当然サティは入らず、日常のコミュニケーションにおいてもロジカルに正確に伝えることはできない。正確に受け取ることもできない。だから人間関係でも誤解が生まれてしまう。非常に腑に落ちた。
 合宿の最初に参加者全員のフルネームリストが配られていた。瞑想の調子が崩れたら、参加者に対して慈悲の瞑想をして善心所を復活させて、それからまたヴィッパサナーに戻るのがいいですよ、とのアドバイス。疲れて調子が崩れてからやるほうがいいのだろうが、私は座る瞑想の一番最初に慈悲の瞑想から始めた。動機は自分でもよく分からないが、そうしたほうがいい気がした。自分だけうまく行くより、みんながうまく行くほうがいい気がした。
 それから、長期の合宿で集中力が落ちたときは積極的に作務をして善心所に切り換えると、また瞑想にスムーズ戻れるとも仰っていた。これは、日常で集中力が落ちたら掃除したりして、応用している。お勧めである。
 トイレのサティには本当に苦労した。引戸の建付けがよくなくて、戸を動かせる位置に手を移動させるのに苦労したが、その難しさのおかげですごく集中できた。また、開きづらい戸をあけるために使う動きの語彙がなくて苦労した。たかが一枚の板に格闘する自分がおもしろかった。実際、人生はこんなことの連続なのかもしれないし、どんなことでも面白がれたら、もう無駄に映画を観なくて済むだろう。(つづく)