(承前)
次は食事の観察。先生からの宿題は、同じ食物を目を開けた状態と閉じた状態の両方で食べ比べてみてください、というものだった。目を閉じた瞬間に、噛むスピードが速くなった。普段こんなに速く噛んで食べてないので驚いた。おそらく視覚が閉ざされて、噛むことに集中したからだと推測。同じものを食べているのに、味も濃く強く感じられた。
舌の働きにも驚いた。舌というのは、味と熱さを感じるためのものだと思っていたが、食べものを右の奥歯へ、左の奥歯へ、せっせと動かしていた。それから、頬の内側と歯茎の外側の間に食べ物が落ちるのが不快らしく、それを舌が取りに行こうと働いていた。あとは、いつまで噛むのかという判断。これは顎なのか、歯の下の神経なのか、それとも頬なのか、どこなのか場所は分からなかったが、これなら飲み込めるという柔らかさになるまで指令している箇所があることは分かった。こんなに面倒くさいことをえんえんとやり続けて太っていくんだから、食べることへの執着はすごいな、と思った。
座る瞑想をする。一人で自室でするよりも仲間のいるほうが場の力が働くのか、集中が続く。妄想は出るがとにかく丁寧にラベリングをした。多少ラベリングの言葉が違ったとしても、不完全なサティを「怒り」で打ち消すのはやめようと努めた。「滅を視よう」とした。
不意に、大嫌いな相手のことが浮かんだ。本当に嫌なことをされたので、思い出すと怒りが出るのが分かっていたため、普段は感情がエスカレートしないように即消す相手だった。でも、今回は違った。出てきたときに、幸せであるように即座に祈れた。そして、すぐに謝った。私が受けたことは相当に嫌な出来事で、その事実は変わらないのだけど、でも、相手にそれを実行させたのは紛れもなく私の欲と高慢が原因だった。それに、あんなひどいことを実行できたということは、あの人の作った悪業も相当なものだろうし、もしかすると他の人達にも同じことをやっているかもしれないと思うと、いたたまれなかった。
そして、これは一瞬で起きた。無理やりあの人を赦そうとして考えたことではない。瞬間に立ち上がって、完了した。証拠なんてないけど、参加者の皆さんの慈悲のパワーだと思った。誰かがちょうど私に慈悲の瞑想をしてくれていたのかもしれない、そんな気がする。
★瞑想よ、こんにちは(3) Return of the Jedi (始まりの終わり)
合宿の面談で先生に確認してもらうため、ラベリングを声に出しながら歩行瞑想を行った。「この歩行瞑想をしている最中の妄想の出方はどうでしたか?」と聞かれ、ああ、そういえば妄想は出ていなかった、と気づいた……。安堵、安堵、安堵!ここまで、本当に長かった……。歓喜、歓喜、歓喜!!ようやく始まりが終わったのだ。
合宿が終った当日の夜、驚いたことに、また家で瞑想をした。いつもなら、せっかく瞑想で落ち着いた心を乱すように、YouTubeか映画に走るのだが、全く見たいと思わなかった。信じられなかった。
翌日会社に行くと、普段は「何それ? 宗教?」と言われるのを恐れ、決して瞑想の話をしないのだが、一番言うことがないだろうと思っていた同僚に、休憩中に話の流れで言ってしまい、意外にも、その同僚が「どうやるの?」と興味を持ったので、そのままそこで歩行瞑想の説明をした。
ちょうど会社でクラブ活動が推奨されていた時期だったので、瞑想クラブのようなものを作り、社長と人事に相談してお昼休みに会議室を借りられるように頼んでみようと思いつき、プランを立てながら様子を見ている。
それから、昼休みに歩行瞑想をする日と椅子で瞑想する日を分けて行うようにした。午後になんとなく落ち着いていられるし、怒りのキャッチが早くなって火消も早くなった。
これで仕事中もずっと落ち着いていられると思った、その数日後。異常に私のボスが怒り出した。もともと、とても怒りっぽい人で私以外に対してもすぐよく怒る人だった。ただこのボスは、本人が転職をした後に私を呼び寄せたくらいなので信頼してもらっているのを知っているし、八つ当たりはあっても意地悪で怒ることがないというのは重々承知していた。それにしてもよく怒るようになった。よくある「お試し」というやつなのか?本当に私が怒りに対して気づいていられるようになったか試すテストなのか?そして、ボスが落ち着いたと思ったら、今度は同僚がよく怒るようになった。なんだこれは?またテストなのか?
そして、外部業者のいつも問題を起こす人がいつも以上にややこしい問題を起こした。これがお試しなら、いつまで続くんだろう。そして、次。そして、次。そして、次……。嫌だなと思うことはずっと起きた。
でも、これは元々起きていたのだ。私の反応が変わっただけなのだ。ヴィッパサナー瞑想はうまく行ってないしサティもうまく入ってないけど、でも、客観性が上がってきたのだろう。「お試しなのか?」と受け止める余裕が出てきたのだから。
そして、問題はたいがい自分のせいだと思われたし、エゴを脇において、相手の言っていることを丁寧に、正確に理解すれば、解決できるのだった。実際に自分の認識ミスが問題を起こしていることが多い。相手が敵だ、自分が攻撃されている、という捏造をして、本当はそんなことはないのに、怒りで私の客観性が曇っていただけなのだ。
相変わらず家で一人で瞑想をしていると、集中は途切れるし、サティが入らないことのほうが多い。やっぱり、隙あらば瞑想サボりたいなあと思っているし、映画の誘惑に負けそうになることもある。でも、完璧に理想通りになることはあきらめた。だって、サボりたい気持ちがなくなる日はきっと来ないのだと思う。晴れて輪廻の輪から出られたら最高だが、誘惑に勝ち続けて聖者みたいに生きる日も来ない。承認欲も、高慢さも、稼ぎたい欲も、きっと無くならない。
でも、第一歩は、そういう欲望まみれの自分を否定しないで、とにかく、ありのままに客観視できるようになること。懺悔する相手が一人もいなくなること。そして、みんなの幸せを心から祈れる優しい人間になりたい……と切に思う。
最後に、これまで私に関わってくださった先生方、しごき役のトレーナーをしてくださった方、支えてくださった方々、皆々様に心から感謝申し上げます。皆様がどうかお幸せでありますように。皆様に心の平安が現れますように……。(fin)