第一章 躁鬱病と瞑想


 チャンチャンチャチャチャチャチャ♪(ラジオ体操)


 精神病棟の入院患者は毎朝、廊下に出てきてラジオ体操をする。大人になってラジオ体操をするとはな…。その大衆性と自分のエリート意識が、大きな葛藤を生む。


 「そもそもラジオ体操なんて、何十年とアップデートされていないわけで、本当にこの動きが時間対効果で最大であると言えるのだろうか。根拠のないものは、自分が取組む価値はない。それ以前に、俺は一体なぜこんなところにいるんだろうか」 私は一体なぜ…こんなところにいるのだろうか。


 30歳まではほとんど負けなしの人生だった。誰もが知る一流大学に入学後、誰もが知る一流企業に入社。30代、これからというときだった。下された病名は、躁鬱病。最近は名前をマイルドにするために、双極症という。よく、鬱病と混同されるが、全く別の病気であり、鬱病は<治る>のに対して、躁鬱病は<治らない>。一生気分の上下を繰り返し、症状のコントロールに苦戦する。二大精神病の一つだ。主治医からは、「これからは人生の価値観を変更しないといけません。自分がやりたいと思うこと、できると思うことを、やらない。そういう選択をする必要があります」とのこと。要は2番目に重い精神病なんだろ。人生、急にハードモードじゃないか。やりたいことをやれない人生に何の価値があるんだろうか。絶望…。


 そんなとき瞑想に出会った。入院していた精神病棟では、毎日20時に、マインドフルネスのレクチャーCDを流していた。希望者のみが集まって各々瞑想をする。やることがないので暇つぶし。そんな気持ちで瞑想に取り組んだ。効果はすぐに実感できた。頭がスッキリして、考えすぎることがなくなる(→雑念が減る)。そのときに直観的にこれは自分に必要なものだと感じた。頭でっかちな性格もときには役立つもので、Amazonで即検索し、20冊ほどマインドフルネスの本を読み漁った。その中でも論文集が参考になり、非常に科学的なものであることが分かった。


 躁鬱病の病名を診断されてから、躁鬱病についても例によって誰よりも詳しく調べた。日本で発売されている躁鬱病の本すべてに目を通したといっても過言ではないと思う。どの文献も、マインドフルネスの躁鬱病への効果としては、概ね支持的ではあるようだった。ただ具体的なメカニズムについて踏み込んでいるものは少なかった。頭の中のことなので、具体的に立ち入るのが難しいのだと思う。調べた中で、躁状態の人の特徴として、「思考奔逸(観念奔逸)」という状態があるという。観念が次々と湧き起こり、その時々の偶然の連想(思いつきやその場の出来事など)によって思路が左右され、思路が最初の目標から外れていき、思考全体のまとまりがなくなる思考障害。このような脳のオーバーヒート状態が躁鬱の波を作ってしまうとのことだ。


 私の解釈だが、この状態は仏教でいうところの雑念が異常に駆け巡っている状態であり、そうなのであれば瞑想によって抑えることができるのではないか。


 <雑念が病的に発生することで躁鬱病になる。瞑想は雑念を抑える>


 退院後、自分一人で取り組むことに限界を感じて、地橋先生の講座を訪ねた。


第二章 自我と仏教


 2週間に一度、講座を開いている朝日カルチャーCtr.講座に通うことにした。上記のような理由であったから、瞑想以外の内容にはほとんど興味がなかった。相変わらずプライドが大きすぎる人間だったので、自分はお客様だぞと言わんばかりに、地橋先生の講義内容に食ってかかっていた。「私は科学を専門にしてきました。非科学的なことを言われても、理解ができません」


 しかし、それに対する受け答えの様子、そして普段の講義の立ち居振舞いが<達観している>様子であり、少しずつどうしてそのように振る舞えるのかについて、気になりはじめていた。


 ある回で、先生が無我について話をされた。「今こうやって話しているのを、私が話してるんだぞーと自我(エゴ)を持って話すと、同じ言葉を使って話をしても伝わらない。そうではなく、自分がたまたま天命によって、この場に導かれて、ただその役割を果たしている、そういう風に話す。そうすると伝わり方が全然変わってくる」


 帰り道、その言葉を反芻しながら帰った。これまでの人生でも、立場が偉く、責任も大きいのに、肩の力を抜いてプレゼンしている人たちにたくさん出会ってきた。そういう人たちは「自己肯定感が高い人なんだな」と思ってきた。しかし、この話をきいて、ひょっとするとそういう人たちは、自我(エゴ)が小さいのではないかという仮説を持った。そう考えると、これまでの自分は、「俺は絶対にできる、俺は天才だ、俺は負けず嫌い、絶対に負けたくない。俺が、俺が、俺が..」と、心の中で、わざわざ自我(エゴ)を大きくしていた。


 翌日職場で、試しに「俺はできる、俺はできる」と唱える変わりに、「無我、無我、自分なんか存在しない」と唱えることにした。すっと肩の力が抜けた。会話をするときに自然に笑顔が出た。失敗したとき素直に謝れた。コミュニケーションがものすごく円滑になり、仕事がとても上手くいくようになった。これまでその自我、プライド、自意識の高さは、自分にとって必要なものだと思ってきた。そして、コミュニケーションが苦手なのは、自分が発達障害傾向があるからだ、と諦めていた。まさかこんなところに自分の苦手克服法が転がっているとは…。本当に驚いた。


 無我。自我を無くすということが、自分の幸せにつながり、さらには結果を出すことにもつながっている…。思わぬ拾い物であった。


第三章 サティ


 なぜ瞑想を習いたいと思ったとき、たくさんある瞑想講座の中から、グリーンヒルを選んだのか。瞑想の本を読むと、サマタ瞑想(止瞑想)とヴィパッサナー瞑想(観瞑想)があることは多くの本で書かれている。しかしヴィパッサナー瞑想の方法については、どの本も曖昧だった。「考えが浮かんでは消えることを観察します」など、結局どうするのかが分かりにくく、誤魔化されているのではないかと感じるものが多かった。その中で唯一、ラベリングによるサティを説いていたのが、先生の本だった。


 はじめは、言葉を使うことで集中が妨げられてしまうのではないかと半信半疑な面もあった。しかし、少しずつ瞑想の時間が伸びてくるとともに、日常生活でサティを入れることで、心を鎮められる感覚が出てきているのを感じる。これはサマタ瞑想では得られない体験なのではないだろうか。この先は、きっとこんな世界が待っているのではないか。


・仕事でプレッシャーを感じたら、「プレッシャー」というサティを入れることで、プレッシャーから解放される。


 (→これまでは上手くいかなかったらどうしようかという雑念が駆け巡り苦しめられていた)


・嫌いな人には「嫌悪」というサティを入れることで、嫌悪感から解放される。


 (→これまでは、どうしてあの人はあんな風なのだろう、という雑念が駆け巡り苦しめられていた)


 もちろんまだそのような境地には至っていない。しかし学ぶほど瞑想が躁鬱病に効果があるということが確信に変わってきている。


第四章 グリーンヒルの瞑想を続けて


 躁鬱病の症状は抑えることができている。考えが次々と起こり不安を感じるときは、1分でも必ず瞑想を行う。雑念が治まり、不安感を払拭することができるからだ。また常日頃、仕事中も含めて、1時間に一度くらい、短い2、3分の瞑想を行うことにしている。いったん頭をリセットできる感覚が、その後の仕事能率を高めると感じる。躁鬱病は、2024年の紅白で脚光を浴びた。歌手こっちのけんとが、自らの病気をカミングアウトして、紅白出場後に仕事をセーブすることを公表したからだ。私も自身の体験談を公表することで、同じ病気の方の励みになればと思っている。


 次に、自我について。仕事仲間から、別人のようだ。演技してるように見える、と言われるほど、人間性を変えることができた。その結果、現在、プロジェクトマネージャー職で、いろんな人に挟まれながら、リーダーシップを発揮するという、以前の自分では務まらなかったようなこともできるようになった。


 瞑想は、仏教は、私を助けてくれる。