20年ほど前、ヨーガの先生から『瞑想』という言葉を初めて聞いた時、頭に浮かんだのは安定していて動じない仙人のようなイメージだった。あたふたと軽々しく、妄想に振り回されて不安定な自分にうんざりしていたので、そうなれたらカッコいいな、と憧れたのを覚えている。
 憧れて始めてみた頃は、座っていたはずが気がつくと別のことをやりはじめ、しばらくしてからやっと『あれ?さっき瞑想してたんだったっけ?』と思い出すほどの大変な状態だった。

<瞑想の練習を習慣づけたこと>
 その頃参加した10日間の瞑想合宿の帰り道で、ふと『私は自分がダメ人間だということを思い知るために瞑想をしてるんだなぁ』と気がついた。合宿の内容はすっかり忘れてしまったが、そのことだけ今も覚えている。
 日々、ふと実感と共に小さな発見があるのは楽しい。パズルがピタっと当てはまるような気持ちよい解決方法がひらめいたり、あの時自分は気にしてないフリをしたが本当は怒っていたとか、あの人の態度はこういう感情だったんじゃないか、などなど暮らしに役立つ妄想も次々浮かんでくる。
 子供のころの記憶と感情が出てくることもある。支離滅裂な映像が出ることもあり、意味はわからないが頭の中が片付けられていくような心地よさがある。モヤモヤしていた気持ちの理由が判明してスッキリすることもよくある。
 最初は5分座るのも難しかったが、時間をかけた試行錯誤と反復練習の結果、30〜60分はじっとしていることができるようになった。身体をお風呂で洗うように、心の洗濯のつもりで練習を習慣づけている。

<瞑想に教えられること>
 ソワソワしていても反射で動く前に気がついて、続けることも止めることも選ぶことができるようになってきた。そしてその力は日常生活で役立っている。イライラが出てきた時、作業に飽きた時、やりたくないことをやる時も一旦、止めるか止めないかを自分で決定することでストレスが少ない。
 いつも自分にとって、ラッキーなことが起きているように感じられる。
 例えば、たまたま最初に教わったのがヴィパサナー瞑想だったこと、いつも良い先生方に出会えてきたこと、練習に時間を取れる環境と健康状態でいること、などすべてのことが。

 些細なことでイライラしたりムカっとする時と面倒だと感じる時は、自分は今とても疲れているか頑張りすぎていると理解してひと呼吸置く。できれば自分を労わることを心がけることを学び、練習している。
 道でぶつかってくる人や攻撃的な人、やる気のない人を見つけたり出会ったりした時に、『この人も自分と同じに疲れているか、辛い目にあっている気の毒な人なんだ』と変換することを心がける。その結果、周囲の人間が敵ではなくなり、自然に人への恐怖は少なくなった。むしろ私は人が好きだし関わりたいほうだと気がついた。
 これらすべては練習による体験と仏教の教えの励ましのおかげである。
 ラベリングの練習を始めてからすぐ起きた印象的なことがあった。仕事中の空白時間に『怒りを作り出している!』と気がつき、考えるのをストップできたことだ。
 歩く瞑想を練習するようになってから、イライラの始まりで気がつくことができる回数も増えてきた。

<慈悲の瞑想が凄すぎること>
 仏教に出会えて幸せなことのひとつは、『慈悲』という概念を教えてもらったことだ。まず自分の幸せを祈るのがとても良い。自分の幸せを願ってもいいんだ、とホッとする。嫌いな人は嫌いなままでも良いし、嫌いな人の幸せを祈るという考え方も衝撃的だった。ムカムカする人に言葉だけでもとりあえず慈悲を唱えると明らかに気持ちが和らぐのは不思議だ。使う言葉が自分に与える影響の強さを実感でき、言葉を平和な方向に使っていきたいと意識するようにもなった。

<戒律を守る努力をすること>
 出来そうなことからがんばっている。
 まずは夫に対して『自分の愚痴を聞いてもらうのは止めよう』と決意し、最低限、口に出すことは我慢することにした。すると心の平安を取り戻しやすく、後に尾をひく時間は明らかに短くなった。

 他にも小さなことから気をつけているが、どれも同じように心の平安を保つ効果があると感じている。
 ・スマホで怒りの湧く情報を探すことを止め、避けること。
 ・人の仕事のアラを探すことを止め、慈悲の心をもつこと。
 ・『別にいいんだけど』で始まる言葉は最初から言わないこと。
 ・機嫌良くいるために元気さを保つこと。特に栄養をとること。

<これからのこと>
 もっと新しいことを知りたいし、さらに練習を深めてみたい。そして家族や周りの人に修行の成果を少しでもお返しできたらよいと思う。