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月刊サティ!|ヴィパッサナー瞑想協会(グリーンヒルWeb会)

巻頭ダンマトーク

【ヴィパッサナー瞑想大全序章】②

一. マインドフルネスからヴィパッサナーへ

  (二)マインドフルネス瞑想の闇

 マインドフルネス瞑想が世界的に普及したのは、仏教の技法であることを隠蔽し、倫理的側面を抜き取って適用範囲を広げたからでした。なぜ、そこまでして、ジョン・カバット・ジンはマインドフルネス瞑想を普及させたかったのでしょうか。ストレスに苦しむ多くの人を救うためには、万人に開かれた方法でなければならないと考えたからです。  彼の目論見は大当たりして、目覚ましい効果が立証され、喧伝されるや、マインドフルネス瞑想は多方面のさまざまな分野で世界的な大ブームになりました。労働者のストレスが緩和されれば、人的資源をより効果的に活用できるのですから、企業やビジネスの世界が放っておくはずがありません。テクニックに特化した手軽な技法が、倫理的制約一切なしに、無条件で誰でも好きなように使ってよいと提示されたのですから、強欲資本主義がたちまち飛びついてきました。

 生産性向上のための道具化

 倉庫労働者が熱中症で次々と倒れていく過酷な現場にエアコン導入を要請したところ、空調設置よりも、救急車と救急隊員を常駐させたほうが安上がりと判断するのがグローバル企業です。労働者の監視システムには莫大な資金を投じながら、エアコンはケチるのですから、マインドフルネス瞑想は生産性向上と労働搾取の隠蔽装置として持ってこいだったのです。
 劣悪な労働環境や非人間的な経営方針を改善するコストを削減し、「健康やメンタルヘルスは自己責任です。現状の職場環境に、このまま適応する支援ならしますよ。どんなに辛くても、苦しくても、マインドフルネスで頑張って、乗り越えてね」というわけです。
 何ごとも「自己責任」が強調され、貧困や格差は個人の選択や能力の問題とされがちな時代です。ストレス耐性の強化にも、感情の制御にも、集中力の向上にも、マインドフルネス瞑想が極めて効果的で、しかも従業員のウェルビーイングを向上させるという美名を隠れ蓑(みの)にできるのですから、生産性を最大限に引き出す格安の手段として利用する企業が後を絶たないのです。

 マインドフルネス・プログラムを導入した米国の健康保険会社では、過酷なノルマ制度を維持しながら、ストレス30%軽減と宣伝し、英国小売業では、時給は据え置いたままパート従業員に瞑想を義務付けるのです。製造業のライン作業員の集中力を向上させるためにマインドフルネスを導入した企業では、1日10時間労働を押しつけながら休憩時間の削減を正当化しています。離職率37%低下を謳(うた)って名を馳せたGoogleの「Search Inside Yourself」プログラムも、その裏では、残業や長時間会議の前に気持ちを切り替え、集中力を高め、効率よく働くツールとして長時間労働の合理化に利用されていると批判されています。
 カバット・ジンが強調した「9つの実践態度」のなかには、「判断(評価)しない」「忍耐強くある」「受け入れる」「とらわれない」「感謝する」などの項目が含まれています。しかもマインドフルネス瞑想では、技術的な側面のみが提示され、意志決定の判断基軸である倫理性は抜き取られています。自らの感情や思考を客観視する訓練を受けた従業員が、「何も判断するな」「忍耐強くあれ」「受け入れろ」「とらわれるな」「感謝せよ」と自己抑制する術を学ばされ、文句を言わず、効率的に働く従順な社畜へと改造されていく道が開かれてしまったのです。

 仏教の瞑想はお断り

 同じ技法のヴィパッサナー瞑想が、企業研修を受け持った場合はどうでしょうか。まず、冒頭で瞑想の意義と目的が説かれ、悪を避け善をなす倫理的方向性が明示されます。貪欲と怒りと無知があらゆる苦の根本原因であり、心が汚れるか否かが直観的に善悪を分別する目安であることが示唆されます。
 さらに、なぜ今の瞬間に気づくことが大事なのかが説明され、反応する瞬間に善業や不善業が作られる因果論の構造を知ることになります。殺す者は殺され、欺く者は欺かれ、搾取する者は搾取されるだろう…と話が進んだあたりで、主催者側からストップがかけられ、二度と来ないでくれと通達されるでしょう。
 ヴィパッサナー瞑想が強欲資本主義に悪用されることはあり得ないのです。五戒と因果論が説かれ、他者への慈しみや思いやりが幸福への道であり、強欲を満たすために人に苦を与える者は必ず報いを受けることが強調されるからです。
 昔、空手の道場主が10人ほどの弟子を引き連れて瞑想会に通いはじめたことがあります。対戦時の恐怖感を克服するために、ヴィパッサナー瞑想を活用しようと考えたのです。ダンマトークを聞法(もんぽう)しながら修行を続けていくうちにのめり込み、慈悲と仏教が武術を圧倒するようになり、空手を取るか、仏教の瞑想を取るか、と真剣に悩みはじめました。
 家族も生活もある身なので、職業を捨てることはできなかったのでしょう。ある日を境に瞑想会に姿を見せなくなり、その後の消息は杳として知られません。「戒・定・慧」と慈悲がセットになった瞑想は、闘うことの意味を問い、礼節を重んじる武道家の心も揺さぶるのです。

 マックマインドフルネス現象

 ヴィパッサナー瞑想を始める人を大別すると、人生苦を乗り超えたいドゥッカ(苦)組と、上昇志向の強い能力開発組と、少数の解脱組がいます。解脱組は、細々と修行を続ける人と出家してプロになる人に分かれます。能力開発組は、煩悩の引き算はやってられないと仏教を捨てる人もいれば、苦の構造を正しく理解して生き方を変える人もいます。ドゥッカ組は、当初の苦しみが無くなれば瞑想病院を退院して元気いっぱい欲の世界に戻る人と、その後も腰を据えて瞑想を続ける人に分かれます。欲の世界に戻った人も、悪を避け善をなす倫理的な生き方は失わないのが通例です。やはり、ダンマを聞くことによって人生の流れが変わる人たちのために、意志決定の判断基軸と人生の指針は明示されなければなりません。
 一方、マインドフルネス瞑想では、仏教のような倫理的方向性は示されず、苦を根絶するダンマ(法)が説かれることもありません。気づきの力の驚くべき効能だけが強調され、その使用目的も使い方も個人の判断にゆだねられ、さあ、好きなようにお使いください、と大衆に投げ込まれたのです。ストレスを解消したい、集中力を養いたい、効率的に働きたい、多くの成果を上げたい、不快な感情をうまくやり過ごしたい…と、手っ取り早く欲望を満たすツールとして爆発的に利用されていきました。
 こうして道具化され、商品化されていった流れをハンバーガー・チェーン店に喩えて「マックマインドフルネス現象」と呼ばれています。医学的利用や従業員の業績向上だけではなく、「より良い自分」「より高いパフォーマンス」を求める消費者に、ストレス軽減、リラクセーション、ダイエット、美容、脳トレ、と万能の手法としてビジネス化されているのです。企業研修、月額課金制アプリ、高額セミナーやリトリート、「三日で瞑想インストラクター」と謳われる資格ビジネスなどが溢れ、2023年の米国瞑想市場では約20億ドル(2930億円)規模に達したとされています。
 人生の苦しみの根本原因(煩悩&執着)を乗り超える技法だった仏教の瞑想がカスタマイズされることによって、またたく間に大ヒット商品として欲望の資本主義世界を席巻していったです。
 欲望が満たされて満足する人はいません。欲しいものが手に入った瞬間、次の欲望が生まれ、身を焦がして求めて苦しみ、奪い合って争い苦しみ、得られなければ不満足感と劣等感に苦しみ、掛けがえのないものを得れば失うことに怯え、上を見れば嫉妬し、下を見れば見下して顰蹙(ひんしゅく)を買い、執着するものに縛られながら、私たちは苦しい人生を歩んでいることに気づかないのです。
 マインドフルネスによって高められた気づきと集中力が、より効率的な労働のために消費され、それによって得られた利益が資本家に蓄積され、メディアの買収やAI搭載の兵器開発など、さらなる欲望を果てしなく再生産しながらドゥッカ(苦)の末路に向かって循環しています。ドゥッカ(苦)の定義は「不満足性」です。「渇愛(タンハー)」という名の執着が苦の原因であることを心得ず、多くを得れば得るほど幸せになれると錯覚しながら、欲と貪りのスパイラルに引きずり込まれていくのです。

 エゴを強化する瞑想

 2018年、ドイツのゲバウアー教授らの研究によって、ヨーガやマインドフルネス瞑想実践がエゴを静めるのではなく、「自分は特別な存在だ」という感覚を強める傾向があり、ナルシシズム(自己愛)や自尊心の肥大に繋がる可能性のあることが実証的に示されて、世界的に注目されました。
 これは、93名のヨガ実践者を15週間、162名の瞑想者を4週間追跡した結果、実験終了後の参加者の「自己中心性」と「自己高揚バイアス(自分を実際以上に高く評価する)」が有意に増大することが確認されたもので、2021年のカナダの研究でも追認されています。
 なぜ、マインドフルネス瞑想をするとエゴが強まるのでしょうか。
 ヴィパッサナー瞑想では無我論が明確に説かれ、自己中心性の解体が最も重要なタスクですが、マインドフルネス瞑想では、こうした哲学的基盤が意図的に抜かれ、「ストレス低減」「集中力向上」「情動のセルフコントロール」の訓練によって自己肯定感を高めることが目標になっているからです。マインドフルネスのスキルが上達すると自己評価が高まり、「自己高揚バイアス」によるエゴの強化が満足感と幸福感の源泉になっているとも指摘されています。また「自分の思考を裁かない」という指示が、「自分を肯定してもよい」というナルシスト傾向に通じているのも一因です。
 ヴィパッサナー瞑想では、こんなことは起きようがありません。心の現象も身体の現象も無常に変化するプロセスでしかない。あらゆる現象は条件によって生滅する縁起の連鎖でしかないのに、法と概念が仕分けられないから、エゴ妄想を実体視する錯覚に陥っているのだ。「自己高揚感」とラベリングしましたか? もっとしっかりサティを入れなさい、と言われてしまうのです。さらに、自己高揚バイアスは「慢」の煩悩に過ぎず、高慢に無自覚でいると、因果法則上、やがて自分が見下されることになるだろう、と突っ込まれます。ヴィパッサナー瞑想の修行は、苦(ドゥッカ)の根絶を目指して、無常・苦・無我の真理を洞察する智慧へと導かれていくのです。

   現代の邪念(ミッチャー・サティ)

 ミッチャー・サティとは、倫理的基盤が失われた「邪悪な気づき」です。サティ本来の客観視能力や集中力、注意の制御や反応の抑制能力などが邪悪な方向性に使われてしまうことです。
 「(周囲の様子を)見た」→「(今だ)と思った」→「(商品を)取った」→「(バッグに)入れた」→と、万引きの瞬間にマインドフルネスが使われ、スナイパー(狙撃手)が標的の微細な動きに全神経を集中させ、特殊詐欺の指示役が冷徹に命令を伝え、パワハラ上司が部下の弱点を冷静に見抜いて攻撃する瞬間も、すべてミッチャー・サティの応用例になるでしょう。
 行動指針は何も示されず、意志決定はあなたしだい、ご自由にどうぞ、と提供されたマインドフルネス瞑想では、今、ここ、この一瞬に注意を払う技術のみが独り歩きし、注意が向けられる対象も、行為の善悪も問われなくなります。これが、ミッチャー・サティです。誰もが簡単に、自己の欲望や攻撃性をより効率的に、より巧妙に達成するための強力な武器を手に入れてしまったも同然です。そしてついに、ジョン・カバット・ジンが脱倫理化して流行らせたマインドフルネス瞑想は、現代の邪念として、軍事利用という最終局面にまで突入してしまったのです。

 殺傷のためのマインドフルネス

 陸・海・空の米軍および海兵隊のすべての部隊を始めとし、NATO、英国軍、ニュージーランド、イスラエル、ウクライナ軍などの軍事組織では、「バトルマインド・トレーニング」として、マインドフルネス技法が兵士の戦闘能力向上に導入されています。当初の大義名分は、戦場での兵士のストレス耐性や恐怖心の制御、PTSD予防が目的とされましたが、実態は、人を殺傷する能力を高めるための技術として応用されているのです。より冷静で、より効率的に、そしてより躊躇なく敵を殺傷できる「マインドフル・スナイパー」を育成することがマインドフルネス訓練の真の目的です。
 2013年の研究では射撃命中率が19%向上したとされ、敵を殺傷する際の心理的抵抗感を減じ、冷静に戦闘行為が遂行できる兵士を養成するために利用されているのです。元兵士の証言によれば、「マインドフルネス瞑想で良心の呵責が消え、任務を機械的に遂行できた」と言います。
 罪悪感を覚えるのは人間として正しい反応であり、悩み、苦しみ、葛藤しながら正しい道を選び取るべきなのに、何もジャッジせず、今の瞬間に集中し、「嫌悪感」や「妄想」を見送っていくテクニックで平常心を保つ。これが、「科学的」で「中立的」でどんなストレスも低減できる邪念としてのマインドフルネスです。
 かくして、狙撃手は研修で研ぎ澄まされた集中力によって、呼吸も心拍の乱れもなく、冷徹に引き金を引くことができるようになり、歩兵は恐怖や嫌悪といった感情に惑わされることなく、状況を客観的に判断し、最適な戦術行動を瞬時に選択できるようになります。つまりマインドフルネスは、兵士を殺人という行為に対する心理的障壁から「解放」し、より機械的で効果的な殺人マシーンへと変貌させるための精神的武器として利用されているのです。
 これは、仏教の根本である倫理性と慈悲の心を根底から踏みにじる行為であり、マインドフルネスという技法が到達しうる、最も深刻で悪魔的な堕落の姿でしょう。仏教の根本を抜き取ってまで多くの人に広めたかったカバット・ジンのマインドフルネスは、これ以上はない大成功をおさめ、人類を破滅に駆り立てる最悪の方向にまで普及したのです。

 善意と傲慢と愚かさ

 ジョン・カバット・ジンは真剣に仏教を学び、修行もした善意の人で、多くの人々の苦痛を軽減したいという真摯な動機からマインドフルネス・ストレス低減法を普及させました。彼は「宗教色を排し、誰もが受け入れやすい形でマインドフルネスを普及させることは、仏教の本質を裏切るのではなく、方便としての戦略である」と繰り返し述べています。
 ここに、カバット・ジンの善意と傲慢と愚かさがあります。もし「戒・定・慧」の三学から倫理を取り去ってもOKなら、ブッダがそうしていたでしょう。「悪を避け、善をなし、心を浄らかにせよ、これが仏教の全てである」とブッダは明言したのです。強欲と残酷さを抑止する倫理を抜き取ったら、マーラ(悪魔)がほくそ笑む邪悪の道が開かれてしまうことを理解しない愚かさと、仏教の根本的構造を好き勝手に改変しようとした傲慢さを自覚できなかったことが、ジョン・カバット・ジンの悲劇でした。技術だけのマインドフルネスからは洞察の智慧が生じないことを、身をもって証明したと言えるでしょう。
 ジョン・カバット・ジンのマインドフルネス瞑想の失敗は、仏教のダンマに基づいた「正念(サンマー・サティ)」へと回帰しなければならないことを力強く教えています。(つづく)
(→6274字)

ヴィパッサナー瞑想をやってみたら―瞑想で訪れた人生の転機(Web会だより 改め)

瞑想って、凄い!第1回

 ・同時進行が大得意
 ・周囲のことや人の目が気になって仕方がない
 ・集中力がない
 ・自我が強い 
 ・自己卑下、後悔ばかり
 ・思考大好き
 恥ずかしながら、こんな性格で瞑想の素質など、まったくなさそうな私。
 こんな私と地橋先生の『ブッダの瞑想法 ヴィバッサナー瞑想の理論と実践』との出会いから、もうすぐ1年間が経とうとしています。直感が冴える。頭がよくなった。ということはまったく感じられない私ですが、過去の呪縛から解放されたのは事実です。幼い頃からずっと恐怖と不平不満で頭がいっぱいだったこれまでの人生とこの1年間の瞑想の日々を書かせていただこうと思います。


 ヴィバッサナー瞑想との出会い


 一昨年の末頃、後先考えず仕事も何もかも翌年3月でいったん辞めることにしました。昔から大切なことほど天任せ、なるようになるさ、で過ごしてきました。目の前のことは最後まで自分のできる限り精いっぱいやる。ただそういう思いで日々過ごしていました。  ちょうどこの頃縁あって出会った本の中に出てきたヴィバッサナー瞑想。私が求めていたのはこれだ!!そう感じました。それまで数年間続けてきたマントラ系の瞑想からも離れようと決意していたこのタイミングでのヴィバッサナー瞑想との出会いは、私にとって運命的なものでした。その数週間後、地橋先生の『ブッダの瞑想法』に出会い、楽しすぎて学生時代のように自分なりにノートにまとめてしまったほどでした。それからは時間がなくても朝晩、隙間時間に慈悲の瞑想だけは必ずするようになりました。


 ヴィバッサナー瞑想に出会うまで


 生後7ヶ月で父が病死。その後父方の祖母や叔母との生活を経て、6歳からは母との二人暮らしの生活でした。よくある手のかからない良い子として成長し、学生時代は優等生。大人が喜ぶような対応をし、周囲に気を配り、気が利く子だと言われ子供らしくない子供時代を過ごしました。夕飯の支度をしながら宿題や予習復習をするのは当たり前、並行して洗濯や翌日の準備までもする。当時の私は、どれだけ短時間でたくさんの事をこなせるかをゲーム感覚で楽しんでいたような気がします。作業をしながら、頭では次の作業内容の計画を立てるので、頭の中も体も常に大忙しでした。
 また母と父方の祖母の影響は大きく、周囲の喜ぶ行動をしなければならない、人に迷惑をかけてはいけない、世のため人の為には命惜しまずつくしなさい。そう言われ続けてきました。幼い頃から死への恐怖と不安が常に心を支配し、世のために尽くせない自分はダメ人間という固定観念を持ったまま大人になってしまったような気がします。
 何をしていても、こんなことをしていていいのだろうかという考えが頭の片隅にあり、ほんの最近まで、その不安をかき消すために朝から晩までわざと忙しい状態を作り出していたように思えます。その恐怖からか、大人になってからは健康に人一倍気を遣うようになり、食べ物や化学物質、空気などあらゆる体に悪いものから身を守ろうという意識が働くようになっていきました。
 結婚して可愛いわが子たちに囲まれ、不安を忘れられることもしばしばありましたが、子供が幼稚園に入った頃から周囲に迷惑をかけてしまうことが多くなりました。調べてもらうと発達障害であることが判明しました。絶対に人に迷惑をかけてはいけないという呪縛にとらわれ続けている私は、幼稚園や小学校、習い事の先生方へ、毎日のように「申し訳ありません」と謝まらなければならないどうしようもない日々が辛くて、娘を外に出すことさえ嫌になったのです。どこでもギャアギャア泣きわめく娘の気持ちが理解できません。娘に対する大切で可愛いという気持ちと嫌悪感の両極の感情を行ったり来たり。私はノイローゼになっていきました。「気に食わないことがあれば大音量で泣き叫ぶ」そんな娘に対し、私だけでなく家族全体が振り回され、みんなが腫れ物に触るように娘に接するようになっていきました。
 その頃から私は大事には至らないものの、常に体の調子が悪くなっていきました。疲労はひどく、頭痛、腹痛、肩から腕、体中の痛み、全身の湿疹。腰痛で立てない日々や、手が動かなくなることもありました。痛いという言葉を口にしない日はないほどの毎日でした。そんな私は痛みを解消するべく、さらに食事や身に着けるものに気を付けるようになっていきました。痛みで苦しいのに、しなければならないことは山積みの毎日。食事や身の回りの環境のことまで気にするようになったことで、さらにすることも悩みも増えてしまいました。
 元々自己チューで完璧主義、失敗しないように生きてきた当時の私に不平不満が出ないわけがありません。とにかく全部何かのせいにして私は悪くない!主人のせい、子どものせい、母のせい、○○さんのせい、場所のせい、世の中が悪い、など何もかもです。今思えば、よくもここまで人のせいにできたなと我ながら呆れてしまうほどです。しかし、その反面私の奥に良い娘、良い妻、良い母になれない自分を責める自分もいたのです。人のせいにし、自分を責め続ける。そんな毎日を送っていれば、体はまともに動いてくれるわけはないことに当時の私は気づくことができませんでした。
 子供たちの成長につれ、子供たちの個性を受け入れ認められるようになったつもりでしたが、それはつもりでしかなく、こう考えるべきだと頭だけで理解しようとしていて、まったく受容できていなかったのだと思います。普段は我慢していて、ふとした時に怒りや不満が爆発していました。しかし瞑想をするようになった今は、娘を受容し、娘の存在に感謝できるようになってきました。私たち家族全員の娘に対する微妙な嫌悪の感情がずっと娘を苦しめ続けていたのだと気づかされ、本当に申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。(続く)

季節の写真

日暮里・谷中の紫陽花

日暮里・谷中の紫陽花①

日暮里・谷中の紫陽花②

先生と話そう

瞑想のご利益 ① 「瞑想のご利益とはなにか」を聞こうとしたら、いきなり本質に

榎本 こんにちは。前回はすこし理論的で難しい話をしてしまったので、今回は軽めの話題にさせていただきます。

地橋 実は私は、どんな話題でも重くするのが好きなんですよ(笑)。

榎本 存じております(笑)。重いのも面白いのですが、今回はほどほどにしていきたいと……。

地橋 わかりました。で、なにを話しましょうか。

榎本 瞑想するとどんな〈ご利益〉があるのか、についてです。瞑想によってもたらされるメリット、これを〈ご利益〉と呼ぶことにして、これはいったい何か。さらにこれに絡めてあと二つ。合計で三つお尋ねしたいのです。

地橋 なるほど。

榎本 今日、今月号の「月刊サティ!」の巻頭ダンマトークを拝読したのですが、そこで先生はマインドフルネスについて語られてました。マインドフルネスが、ヴィパッサナー瞑想から宗教色を脱色して、科学的な裏づけで信頼性を強化し、瞑想の普及に貢献したということは大いに認めつつも、仏教の持つ道徳的な部分を切り捨ててしまったことへの懸念を語っておられました。おそらく、今月号、つまり、この対談が載る7月号では、さらに詳細にこのことについて論じられていることと思います。今回のお話はそれと重なるかもしれませんが、マインドフルネスでは得られないものがヴィパッサナー瞑想にあるのなら、そこも教えていただきたい。これがふたつ目です。

地橋 もう一つは?

榎本 三つ目は、先生が瞑想の指導を通じて最終的に何を目指しておられるのか、端的に言えば、どのような瞑想者を育てたいのか、という質問です。僕などは技術的な質問に終始することが多いのですが、瞑想があるレベルに達して以降、先生はどのような方向へ指導を発展させたいとお思いでしょうか。これら3点について3回にわたってお訊きしたいと思っています。

地橋 了解です。ところで3番目ですが、これについて先にすこしだけ語っておいてもよろしいでしょうか。

榎本 (内心、少しだけと言いながら長くなりそうで怖いなと思いつつ)ええ、講演会モードにならなければ、ぜひ……。

地橋 育てたい瞑想者、これを私は3段階に分けて考えています。


 育てたい瞑想者を段階別に


地橋 まず第1段階。悪を避け善を為す瞑想者を育てたい。

榎本 うむ。倫理にかかわることですね。

地橋 そうです。倫理性を確立することです。そして、第2段階は心が清らかな瞑想者を育てたい、になります。

榎本 第1段階と第2段階は関連しているように聞こえますが、どういう風に区別されているのでしょうか。

地橋 「悪を避け善をなす」は、仏教では、五戒を守る(殺さない・盗まない・不倫しない・嘘をつかない・酩酊しない)が1丁目1番地になります。しかし五戒だけでは、欲望や怒り、高慢、嫉妬などが、漏れてしまいますよね。

榎本 たしかに、グリーンヒルでも怒りのコントロールに悩んで1Day合宿に通うようになった方は多いですね。「へえ、昔はそんなに怒っていたのか」と思われるほど、今では柔和な方ばかりなのですが。

榎本 「とん・瞋じん・痴」の三毒、つまり〈むさぼり〉と〈怒り〉と〈ダンマを知らない無知〉、この三つの煩悩が苦しみの根源なので、これを克服していくのが仏教の実践なのです。煩悩に汚れた心が浄らかになればなるほど苦しみから救われていく。だから、2番目の回答は、心が清らかな瞑想者を育てたい、になります。

榎本 わかりました。三つ目の〈無知〉が難しそうですが、それをお訊きするとまた迷宮に入りそうなのでぐっとこらえ、3番目の瞑想者について教えていただきたいと思います。

地橋 3番目は、解脱を目指す瞑想者ですね。

榎本 なるほど。今の三つを先生は、瞑想の技術論を超えたところでお話しされていますね。五戒を守る。貪・瞋・痴を克服する。そして解脱を目指す。どれも倫理にかかわると同時に、マインドフルネスではあまり語られそうにないところです。

地橋 そうです。ただこれを深掘りすると榎本さんは嫌がるでしょうから、まずは瞑想の〈ご利益〉の方を先に話しましょうか。

榎本 ご配慮ありがとうございます。でも、そう言われると逆に気になるので、ちょっとだけお聞きします。解脱を目指してグリーンヒルの門を叩く人は、全体に対してどのくらいの割合を占めているのですか。

地橋 この辺はすこし変化しておりまして、10日間合宿をやっていた頃はそれなりに多かったですね。合宿をはじめた当初は、解脱派の瞑想者を教えたかったのです。解脱組が半分以上の時もありましたね。合宿定員9人のうちの4人が禅僧で、気楽な気分でやってきた参加者がギョッとしてたじろぐ、なんてこともありましたよ。

榎本 それは驚くでしょう。朝日カルチャーセンターでもそのような姿勢でやられていたんですか。

地橋 そのように意気込んでおりました。私も青かったので。若気の至りです…(笑)。まあ、すぐに自分は在家瞑想者の先生だと自覚しましたよ。大学院でゼミを受け持っている教授ではなく、小学校の先生なんだと考えるようになりました。ただね、いまは10日の合宿をお休みしてますが、再開すればまた解脱組の人たちが来るようになると思いますよ。

榎本 わかりました。では、いよいよご利益のほうに話を移したいと思います。先生はよく、瞑想は才能によって差が出るとおっしゃってますね。そこでお訊きしたいのは、瞑想はさっぱり進歩しないが、それでも、ご利益や効能はちゃんと得られる、なんてことはあるのでしょうか。瞑想ができない人は多いはずだし、瞑想は一向に上手くならない。勉強や仕事の集中力も上がったように思えない。これではとても見込みなし! と瞑想に見切りをつけてしまうのではないか、と心配になったりもするのですが。

地橋 榎本さんの場合は、どうでした?

榎本 はい。実は、妄想まみれで歩いていたのですが、まずは音が鮮明に聞こえるようになり、わりと早期に仕事の集中力が増したと自覚できました。そこがなんだか不思議だったのです。

地橋 榎本さんはいつも謙遜しますが、私から見ると順調に修行が進んでいますよ。まずその点をお伝えしておきましょう。

榎本 え、前回のこのコーナーで先生は、榎本は瞑想には向いていないなと最初は思ったとおっしゃってますよ。

地橋 そう、いちばん瞑想に向いてない、厄介な人が来ちゃったな…と思ってましたからね(笑)。興味本位で流行りの瞑想を覗きに来て、よく分かりもしないまま、あれこれ書き散らかすんだろうな…なんてね。

榎本 あいたたた……(笑)まあ、そういう気持ちもゼロではなかったかもしれません。

地橋 どうせすぐ止めるんだろうけど、徒労は百も承知で長年インストラクターやってきましたからね。たとえ一見さんでも、手抜きはしない、と当初から決めていたので、ちゃんと教えたでしょう?

榎本 はい、ありがとうございました。

地橋 話を戻すと、瞑想を続ければ、誰でも多かれ少なかれ必ず集中力はつきます。集中力というのは、瞑想の言葉で言えばサマーディです。そしてもうひとつ大事なのは気づき、つまりサティですね。サマーディとサティ。ヴィパッサナー瞑想をはじめると、まずこの2つのファクターを訓練することになります。そして、続けていけば、サマーディとサティの力は、個人差はあれど、右肩上がりに上がっていくはずなのです。

榎本 今おっしゃられたことと、先生が「瞑想は才能というものが左右する」とおっしゃられていることとは矛盾しないんですか。

地橋 はい。たしかにサマーディに関しては、生来の個人差というものがかなりあります。しかし集中しようと毎日がんばりさえすれば、必ず右肩上がりになるのです。傾斜の角度が高い人と低い人はもちろんいるでしょうが、そうなります。

榎本 筋トレすれば筋肉が付くように、瞑想もしかるべき脳回路を形成していくわけですね。

地橋 そう。サティの訓練は、気づく瞬間にはたらいている島皮質の神経回路を強化します。なので、メタ認知力(自己客観視)は確実に向上する。サティを入れるつもりなかったのに、日常生活や仕事中に、勝手にサティが飛び出して驚いた、などというレポートが出てくるのです。

榎本 つまり、瞑想が巧くできないと思っていても、その効果はある。つまり御利益はあるといことになりますか。

地橋 そういうことです。しかし、それはほんの一部にすぎません。そこがマインドフルネスとは決定的に異なるところです。

榎本 といいますのは?


 ダンマの実践こそがヴィパッサナー瞑想である


地橋 ヴィパッサナー瞑想とは、原始仏教の教え(ダンマ)の実践法です。私は在家ですが、ブッダの瞑想の本質を絶対に崩すことなく、正しく教えてきたという自負があります。その本質の要は、【かい・定じょう・慧】の「さんがく」に則って修行するということです。

榎本 【戒・定・慧】ですか。「じょう」はじょうりき、つまりサマーディですね、「」は気づき、洞察の智慧のともなったサティでしょうか。

地橋 そうです。ヴィパッサナー瞑想を修行すれば、気づきも集中力も必ずついてきます。マインドフルネス瞑想が大流行したのは、特にサティ=気づきの後続切断効果が、自己を制御する能力、セルフ・コントロール力を爆上げするからです。ただ、一番目の戒を排除したことが、マインドフルネス瞑想の限界であり、闇の世界に通じていった元凶なのです。

榎本 ……闇!?(なかば呆然としつつ、続く)

今日のひと言

2025年7月号

(1)本気で強いチェータナー(意志)を発し続ければ、いつか必ず現象化し具現化していくのが業の世界だ。
願望が引き寄せられるように実現するのも、同じ業の法則に則っている。
諦めた瞬間、ネガティブな結果を強く願ったかのように、そうなっていく……。

(2)膝を傷めた時、医者からもリハビリ療法士からも「もう治ることはない」と絶望を宣告された。
だが今や、1時間の座る瞑想が難なくできるようになった。
心の力が全てを創り出していく、と一貫して説いてきた。
限られた知識と経験で組み立てられた世界の暗示になどかかる訳がないという自負……。

(3)エゴや自我が法として実在するなら、仏教は無我論を説かなかっただろう。
ありのままの自分と、勝手に妄想している自己イメージとの間には、越えがたい溝がある。
真実の状態を否定し、抑圧し、次々と人生苦を生み出すエゴという偽の印象。
芋づる式に続くプライドと劣等感と渇愛……。

(4)劣等感が強く、しかもプライドも高い人は、ありのままの自分を観るサティの瞑想はやりたがらない。
化けの皮が剥がされ、イメージが崩れてしまう。
できない自分、カッコ悪い自分の真の姿を認める瞑想など、イヤや。
偉大なもの、崇高なもの、永遠なものとの合一を目指す方が好きやねん!

(5)妄想から執着が生まれ、執着から苦しみが生まれる。
そんなことは頭ではわかってはいるが、のたうつようにまた苦しんでしまうのは、思考モードを離れないからだ。
思考を止める訓練 、概念ワールドを出る瞑想が救いとなる。
「……と思った」と思考を対象化していく解放への道。

(6)写真記憶の能力を捨て、知覚情報を意味化する左脳を進化させた人類。
言語野を一瞬停止させて思考を止め、直接知覚した情報を再び左脳のスイッチを入れて認識確定するヴィパッサナー瞑想。
そんな脳の使い方を進化させていく人達は、共同幻想を信仰する人達と別の道を歩むことになるのだろうか。

(7)サティの一瞬に、全てがある。
好ましい対象に夢中になって、食いついてはいけない。
ネガティブな対象でも、ありのままに認めなければならない。
事の本質を洞察する智慧を得なければならない。
公平なエゴレスの視座から気づきを入れなければならない。
貪瞋痴から出離する一瞬……。

読んでみました

今月はお休みします

次回にご期待下さい。

ちょっと紹介を!

今月はお休みします

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ダンマ写真

降魔印の仏像

サンガの言葉

混乱から智慧へ(一) ニャーニャナンダ長老

2005年11月から2006年1月に掲載されました。今月はその第1回です。


1.混乱から智意へ
 ブッダは、すべての衆生に深く染み付いている、「誤った見方」が四つあると指摘しています。その四つとは、
(1)無常の中に常を見ること
(2)不快の中に快を見ること
(3)醜の中に美を見ること
(4)無我の中に我を見ること
です。
 これらの「誤った見方」は三つのレベルにおいて広まっています。それは、知覚と思考と見解においてです。蜃気楼のような知覚がこれらの幻想と妄想の種を植えます。思考がこれらに栄養を与え、見解がこれらを強化します。最終的に生じるものは、私たちを輪廻の苦しみに束縛する、人生に関する誤った見方です。
 これこそ世界が陥っている混乱状態です。この偏った世界観を正すために、ブッダは四つの知覚を熟考の対象として訓練するよう薦めました。
(1)無常の知覚
(2)不快の知覚
(3)醜の知覚
(4)無我の知覚
です。
 これらの知覚を訓練し、発達させるには、高度な明晰さと深い視野が必要です。これらの知覚を系続的に発達させると、この混乱状態から智慧へ至ります。そして、智慧は輪廻の苦しみへの束縛からの解放を確実なものにしてくれます。

2.獅子吼
「比丘たちよ、百獣の王である獅子は夕方に洞穴から出る。出ると、伸びをする。伸びをすると、四方を見渡す。四方を見渡すと、三回獅子吼する。三回獅子吼すると、獲物を求めて勇んで出発する。
 比丘たちよ、動物界の如何なる生き物も、獅子吼を聞くと、大部分の者は恐怖と不安と恐れにおののく。穴に棲むものは穴に潜り込む。水に棲むものは水に飛び込む。鳥は空に飛び立つ。
 そして、比丘たちよ、村や町や王国で頑強な鎖に繋がれている堂々とした象でさえ、その鎖をばらばらに引き裂き、糞尿を漏らし、慌てふためく。
 よって、比丘たちよ、百獣の王である獅子は動物界の全ての生き物に対してそれほど強力なカを及ぼすのである――それほど影響力が強く、それほど威厳があるのだ。
 比丘たちよ、例えそうだとしても、応供、等正覚、明行足、善逝、世間解、無上士、調御丈夫、天人師、仏、世尊である如来がこの世に登場し、

このようなものが物質(色)であり、物質の生起であり、物質の消滅であり、
このようなものが感受(受)であり、感受の生起であり、感受の消滅であり、
このようなものが知覚(想)であり、知覚の生起であり、知覚の消滅であり、
このようなものが準備(行)であり、準備の生起であり、準備の消滅であり、(※註)
このようなものが意識(識)であり、意識の生起であり、意識の消滅である

とダンマを説くと、
 長寿で、美しく、祝福され、高貴を館に長い間住む神々でさえ、その如来の説法を聞いて、大部分の者は恐怖と不安と恐れにおののく。 『友よ、それはこのようである。私たちは無常であるのに、自分たちは常であると思っている。私たちは不安定であるのに、自分たちは安定していると思っている。私たちは非永遠であるのに、自分たちは永遠であると思っている。友よ、確かに私たちは無常で、不安定で、非永遠なのだ』
 比丘たちよ、如来は神々を含む世界に対してそれほど強力な力を及ぼすのである――それほど影響力が強く、それほど威厳があるのだ・・・」

「獅子吼」とは、ブッダの「すべては無常である」という教えが、幻影に浸っている神々と人々に与える衝撃を絵画的に描写したものです。永遠の自我に対する、神々と人々の独りよがりの信念がその獅子吼によって揺り動かされ、「大部分の者は恐怖と不安と恐れに」襲われるほどでした。この印象的な宣言によって、正と死の輪廻に囚われているこの世の者たちに対する如来の独特なメッセージが強調されます。それは、「目覚めて物事をありのままに見なさい」という明快な呼びかけなのです。

3.標的
 次に述べる日々の訓戒はブッダが弟子達に与えたもので、解放の達成に至る「六つの稀な条件」の価値を強調しています。
「比丘達よ、ぐずぐずせずに努力し続けなさい。
*この世にブッダが現れることは稀である。
*人として生まれることは稀である。
*絶好の機会は稀である。
*「出家」することは稀である。
*真の法(ダンマ)を聞くことは稀である。
*善き人との交友は稀である。
 この六つの稀な条件は、下に行くほど重要な順に並べられています。この世にブッダが現れることは極めて稀です。それは確かに稀なのですが、ブッダの時代に人として生まれることの方が遥かに稀です。人として生まれたとしても、環境が良く心身の障害が無いことに恵まれた、修行をする「絶好の機会」に遭遇することの方がもっと稀です。
これらの好条件に恵まれたとしても、すべてを放棄するという真の心を以って「出家」することができることは稀です。
「出家」したとしても、苦から解放してくれる真の法(ダンマ)を聞く機会が必ずしも得られるわけではありません。
法を聞く機会があったとしても、正しい友人関係?善き人々との交友に巡り合わなければ、適切な導きが無いため途方に暮れてしまいます。これが真理の探求者が手に入れることのできる稀な機会の中で最も稀なものです。
 標的にある色付きの同心円のように、最初の五つの稀な条件は解放の直接条件として、有益な友との交流の価値を強調しています。ブッダの従者であるアーナンダ尊者はブッダへの取次ぎ係の仕事もしており、かつて有益な友との交流の価値についての印象を語ろうとしたことがありました。
「尊師よ、この聖なる人生のおよそ半分は有益な友との交流に懸かっております」
 アーナンダは有益な友との交流の価値を過小評価していることにほとんど気づいていませんでした。すると、ブッダは次の印象的な言葉でアーナンダの考えを正しました。
「アーナンダよ、そうではない。確かにそうではないのだ。アーナンダよ、この聖なる人生のすべてが有益な友との交流に懸かっているのだ」
 したがって、聖なる生活で成功を収めるのにとても必要な、有益な友との交流を確保して初めて標的の真中に当てたことになるのです。

※注:ここではパーリ語、サンカーラのことを述べているのだが、ニャーニャナンダ長老はそれを「準備」preparationsと英訳している。
(文責:編集部)