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月刊サティ!|ヴィパッサナー瞑想協会(グリーンヒルWeb会)

巻頭ダンマトーク

『ヴィパッサナー瞑想大全』

いよいよ、地橋先生のライフワークとでもいうべき『ヴィパッサナー瞑想大全』の連載開始です。第1回目からいきなり、ヴィパッサナー瞑想の急所に触れられています。また、先生がヴィパッサナー瞑想と出会うまでのプロセスにも言及されていて、非常に興味深い文になっています。ぜひお読みください。(編集長)

  はじめに

 私の人生から瞑想を引くと、何も残らないような生涯を送ってきました。瞑想修行に明け暮れて17年が経った頃、瞑想指導をすることになり、瞑想会や合宿や講座で毎回ダンマトークをし、グリーンヒルの機関誌「月刊サティ!」に少なからぬ原稿を書いてきました。多くの方がその膨大な原稿を一本にまとめようと尽力され、最終的に「月刊サティ!」初代編集長の盟友・井上雅也氏が「ヴィパッサナー瞑想大全」としてまとめられ、さらに補筆修正を重ね、新たな書き下ろしを加えて刊行されることになりました。
 本書は瞑想の実践を第一義にした瞑想者のためのものであり、仏教を知的に理解するためのものではありません。ブッダの説かれたダンマ(理法)をいかに実践し体験するか、瞑想修行を全うするために何をし、何を学び、どのように取り組んでいけばよいのか、を修行者の立場から追求してきた軌跡がまとめられたものです。

 しょうたい

 原始仏教の真髄は、「苦・集・滅・道」の 四聖諦に集約されています。初めてタイの僧院でヴィパッサナー瞑想の修行をしたときに、僧院長のアチャン・ターウィーが緑色の本を手にして「テーラワーダ仏教は、この二冊を読めばわかる」と言われました。一冊は「四聖諦」、もう一冊は「はっしょうどう 」について書かれた英文の本でした。 大乗仏教のどんな本を読んでも、たい ・八正道の説明は当たり前のものばかりで、何が尊いのか理解できなかったのですが、実際にタイやミャンマーやスリランカの比丘の方々から教えを受けるとその深遠さに驚愕しました。

 私が人生を捧げて修行し、後から来る方々に伝えたい唯一の道は、ブッダの説かれたヴィパッサナー瞑想であり、その真髄は「苦・集・滅・道」の四聖諦に結晶しているのです。

  「いかなる教えや戒律であれ、尊いはっしょうどう が存在するところには、 いちらい げん かん 、の聖者が現れる」と死が間近に迫ったブッダが『涅槃経』の中で述べています。はっしょうどう の中に仏教の全てが包含されてしまうのだから、 はっしょうどう がありさえすれば、どんな教えや戒律でもよい、という巧妙な表現です。

 振り返れば、私自身の人生が「苦しみ」と「苦しみの原因」と「苦しみが絶滅された世界への憧れ」と「それを実現するための道」を身をもって検証しながら、聖なる修行を完成していくために設計されていたかのような気がしてなりません。


 たい

 「人間が自らについて行う自由な選択は、彼の宿命と呼ばれるものと、完全に一致する」

 J.P.サルトルが『ボードレール論』の結末に記した最後の一行です。学生時代にアパートの一室で読了し、不思議な感銘を受けました。人が自らの意志で自由に選んだ人生は、抗いがたい力によって選ばされてしまった結果なのか…。時代背景もあり、卒業しても就職せず、自由な生き方を貫こうと重ねてきた私の意志決定は、「運命」という名の宿業によって強いられ、選ばされてきた…と、人生の最終章に至ってみれば思いなされてくるのです。

 二十代の私は、荒んだ日々を送っていました。幼少期から周囲の大人たちの期待に応えるために、息も絶え絶えになって模範生を演じてきた憤りが爆発し、過去の全てを破壊したい衝動に駆られていたのです。「もう人のために生きるのはゴメンだ!これからは、俺は、俺のために生きる!」と自らに宣言し、周囲の者の期待を裏切り、頽廃の美を追求する無頼派の生き方を目指していました。大学時代に帰郷する電車の中で、


     復讐に燃ゆるまなこを掠めしや
       窓外に飛ぶ菜の花と地蔵

 などという歌を詠んだりしていました。

 皆から愛され、大事にされ、粘りつくように期待もされ、重圧におし潰されそうになっていた私の怒りは結局、自分自身にしか向けようがなく、自傷行為のように自分を破滅させる暗い情熱にき動かされていたのです。負の情念が空っぽになるまで、そんな生活を十年間も続け、やがて望めば望んだようになっていく業の法則どおり、私はドゥッカ(苦)に叩きのめされ、最後は部屋に転がったまま吐き気が止まらず、命を絶つエネルギーさえも枯れ果てていました。

 自分で自分のことがどうしようなくなり、ああ、こうやって終っていくのか…と奈落の底に引きずり込まれていったとき、なぜか不可思議な力が働いて助け出される展開が待っていました。あのとき短い人生が終らなかったのは、まだ生きるだけの業があったからとしか思えませんでした。


 堕ちるところまで堕ちきり三十歳になろうとしていた私は、陰が極まった果てに陽になるように、浄らかになりたい。苦から解脱したい。自分のためだけに十年も生きたのだから、これからは人のために、世の中のために命を捧げたい。そのために修行をしたい…と痛切に願いました。

 以来、ただの一度もブレることなく悟りへの道を歩み抜いてきたのは、十年もの歳月をかけて苦(ドゥッカ)に叩きのめされ、泥まみれになって私の流儀で「苦諦」を検証したことに端を発しています。

 「この世には、苦と苦から解脱する道しかない…」と静かに言われたタイのアチャンの表情が今も忘れられません。「苦から解脱する」という揺るぎのない決意は、苦に打ち据えられた者がどん底から希求する悲願であり、原始仏教の出発点なのです。多くの修行者が解脱ゲームから撤退し、世俗に戻っていくのは、苦の真理(たい )を徹底的に極めることがないからです。心底から苦を思い知った者は、苦から解脱することに迷いは生じないのです。


 じったい


 身も心もけがれきっていた私は毎日水をかぶってみそぎ をし、経典を読み、瞑想をし、断食を繰り返し、ヨーガや滝行、スピリチュアリズムなどさまざまな修行に取り組み、苦が超克された聖なる世界を目指しました。白隠禅師の「なん の法」で風邪が立ちどころに治った驚きが全ての修行の発端だったこともあり、修行の中心は一貫して瞑想でした。命を懸け、渾身の力を振りしぼってその瞑想を深めようとしても、これ以上は頭打ちだと覚ったとき、潜在意識に抑圧された闇が横たわっているのを直観した私は、満を持して内観の修行に挑みました。

 妄想を離れる瞑想修行を深めてきた者には、朝から晩まで回想モードの概念世界に浸りきる内観の修行は苦痛でしたが、心の闇を意識化しようと正確に記憶をたどり、在ったがままの過去の事実を精査していきました。ヴィパッサナーが「現在の瞬間の事実をあるがままに観る」瞑想なら、内観は「過去の事実を在ったがままに観る」瞑想と言うこともできるでしょう。

 印象世界の記憶と客観的な事実を克明に照合し、正確な過去を浮かび上がらせていくと、愛情の欠片もないと憎悪していた父親から愛を受けていた事実に愕然としました。さらに、周囲の大人たちの期待に応えて満足させることを強いられてきたと思い込んできたが、自分がやりたくて勝手にやっていただけだったことに衝撃を受けました。

 私の思い込みであり、妄執だったのか…!エゴが作り出した世界にのめり込み、憤り、自己破壊のために十年の歳月を費消していたのか…!人生最大のドゥッカ(苦)にし潰されようとした原因は、渇愛のエネルギーに由来していたことに打ちのめされました。


めったい


 瞑想三昧の修行生活に没頭し、深い瞑想体験をすれば悟ったのではないかと錯覚するかもしれません。しかし特殊な変性意識状態から日常モードに戻れば、些細なことに嫌悪がよぎったり、欲を感じたりする瞬間が無くなったわけではないことに気づかされるでしょう。欲望や怒りから解放された状態を知った者には、わずかでも煩悩に束縛されている瞬間は耐えがたく、修行の未完成に気づかざるを得ません。「些細な煩悩など気にするな。そもそも煩悩即菩提なのだから、煩悩を気にして囚われるのが間違いなんや」などと言われても、修行していない者の巧妙な詭弁にしか聞こえず、嘘だろうと直観していました。宿業の影響なのか、煩悩めつじん の解脱観に揺らぐことはなかったのでした。

 とはいえ、梵我思想や大乗仏教からは煩悩根絶の究極に至る道は見い出せず、クリシュナムルティやタオは理念の美しさだけで実践方法が欠落しているように思われました。精神世界の聖者たちの究極の境地が記された書物を貪り読みましたが、頭を殴られたような衝撃を受けトドメを刺されたのは「仏弟子の告白 テーラガーター」と「尼僧の告白 テーリーガーター」でした。煩悩を完全に滅尽した たちの感動の詩が高らかに述べられていたのです。


★「諸々の欲望に災いのあることを見、出離の道は安穏であると見て、あらゆる欲望から離れ、私は、穢れの滅尽に達した」(458)
★「内にも外にも、およそ、私に存在する穢れのすべては、残らず断じ尽くされて、もはや、再び生じないであろう」(439)
★「私のすべての貪りは棄てられ、すべての怒りは根絶した。私の全ての迷妄は消えうせた。私は清涼となり、平安となっている」(79)
★愚かな男たちに言い寄られるこの身を美しく飾って、娼家の門に立っていた遊女の「私は、いまや、頭を剃り、重衣をまとって托鉢のために出かける。そしてなんらの省察作用も起こさぬ者として、樹の下に坐る。

 天界と人間界のすべてのくびきを断ち、すべての穢れを棄てて、私は清涼となり、安らぎを得た」(75+76)


 自分を穢れた者として自認していた私は、殺人鬼だったアングリマーラの解脱に救いを感じ、娼婦も阿羅漢になれることに心が震えました。
 本当に煩悩を滅し尽くした仏弟子の聖者が実在していたのだと感動し、「滅諦」が検証された思いがしました。


 どうたい

 

 以来、原始経典を読み漁り、「よく気をつけておれ」とリフレインのように繰り返される謎の言葉が「サティ」のことであったと腹落ちしたのは、来日して間もないスマナサーラ長老のご教示によってでした。この世を捨て、命を懸けて十数年も修行してきた道が間違いだったと認めざるを得なくなったときは、目の前が真っ暗になり、廃人になりそうな精神的危機に瀕して倒れていました。しかしこの世を捨てていた者に行き場はなく、もう一度幼稚園生からやり直そうと立ち上がっていくしかなかったのです。

 スマナサーラ長老から日本語でマンツーマン指導を受けることができ、過去の行法への未練をすべて断ち切り、新しい世界に向かってブッダの道を歩み始めることができたのは、私の人生で最大の僥倖に恵まれたターニングポイントでした。

 ブッダの悟りへの道は原始仏教のダンマの中に脈々と継承され、その実践法は四聖諦の八正道に結晶しています。誰でも、自分の程度に応じて、究極の解脱に向かって歩を進めていくことができる修行方法が明示されていることこそ、古今東西の並みいる正しい者たちと比較にならないブッダの偉大さを証しするものでしょう。いかなる戒律や教えであっても、八正道さえあれば必ず悟りを開く人が輩出するのです。

 世間がバブル時代に酔いしれていることもまったく知らず、行者の生活を続けて十数年が過ぎ、タイの僧院から帰国した翌日、なぜか天から降ってきたように朝日カルチャーセンターで瞑想を教えることになりました。この世からドロップアウトしてまったくの無名の私になぜ?! と狐につままれたような思いでしたが、宿業が展開していく因縁の流れがあったと考えるしかありません。以来、ただ起きたことをひたすら受け容れ、情況に流されるままに瞑想指導を続けていくうちに歳月が過ぎ去り、人生の第四コーナーを走り抜く年齢になりました。
 一貫して学者になる気はなく、理論も哲学もダンマも体験的に検証しながら体得することにこだわり続けてきた人生でした。経験を通して思い知ることが何よりも大事であり、骨身に沁みて腹に落とし込まれたものしか人を根底から変えることはできないと感じてきました。
 その時々に思いついたことを語り、原稿として書き散らしてきただけなのに、九分冊の『ヴィパッサナー瞑想大全』として「苦・集・滅・道」の各章に配置されてみると、「ブッダの瞑想法を実践する」という一点に絞り込まれた美しい構成が浮かび上がり、私の生涯も、その構成に折り重なるようであると感慨を覚えます。(つづく)

ヴィパッサナー瞑想をやってみたら―瞑想で訪れた人生の転機(Web会だより 改め)

【グリーンヒルのベスト瞑想者賞いただきました(笑)】(3)飾間浩二

<恐るべしヴィパッサナー瞑想!>
 それからしばらくして 今度はその社長が、メーカーから、メーカーの敷地内に移転して来いという話が出て、その会社も移転することになりました。これもあのとき同様、相手からは「断ったら知らんぞ」とそういうふうに言われ、まさに因果論を目の当たりにした感じでした。
 移転先は今までと違って結構立派な建物で、工場は非常に新しく冷暖房完備の整った綺麗なところでした。
今から振り返ると充実するまでとは行きませんが、責任という重りだけが外れ、ある程度自分の思い通りに仕事ができた時期でした。
社長とも以前は下請けの立場で逆らうこともできませんでしたが、今度はどこかに「いつでも辞めたる!」みたいな気持ちもあったので割と言いたいことも言えるようになり、ときどき揉めることもありましたが、基本あまり関わり合うこともなく、従業員の中では一番やりたいように仕事をしていました。

 この社長に対してですが、殺意を抱くほどの相手だったのにもかかわらず、時が流れ、あるとき慈悲の瞑想をしていると、私の親しい人の中の端っこの方に、この社長が座っているのを見つけ、驚きました。それから数年経ち、仕事の方も最終的にはいろいろあって、結局辞めることになりました。

 余談ですが、3年ぐらい前今の仕事に就くとき、前職を辞めてから1ヶ月期間があったので、ヴィパッサナー瞑想の長期合宿に行こうといろいろ探したのですが、タイミングが合わず、10日間ウィークリーマンションを借りて、一人合宿に挑戦しました。結果はグダグダのボロボロでしたが、8日目ぐらいにいろんな人に感謝のきもちが湧いてきて、涙が溢れてきました。
そのときに、例の社長に対しても感謝の気持ちが溢れて、心からありがとうございましたという気持ちになりました。 仕事もやりやすいようにやらしてくれたし、給料もそれなりに待遇してくれたり、会社を辞めたのが10月なのですが、12月に電話があって、ボーナスを渡したいと、辞めた人間にほぼ満額のボーナスを出してくれました。そんなことも思いだし、それこそ視座の転換ではないですが、あの人にも人に言えない苦労もあっただろうと思えるようにもなりました。
最初は殺意を覚え、数年立って慈悲の瞑想で、私の親しい人々の仲間入りをして、最後は感謝の気持ちで涙が溢れるまでになりました。
 この時、まさに恐るべしヴィパッサナー瞑想!と思いました。

 話を戻しますが、心の方も以前のような鬱状態もなくなって、ご多分に漏れず知らず知らずのうちに瞑想会からも離れていきました。
その後もヴィパッサナー瞑想はかろうじて続けていましたが、とにかく座る瞑想がうまくいかず、ゴエンカ式をやったりその他のマインドフルネス瞑想をやったり、別のメソッドに手を出したりと、いつしか瞑想のための瞑想になり、サティの瞑想をやりながらもサマタのサマディーを非常に期待し、きちんとしたサティの瞑想をするわけでもなく、座る瞑想もただボーッとしてるだけの時間が過ぎていきました。
 結局どれもなかなかうまく行かず、瞑想に関しては何年か悶々と暮らしてきました。
これは少しこじつけになるかも分かりませんが、最悪の鬱状態でヴィパッサナー瞑想と出会い、その後から少しづつ流れが好転していきました。確かに廃業合併というと人から見れば悪いことのように映るかも分かりません。でも先ほども書きましたが、自分の中では、正直ヤレヤレという感じが強かったのです。そしてヴィパッサナーから離れていくと、その後徐々にまた流れは悪くなっていったように思います。

 仕事を辞めてからは、職を転々と変わってるのが現状でして、 今行ってる仕事についてから、始めはそうでもなかったのですが、 慣れるに従って若い上司に偉そうに言われ、注意を受け、指導され 、それに怒りがどんどんどんどん膨れ上がって、もう暴発寸前まで来た時に、たまたま見た地橋先生のYouTubeでの「怒りの矢印は外に向けるのでなく、自分に向けるんですよ」という言葉に、ハッ!とヴィパッサナー瞑想の本質を思い出させられる瞬間がありました。
それからもう一度 ヴィパッサナー瞑想に挑戦するようになりました。すると不思議なことに、やはりいろいろと現象も自分の心も変わっていくのに驚きました。
 ここへ来て年齢も62歳を超え、仕事も人間関係でもシックリこないし、死というものをどっかで意識しだして、そろそろ最後の仕上げにと、もう一度ヴィパッサナー瞑想を1からやり直すか、今までやってきたいろんなメソッドのどれかをとことんやるか、と迷っていたとき、満月の夜にお月さんに「どうしたらいいですか?」と聞いたら、数日後何かの拍子に地橋先生のYou Tubeを見てやっぱりヴィパッサナーなのかなと思い、去年12月の1 day 合宿に参加させていただきました。
 そのときに先生に「未だに自分に何がいいのか迷っています。今回これで(ヴィパッサナー瞑想)行けと背中を押していただきたい気持ちもあります」と申し上げたところ、「私は大阪在住ではないし、直接指導がなかなかできないので難しい面もありますが、朝カルのオンライもあることだし、たまに1DAY合宿にも来れるならば・・・」ということで、当然ですが先生はヴィパッサナー瞑想を勧めてくださいました。
 そして1DAY合宿のあと、またいろいろ変化が現れて、特に合宿で指摘されたことで、若い上司に腹が立つと訴えたところ、因果論を説かれ、若い時から目上の人に偉そうにしなかったかと聞かれ、無くはないがそれほどやっていないと思っていました。ところが合宿の次の日仕事をしているとき、アッ!と思い出したのが高校の時、女性の担任の先生に暴言を吐き、先生を罵り好き放題やらかしてきて、最後はとうとうその先生は教師を辞めてしまいました。
 40年以上一度も思い出すことも、悪びれることもなかったのですが、突然その先生の顔を思い出し、自分はなんと酷いことをしたかと、仕事中にもかかわらず思わず涙が出そうになりました。
 それから毎晩その先生に向けて、慈悲の瞑想と懺悔の瞑想を何日か繰り返しました。許されることではないし、今受けている苦受は自分のしたことに比べれば何十分の一程度である。誰に何をされても文句など言えない。それと同時にあのときの罰はいずれどこかで受けるのかと思うと「ゾッ!」とします。
 次の日、またまた若い上司に言われた一言に仕事中怒りが出ました。それに対してサティを入れてみるもののなかなか効果はなく、その時ふと、あれ?今の彼の言葉にそこまで怒ることかと、思考モードですがいろいろ考えていると、今までの怒りとはなにか違っている。(いままでの怒りとはどこかが違う感じを受けたと言うことでしょうか?)確かに注意や指摘は受けたが、別に怒ることか?何かこの怒りの向こうに隠れていないかと、心の中を見てみると、このときも1DAY合宿のときに先生から言われた一言、「若い奴に負けんぐらいに仕事して、文句言われんようにせいや」が頭をよぎった次の瞬間ハッとしました。まさにプライドが隠れていたのです。(つづく)
季節の写真

「智光山公園の新緑」(U.K.撮影) 

先生と話そう

第二回 瞑想の道しるべ  小説家の瞑想現場を参考例に(前編)

第二回 瞑想の道しるべ  小説家の瞑想現場を参考例に(前編)

【前説】
「瞑想の道しるべ」の続きです。今回は自分のケースを引き合いに出して話を始めたところ、ヴィパッサナー瞑想の核心に触れるようなところにお話が及びました。最初はカットするはずだったのですが、原稿を起こしているうちに、非常に興味深く、喜んでもらえる読者もいるのではないかと思い、二回にわけて掲載することにしました。まずは前半です。

榎本 こんにちは。「先生と話そう」の第2回目です。どうぞよろしくお願いします。
地橋 よろしくお願いします。今日は何を話すのですか。
榎本 前回の続きです。前回は、「瞑想の道しるべ」と題して、とりあえずサマーディの境地に至るまでのプロセスをお尋ねしたかったのですが、「それは人それぞれです」とうっちゃられてしまいましたよね。
地橋 まあそれが本当のところなので(笑)。
榎本 はい。そこは理解するにはしたわけですが、あれで終わってしまうのは寂しくもあり、今回は自分をまな板の上に載せて、解説していただこうと思ったのです。
地橋 なるほど。具体例があるとコメントしやすいし、読者にとっての参考にもなるでしょう。ウパンディータ・サヤドー(ミャンマーの高名な瞑想指導僧)などは具体的な瞑想体験に基づかない観念的な質問をすると非常に厳しく叱られる。だから絶対にそんな話はするな、と通訳のドイツ人比丘が耳打ちしてくれましたね。ところで、榎本さんは瞑想を始めてどのくらいになりますか。
榎本 初心者講習会に出たのが2023年の2月ですね。続いてその月の1day合宿に参加して、以降、毎日瞑想をしつつ、1day合宿に参加しています。なので2年とすこしです。では、先生から受けた指導と私のステップを申し上げますのでそれについてコメントいただけますか。先生が最初に諭されるように言われたのは、「歩きの瞑想に徹底しなさい、いまは座らなくてよい」ということでした。「座るのは10年早い」というような調子で。
地橋 それはオーバーですね(笑)。
榎本 まあ、そのくらいはっきりと言われた。ヴィパッサナー瞑想にはマハーシ・システムとゴエンカ・システムがありますが、このような指導はマハーシ・システムの特徴でしょうか。それとも、私個人への指導としてそのほうがよいと判断されたからですか。
地橋 まず、マハーシ・システムのお寺では〈歩き〉と〈座り〉を交互にやりなさいと指導されるのが一般的です。ただ、私は初心者講習会のときには、必ず〈歩き〉を優先して教えます。榎本さんが言うように、「座りはまだやらなくていい」と受け取られかねないような口ぶりで指導するときもあります。つまり私の指導の基本方針がそうであると言えますね。なぜそうしているのかはこのあとすぐに説明します。さらに榎本さんの個性に合わせて、そこをひときわ強調した部分もあります。これはすこし後になりますが、お話ししましょう。
では、私はなぜ〈歩き〉を重視するのか。座りの瞑想は、お腹の膨らみや縮みの感覚に意識を集中させるのですが、これは歩く瞑想の足の感覚よりも微弱なのです。さらに〈膨らみ/縮み/膨らみ/縮み……〉の切り切り替わりも不明瞭で、これを捉えるのがなかなか難しい。

榎本 なるほど。
地橋 しかし歩く瞑想では、「離れた」→「進んだ」→「触れた」→「圧」→とセンセーションの生滅変化が明確で、経験→確認→経験→確認→とサティを入れるタイミングを習得するのにも、座りの瞑想よりもはるかに適しているのです。
 あと、座る瞑想は、人によっては初心者でも、変性意識状態に入りやすい人がいます。禅寺で長く坐禅をやってきた人の中にも同じタイプの方がいらっしゃいます。変性意識状態に入ると、快感ホルモンが出るので、気持ちがいい。快感には溺れたくなるし、さらにその度合いを強めたくなるのが人情で、肝心のサティを入れて見送る仕事をやりたがらない傾向があるのです。なので、まずは歩く瞑想を徹底せよと指導しているのです。


【ヴィパッサナー瞑想のサマーディとは サティこそがヴィパッサナー瞑想の根幹である】


榎本 たしかに、せっかく得られた快感にサティを入れてむざむざ捨てるのはもったいない気がするでしょうね。
地橋 なので、ここは何を求めて瞑想をするのかということにもなります。なぜヴィパッサナー瞑想なのかという根本的な問題もここにあるわけです。
榎本 すこし寄り道になりますが、質問させてください。ヴィパッサナー瞑想でもサマーディの境地というものが重視されていますね。このサマーディに至ったときもサティは入り続けるものですか。
地橋 もちろん入ります。サマーディそのものは、サマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想にちがいはありません。対象と合一してしまうほどの極度の集中です。しかしヴィパッサナー瞑想では、サマーディとサティが同時進行していくのです。〈(音・イメージ・感覚、などの知覚対象と合一する)サマーディの瞬間⇒サティが入る⇒サマーディ状態が対象化される⇒またサマーディ状態になる⇒サティが入る⇒・・・〉。対象と瞬間的に融合するサマーディが、直後のサティによって次々と客体化されていく連続状態。これがヴィパッサナーに特有の「瞬間定」と呼ばれるサマーディです。
榎本 うむ。かなりアクロバチックですね。…対象と一体化しているだけではどうして駄目なのですか。
地橋 一瞬だけ眼前の事実と一体化することはできますが、現実というものは瞬時に変化してしまいます。しかし、心が作り出したものとなら長々と一体化できるでしょう。
榎本 うむ。心が作ったものというのは概念ですね。瞑想というのは概念を排するのが基本方針では?
地橋 そうです。ヴィパッサナーはあるがままの事実を観る瞑想ですから、概念を厳しく排除します。というか、現実とダブって重ね合わされた妄想や概念を切り離して、事実は事実、妄想は妄想、と正しく観る。これが「あるがままに観る」ということです。ここはとても大事なところです。刻一刻と変化していく現実と融け合ってしまうことはあり得ないのです。だから、いったんその現実を概念に変換し、その概念と一体化しているだけなのです。
榎本 ははあ。たとえば「あの樹と一体化する」と言っても、樹はその葉を風に揺らしているし、その枝には鳥がやって来て実をついばんだりもする。なので、これを捉えるためにはスナップ写真を撮るみたいにいったんパチリとやって、この現実の写しとしてのイメージと一体化するしかないということになる。――こういうわけですか。
地橋 そうです。動画として捉えるべきところを、静止画像にしてしまっている。このような変換作業を経たものとなら、主客未分の合一状態を延々とやれるのです。これがサマタ瞑想のサマーディです。
榎本 しかし、現実の樹はまさしく客体ですが、自分の頭の中にある樹のイメージも客体と言えなくはないのでは?
地橋 はい。どちらも客体です。そして、都合がいいことに脳内イメージは変化せず固定化できる。厳密に言うと、同じイメージを想起し続けることができるので、サマーディをいくらでも長く味わえる。たしかに客体ではあるが、イメージの中身は物理法則に影響されないのでこれを現実と呼ぶわけにはいきません。
榎本  つまり、もう一度、心を現実に向ける必要がある、そのためにサティを入れるわけですか。

地橋 そうです。現在の瞬間にサティを入れるのです。
榎本 ということは、サティが入ることによって、サマーディは破線状態になりませんか。……あ、そうか。なるほど、このブツブツの状態が、ヴィパッサナー瞑想がめざすサマーディということですね?

地橋 そういうことです。次の瞬間の現実との合一がくり返されるのが、カニカ・サマーディ、瞬間定です。グリーンヒルの合宿に若い禅僧が何人も来られましたが、あるとき彼らの師匠である老師も十日間合宿に入ったことがあります。その時いろいろ話して、禅宗の修行とヴィパッサナー瞑想の修行はかなり重なっていることが確認できました。ただ、この瞬間定だけは禅宗にはない、とおっしゃっていましたね。ここが分水嶺です。
榎本 仏教の最終目的は解脱ですね。つまり、コピーした現実に幸福を感じるのではなく、現実をありのままに見つめ、この現実からの解脱を目指すのがヴィパッサナー瞑想であると。
地橋 そうです。サティを入れ続ける瞬間定が成立すると、現実世界は、存在の不条理に満ち、すべてが変滅していく不安定性に拘束されていて、一切皆苦の世界として理解せざるを得ない。つまり、苦に満ちた現実からの解脱を目指す方向性が生まれるはずなのです。しかるに、梵我思想も、タオ思想も、密教はもちろん大乗仏教も、現象世界肯定論を基盤にしており、苦に満ちた現実世界を概念操作によって甘美なものに変換して捉え、存在を永遠に続けようとしているのではないかということです。
榎本 なるほど。とても興味深い。ただ、話が哲学的な方向に行きすぎている気もするので、ここで私のショボい瞑想修行に話を戻させてください。とりあえずここで、「まずは歩きなさい」と指導された理由をまとめると、初心者には歩きのほうがわかりやすい、サティを入れて見送るというヴィパッサナー瞑想の基本を体得しやすいという理由なのですね。
地橋 そして、さらに、徹底してもらいたい特別の理由もありました。榎本さんは、以前は映画のお仕事をしていて現在は小説家です。一日中言葉と刺し違えているので、言葉の脳が発火し続けた灼熱状態になっていて、瞑想には向かないタイプなのです。(爆笑) そこで、まず言語野の沈静化が人一倍必要なので、歩きのセンセーションに集中するインストラクションになったのです。
榎本 なるほど。丁寧にありがとうございます。では、私が瞑想を始めてから現時点に至るまでのプロセスをかいつまんで説明します。まず〈スタート ボロボロ期〉です。頻出する妄想によって、まともにサティが入ることがほとんどない時期。1時間やって、ひどいときは五歩くらいしかサティが入らない状況がしばらく続いていました。

地橋 まあ、珍しいことではありません(笑)。
榎本 そうなのですか。ときどき「ほとんど妄想しながら歩いているようなものだ。こんなことをして何になるんだろうか」と思っていましたが。

地橋 それもよくあることですね。私もそうでしたよ。私はタイプとしては法随観の修行者のタイプだったので。意識の流れを徹底的に見たくなってしまうのですね。細かい妄想が気になってしかたがなく、通常は気がつかないような細かい妄想を〈マイクロ妄想〉、〈ナノ妄想〉と呼んでいるのですが、これらに翻弄されて、タイでの修行中に30分に一回しかサティが入らなかったこともありました。
榎本 法随観というのは法を観察するという瞑想法ですか?
地橋 そうですが、ここでの法はあらゆる現象と考えてください。
榎本 つまり、足裏や腹部の感覚だけではなく、眼耳鼻舌身意の六門から入ってきた感覚やすべての事象にサティを入れるという観察法ですね。
地橋 そうです。


【サティが機能しない!】


榎本 次の段階では、とりあえず「妄想」「雑念」「考えた」とサティを入れるには入れるのですが、妄想が激しすぎて、これを断ち切ることが難しい時期に入りました。
地橋 これはね、おそらくサティを入れることによってその瞬間の妄想は断ち切られているのです。
榎本 え、そうなのですか。
地橋 ええ。ただ、すぐに次の妄想が出てきて、それにはサティが入ったり入らなかったり、おおむね入らないので、続いているように感じられるのです。
榎本 なるほど、この時期はよく自分を叱りつけるようにして、命令形でサティを入れていました。「妄想するな!」という具合に。あ、これはサティではないのかな。メタ認知モードになっていないわけだから。
地橋 はい。言うなれば妄想との格闘モードですね。「妄想するな!」というのも妄想なのに、それにはサティが入っていない。妄想を駆逐することに執着しているからです。そうではなく、あくまでもクールに「妄想していた」とサティを入れるべきです。妄想する自分に腹が立ったら「腹が立った」と、どこまでも無限後退して、淡々と見送るべきなのです。ただ、まあこの時点では難しいでしょうね。
榎本 まったく駄目でしたが、それからすこし改善し、妄想とサティを入れると、少なくとも次の一歩くらいは確実にきれいに歩けるようにはなりました。ここまでがわりと長かった。1年以上かかったような気がします。それから多少改善され、妄想とサティを入れると数歩くらいは歩ける状態に移行しました。(続く)

今日のひと言

2025年5月号

(1)汗とホコリで体が汚れるので、毎日お風呂に入る。
 欲望と怒りと嫉妬と高慢で心が汚れるので、毎日瞑想をする・・・。


(2)ダンマの世界に心が洗われても、世俗の煩悩世界に戻ればたちまち泥んこになってしまう在家の悲しさ・・・。


(3)全てを押し流していく濁流のように、現象世界は生滅し流転していく。
 善くも悪くも、情況は、変わっていく・・。
 鋭いサティの入った正確な認識も、たちまち角が取れ、細部が誇張され、ステレオタイプの絵になっていく。
 更新されていく色法と名法の世界、その一瞬一瞬に気づき続ける瞑想・・。


(4)同じ一つの現実なのに、100人いれば100通りの世界が脳内に拡がっていく。
 何度見ても何百回聞いても、同じ理解、パターン化された解釈が自動的に立ち上がってしまう。
 スルーしたものは常にスルーされ、人は見たいものを見ているだけだ。
 ・・・目からウロコが落ちるサティ!


(5)誤解と錯覚だらけの、デタラメの認識で人を恨み、狂おしく恋い焦がれてきたのではないか。
 そんな、これまでの人生は何だったのだろう・・。
 なぜ古来から「人生は一場の夢に過ぎない」と言われてきたのか・・・。


(6)瞑想しても手応えがなく、これといった結果が出ない・・・。
 ものごとの真実の状態をあるがままに観ていく技法なのに、不正確なやり方で、いい加減にやっていないだろうか。
 正確に実践すれば、システム本来の姿が露わになり、十全に機能が発揮されるだろう。


(7)生存のために進化してきた人類の脳・・。
 地球の自然環境を破壊し尽くす勢いで、人工的に都市化させ文明化してきた結果、人の脳の使い方もいちじるしく変化した。
 いつから人類は瞑想をしてきたのか、確かなことは分からないが、今ほど瞑想が必要な時代はない・・・。

読んでみました

渡辺雅之著『マイクロアグレッションを吹っ飛ばせ―やさしく学ぶ人権の話』(高文研 2021)

「マイクロアグレッション」って何? 私も含めて多くの人にとってあまり聞き慣れない言葉だと思う。表紙にはこんな言葉が散りばめられている。


「ハーフってかわいいから私もなりたい♡」「日本人よりも日本人らしいね」「日本語ペラペラですごいですね」「あなたは、マナーがよくて日本人みたいですね」「女の人はみんな母性的だよね」「韓国人だから絶対キムチ好きだよね(W)」「黒人はダンスうまいよね!」「男の子はなんだかんだいってさっぱりしてるよね」「あなたって何人?」


これらの「何が」問題なのだろうか? アグレッションとは「攻撃性」を意味するので、直訳すれば「ささいな攻撃」ということになる。しかし著者はその影響はその影響は決してささいなものではないという。


著者は冒頭「この本を手に取っていただいたみなさんへ」の中で次のように述べる。


「この本は、自分の中にある差別意識や社会の差別構造に気づき、人権とは何か?『どうすれば互いの違いを尊重しながら、みんなが幸せに暮らせる社会がつくれるのか』をテーマにしたものです。言葉はシンプルですが、中身はとても深いこの問いをみなさんと一緒に考えたくて書きました」(p.3)


2019年10月、首都圏に超大型台風がきた時、著者はパートナーと共に近くのホームセンターに買い物に行った。大雨で満員の屋根付きの駐車場のなか一箇所だけ空いていたので、「これ幸いとばかりにハンドルを切るとそこには車椅子のマークが・・・。いくら濡れるとはいえそこに止めることはできません。ため息をつきながら私はつぶやきました。


『やっぱり、日本人はマナーがいいね』


その瞬間、助手席に乗っていたパートナーがぎょっとした顔で私を見ました。しかし時すでに遅し。吐いた言葉はもう戻せません。日頃から学生や多くの教育関係者を前にして人権や道徳教育について話している私です。パートナーの呆れた視線を受けて恥ずかしさで消え入りそうでした。なぜ恥ずかしい気持ちになったか、わかりますか? これがこの本の核心部分です」


この問いかけへの著者の答えだけではなく、本書中には問いかけや指さし記号をつけた「Try」、図表、資料、注、漫画までが数多くあげられている。


「そもそも、マイクロアグレッションは私たちの日々の生活や会話の中で『ふつう』に語られることが多く、発した本人もその問題性(加害)に気づかないという特徴があります。多くの場合発している本人に悪気がないためにギャグとして受け取られ、それゆえ周囲も同調し、笑ってすませることで問題(加害)は社会の中に埋め込まれていきます。こうした問題を批判すると『いちいち、そんなに目くじらを立てることはない』『何も言えなくなっちゃう』『住みにくい世の中になった』


などと反論する人が大勢います。


また、こうした言動を批判されると、その人たちがよく口にする言葉は『差別するつもりはありませんでした。誤解を招く表現で申し訳ありませんでした』です。でもそれは『誤解したあなたたち(の聞き方や理解)に問題がある』を含意している表現です」


こうした弁解はテレビではよく見るが、そのたびに不快になる。(“サティ!”が入りやすい。あまりに度々なので?)


どこが問題かと言えば、それは、


「これらの言動の背景には、肌の色や文化、ジェンダー、民族など自分と異なる(と思っている)他者に対する無意識の偏見や蔑視が含まれており、対象にされた他者を深く傷つけるから問題なのです。そして対象にされた個人や集団を不当に扱うことが『アタリマエ』とされ、差別する空気を社会のスタンダードにしてしまうという問題なのです」(下線は著者による)


そしてそれは、「すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。人間は、理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない」(世界人権宣言第一条)という「人類が苦労の末たどりついた人権の考えを否定し、誰もが人として持っている幸せに生きる権利を奪うことにつながるからです」


そして著者は、自分のこれまでを反省とともに振り返り、現在の活動について触れ、この本で「人権とはそもそも何、差別ってどういうこと、とくにマイクロアグレッションはなぜ生まれ、どうすればなくなるのか? みなさんと問答しながら考えていきます。失敗と反省だらけの人生を送ってきた私ですが、だからこそみなさんと共にあらためて学んでいきたいと思います」と結んでいる。(以上「はじめに」から)


※先頭に挙げた「なぜ?」に対する答え。「私の心の中に『日本人はマナーがいい=そうでない人(外国人)はマナーが悪い』という無意識な差別意識が潜んでいたことに気づいたからです」


著者は大東文化大学文学部教授(教職課程センター)。22年間中学校教員を務める。TBSドラマ『3年B組金八先生』で、いじめ問題に取り組んだ実践がモデルとして取り上げられる。国会前デモのリーガル(警備)やヘイトスピーチへの抗議(カウンター)、UDAC埼玉・投票率を上げる市民の会(代表)、埼玉朝鮮学校補助金再開を求める有志の会(共同代表)、などの社会運動に関わる。近年は、銀座No!Hate小店のレギュラー講師など人権問題や教育問題に関する講演活動で全国各地に。専門は生活指導、道徳教育、多文化共生教育。


本書の目次は次の通り。(章に含まれる項目の形式が多様だがそのままにした)

◎目次

はじめに

第1章 人権とはなんだ?!

1.歴史を見てみよう

    人権が生まれた/立憲主義/人権の種類/人権という旅

2.今何が起きているか

    BLMとヘイトスピーチ/コロナ差別/ジェンダーギャップ

第2章 差別とはなにか?

1.公平性と平等

2.路上生活者の排除

3.差別問題を考えるための六つのポイント

①差別は常に合理化を伴う ②力の強い方(多数)から弱い方(少数)へ向かう

③弱い人はいない-カの差はつくりだされたもの ④当事者(された側)がどう感じているか?

⑤差別問題は歴史的な文脈で考える ⑥差別は社会の問題-すべての人が当事者である

4.「反日」といういいかげんな言葉

第3章 差別はなぜ生まれたのか

1.差別はなぜまずいか

  (一)人種ってなに

  (二)差別は何を壊すのか

  (三)差別が生み出すもの

    ジェノサイド/ヘイトクライム/差別の下支え

  (四)差別と区別

    平均値と二分化/DSDと×ジェンダー/差異と不当な扱い/差異をなくす?

2.森発言を分析する

   問題点と解説/社会構成(構築)主義/悪気はない?!

3.森発言が生まれるところ

(一)心理的要因-マンスプレイニング

(二)社会的要因-ジェンダーという構造

(三)家父長制という根っ子

(四)フェイクニュースとリテラシー

第4章 マイクロアグレッションを吹っ飛ばせ

1.差別の現場に出くわした時

(一)はっきりと見える差別

直接的なヘイト行為/ヘイトデモ・街宣の現場/どっちもどっち論/SNS上の差別/差別煽動を行う店舗や企業

 (二)見えにくい差別

  マイクロアグレッションの怖さ/どこが、何が問題なのか

2.内なる差別-マイクロアグレッションとたたかう

気づくことから始める/働きかける存在になる/リテラシーと学ぶこと/勇者になろう/自己責任論とたたかおう

おわりに

あとがき


著者は、本書は「順番に読むのがおすすめ」としつつ、ただ、「『おわりに』と『あとがき』には必ず目を通してほしいと思っています」と言い、さらに考えや学びを深めるために、「読者のみなさんへの課題『トライ』がたくさん出てきます。『トライ』に関する私なりの答えや例示は脚注に示しておきますが、脚注を見る前にぜひ自分でトライしてみてください」と述べている。(p.3、下線は著者による)

なお、「差別表現が記されている箇所があります。しかし差別や排外主義を扇動する目的ではなくそれらに対抗するために、あえてそのまま掲載しています」と断っている。


いかがだろうか? もちろん本欄では詳細に紹介することは出来ないので、恣意的ではあるがわずかの紹介にとどめる。ただそれだけでもけっこうな発見であった。それではまず著者の文章から。


「差別は私たちの社会の根幹になければならない公平性(フェアネスーfirness)を壊すものという大前提をまず押さえておきたいと思います」(p.45)


「『権利を主張するなら義務は果たして』という一見もっともらしく聞こえる意見こそが、人権に関する基本的な理解が欠如あるいは誤解しているものと言えるでしょう。そもそも日本国憲法第二五条(第一項)には『すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する』と記されています。すべては文字通りすべてであり、そこに付帯条件はありません。権利は義務とセットでもバーター(交換条件)でもないのです。権利は権利としてすべての人に付与されているもの。憲法二五条が生存権と位置付けられているのはそういう意味を含んでいます。むしろ、『国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない』と二五条第二項にあるように義務があるのは国や自治体なのです」(p.49)


著者は差別問題を考えるための六つのポイントをあげる。

①差別は常に合理化を伴う

②力の強い方(多数)から弱い方(少数)へ向かう

③弱い人はいないー力の差はつくりだされたもの

④当事者(された側)がどう感じているか? が基本になる

⑤差別問題は歴史的な文脈で考える

⑥差別は社会の問題―すべての人が当事者である


①の例

「学校で『いじめは悪いけど、いじめられる方にも原因があるよね』という言葉を聞いた人は少なくないでしょう。これもいじめという人権侵害を合理化する理屈ですね。

こうした合理化が被害を受けている個人に投影されると『いじめられている自分が悪いのだ』『DV(ドメスティック・バイオレンス)を受け続けているのは私がいたらないからだ』のように、自分で自分を責めるような心情に陥り、被害はより深刻化します。

Try:いじめられる(差別される)側にも原因があるよね?と言われたらどんな対話をするか考えてみよう。

著者の回答例:私ならば、まず『どうしてそう思ったの?』と聞いてみます。そして相手の答えの中にある問題点、例えば一方的な自己責任論や加害を正当化(合理化)するものはないか、対話しながら考えあっていく姿勢をとりたいと思います。『いじめられる側にも云々』のような発言が生まれた背景には自身の傷つき体験が奥底に眠っている場合もあり、『そんな考えは間違っているよ』と頭から断定しないことも必要でしょう」(p.51)


②は権力関係の存在、つまり「非対称性」の関係から生ずるということ。そして③は、「弱者」「強者」という言葉は自明のものではなく、社会的に“権力関係のなかで”生み出されるということ。

差別する(他者を支配する)という目的のために理由が作り出され、それは必ずステレオタイプに基づく非対称性の関係の中で行われる。「逆に言えば、対称な関係の中で差別は発生しない(対等なケンカとイジメの違いですね)」(p.69)


④の例には黒塗りメイクのコントをあげる。

この「黒塗り」姿は放映開始からすぐにSNS上で「面白い」などと同時に、「黒人への差別である」など多くの批判も集まりました。「そうした中、『あの演出は差別してるわけじゃない』という趣旨の書き込みに混じって次のようなものがありました。

A:肌の色なんか関係ない、ぼくは気にしない

B:僕には黒人の友だちもいるし黒人文化をリスペクトしている

このような意見は『カラーブラインド』と言って反差別運動の中でたびたび批判されてきたものです。Aのような態度は一見、正しいように見えますが、現実に存在する人種差別から目を逸らすことにつながり、社会が解決すべき問題を唆昧にしかねないのです。また差別被害の当事者の苦しみや辛さを軽く見てしまうという問題もあるでしょう。またBも同様に、いまここにある差別や歴史的経緯を無視したものと言えるでしょう」(p.56)


そして⑤として、アメリカの「ブラックフェイス』の歴史的事実を学べば、安易に黒塗りメイクをすることなどできないことを例にあげている。

「ブラックフェイスを演じたタレントたちが『差別する意図はなかった』というのは本音かもしれませんが、こうした歴史を知らない(調べたり・知ろうとしない)不勉強は厳しく問われなければならないでしょう。そしてそれは、演じたタレントが不勉強であるという問題だけではなく、テレビ局という大きな影響力を持つメディアに関わっている人たち(組織)の中に、そうしたことをきちんと学んだ人がいなかったという問題があります。情けないことに、これが日本社会の現実ではないでしょうか」(p.61)


ポイント⑥

「何よりも『差別は社会の問題であり、すべての人が当事者である』ととらえることが大切だと思います。言い換えれば『そこにある差別はあなたの問題でもあり、私の問題でもある』ということ。そして、差別の問題は歴史的文脈で考えること、すなわち『いま何が起きていて、それはなぜなのか』を学ぼうとする態度が不可欠なものと一言えるでしょう」(p.70)


ここまで綴ってきて、あまりに多岐にわたるためきりがなく、残念ではあるけれどあと二つだけあげて今月の本欄はそこまでにしたい。著者は冒頭で、「小学校の高学年くらいから人権問題に興味関心のある大人の方まで、幅広く読んでいただけるように、なるべくやさしい表現で書くこと意識」したとし、「また学校の授業(例えば道徳科・社会科)や企業等の研修会のヒントになるような事例や解説も多く掲載しました。ご活用いただければ幸いです」と述べている。いつものことだけれど、ぜひ直接手に取られることをお勧めしたい。

では最後の二つ。一つは本書オリジナルではないがこれまでまったく気にすることもなかった。


「今まで見てきたように、マイクロアグレッションは差別反対や人権の大切さを熱心に語る人であっても、気づきにくい性質を持っています。ヘイトスピーチに対抗報道を続けてきた角南圭祐さんは『ヘイトスピーチと対抗報道』(集英社新書、2012)の冒頭でこう書いています。

『今こそ全ての日本国民に問います』NHKの人気クイズ番組でお決まりのナレーションが入るたびにモヤモヤする。この番組を見ているのは、この国に住んでいるのは、国民だけじゃないのに』」(p.179)


最後に人類の起源から。皮膚の色や目の色などが地域によって違う特徴をもとにいくつかの集団に分類する人種の概念は、今日では生物学的に有効ではないという見方が一般的になっている。

 「つまり生物学的には『人種はない』ということです。しかし、梁さんは『人種は存在しないが人種差別―レイシズムは存在する』と主張します。

人種が存在した上で人種差別が起こるのでは全くない。逆に人種差別と言う実践や慣習があるからありもしない人種が作られるのだ」(梁英聖『レイシズムとは何か』)(ちくま新書2020)(p.78)

 そして、

 アメリカで50年以上も差別問題に取り組んでいるジェーン・エリオットさんに対する、フリーハグという社会活動に取り組む桑原功一さん(映像作家)の質問。

「『レイシズムをなくすためにどうしたらいいですか?』という問いに、『学びなさい』と返しています。そして2017年NBCのインタビューでは『差別主義者の人は、愚かなのではなく無知なのです。無知への答えは、教育です』と言いました。まさに、誰しも『学んでいかないといけないな』と本書を書き進めるたびに痛感しています。学びの旅を続けます」(p.79)

「実はマイクロアグレッションに気付くのも他者に働きかけるのもこの力が必要なのです。

 なぜならマイクロアグレッションの根底に横たわる「女子は○○」「何(なに)人は○○」というような認識の多くは、偏ったものの見方・考え方すなわちリテラシー(※)の低さに起因しているからです。そしてこうした偏見-バイアスがステイグマを産んでいきます。ステイグマは社会によって押された烙印という意味だと前にも述べましたが、簡単に言えば決めつけです。これが強まると烙印を押された人たちに対する排除や差別が日常化していきます。WHO健康開発総合研究センターは、コロナの拡大を止めるのは恐怖ではなく事実ですと述べ、次の三つの視点を掲げています。

-病気に関する事実と正確な情報をシェアしましょう。

-迷信や固定観念を疑いましょう。

-言葉遣いに注意しましょう。コミュニケーションの仕方は他者の態度に影響を与えます。

『事実と正確な情報をシェア、迷信や固定観念を疑う』これらの視点はコロナに限ったものではありません。マイクロアグレッションとたたかうための武器になります。ではどのようにしてリテラシーを高めることができるのでしょうか。

答えはシンプル。学ぶことです。(略)学ぶとは知識を溜め込むことではありません。自分の生きている世界を塗り替える営みであり、昨日とは違う自分を手に入れることです。私たちに必要なのは学びであり、実はこれはとても楽しいことだと思うのです。

その方法は様々です。いまあなたがしているように、本を読む、映画を観る、音楽を聞く、旅行する、誰かの話に耳を傾ける……それらを他者と語り合い共有する。それら全てが学びだと思います」(p.163)

目次に見られるとおりまだまだありますがここまでにします。(文責:編集部)


(※)リテラシーとは、本来は読み書きの能力という意味ですが、最近はITの進歩に従って情報の読み解き方の意味に変わってきました(本書より)。

ちょっと紹介を!

和泉悠著『悪口ってなんだろう』(筑摩書房2023)

著者は南山大学人文学部人類文化学科准教授。南山大学言語学研究センター長。専門分野は、常語哲学、意味論。また、言語のダークサイドに興味があり、罵詈雑言をはじめ、差別語、ヘイトスピーチの仕組みとその倫理的帰結についての研究も行う。著書に『悪い言語哲学入門』(ちくま新書)、『名前と対象―固有名と裸名詞の意味論』(勁草書房)など。

2023年9月16日付けの毎日新聞『今週の本棚』欄に次のような紹介文が載っていた。
「悪口の『悪さ』を説明するのは結構難しい。人を傷つけるから?悪意があるから?いや、それだけでは不十分だ。恋人からの別れの言葉のように、人を傷つける言葉は他にもあるし、いじめの加害者による悪口には悪意がないことだってある。
そうした具体例を示しながら、『悪口はなぜ悪いのか』『どこからどこまでが悪口なのか』『悪口はどうして面白いのか』を考察する本書は実に明快だ」
※この3つは目次のパートを表し、中は合計20の節に分かれているがスペースの関係からここでは転記しない。

これを読んで、八正道の「正語」とのかかわり方はどうなのかが頭に浮かび、そこで早速読んでみた。言うまでもなく「正語」には「悪口を言わない」というのがある。ただ「その中身は?」と言われると、「誹謗や中傷」以外にはあまり浮かんでこないし、「これがなぜ『悪口』?」などとも考えたことがなかった。だからもしかすると「悪口」に当たる言葉を気づかないまま日頃使っていたこともあったに違いないと思う。
本書は「悪口」というのはどういうことなのかを整理しているので、それを理解しておけば日常での失敗も防げるのではないかと思う。その意味から、本欄では上にあげた最初のテーマ「悪口はなぜ悪いのか」だけに限って取り上げることにした。また著者は、悪口の考察を進めると攻撃的なことばや悪口を生み出す人間や社会についてもいろいろわかってくると言っているが、そのことにもここでは触れない。

著者は「はじめに」ですでに、悪口とは「誰かと比較して人を劣った存在だと言うこと」だと結論を述べている。しかしそこに「人を傷つけることば」とか「悪意を持ってことばで攻撃すること」といった常識的なことを言っていないことにも気づいてほしいと言う。本書の主要な課題はその証明だとしている。

○人を傷つけるから?
まず常識的に言われる「悪口が悪いのは人を傷つけるから」というのはあまりうまい説明ではないと言う。なぜなら悪口以外にも、例えば「残念ながら不合格です」のように、人を傷つけたり精神的にダメージを与える発言はたくさんあるから。こうした言葉はもちろん悪口ではない。
このポイントを論理的なことばを使って言いかえると、「人を傷つけることば悪口の十分条件ではない」ということだ(p.14)。
一方、こうした「人が傷つく」とか「不快に思う」と言うような基準ばかりに焦点を当てるとむしろ不都合が生じることがあるという。
例えば、「いじめられている側が、『やめろバカ!』と、多少乱暴なことばを使って、自分の身を守ろうとしたとします。そのとき、そのことばづかいは他人に不快感を与えるからやめましょう、などといじめられている側を注意したとすると、これほど不公平なことはないでしょう」(p.14)。
似たようなことは、差別を被っている人たちが批判の声をあげるような社会でのやりとりでも見られる。
「そのとき、その批判の内容ではなく、ことばづかいや言い方に論点をそらせて、黙らせようとする反応があります。『乱暴な発言なので怖いです』『そんな言い方では誰も協力してくれませんよ』といったものです。そうした行為は、『トーン・ポリーシング』(tone-policing口調の取り締まり)と呼ばれています」(p.18)。
このように、不快さや痛みのような感覚だけですべてを説明しようとすると、「まっとうな説教ですら悪口になってしまいますが、それはおかしな結論です。したがって、人を傷つけるから悪口は悪いという発想で、悪口を理解することばできないのです」(p.18)。

○悪意のせい?
では言う側の心に「悪意」があるから「悪口」なのか。
しかしそれもぴったりとは当てはまらない。なぜなら、「悪意は悪口の必要条件でも十分条件でもないからです。悪意がなくても、悪口を言うことができます」(p.19)。
これには、無邪気な子供がおとなをからかって言う悪口は悪意がなくただ面白がっていたりする例や、冒頭の紹介文のようなことがあげられている。
さらに、悪意を込めてわざと「褒め」たりすることもあったり(その場合は伝わらないので傷つかない)するし、おまけに、「『悪意はなかった』という言い訳ひとつでどんな発言も許されてしまう」可能性も生じてしまう。(p.23)

○人のランクを下げるから?
悪口が悪い理由は、社会の中での立場という「ランク」概念から考えられるという。
例えば、「きもい」とか「うざい」は否定的な評価を表していて、「うざい」人は「うざくない」人よりも「良くない」「悪い」あるいは「劣っている」ということだ。
「『うざい』を使う人は、普通の場合、自分のことは『うざくない』と思っているのでしょう。すると、誰かに『うざい』といった悪口を言うことは、標的は自分より劣っているのだ(自分は標的より優れているのだ)、と言っていることになります」(p.27)。
優劣は「上下」のランキングとしても理解できるから、「悪口は、一般的に、標的が自分よりもランクが下だと言うことなのです。これが、本書でのメインの主張になります」(p.28)。
このようなことで、ランクを下げられて社会的な立ち位置があやうくなった「人物には不都合が生じ、なにかと生きづらくなります。だから悪口は嫌なことであり、不快なことであり、屈辱的なことでもあるのです。そして悪口が悪いのは、そのような序列を作り出し、誰かを劣った存在として取り扱うことは悪いことだからです」(p.30)。

○記述のランキングと優劣のランキング
「人と比べるな」「比較なんてしない方がいい」というのはどだい無理な話だという著者は、これを「記述のランキング/優劣のランキング/存在のランキング」という3つに区別して考える。
記述のランキングは身長・体重のような単なる事実関係。しかし、そこになんらかの価値を加えると、優劣のランキングが重なってくる。例えば、「背は高い方が良い、足は長い方が良い、目は大きい方が良い、偏差値は高い方が良い、給料は高い方が良い、などと思ってしまいます。状況次第ではそうではない、そして自分自身がそうではないかもしれないのにです」(p.34)。
「順位をつけたり、競争したりしない方がよい、などとは言っていません。競技も切琢磨も大歓迎です。同じ評価軸で素晴らしい結果を出す人が誉められる、賞賛されることも大事です。重要なのは、すごい人だから『評価する』ことと、同じ人間だから『尊重する』ことの区別です。これから見ていくように、すごい人だろうがすごくない人だろうが、人間として同じように尊重されるべきだからです(p.35)。
○存在のランキング
私たちは上記2つを一切無視して、人物そのもののランキングを作成することがある。これを「存在」のランキングという。つまり「人として上」「人間として下」というような考え方で、客観的な基準はなく、一種の価値観を表しているに過ぎない。
「人間の何に本来的な価値があるのでしょうか。文化でしょうか。言語でしょうか。どうしてそれにクラゲの生よりも価値があるのでしょうか。(略)しかし、『人間は人間自身や人間の文化に価値を見出すよね』『人間は人間を大事にするよね』以上のことを言うのはとても難しいのです」(p.40)。
これが人間に適用されるとレイシズム(人種差別主義)やセクシズム(性差別主義)になり、また、「居住地、出身地、親の仕事や学歴や年収、そういった基準で人々を分類し、この連中は自分たちより上だ、下だと存在のランキングを作成」(p.41)することにもなる。さらに、職種によって人に接する態度をがらりと変えたりもする。
なので、「どのように人に接するか、どのように人が取り扱われるのかという『処遇』は、人のランキングについて考えるのに重要な観点」(p.42)となる。

○尊厳としてのランク
このパートのまとめとして著者は次のように言う。
「現代人にとって、人間の間に存在のランキングをつけるのは悪いことだと言えます。これが悪口が悪くなる根本的な理由です。言い方を変えると、すべての人間は同じランクにある、つまり平等なはずなので、誰かをランクが下の存在として扱うことは良くないことです。
(略)
悪口だけでは、少ししかランクを下げられないかもしれませんが、悪口からエスカレートして、人を見下し、文字通り足で踏みつけるというところまで進むかもしれません。悪口には人の尊厳を傷つける力があるのです」(p.47)。

この第1のパートでの結論は2つ。
第1に、「悪口」が悪いのは、「悪口には必ず比較がともない、誰かが誰かより劣っている」と「人を同じランクの人間として扱わないことが悪いから」ということ。
第2に、「悪口」はそれを実現させるひとつの手段なので、「人を傷つけるかどうかや、悪意があるかどうかは、あくまで悪口の中心ではなく、オプションのようなもの」だ。
これが著者の主張だった。いかがだろうか。このことを記憶しておくだけでも、少なくとも「悪口」に陥る危険を少しは避けることができるのではないかと思う。(文責編集部)
ダンマ写真

グリーンヒル道場座禅室のスリランカ仏。

サンガの言葉

私たちの真の家―死の床にある老在家信者への法話

「月刊サティ!」2005年1月~2005年5月号に掲載されました。今月はその4回目です。


 あなたの肉体は、生まれたときから、今老いて病むにいたるまで、肉体がたどる自然な道に従ってきました。そして、あなたは肉体がそんなふうに変化していくのを止めることはできません。それがあるべき姿なのです。肉体がそのようでなければいいと望むのは、アヒルが鶏の雛であればいいと望むのと同じくらい愚かなことです。それは不可能なことです。アヒルはアヒルだし、鶏の雛は鶏の雛だし、肉体は老いて死ぬものです。このことを理解すると力とエネルギーが湧いてくることに気づきます。肉体が長く生き続けることをあなたがどれほど強く望んだとしても、そうはなりません。
ブッダはこうおっしゃいました。


Anicca vata sankhāqra
Uppāda vayadhammino
Uppajjhitva nirujjhanti
Tesam vupasamo sukho.
諸々のサンカーラ(行い、状態※)は無常であり、
生じては滅する定めである。
生じた限りは、滅してゆく。
諸々のサンカーラ(行い、状態)が静まることは幸いである。


 sankhāra(サンカーラ 行い、状態)という言葉は、この肉体と心に当てはまります。サンカーラは無常で、不安定で、生まれたからには消え、生じたからには滅します。それにもかかわらず、誰もがサンカーラが常であることを望みます。これは愚かなことです。呼吸を見てみなさい。入ってきたら出て行きます。それが呼吸の本性なのです。それがあるべき姿なのです。入息と出息は交互に行われます。つまり、必ず変化があります。

 サンカーラは変化によって存在し、あなたにはそれを妨げることができません。考えてみなさい。息を吸わずに息を吐くことができますか。それでうまく行っていると感じますか。また息を吸うことだけを続けられますか。

 私たちは物事が常であることを望みますが、それはありえません。不可能なことです。一旦息が入ってきたら、息は出て行かなければなりません。出ていったら今度は入って来ます。それが自然ではありませんか。私たちは、生まれたなら歳を取り、病気になり、そして死にます。それはまったく自然で普通のことです。サンカーラが自分の仕事をしてきたからこそ、入息と出息がこのように交互に行われてきたからこそ、人類は今日でも存在しているのです。

 私たちは生まれたと思ったらすぐに死がやってきます。私たちの誕生と死はまさに一つのことなのです。これは木と同じです。根があれば枝があり、枝があれば根があります。どちらか一方だけということはありません。おかしなことに、人々は死に際しては憂いに打ちひしがれ、混乱し、涙を流し、悲しくなりますが、誕生に際しては、嬉しくなり、喜びます。これは幻影です。このことを明確に理解している人は誰もいません。

 私が思うに、あなたが本当に泣きたいと思うなら、誰かが生まれたときに泣いたほうがいいのです。というのは、実際に、誕生は死であり、死は誕生であり、根は枝であり、枝は根だからです。もしあなたが泣かなければならないなら、根でも泣きなさい、誕生でも泣きなさい。よく見てみなさい。誕生がなければ死も無いのです。このことが理解できますか。

 考えすぎてはいけません。ただ、こう考えるのです。「これが物事のあり方だ」と。それがあなたの仕事、義務なのです。今、誰もあなたを助けることはできません。あなたの家族や、あなたの持ち物があなたのためにできることは何もありません。今あなたを助けることができるのは、「正しい気づき」だけです。

 ですから、怯んではいけません。手放しなさい。すべてを捨てなさい。たとえあなたが手放さなかったとしても、どうせすべての物があなたのもとから去り始めます。それが分かりますか。あなたの肉体のあらゆる部分がどのように離れていこうとしているのか分かりますか。髪の毛を見てみましょう。あなたが若かった時はふさふさとして黒かったのが、今では抜け落ちていっています。あなたのもとから去って行っているのです。あなたの目は良く見え、強かったのに、今では弱くなり、視界はぼやけています。

 諸々の器官が十分に働き尽くしたなら、去って行きます。この肉体がその諸々の器官の家ではないからです。あなたが子供のとき歯は健康でしっかりしていました。今ではぐらぐらし、おそらく抜けてしまった歯もあるでしょう。あなたの目や耳や鼻や舌――すべてが去ろうとしています。なぜなら、この肉体がその家ではないからです。

 あなたはサンカーラに常なる家を建てることはできません。少しの間滞在したら出て行かなければなりません。それはまるで借家人――見えなくなりつつある目で自分の小さな家を見ている――のようではありませんか。その借家人の歯もそれほど良くなく、耳もそれほど良くなく、肉体もそれほど健康ではありません。すべてが去りつつあります。

 ですから、あなたは何も悩む必要はありません。なぜならこれはあなたの真の家ではなく、一時的な避難所でしかないのですから。この世に生まれたからにはその本質について良く考えるべきです。存在するすべてのものは消え去る準備をしているのです。

 あなたの肉体を見てみなさい。あなたの肉体で未だに生まれたときのままのものがありますか。皮膚は昔のままですか。髪の毛はどうでしょう。同じではありませんね。みんなどこへ行ってしまったのでしょう。これが自然、物事のあり方なのです。時間が来ると、諸々の行い、状態はそれぞれの道を行きます。この世界は頼れる存在ではありません――不安と困難の、喜びと苦しみの無限の繰り返しです。平安はありません。

 私たちは、本当の家が無いと、目的の無い旅人と同じで、しばらくこっちの道を行ったかと思えば今度はあっちの道を行き、しばらく滞在したかと思ったら再び出発します。私たちは真の家に戻るまで、何をしても落ち着かず、旅に出るために自分の村を出た人と同じです。家に戻ったときにだけリラックスして落ち着けるのです。


 世界のどこにも真の平安を見出すことはできません。貧乏人にも平安はありませんし、金持ちにもありません。大人にも平安はありませんし、子供にもありません。僅かな教育しか受けられなかった人にも平安はありませんし、高い教育を受けた人にも平安はありません。どこにも平安はありません。それがこの世の本質です。
少ししか所有物の無い人も苦しみますし、所有物をたくさん持っている人も苦しみます。子供も大人も老人も、みんな苦しみます。歳をとっていることの苦しみ、若いことの苦しみ、富を有することの苦しみ、貧乏であることの苦しみ――すべては苦しみ以外の何物でもありません。このようにして物事について良く考えたなら、あなたはanicca(アニッチャ:無常)とdukkha(ドゥッカ:苦、不満足)を理解します。なぜ物事は無常で苦なのでしょうか。なぜなら、物事はanatta(アナッタ:無我)だからです。
ここに病気で苦しんで横たわっているあなたの肉体と、その病気と苦痛に気づいている心はダンマ(法)といいます。形の無いもの、思考、感情、感覚はナーマダンマ(名法)といいます。疼きと苦痛に苦しめられるものはルーパダンマ(色法)といいます。物質もダンマですし非物質もダンマです。ですから、私たちはダンマと共に生き、ダンマの中に生きており、私たち自身もダンマなのです。本当に、どこにも我を見つけることはできません。ただダンマが連続的に生じては滅しているだけです。それがダンマの本質です。一瞬ごとに私たちは誕生と死を経験しています。これが物事のあり方です。
※サンカーラとは、現象を作り出す働きのことで、伝統的には「行」と訳されています。ですから、この文は「諸行無常」と訳すこともできます。ここでは、サンカーラを「行い、状態」と訳しておきました。
Ajaan Chah「Our Real Home」よりまとめました。
(文責:編集部)