著者は作家、パフォーマーで弁護士。骨形成不全症のため車椅子を使っている。著書に『希望ではなく欲望―閉じ込められていた世界を飛び出す』『サイボーグになる―テクノロジーと障害、わたしたちの不完全さについて』など。
図書館に紹介されている欄には、「障害を抱えた子どもが、生まれてこない方がよかったという考えのもと、親が子どもを代理して、医師に対して損害賠償を請求する『不当な生』訴訟。障害者である自身の経験を交え、『不当な生』という概念を語り尽くす」とある。
また新聞の書評には「タイトルは人権派のような印象だが内容はそうではなく、障害のある身体やその動きの持つ魅力について語る。なぜなら、当事者が欲しいのは、義務感から障害者を受け入れることではなく、その魅力に惹かれることだから」とあった。
「訳者あとがき」によれば、著者は「障害や病気のある人をはじめ、マイノリティの人々」に対して「日常に潜んでいる様々な差別が、社会の慣行や構造によって産み出されていること、それに人々が無意識、無自覚になってしまっていることに、読者は気づかされる」と言う。
さらに著者のメッセージには、「本書で使用した『私たち』という主語は、もちろん私を含む障害者たちを意味していますが、障害者ではない読者も本書を読みながら、みなが『私たち』という主語の中に自分自身を含めて理解してくださることを希望しました。障害の有無に関係なくほとんどの人は、この社会で生きていく資格がないという、何かしらの烙印を押されたことがあると考えるからです。本書は、障害者から出発してすべての人の経験へと広がり、つながっていくことを望んで書いたものです」とあった。
本書は1~9章からなっている。
第1章:障害の熟練者
第2章:品格と尊厳のパフォーマンス
第3章:私たちは愛と正義を否定する
第4章:ロングフルライフ――不当な生
第5章:喜ばしい責任
第6章:立ちはだかる法の前で
第7筆:権利を発明する
第8章:魅力不平等の問題
第9章:怪物になる必要はない
著者自身によると、「人間の相互作用(1、2、3章)」、「倫理的な決断(4、5章)」、法律と制度(6、7章)、「愛と芸術という特殊な文脈(8、9章)」という構成にしたという。
本書はとても奥の深い課題を取り扱っているが、その一部だけでも紹介することに意味があると考える。おそらくものの見方や考え方について新しく目を開かれるところがあると思う。
先ず「不当な生」とは何かについて。
「不当な生」とは、善良でないとか悪いことをした「生」ということではなく、「尊重されない生、一個人の存在として認められない『失格とされた生』」のことで、「そういう意味では、どんなに善良に誠実に生きていても、貧しく、教育も受けられない人々や、重い障害や病気のある人々、偏見を抱かれがちな性的指向や性自認のある人々は、『不当な生』と思われやすい」のだという。
さらにまた、「他者に魅力を示せない人」の場合は、たとえ「道徳と法規範に基づいた尊重は受けられたとしても、他者と心から深くつながる機会」は得にくいうえに、「憲法と法律が差別を禁止し、いわゆる『政治的妥当性(ポリティカルコレクトネス)』が共同体に浸透していても」それは「不当な生」と決めつけられやすいとも言っている。(「まえがき」より)
ここから著者は自身が当事者として「障害や病気のある人々」をあげて話を展開していく。
第1章の「障害の熟練者になるには段階がある」から。
著者は熟練によって車いすの車輪を1.8秒に1回ずつ規則的に押し出し、優雅に、「傾斜のある道でも、片手に本やコーヒーをもっていても、絶妙に方向とスピードを保ちながら移動でき」るという。だから、例えば手の代わりに口をなど、先ずは「自分の身体の制限を別の機能で代替する技術とアイディアをもつこと」が大切なのだが、でもそれらは、「よく言われる『障害の克服』ではない」のだと。
つまり、「どんなに身体の機能を創意工夫しても、すべての制限を突破することは難しい」ということ。だから第2段階として相互作用の技術を洗練することが大切となる。
どういうことかと言えば、例えば何かを頼んだ相手が「とまどうようなお願い事をするとき、『私の目が見えないこと、わかりますよね?』と付け加える図々しさ」だったり、あるいは通りすがりの子どもに「足、どこに行っちゃったの?」と聞かれたら、「『きみが見つけられたら、5000ウォンあげるよ。足がどこに行ったのか、1週間ずっと探しても見つからないんだ!』」と言えるような、皮肉のこもったユーモア感覚だという。
さらに、「障害や慢性疾患を長らく抱えて生きてきた人々は、こうした相互作用技術の専門家といえよう。老年期に入って身体の機能が衰え始めた人は、こうした技術を障害者から教えてもらってもいいかもしれない」とも。
「もちろん私たち障害者の人生は、『代替技術』と『相互作用技術』でスマートに生き抜けるほど生易しいものではない」けれど。(p.22~26)
また、抄録にある「不当な生(Wrongful Life)」訴訟とは何かというと、「障害を抱えた子どもが、生まれてこない方がよかったのにという考えのもと、医師に対して損害賠償を請求する民事訴訟の一つ」だという。これは第4章にある。
1990年代半ば、ある夫婦が産婦人科の医師と病院を相手に損害賠償請求の訴えを起こした。それは、羊水検査で健康だと診断された子がダウン症候群であることが分かったから。「夫婦は、ダウン症だと診断できなかった医師の過失のせいで自分たちが障害児を出産したのだから、これに伴う精神的苦痛と養育費の相当額を賠償せよと主張し」たそうだ。
また両親が法定代理人として子どもも原告になった。つまり、「『あなたの過失で私が生まれたのだから、その損害を賠償せよ』という主張にほかならない。病院側は苦悶した。人間がこの世に生まれたことが損害になりうるのだろうか」。(p.99)
“すごいな”と思うが、著者によれば、例えば交通事故や労働災害で障害を負ったら、その程度や責任者の過失の度合いに応じて賠償額を議論することは非常にありふれていて、特に目新しいものではない。しかし、「障害者として生まれたことが損害であるとは、斬新な(?)主張と論点ではないだろうか」としている。
どういうことかと言えば、「障害児の誕生は、膨大な医療費の負担、周囲からの負の烙印(略)、終わりのないケアワークなどを甘んじて受けいれなければならないことを意味」しているからでもある。そして、「極めて貧しい家庭環境、暴力と罵詈雑言を繰り返す親、障害や病気、『醜い』と評される外見のせいで嘲笑や排除の対象になる私たちは、『私の生は損害なのか』という疑いを簡単に強めていく」ことになるとも記している。(この部分は「まえがき」および第4章から)
他者からの視線についてはどうか。「見られる私」と「見る私」の分離だ。
幼い頃からの露骨ないじめをやり過ごし、やがて成人になり、ベストを尽くして障害の熟練者になったとしても、「バケモノ」とか「ちんば」だという事実は消えず、他者の視線から自由ではないのが障害者だ。そこで著者はウン・ヒギョンの小説『鳥のおくりもの』(橋本智保訳、段々社、2019)に登場する9歳のジニを引き合いに次のように述べる。
「だれかに観察されていると思ったら、まず自分を二人に分離させる。一人は本当の自分として私の中にいて、分離したもう一人の私は身体の外で役割を果たす。
身体の外にいる私は、人々の前にさらけ出された状態であたかも私自身のように行動するけれど、本当の私は身体の中に残ったまま外に出た私を傍観している。外に出た私に人々が望むように行動させ、もう一人の私はそれを眺める。こうして私は、『見られる私』と『見る私』に分かれるのだ。もちろん、二人のうちの本当の私は『見られる私』ではなく『見る私』だ。人々の強迫や侮辱のこもった視線を浴びるのは『見られる私』だから、本当の『見る私』はあまり傷つかなくてすむ。このように自分を二つに分離させることで、本当の私は人々の目にさらされないで、自分自身をありのまま守ることができるというわけだ。(略)
自我を二つに分離すれば、『見られる私』を状況に合わせて行動させ、社会が要求する秩序を壊さずに自尊心を守ることができる」(第1章 p.34~35から)
これなどはヴィパッサナーに重なるところがあるように思われる。
手話については知らなかったことばかりだった。
手話は、右脳で空間を認識しつつ言語処理の左脳をも同時に使っている。「よって、手話を使う人々は、音声言語を使う人々とはまったく異なる『新しい種類の空間』を認識し、発見し、活用することができる」し、「同じ空間の中にいても、より『広く深い』世界を生きていく」のだと言う。だから、「聴覚障害者の友人は、三次元の空間を自由自在に動くだけではなく、同じ空間にいてもはるかに深くて複雑な空間の機微を認識し、それを礎にコミュニケーションを」取っているのだと。
つまり「手話は、文化的な要素から分離した、障害者が使う単調で制限された意思表現の方法では」ないし、さらに、「手話は新しい世代によって発展し続けている。時代の変化に伴って単語も新しくつくられている」という。(第4章p.110~111から)
最後に障害と人について。
例えば、障害には遺伝性のものがある。今は着床前診断によって検査し、特定の遺伝性疾患のない受精卵を女性の子宮に戻すことが出来るという。これは「妊娠中絶手術より身体に負担が少ないだけでなく、法的、道徳的な論争も少ない」という。
しかし、
「こうした『簡単な』手段が常に喜ばれるとは限らない。遺伝性疾患による視覚障害を抱える女性は、自分が産んだ子どもに障害がないとわかったとき、非障害者である夫がどう反応したかについて、次のように書き残した。
『この子、前が見えてるよー』
デイツグは興奮していました。彼は電話のところへ走り、両親にこのことを伝えました。おめでとうという声が聞こえてきました。私は言葉にならない感情に陥りました。だれも気づいていなかったと思いますが」
著者は「彼女の感情をひと言では説明できない」としながらも、「私は彼女の感情の一部を共有することができる」という。だがこの女性の感情は普通には理解しにくいだろうとも言う。
夫の反応が示したのは、「視覚障害のある『人』を愛したのであり、彼女の視覚障害そのものを愛したのではない」ことだ。それは分かっていても、「自分の障害について、単に克服しなければならない要素ではなく、人生の一部分として真摯に熟考しようとする障害者たちは、障害を全否定する言葉と態度に出合うと非常に心を乱される」。(第4章p.116~118)
「私という人間は、尊重されないときは単なる一人の障害者でしかない。しかし、尊重されるときは、障害を抱える、そして、さまざまな物語をもったキム・ウォニョンとなる。
ここでいう尊重が決して『尊敬』や『崇拝』ではない点に留意してもらいたい。尊重とは、その人を『一個人として認める』という意味である」(p.10)
いかがだろうか。本書にはさらに多くの課題が示されているので、もし関心をお持ちならご一読を。(雅)