「お布施はどうする?」


 さて、このシリーズの第2回目です。お布施について話しを伺っているうちに、捨てることと与えることの大切さについて話が及びました。とともに比丘というのはどういう存在なのかという点についても貴重な話を伺えたと思います。



 食い逃げ


榎本 次に、これを読んでいる人たちが気になっていることを聞かなければならないのですが、外国のお寺で長期・短期の瞑想修行をした場合、どのぐらいのお礼をお支払いするべきなのでしょうか。

地橋 「お礼をお支払いする」というニュアンスではないんですね。在家の者は寺を支え、比丘を支え、仏教を支えるためにお布施をして徳を積んでいるのであって、寺に長く滞在したのでその代金を支払うという感覚ではありません。いくらお布施しようが勝手です。お布施をしないで寺を去っても、誰も文句を言わないし、布施を強要されるなどということもありません。(笑)

榎本 そうなのですか。実際にお布施をしないで立ち去る人もいるのですか?

地橋 レアケースだと思いますが、本当にいるようです。ミャンマーで通訳をしてくれたドイツ人比丘から聞いたのですが、在家のドイツ人が寺で1年間も修行したのに一円もお布施しないで帰国したというのです。

榎本 法制化されていれば義務を果たすが、ルール化されていなければ平然と利益優先するということなんでしょうかね。

地橋 たんにケチだったのか…。(笑) 私もそのドイツ人と一緒に3ヶ月修行していましたから、今でも顔を覚えていますよ。あの人、お布施もしないで立ち去ったのか、と驚きました。

榎本 その後どうなったのか気になりますね。

地橋 それが、後日譚が凄かったです。ドイツに帰国するや、不幸のラッシュに叩きのめされたんだそうです。帰国直後に本人が交通事故で大怪我をするわ、実家が倒産するわ、家族が死ぬわ、ありとあらゆる不幸の雪だるまのようになったそうです。

榎本 崩れたバランスがもとに戻る作用だったのかしら。

地橋 物理学では「作用反作用の法則」と言います。だって、お寺の一室に住み、食事をし、シャワーを浴び、1年間も指導を受けながら瞑想修行していたんですよ。彼が受けたエネルギーの総量に対する支払いがゼロでは食い逃げどころの話ではないでしょう。存在は常に生滅を繰り返し、生命は外界とのエネルギー交換です。エネルギーの収支が合わなければ、必ず強制徴収を受けるのが現象世界です。

榎本 もらいっぱなしは駄目だ、ひとり占めは不幸を招くという教えは仏教に限らずたくさんありますからね。

地橋 与える者は与えられ 奪う者は奪われるのが法則です。

榎本 ところで、先生はお寺にびっくりするぐらいのお布施をされると、スタッフの方から聞いてるのですが。

地橋 そんなことはありません。私は皆さんのお布施をお預かりしていくので金額が大きくなるだけです。一応瞑想の先生をしてますので、布施行の手本も示さなくてはなりませんからね。


 食う、寝るところに、住むところ


榎本 何か規定のようなものがあるのですか?

地橋 ブッダの時代から「四資具」は布施の基本でした。

榎本 四資具とはなんでしょうか。

地橋 比丘が在家から受けてよいとされる衣類、食物、住居、医薬品の4つの必需品のことです。生存と修行を継続するために必要な最低限の物資として認められていましたが、逆に言えば、余分なものを求めず、蓄積するな、執着するなと比丘を戒める規定ですね。

榎本 大乗仏教のお坊さんとはずいぶん違いますね。

地橋 原始仏教では、出家者は自活を放棄し、在家信者からの布施に全面的に依存することが絶対の規範とされました。そうしないと、ただ生きるために世俗的な生産活動を余儀なくされ、肝心の修行や学びの時間がなくなり、現代の私たち在家瞑想者と変わらなくなるでしょう。だから托鉢で生存を維持し、修行に専念するための制度的枠組みとして布施のシステムは仏教が機能する要になったということですね。

榎本 高級車を乗り回したり、寺院経営に汲々としていられなくなる。

地橋 そうです。原始仏教では、在家は布施を通じて功徳を積み、出家はその供養に応えて在家者に生きる指針としての法を示すという共生構造になっています。これまでにグリーンヒルで仏教の瞑想を実践し、人生の難関を乗り超えることができた人が大勢いらっしゃいました。その元をたどれば、私がタイやミャンマー、スリランカの比丘の方々から学んできたダンマが機能したからでしょう。

榎本 仏教は2500年後の今も生きた教えである証しですね。

地橋 だから在家は布施によってしか存在し得ない比丘に供養し、寺を支え、仏教を守らなければ人類の大いなる遺産を失うことになるのですよ。

榎本 四資具の意義がよくわかりました。布施をする在家の者に対して、ブッダは何か言われてますか。

地橋 結構厳しいことをおっしゃってますね。布施とは、苦の原因である執着を捨てることだ。心の浄化の第一歩である。布施は心の穢れ(貪り)を滅ぼす道であり、自我の所有欲を手放す修行の実践である。(『アングッタラ・ニカーヤ』)

榎本 そんな高邁な精神で、皆さんお布施をしているんですか?

地橋 いや、そんな人は悟りを目指すような、ごく一部の少数派ですね。

榎本 実態はどうなんですか。

地橋 日本人だけではなく、テーラワーダのどこの国でも、皆せっせとお布施をするのですが、本音は、自分が幸せになりたいので徳を積んでいる人が多いですね。

榎本 先生がよく言われる「劣善」ですね。

地橋 そうです。でも、それでよいと私は思っています。物事には順番というものがあります。誰でも自分が幸せになりたいのが一番ですから、布施をして徳を積めば幸福度が上がるのは本当らしいと納得し、定着していけばよいのです。布施や善行が習慣化した人は自然に純粋な善行にバージョンアップしていくのも確かなことです。

榎本 在家の布施者にとって、四資具は何か意味がありますか。

地橋 いい質問ですね。因果論の構造からは、殺せば殺され、奪えば奪われます。与えれば与えられ、優しくすれば優しくされるのが法則ですから、衣を布施すれば着るものに困りません。食事を供養すれば飢えることはなく、食べることに不自由することはないでしょう。住居を布施すればホームレスになろうはずはなく、医薬品をお布施する人は病気や怪我を免れるのです。つまり同じジャンルのエネルギーが循環する基本傾向なので、四資具の布施者は生きていく上での基盤が整うということになります。


 幸福の田んぼ


榎本 なるほど。テーラワーダ仏教では、比丘を「福田」と言うそうですが、そういうことなんですね。

地橋 はい。比丘に布施をするのは、幸福の田植えのようなものだという理解です。もし比丘が布施を受けてくれなかったら、在家者は功徳を積む機会を失い、幸福の種を蒔く田んぼがなくなるのです。

榎本 変な質問ですが、先ほどお布施をしなかったドイツ人が不幸の雪だるまになった話をされましたが、お坊さんたちは生涯に渡ってそれほどのエネルギーを受け続けて大丈夫なんでしょうか。

地橋 それが「衣の力」というものです。お坊さんたちは、常人には到底できない227もの戒律を守って在家信者の手本として厳格な修道生活を送るシステムになっているので供養に値する存在と考えられています。本当は、ブッダは「施しを受ける資格を完成しているのは、一切の煩悩を無くして解脱に達した人である」と申されてるので、そうなると阿羅漢以外の比丘は布施に値しないということになってしまいますね。

榎本 修行の途上にある比丘もそれに準ずるということにしないと生存できなくなりますからね。

地橋 お坊さんが死後、地獄へ転生するのは珍しくないそうですよ。

榎本 え! そうなんですか。

地橋 修行もしない、学びもしないで、ぐうたら怠けたまま死ねば、比丘の本分は全うされません。先ほどのドイツ人在家者のように、受けるに値しないものを不当に奪いながらの人生ということになるから地獄行きもありでしょうね。

榎本 みだりに出家するべからずですね。

地橋 私も、人様の供養を受けながら生涯を終えるほどの徳がなかったので、とうとうこの歳まで出家することはありませんでした。

榎本 そんなことはない、と僕は思います。先生は大変な徳を積んでこられたのは、スタッフの方々からも聞いています。

地橋 まあ、本音としては、過去世で坊さんやりすぎたので、次の世ではもっと自由研究をやりたいと思って死んだような気もします。(笑)

榎本 先生は在家ですけど、やっていることはお坊さんと同じ、ときにはそれ以上だと思います。

地橋 お布施をするときも、布施者の皆さんに功徳を積ませる最良の方法をいつも考えていますね。

榎本 ということは、四資具だけでは十分ではないのですか?

地橋 できるだけ多方面に布施をして、善き果が皆さんに及ぶように配慮しています。「来世に持っていけるのは業だけだ」とブッダはおっしゃっているし、人生の苦境を救ってくれるのは自分の徳だけですからね。

榎本 例えば、どんなお布施ですか。

地橋 歯の悪いお坊さんには「入歯安定剤」、ミャンマーでは井戸を掘る工事費、ダンマトークを聴く最高級ラジカセ、帰国するお金のない比丘の渡航費、70人の比丘の経典やダンマブックの費用5年分、ミャンマーの大きな僧院の洗面所に鏡が一枚もなかったので全ての洗面所に鏡をお布施したこともありますね。ミャンマーでもスリランカでも、寺のすべてのクーティに大型魔法瓶や椅子をお布施したり、まあ、いろいろです。今回はX寺の厨房と本堂の屋根の修理費をタイミングよくお布施できました。

榎本 (感服して)……それだけ多彩な布施をしていれば、どんな人生の局面でも困らないでしょうね。


 俗世の幸福、解脱の至福


地橋 幸せな人生を願う皆さんには必要だろうと考えてきましたね。

榎本 でも先生は、ご自身の幸せな人生のためにやっていたわけではない、と。僕のような、「劣善」さえ満足にできない者は、ただただ感服するばかりです。

地橋 私が「衆善奉行」を心がけて徳を積むようになったのは、諸々の外的条件が整わないと悟れないのだと痛感したからです。瞑想の実力だけで悟ってやろうと修行していたこともあったのですが、諸法無我の宇宙網目のなかで諸力に支えられ、護られ、全てが絶妙のタイミングで整わないかぎり、稀有な一瞬は訪れないということが解ったのです。

榎本 逆に言うと、森林僧院のような通常では邪魔の入らないようなところで修行していても、「あともうすこし」というようなところで、訪れるはずの特別なモーメントが壊れちゃったというようなこともあるんですか。

地橋 ええ、タイでもミャンマーでも何度もありましたね。例えば、スリランカの森林僧院で必死に修行していたある日、ついに究極の瞬間が訪れるかなと感じていたとき、突然クーティ(独居房)の扉を叩かれて、「今夜は特別なプジャー(礼拝)があるので、普段はチャンティング(読経)に出ないお前も、今日だけは参加しろ」と言われて引っ張り出されたことがありました。最高潮に達していた修行は完全に破壊され、やむなくそこに行ってみたら変な虫がいっぱい出てきたので、そのプジャーは中止になったという……。

榎本 !!……(かける言葉がない)。

地橋 こういう体験があると、私は過去世で間違いなく他人の修行を邪魔していただろうとわかります。邪魔をした者は邪魔をされるのです。どこかの寺で、ライバルに先を越されそうになり、嫉妬に駆られて足を引っ張ったにちがいありません。我が身に起きた経験の要因分析をすれば、過去の原因が浮かび上がってくるものです。

榎本 それで今世は瞑想者を助けて、あらゆる徳を積もうとお考えになった…。

地橋 そういうことですね。(次号に続く)


森林僧院奥の院山頂間近


タイ森林僧院奥の院入口