先生は今年の夏、タイのお寺にこもって20日間の瞑想修行をされました。僕もリトリートにはぜひトライしてみたいと思っているものの、なかなかまとまった休日が取れないことと、現在グリーンヒルでは宿泊しての瞑想会を開いていないので、なんとなく憧れを抱いたままになっています。しかも、先生が訪れたのは、タイの森の中のお寺だそうで、それを聞いてますます興味が湧きました。それで、今回は土産話を聞かせていただくという趣向でこのコーナーを作ってみたい、と思い立ちました。また、去年一昨年と、年末から年をまたいで、先生に同行し、同じお寺にこもったIさんとNさんにも別途話を伺ったので、おふたりの話も合間に挿入していきたいと思います。
瞑想合宿
榎本 昔はグリーンヒルも泊まりの合宿をやられていたんですよね。
地橋 やっていました。八王子にちょっと変わった4階建ての道場があって、1階が食堂、2階が多目的部屋、3階が座禅、4階が歩行瞑想と用途が分かれていました。
榎本 何人ぐらいが参加されたんですか。
地橋 9人限定でしたね。
榎本 やはり長期の瞑想というのは効果抜群なんですか。
地橋 抜群です。
榎本 では、またやりましょうよ。
地橋 そうしたいのですが、私の負担が大きいんですよ。面接、法話、配膳係、風呂炊き三助、寺男と一人何役もなのでヘトヘトになってしまうんです。ただ、今は私自身の修行を中心にしているので休業してますが、いずれ一段落したら再開しようとは思っています。
榎本 期待しています。先生は、今年のはじめに自宅で2週間のリトリートを行われましたね。今回はやはり外に出たほうがよいという判断で、タイに渡られたのでしょうか。
地橋 そうですね。やはり自宅だと食事の支度なども自分でやらなければならないし、20日間ともなると備蓄も難しいし外乱もあります。ピンポン♪「回覧板で~す」なんてね(笑)。この前のリトリートは特に間が悪く、『死のレッスン』(春秋社)刊行間際だったので出版社との避けがたい業務が発生し、修行には破壊的なダメージがあったりもしました。
榎本 ああ、刊行前ですか、それはちょっと無視しづらい状況ですね。今回行かれたタイの僧院には、もうなんども行っておられますね。2024年の年末には、グリーンヒルの常連であるIさんとNさんも同行されましたよね。
チェンマイの森林僧院
地橋 そうでした。でも今回は<独り犀の角のように>だったので、弟子を連れていかないと修行が進むと思いましたね(笑)。
榎本 やはり「ここから先はひとりでやれ」とは言えませんか。
地橋 初めてタイに来た生徒さんがすぐ裏のクーティにいるのに無視できませんからね、私の性分では。
榎本 修行よりも指導を優先してしまったわけですね。
地橋 そういうことです。前回もIさんとNさんが帰国した後、はかどりましたね(笑)。
榎本 でしょうね。ここを読むとたぶん二人は悲しむと思いますが削除しないで載せておきましょう。
地橋 ただ、彼女たちは帰国の途につきながら私の修行が進むよう強く祈ってくれたそうなので、そのせいかもしれません。
榎本 因果が巡ったと…。
地橋 ええ、祈りには強い意志がはたらき、業を作るエネルギーがありますからね。
榎本 そもそも先生が行かれたのは、「ぜひうちで瞑想なさい」と在家に呼びかけているお寺ではないと伺ったのですが。
地橋 ちがいますね。出家者が比丘の本分をまっとうしながらとしている寺です。瞑想センターの寺だと外国人にも門戸を開いて、さあ誰でもどうぞ、なのですが。
榎本 高野山も、外国人の観光客をお寺に招いて、坐禅のレッスンをしていますね。
地橋 そういう人たちに物見遊山気分で来てもらっては困るので、寺の名前を出さないでくれとも言われているんです。
榎本 では、ここではX寺としましょうか。タイのどのあたりにあるのですか。
地橋 チェンマイから車で2時間くらいの丘陵地帯ですね。
榎本 まわりには何もなく、ポツンと仏教寺院という感じなんですか。
地橋 そうなんですが、寺というのは比丘のものでもあり比丘を支える在家のものでもあるので、街から完全に隔絶したな場所であってはならないとされているのです。それでも町からはかなり離れていて、托鉢に行くのはタイで最も貧しい少数民族と言われるカレン族の集落です。
榎本 Nさんに見せてもらった写真には長い階段の上に施設が映っていましたが、あれはなんでしょう。
地橋 奥の院ですね。千数百段の石段を登ったところにあります。その一角には、眼下に雲海が拡がる洞窟があって、そこに3年間もこもって瞑想していた比丘がいたと聞きました。サマタ瞑想者にはたまらないでしょうね。
出会い
榎本 そもそも、このX寺と先生とはどんなことがあって縁がついたのでしょうか。
地橋 それが、思いがけないことがあったんです。このX寺にD先生という日本人のお坊さんがおられて、私の『ブッダの瞑想法 ヴィパッサナー瞑想の理論と実践』(春秋社)をお読みになられ手紙をくださったことがありました。帰国する折にお訪ねしたいということで、かつての八王子の道場までわざわざご足労くださったのです。
榎本 出家した僧侶が在家の瞑想指導者に会いに来るということは割とあることなんですか。
地橋 あり得ないと思います。どんな在家の仏教徒も、比丘の足下にも及ばないという共通認識ですから。昔、戒律の厳密なスリランカの森林僧院に数日したとき、何も知らずに比丘が食事をされる一室で朝食を摂ろうとして引きずり出されたことがありました。出家と在家では身分も格も違うし、比丘の方々にも通常そのようなプライドがおありですね。路上で比丘に出くわせば、スーツ姿のまま土下座して礼拝する人を見かけたこともあります。日本の僧侶のイメージとはまったく違うのです。そのような比丘が訪ねて来られたのですから、私も驚きました。
榎本 『ブッダの瞑想法』の内容が素晴らしかったからですね。――お会いして、D先生の印象はどうでしたか。
地橋 傲慢さが微塵もない、謙虚で静かな方でした。初対面にもかかわらず、ご自身の心境を率直に語られ、在家の分際の私に瞑想についての質問までされたのには心底驚きました。職業選択の一環として出家される人も少なくない世界で、本当に道を求めて比丘になられた方なのだと感銘を受けました。「真理を求めるのに出家も在家もない。真剣に修行する者はみんな仲間である」。そう言われてIさんも感動していましたね。私はテーラワーダのお坊様には何人もお会いしていますが、あんな方にはなかなかお目にかかれません。心から尊敬できる方だと感服するとともに、それ以来20年ちかい交流が続いております。
榎本 D先生は、いまもX寺におられるのですか。
地橋 ええ、現在、副住職をなさっていますが、D先生を慕って出家する日本人が多く、日本人比丘のほうがタイ人を上回っている状況になっています。地位が上がり指導的な立場になられたお坊さんは多忙なこともあり、ご自身の修行はなされなくなる傾向があるのですが、D先生は1年に何度も庵にこもって、いまだに個人リトリートを続けられています。
外国の寺での瞑想修行
地橋 ただ、X寺が瞑想の寺ではなく、瞑想指導もないことは注意しておくべきなのです。瞑想を構造的に会得し、セルフインストラクションができる上級者ならよいのですが、ビギナーには向かない。
榎本 と言うのは?
地橋 長期間に亘って瞑想していると不思議な体験はいくらでも起きますから、体験の意味を読み解くことができなければオロオロするし、つまらぬ体験なのにいよいよ悟りに近づいたかなどと滑稽な誤解をしたり、頭でっかちの自己流で勝手なことをやっているのに気づかなかったり……。長年やっていても初心者レベルの人には、対処法を訊ねるインストラクターが不可欠なのです。
榎本 なるほど。前回と前々回は、IさんとNさんが同行されましたが、そういう感じで壁にぶち当たることはあったのですか。
地橋 ありましたね。私も修行中でしたが、食堂からの帰り道に立ち話でポイントを伝えたり、短時間のインストラクションで説明したり指示したりしました。
ここのところをIさんとNさんに聞いたところやはりあったそうである。これだけ濃密に連日連夜瞑想していると、日常生活の合間に瞑想している時には予期しなかったことが起きるみたいだ。
榎本 クーティ(独居房)にこもり切りになるという影響はどんなものなのでしょうか。
地橋 上級者はクーティで孤独に修行したほうがよいのですが、初心者は大きな瞑想堂で仲間と切磋琢磨しながら瞑想したほうがよいのです。熱心に修行する瞑想者を目撃したとたんに、こちらも頑張ろうと鼓舞されるので。1Day合宿だってそうでしょう。真剣に慈悲の瞑想をしている人の姿を見たり、こちらが見られたり、もしあの部屋でたった一人で聞法し、一日中孤独に瞑想し、面接を受けるだけだったらどうですか?
榎本 たしかに、1Day合宿でも、他の瞑想者からいい波動のようなものを受け取っていると感じることは、ありますね。
地橋 そうです。初心者には手本がなければダメなんです。八王子で10日間合宿をしていた頃、失速してリタイアを考えはじめていた人が、食堂を出てサッサと喫茶コーナーで一服しようと思っていました。すると眼の前の階段を上級者が静かに歩行瞑想しながら昇っていくのが目に入り、さすがに脇を追い抜いていくのはバツが悪いのでやむなくゆっくり後をついていきました。すぐ目の前には上級者の足が見えます。一足一足ド迫力の緻密なサティが入っているのが手に取るようにわかり、その一瞬たりとも揺るがせにしない丁寧さと力感あふれるサティに感動し、俄然やる気スイッチが入ってリトリートを全うできた事例があります。
榎本 わかります。法友の力、サンガの力ですね。
地橋 ミャンマーがまだ内戦状態なので渡航できませんが、初心者にイチ押しの瞑想センターはミャンマーの「チャンミ」や「パンディタ・ラーマ」なんですよ。何十人も収容できる大きな禅堂で歩き、座る瞑想を繰り返すシステムがお勧めです。
榎本 多人数だと、プラスの「場の力」もはたらくでしょうが、逆に、こちらも僕は1Day合宿で経験しているのですが、本人に悪気はなくとも、マイナスの影響を与えてしまう人もいるのでは。
地橋 いますけど、アシスタントの指導僧が見張っていて逐一サヤドウ(比丘の尊称:長老)に報告されるので、まあ大丈夫でしょう。指導者というものは、自己申告のレポートや表の顔だけを見ていたのでは正確なインストラクションができませんからね。人数が多ければその中にもの凄く瞑想ができる人が必ず何人かいます。そういう達人の挙動を手本にするのです。悪いものは見ない。良いものだけを見て、理想型を焼き付けておくんですよ。スランプに陥ったアスリートも絶頂期のベストパフォーマンスをなんども再生して眺めているうちに泥沼から脱するでしょう。
榎本 よいイメージを心に定着させることが大事なのですね。
地橋 そうです。何事も、上達するとは脳に最適化された神経回路網が形成されていくことなので、理想的なイメージだけを脳に残したほうがよろしい。瞑想も、人生も、同じです。「どのような友をつくろうとも、どのような人につき合おうとも、やがて人はその友のような人になる。人とともにつき合うというのは、そのようなことなのである」とブッダも説かれています。
榎本 『見ること』と『行なうこと』が脳内で重なり合う──この働きを担うミラーニューロンの存在を、ブッダは直観的に洞察していたのかもしれません。
地橋 そうですね。あの発見は、ブッダの教えの科学性を証していると思います。
榎本 話を戻しますと、独居房のクーティは上級者向きで、初心者は大きな禅堂で切磋琢磨しながら瞑想するのがよいということですね。
地橋 はい。(続く)

八王子道場玄関

八王子道場坐禅室

八王子道場3F階段