〈ご利益シリーズ〉の三回目、そして最終回です。ヴィパッサナー瞑想をしたらどんなよいこと、すなわち〈ご利益〉があるのかというところから、瞑想をすればまずは集中力と気づきというご利益がもたらされるとともに、苦からの解放につながるのだというお話の序盤までを掲載しました。今回はその続きです。欲望に苛まれている状態とは満たされていないに等しい、ということから話が続きます。
苦諦から生きる喜びへ
榎本 原始仏教では、欲望のとらえ方が世間の常識とは真逆なんですね。
地橋 そうなんです。欲望に囚われている人は、やがて自分が欲望の奴隷状態だったことに気づくのです。どんな欲望も思いどおりに満たされるなんてことはあり得ないし、満たされなければ苦しく、満たされてもたちまち当たり前になって色褪せ、次の人参に向かって走り続けながら皆死んでいくのです。
人生が一切皆苦なのは、妄想のシステムで生きているからです。欲望の対象が甘美に見えるのも、渇愛の執着がエスカレートするのも、ゲットしたものが色褪せて見えてくるのも、何もかも気に食わないのも、諸悪の根源は、妄想にたぶら誑かされ、踊らされ、自らの首を締めていることに無知だからなのです。これが苦諦のスタート地点です。
榎本 ……ということは、このままではまずいと感じた人がグリーンヒルに来るのですね。
地橋 そうです。誰でも最初は、自分の思いどおりに外界を変えようとするんです。パートナーを変えてやろう、同僚や上司を変えてやろうとするが、変わらない。
榎本 どうして変わらないと言えるのでしょう。
地橋 存在の世界・現象の世界は、業の法則と縁起の理法によって展開しているからです。
榎本 (ここはもう少しツッコんで訊いてみたいと思いつつ、それはまたの機会に回そうと思い直して)なるほど。外界に働きかけても変わらないものは変わらない。俺がやろうとしていることは、地面に落ちたリンゴを木の枝に戻そうとしているようなもので、詮無きことだと感じるということですね。すると、自分の心を変えるしかこの苦しみから解放されないのだ、となんとなくわかった人が苦しい人生からの打開を瞑想に求め、グリーンヒルと縁がつく。そういう人たちがグリーンヒルに来たときに、先生はまず何を教えるのですか。やはり、サマーディとサティでしょうか。
地橋 いや、だから、まずはシーラ(戒)を守ることを教えます。
榎本 なるほど、そこでヴィパッサナー瞑想とは戒の瞑想であるということにつながるのか。しかし「まずは五戒を守りなさい」と先生が教えると、その人たちはどういう反応を示すのですか。怒りに身を任せてる人はよくお酒に溺れたりしますよね。
地橋 大抵の場合は素直に従います。そんなのイヤだという人はほぼいない。お酒を飲んだってなんの解決にもならなかったっていうことを、いやというほど経験してきていますからね。そして、五戒を守ることだけでもカルマはかなり良くなります。なんとなく人生が好転している実感をかならず得られるようになるのです。先ほど榎本さんは〈ご利益〉を、集中力や気づきと捉えていましたね。仕事の能力向上に直結したわかりやすいご利益ですが、人生の流れが良くなりはじめた喜びや、因縁にしたがって与えられたものを受け容れていく解放の感覚などをご利益と言わないで、なんと言いますか。
榎本 納得しました。ご利益を機能的にのみ捉えていた私が愚かでした。
瞑想を総合的に捉える
地橋 私はね、瞑想を総合的に捉えているんですよ。
榎本 総合的? サマーディとサティだけでなく「戒」をも含めてということですか。
地橋 いや、もっとスケールが大きいのですよ。……榎本さんは毎月1Day合宿に来られていますが、そこで何をやっていますか。もちろん、サマーディとサティの修行は当然やっているわけですから、それを含めないで答えてください。
榎本 慈悲の瞑想ですね。そしてダンマトークを拝聴しています。
地橋 そうですね。榎本さんはちょっと例外というか毛色が変わっていますが、グリーンヒルに来られる人は人生が苦しいと感じて来る人が多い。そして、そういう人は過去に囚われているケースがほとんどなのです。
榎本 過去ですか。いまの苦しみは過去の体験によるものだという理解でよいでしょうか。
地橋 そうです。人生が苦しくなった原因は必ず過去の問題に端を発しています。幼少期のトラウマ、劣等感の素となったような体験、難しい親子関係や差別やイジメ、甘やかされて自己チューの度合いを激化させていった来し方…。みんな過去の呪縛なんですね。これをきちんと整理しなければならないのに、それをしてこなかったから、今、人生につまず躓くのです。それゆえに、苦しみの解放は、過去からの解放を意味することになります。
榎本 整理はできていないけれども、半分は気づいているわけで、自責の念というものに近いですね。
地橋 なので、握りしめてきたネガティブな過去を手放すために、懺悔の瞑想が実践されるべきなんです。
榎本 ただ、どう考えてもその人ではなく相手のほうが悪いようなケースだってあると思うのです。そういう人は復讐が果たせない悔しさに苦しんでいるわけですね。この場合でも懺悔の瞑想は有効でしょうか。
地橋 そのケースなら、ゆる赦しの瞑想ですね。
榎本 なるほど、しかし、赦せと言われただけで赦せますか。いや、赦さないと苦しいとわかってはいるのでしょうが、なにか理論的なものがないと納得できないのではないでしょうか。
地橋 なぜ恨みや怨念を手放さなければならないか。その理論的根拠が、因果論と輪廻転生論です。徹底的に説明して、必ずネガティブな過去の事実を受け容れる状態に持っていきます。納得がいき腹落ちすれば、瞑想に専念できるのです。禅僧になって7年間、一度も禅定に入れなかった修行者が、母親に対する怨念の由来が読み解け、落涙とともに受け容れた夜、初めてサマーディに入れた事例もあります。
榎本 なるほど。先生が先ほど僕のことを、グリーンヒルの門を叩く者の中では変わり種だとおっしゃられましたが、たしかに僕は興味本位で瞑想をはじめたところがあります。そんな僕がヴィパッサナー瞑想をはじめて、最初に感じた疑問は、どうしてサティを入れるのだろう、なぜ概念を挿し込むのだろうというものでした。これは、瞬間定という言葉で理解できました(「先生と話そう」の5月号参照)。もうひとつは、1Day合宿に来た時に、なぜ慈悲の瞑想をするのか、なぜ個人面接をするのかということでした。一所懸命考えないようにセンセーションに集中しようとしているのに、慈悲の瞑想と面接の時間だけは概念モードになり、瞑想モードが破られてしまうのはもったいないのではという疑問でした。シフトチェンジする意味がわからなかったんですね。けれど、いまお聞きして、サマーディとサティを支えているのは、原始仏教の思想だということがわかりました。
地橋 その通りです。
榎本 ただ、先ほどのケースのような人は瞑想をはじめるまでが大変ですね。
地橋 しかたがない。というか、それが瞑想修行です。
榎本 総合的に捉えるということはそういう意味なのですね。まず戒からはじまる。しかし、慈悲や懺悔や赦しもまた必要である。なるほど…、ということは、ああ、そうか。そのような精神状態で瞑想を行う瞑想者が、今回の話の冒頭で〈育てたい瞑想者のタイプ〉として挙げられていた、〈心を浄らかにする瞑想者〉ですね。しかしそうすると、そのような指導を受けた人たちは、人生が好転していくのを実感できるものでしょうか。
地橋 ものすごくあります。ご利益ありありですよ(笑)。そういう事例を目の当たりにしてきたことが、私のこれまでの情熱を支えてきました。
榎本 となると、先生はほとんど心理カウンセラーですね。
地橋 カウンセラーと瞑想インストラクターを区別する必要もないでしょう。心の反応パターンを浄化しないと、人生の苦しみも瞑想も頭打ちになるんです。苦しみをなくすための教えとシステムが原始仏教なのですから。
聞法による心の変容 経験事象の意味づけの変化
地橋 最後につけ加えたいのは、聞法です。
榎本 聞法? ああ、「月刊サティ!」でいうところのダンマトークですね。
地橋 聞法がなければ、瞑想はできません。かならず暗礁に乗り上げます。
榎本 ほお。なぜですか?
地橋 初心者の一知半解の瞑想理解では、修行が進まなくなるのです。そもそもなぜ瞑想するのかの根本的意義を理解しないと続けられないし、サヤドーやアチャン(先生)たちからより高い知見を得なければ、瞑想のステージを上げていくことが難しくなります。ダンマの理解なしにヴィパッサナー瞑想はできないということを申し上げたい。
榎本 なるほど、それがこの話を始めたときに、先生が苦しみの根源が〈法を理解していないこと〉とおっしゃられていたのにつながるのですね。ところで、聞法は耳学問だと思われますが、読書などもダンマの理解には役に立ちますか。
地橋 もちろんです。
榎本 しかし、ここでもあえて「なぜ」とお訊きしたい。瞑想には知的理解が必要だということをおっしゃられているわけですよね。なぜですか?
地橋 まず、修行の意味を知的に理解しなければならないのです。なぜ戒を守らなければならないのか、なぜ懺悔しなければならないのか、なぜ赦しが必要なのか、なぜいまの自分はこういう状況なのか。因果論をはじめとする仏教の価値観・世界観・パラダイムでこれらのことを理解しないと、ただ言われてやっているだけでは、腹の底から受け容れられないし、たいした〈ご利益〉はもたらされません。
榎本 しかし、先生がそのように説教されると、言われた側はそれを受け入れていくものなのですか、つまり根本的に価値観を変えていくことがあるのでしょうか。知的理解であるとともに、これはもう回心、コンバージョンと言ってもいいようなものですが。
地橋 それを私はやるのですよ。我を張って受け容れなければ、苦しい人生を続けるしかないことを納得させるのです。しかし、と同時に、知的理解だけではだめだということも申し上げておきたい。瞑想という実践とともに知的理解はある。理解したことを人生と瞑想の現場で体験的に検証しながら、この両輪で推し進めていくと、人は変わります。智慧の瞑想としての本領発揮です。経験事象の意味づけが仏教的に変容し、幸福度は確実にあがります。
榎本 ここまでお話をお伺いしてきましたが、ヴィパッサナー瞑想には4つの基盤があるのですね。ひとつ目は戒、ふたつ目は懺悔と赦し、3番目は慈悲、4番目は聞法による知的理解、つまり価値観や人生観の仏教的変容ですね。
地橋 ざっくり言えば四つですが、細かく言えば七つです。①集中力、②気づきによる明晰な認知と自己客観視能力、③五戒による人生好転、④自責の念を乗り超える懺悔、⑤怒りと怨念を解き放つ赦し、⑥慈悲のよろず揉めごと解消効果、⑦聞法による智慧。これを瞑想のご利益・七福神と言ってもよいでしょう。
榎本 七福神ですか、いいですね。(当初は予想していなかったところに話が落ちて驚きつつ)ありがとうございました。