ヴィパッサナー瞑想をしたらどんな〈ご利益〉があるのかという、誰もが考える、しかし、真っ正面から先生にぶつけるのは大いに気が引ける質問をあえてしてみようという主旨ではじめた対談の二回目。前回、ヴィパッサナー瞑想をすれば、どんな人でも集中力があがり、メタ認知能力が向上するという保証をいただいたので、もうじゅうぶん満足したのですが、そこでは終わらなかったのです。軽めの話題を選んだつもりが大変なことになりました。
まず、ヴィパッサナー瞑想をすれば、最初から、サマーディとサティの訓練をすることになる。その結果、戒定慧でいえば、定(集中力)と慧(洞察智)が高まっていくので、集中力が増し、アイディアが閃くことも増えていく。しかし……というところから今回の会話ははじまります。
戒定慧の三学とともに
榎本 つまり、サマーディの集中とサティの洞察だけでは充分ではなく、戒定慧の「三学」に則って瞑想しなければならないと言うことになりますか。
地橋 はい、その通りです。ヴィパッサナー瞑想は戒とともに歩んでいく瞑想なのです。
榎本 戒は、五戒(殺さない・盗まない・不倫をしない・嘘をつかない・酩酊しない)と理解してよろしいですか。
地橋 まずはそうです。「ブッダの瞑想法」は戒が基盤なので、初心者の方には、「五戒を守りたくない方は、どこかよそで瞑想してください」と伝えます。
榎本 あの、先生は戒律を守ることも瞑想だとおっしゃりたいのですか。
地橋 その通りです。朝日カルチャー講座の初回では必ずヴィパッサナー瞑想の大きな構造を説明しますが、「善行の瞑想」と並んで「五戒の瞑想」と呼んでいます。これは私の瞑想理論に基づく呼称に過ぎませんが…。
榎本 そうなんですか、初めて聞きました。
地橋 五戒を守ろうとする瞬間、マインドフルでなければ結果的に守れませんからね。善行をする一瞬一瞬も、上から目線の傲慢な心や物惜しみの心、打算や自己陶酔の心などによく気をつけて、サティを入れながら行為するので「善行の瞑想」なのです。
榎本 なるほど。先生はいつも「人生全体が瞑想である」とおっしゃってますね。
地橋 戒はパーリ語では「sīla(シーラ)」というのですが、榎本さんが英訳するならどんな語を当てますか?
榎本 え、戒なんだとしたら、commandmentとかruleではないかしら。それともtaboo?
地橋 これをvirtueと訳している文献がありました。
榎本 virtue…徳? ですか。
地橋 はい、タイの僧院でそれを読んだとき、感動しましたね。戒はたんなる行動規範ではなく、徳の修行だったのか。「人格完成の総力戦」として理解しなければならないということです。
榎本 たしかに、そこまで大きい目標となると、五戒だけでは不充分ですね。
地橋 そうなんです。戒(シーラ)をただ単に〈禁止事項〉と捉えるのは極めて浅薄な理解です。
榎本 (そんなこと言われてもという気持ちはありつつ……)わかりました。では、あえてお訊きしますが、マインドフルネス瞑想ではシーラ(戒)を無視し、サマーディとサティだけで押し進めますよね。このマインドフルネスと、戒を前提にしたヴィパッサナー瞑想とは、瞑想の効果という点ではどのように変わってくるのでしょう?
地橋 気づきやメタ認知の効果は同じと考えてよいですが、ヴィパッサナー瞑想では「戒の瞑想」を実践することによって、カルマがよくなり人生が必ず好転します。戒とは、他人に苦しみを与えないことです。万引きしていた人がそれをやめる、嘘をついていた人が嘘をつかないようにする。自分の未来に苦の種をばらまくことをやめるのですから、人生がよくならないわけがない。
榎本 しかし、現実問題、グリーンヒルで瞑想し始めたとたんに、みなさん、スパッとやめられるものなのですか。特に飲酒などは。
地橋 不飲酒戒だけは徐々にやめればよい、と伝えています。酒か瞑想か、と二者択一を迫れば、どちらを取るかは明白ですから。
榎本 まず瞑想に引き込んで、瞑想から離れられなくさせてから、酒を止めろと言うわけですね。
地橋 そうです。(笑) 瞑想が進んでくれば、必ず飲まなくなります。瞑想の素晴らしさを体験すれば、アホらしくて、酔っ払っていられないと気づくのです。
榎本 わかります。
地橋 飲酒の戒は、自分に苦を与えないためです。酔えば、抑制系の心が働かなくなり、殺・盗・淫・嘘、なんでもアリになって、結果的に悪業の報いを受けて苦しむのです。その反対に、戒を守る人生に舵を切ったならば、自動的にカルマがよくなります。確実に幸福度が上がることを誰でも検証していきます。因果論・業(カルマ)論が、原始仏教の根本であることを肝に銘じてください。
榎本 つまり、今回の話題に沿って言えば、因果応報のこの世では、仏教の倫理性ゆえに、悪因悪果の可能性を孕んだマインドフルネスよりも〈ご利益〉は大きい、と。
地橋 そういうことです。
榎本 しかし先生、あえて申し上げますが、その理論はこの世間に通じますかしら? 戒を徳と捉えるのは、僕も目を開かれる思いがしました。ただ、やはり我々のような在家で瞑想をしている者は、これを禁止事項と捉え、禁欲の勧めだと理解するのはやむを得ないところもある気がします。また、禁欲は人生を味気ないものにしてしまうという考え方もあります。僕自身は完全に酒を断ちましたが、酒席には出ます。1Day合宿に出ておられる方も言っていましたが、職場の仲間との飲みの席で一杯も飲まないと、同僚らにさみしがられるとおっしゃっていましたね。僕も最初のころは「つまんないな」と言われたりしました。テレビをつければ、お酒を飲む人生というのはなんて楽しいんだろうというCMがバンバン流れているわけです。そんな中で、戒を厳しく守って生きることは、人生を貧しくすると考える人もいるのではないかと思うのですが。
地橋 幻想ですね。まだ手に入れていないものは甘美に思えてしまうのが、マーラ(悪魔)の仕掛た罠なのです。現実は苦(ドゥッカ)なのに、妄想は常に甘美なのです。夜の街にくり出していくときが最高で、店に入れば雰囲気が悪かったり、口論になったり、ボラれたり、失望することが多く、現実には苦の本質が潜んでいるのです。
榎本 でも、気の合った仲間と本当に楽しい宴を張ることもあるのでは…?
地橋 楽しいので、思いっきり飲んで、食べて、翌朝、二日酔いの頭痛と吐き気で苦しむというわけですね。
榎本 (自分はそこまで深酒をしたことがないぞ、と思いつつも黙っている)。
地橋 心ゆくまで貪って、怒って、ボコボコにしたら、どんなに気持ちがいいだろう…と錯覚するのが人間です。仏教は貪・瞋・痴を抑止する引き算の幸福原理です。
榎本 引き算?
地橋 俗世の幸福原理は足し算です。できるだけ多くの快楽を味わい、価値あるものを手に入れれば入れるほど、幸福度が上がると考えています。快楽に耽れば耽るほど、より強い刺激を求めて感覚がただ爛れていくし、甘いものを食べれば食べるほど幸福になるのではなく、メタボになり、糖尿病になるのです。
榎本 「たとえ貨幣の雨を降らすとも、欲望の満足されることはない」というヤツですね。
地橋 そうです。人は所有しているものに縛られるんですよ。大事なものを奪われ壊されれば、烈火のごとく怒り、掛けがえのないものを喪失して悲嘆に暮れるのです。「渇愛」という名の執着が強まれば強まるほど、苦の分量が増す法則です。欲望は「不満足性」の別名であり、足し算は苦に向かっていくのですよ。
榎本 うーむ。
地橋 一方、仏教では、欲望も怒りも手放せば、苦から解放されていくという引き算の幸福原理です。幸せを求めて結婚し、幻滅と離婚の苦を経験する人も多いですが、良い夫婦になればなったで、配偶者を喪った悲痛なドゥッカ(苦)は凄まじいものです。愛妻に死なれた直後に後追い自殺をした文芸評論家がいますが、執着の度合いと苦の度合いが比例する事例と言えるでしょう。
榎本 だから、五戒を守ることは、欲望を抑止して、執着を手放すことであり、苦しみを引き算していくということですね。
地橋 そのとおりです。殺生戒は怒りの抑止であり、盗みも不倫も飲酒も欲望系の引き算となり、真実を偽る嘘は解脱の可能性を破壊する。すべて人を不幸に導くものです。その欲と怒りの衝動から守られるので、五戒の瞑想にはご利益があるというわけです。
榎本 引き算の手放しだけでは、ちょっと寂しい感じもしますが、おっしゃるとおりではあります。
地橋 より高いものを知って、より低いものを捨てる法則を心得なければなりませんね。「つまらぬ快楽を捨てることによって、広大なる楽しみを見ることができる」とブッダも説かれています。欲しいものをゲットした瞬間の卑しい利己的な快感よりも、人のお役に立てた瞬間の幸福度がはるかに高いことは心理学的にも証明されています。欲望を満たすことはつまらぬ快楽であり、より高い、崇高な楽しみを知る智慧の瞑想が実践されるべきです。
榎本 (やはり、ちょっと講演会モードになってしまったなあ…と思いつつ) はい。がんばります。今回もありがとうございました。