前回は妄想と格闘するような姿勢で瞑想に取り組んでいた時期までを掲載しました。妄想している自分に「妄想するな、バカヤロー」と怒鳴るようなサティを入れていたのですが、それでは妄想した事実を対象化できずに巻き込まれているだけなので、もっと妄想も淡々と受け入れる態度でサティを入れなさい、というアドバイスをいただいたところででした。今回はその後半をお送りします。
【モグラ叩き法の時期】
榎本 僕は自分の仕事場で瞑想しています。歩きの瞑想は、六畳間の長辺を行ったり来たりしています。できれば、端から端まで妄想なしで歩きたいのですが、これがなかなかうまくいかない。ただ、妄想が2回か3回までに減った時に、この妄想を根絶してやれとばかりに〈モグラ叩き法〉に移行しました。〈モグラ叩き〉は先生の命名で、妄想が出てくるのを待ち構えるように心がけて、出てきたと思ったら、モグラを叩くように、瞬時にサティを入れる。これを試してみることにしました。そして、さらに、歩く速度を速めてみたのです。すると、歩行距離に対して妄想の回数は減りました。まあ、それはそうですよね。
地橋 はい。それは当然です。サティとサティの間の時間が短くなるわけですから、一定の距離に対して妄想が減るのは当然でしょう。
榎本 そう。とりあえず妄想の回数が減ったのはよかったなとは思ったのですが、注意が足裏から離れがちになり、センセーションの密度・濃度が弱まってしまったのです。
地橋 ここは道が分かれるところです。そしてどちらの道に行くべきかは人によってちがいます。〈モグラ叩き法〉は、妄想が出る瞬間を待ち構えるように見張り役を立てている感じです。妄想だけではなく、どんな知覚情報にも瞬時にサティを入れていくやり方で、正式には法随観と呼ばれます。中心対象に絞り込んでいた注意を六門全体に拡散させるので、足のセンセーションが微弱に感じられるのは当然です。 私は個人的に法随観が向いているのですが、ミャンマーのウ・パンディータ・サヤドーは身随観に徹底させる先生でした。面接で瞑想体験をいろいろレポートしても、「そんなことはどうでもよい。中心対象はどうだったのか」とひたすらセンセーションに没入させましたね。それに対し、モッコク・サヤドーは法随観を重視するタイプでした。私がミャンマーに入った時にはすでに亡くなっていましたが、指導書だけでもの凄く修行が進んで感動しました。榎本さんは妄想に人一倍敏感だったので、法随観に向いているのではないかと思ったのですが、そちらの方向で修行をしてもらうにはすこし早かったんですね。
【センセーション没入法へのシフトチェンジ】
榎本 はい。それで1Day合宿の面接で、「妄想が出てもかまわない。(端から端まで妄想なしで歩くという)目標設定もいちどバラして、もっと足裏からのセンセーションを深く感じ取るようにしなさい」という指導を受けました。
地橋 妄想の対処法は基本的にふたつです。ひとつは〈モグラ叩き法〉ですね。もうひとつは〈センセーション没入法〉です。〈モグラ叩き法〉は、眼・耳・鼻・舌・身・意の六門からモグラ(知覚)がひょこっと顔を出せば、瞬時にそれを叩く。意識の張り方としては、どのような知覚情報も認知してやるぞという姿勢を取るのです。もうひとつの〈センセーション没入法〉は、ほかの五つの門は閉めきった状態にしてセンセーションのみに集中する。――ここで道が分かれます。
榎本 分かれる? それは瞑想の方向性がですか?
地橋 そうです。つまり、ウ・パンディータ・サヤドーのような、徹底的に足やお腹の感覚に集中する道と、どんなことでも意識に上ったものにはすべてサティを入れていく道です。
榎本 かなりちがいますね。〈モグラ叩き法〉にはトライしたのですが、これでセンセーションを深掘りするのは難しいですね。
地橋 それは無理です。
榎本 だから、最終ゴールはともに解脱だとしても、「道が分かれている」という表現になるのですね。ところで、なんとなく、〈センセーション集中法〉の道はイメージできそうなのですが、〈モグラ叩き法〉、つまり法随観を上達させていくというのは、どのような道を歩むことになるのでしょうか。
地橋 身随観は、センセーションを深堀りしながら身体現象(ルーパ)の無常・苦・無我を洞察して悟りに至る方向です。一方、法随観が徹底していくと、意識の流れの怖るべき無常性や、エゴの思いどおりにならない無我性、意識現象を否応なしに惹き起こされてしまう「意識の奴隷状態」でしか生きていけない苦(ドゥッカ)の本質を洞察しながら解脱していく道ですね。かなりレベルの高い話になってしまいますが、解脱にいたる三解脱門というのがあるのです。どの道を行くかは、過去生の修行によってすでに決まっているとも言われます。
榎本 でも、過去生で法随観による修行をしていた人は、さきほどのウ・パンディータ・サヤドーのような、<センセーション集中法>以外は許しませんという先生についたら、かなり苦しい修行を強いられることになりませんか。
地橋 ですから、私はウ・パンディータのもとを離れたのですよ。私の道ではなかったということです。
榎本 それはかなり修行してからわかったことなのですか。
地橋 いや、それは最初からわかっていましたが、それより話をもういちど初心者レベル、妄想の対処法には〈モグラ叩き法〉と〈センセーション集中法〉の二つがあるということに戻しましょう。
榎本 はい。ともあれ僕は、一時モグラたたき法を試みたのですが、<センセーション集中法>にシフトチェンジしたわけです。足に向けた意識を強くするようにしていくと、自然と歩く速度がまた遅くなった。「どうせ妄想はするものだ」と腹を括って、「脱線したら瞑想に戻る。それを繰り返すのが修行だ」という気持ちを強めました。また、僕は歩く瞑想には、必ず立つ瞑想の時間を混ぜているのですが、立つ瞑想がだんだん面白くなってきて、台所でコーヒーを淹れるためにケトルをコンロにかけていて、湯が沸くまでの間に立つ瞑想をしています。 【脳の休息 無我 そして閃き】 地橋 それは、いいですね。榎本さんのような仕事をしている人は、わずかの時間でもセンセーションに集中して左脳の細胞の電源を切って休ませることが大事です。それから、榎本さんは書いていないときでも自分の作品のテーマなどについて考えることがあるでしょう。逆にそれを考えている脳の領域への干渉を完全に止める。そのことが閃きや直感の源泉になることが多いのです。
榎本 ふむ。睡眠が大事なように、脳を休ませることは大事ですね。これはわかりますが、それが直感やひらめきにつながるというのはなぜでしょう。
地橋 榎本さんのお仕事に即していえば、思考を展開させているのは基本的にエゴですから、どうしてもエゴに都合のよいデータ操作をしてしまうし、自我意識を超えた高度な展開にはなりづらいのです。狙いどおりに造型され、作者の意図に操られる人物ではなく、作者自身が裏切られて、作中人物がひとりでに歩き出していくような迫真の展開に読者は感動するのです。ゾーンに入ったような、執筆中の無我感覚とでも言うのでしょうか。神業や入魂のパフォーマンスに共通するのは、エゴ感覚の脱落です。エゴが操作する思考の流れが手放されると、純粋な直感やひらめきが溢れ出るということになるのです。 榎本 ああ、それはわかる気がします。たしかに思考が止まってからの瞑想中に、突然よいアイディアが浮かぶことが多いですね。「妄想」とサティを入れて見送ってしまうのが辛いところですが。 地橋 そうです。ですから、お湯が沸く間の短い間でも瞑想するのはとてもいいですね。ひとつは言語脳の休息という意味で。もうひとつは<瞑想に集中する→思考が止まる→エゴモードを離れる>と、日常でも無我の時間を増やして高次の閃きを産むという意味で。とてもいいと思いますよ。 【直接知覚】 榎本 ありがとうございます。それで、瞑想をはじめて2年ぐらい経ったあと、2025年の年明けから、座りの瞑想を一日の瞑想時間の中に混ぜはじめたのです。このころから、ニミッタが出るようになりました。また、丁度その頃から歩く瞑想時に、足裏から伝わってくる感覚が変わりました。足裏から発生したセンセーションが脳に達するような感覚が得られるようになったのです。これはどういうことでしょうか? 地橋 たぶん、直接知覚が高まっている状態になっているのでは、と思います。 榎本 直接知覚とはなんですか。 地橋 概念フィルターを通さない、他の知覚とダブらないなま生の知覚ですね。複数の門から入力された情報が脳内で束ねられミックスされた結果としての知覚ではなく、あるがままの知覚です。 榎本 ああ、昔、僕が先生に、「歩きの瞑想の時に足を見ながら歩いたほうが雑念が湧きにくいのですが」と泣き言を言ったら、「それは二つの知覚情報がダブっているのでよくない」とおっしゃっていましたね。それと同じですか。 地橋 うーん。同じと言えば同じですけど、ちょっと違いますね。今のは、身体感覚と視覚イメージをミックスさせるなという話です。複数の門から入った情報が脳内で束ねられる瞬間から妄想の世界が始まるのです。先入観や思い込みを投影しながら眼前の人を見れば、実像が歪むだろうということです。複数の情報がダブった瞬間、エゴの干渉と編集が始まり、ドゥッカ(苦)の原因がスタートするとも言えます。法と概念を仕分けて、ものごとの真実相を洞察するタスクが崩れる瞬間だと言ってもよい。 榎本 ほお…。 地橋 一方、足裏の感覚が脳を直撃するような直接知覚は、ノイズがきれいに除去されたレポートです。これは私の造語なのですが、非常に細かい、普通では気づかないような妄想、うっすらとした通奏低音のような妄想、これをマイクロ妄想、ナノ妄想と呼んでいます。このノイズがあると音楽などを聴いてもあまり鮮明には聞こえません。逆に言うとマイクロ妄想、ナノ妄想が減少すれば、センセーションの曇りが取れて、ヴィヴィッドな感覚が得られるようになります。さらには、足で生じた電気信号が脳に届いたというよりも、脳が足にあるという感覚にまで至ります。 榎本 脳が足にある? それはすごいなあ。 地橋 ともあれ、榎本さんのこのレポートは、マイクロ妄想、ナノ妄想の減少によって、直接知覚が高まりつつあるのではないか、と想定しています。法と概念の仕分けができて、ここからヴィパッサナー瞑想が本当に始まっていくのです。 榎本 いや、それは、どうも…。今日はありがとうございました。これからも精進したいと思います。