〔1〕高崎宗司著『朝鮮の土となった日本人-浅川巧の生涯』(草風館 2002)
〔2〕江宮隆之著『白磁の人』(河出書房新社 1994)
〔3〕江宮隆之著『冬萌の朝 新・白磁の人』(柏艪舎 2006)


先ず柳宗悦と安倍能成の浅川巧への追悼文の一部を紹介したい。〔1〕による
柳宗悦
『浅川が死んだ。取り返しのつかない損失である。あんなに朝鮮の事を内から分つてゐた人を私は他に知らない。ほんとうに朝鮮を愛し朝鮮人を愛した。そうしてほんとうに朝鮮人からも愛されたのである。死が伝へられた時、朝鮮人から献げられた熱情は無類のものであつた。棺は進んで申出た鮮人達によつてかつがれ、朝鮮の共同墓地に埋葬された』(p.5)


安倍能成
『巧さんは私の最も尊敬する、さうして最も好愛する友人であつた。(略)巧さんは官位にも学歴にも権勢にも富貴にもよることなく、その人間の力だけで露堂堂と生きぬいて行つた。かういふ人はよい人といふばかりでなくえらい人である。(略)かういふ人の喪失が朝鮮の大なる損失であることは無論であるが、私は更に大きくこれを人類の損失だといふに躊躇しない』(p.7)


〔1〕の著者は歴史学者。2013年まで津田塾大学国際関係学科教授。著書に『「妄言」の原形-日本人の朝鮮観』、『「反日感情」-韓国・朝鮮人と日本人』(ともに木犀社)、『中国朝鮮族』(明石書店)、『検証日韓会談』(岩波新書)、『朝鮮人』講談社現代新書)等。
〔2〕〔3〕の著者は88年に『経清記』(新人物往来社)で第13回歴史文学賞受賞、95年に『白磁の人』(河出書房新社)で第8回中村聖湖賞を受賞。近著に『石田三成』(学習研究社)、『沙也可』(結書房)など。


20年以上前に「韓国人になりたかった日本人」という放送で浅川巧のことを知ったのはすでに先月号で述べた。
〔1〕はその浅川巧の生涯を、生い立ちから系図、親族、そして朝鮮に渡ってからの仕事、生活、心情、交流、これからの企図、そして遺した事跡や影響などなど、つまりそのすべてにわたってさまざまな資料や証言に丹念にあたって記述されたもの。まさに総合的な研究書であり、著者自らが「本書は、柳宗悦や安倍能成をして先のように言わしめ、朝鮮人をして今も追慕の念を起こさせる類ない日本人・浅川巧の生涯をたどったものである」と述べているが、その通りだと思う。


〔2〕〔3〕は浅川巧と同じ山梨県出身の著者による小説。〔1〕を丁寧に参考にしつつも独自の展開(とくに〔3〕)があり、さすが小説家の手腕とはこういうものかと惹きつけられる。ということを考慮すれば、もし興味を持たれたら先に〔2〕〔3〕から読まれるとよいとも思う。
そのようなわけで、本稿では〔1〕(以下「本書」)のみ、しかも彼の人柄、彼に接した人々の思いというところだけに絞って紹介することにする。なので、彼の生い立ちや研究所時代の業績、陶磁器・民藝(民衆的工芸)への打ち込み、朝鮮民族美術館、木喰仏の発見や著書などにつては必要最小限にした。
資料原文の撥音便「つ」は大文字のままにした。漢数字は改め、日記文のみは『』で括った。さらに、本書では資料の詳細が記載されているが、字数の関係から省略して本書でのページを記しておいたので、興味を持たれたら直接当たられたい。


先ず本書の目次は次のようになっている。
序:朝鮮人を愛し、朝鮮人に愛された人―柳宗悦と安倍能成の追悼/慟哭した朝鮮人たち
1.巧を生んだ土地と家系、2.朝鮮古陶磁の神様・伯教、3.山を緑にするために、4.朝鮮の民芸品に魅せられて、5.1922~23年の日記から、6.朝鮮民芸の美論、7.巧をめぐる人びと、8.朝鮮の土となる、9.蘇る浅川巧、10.浅川巧・1997~2002、索引を兼ねた年譜/参考文献


1913年に朝鮮に渡った兄伯教の功績も忘れてはならない。彼は朝鮮古来の風俗画や民画について、『支那の模倣でなく全く朝鮮の感覚を描出した処、前後にない朝鮮独歩の風俗画師だと思ふ』と評価している。著者は、「朝鮮の芸術は中国の芸術の模倣にすぎないとみる人の多かった当時に、このように指摘できた伯教は、偏見にとらわれない確かな眼をもっていた」と記し、また安倍能成は『私は伯教君の茶道に対する理解には、柳(宗悦)君以上のもののあったことを疑はない』と述べたという。(p.55)


巧は1914年、兄を慕って朝鮮に渡り、朝鮮総督府林業試験所の職員となる。「露天埋蔵法」を開発して種子を良く発芽させることに成功する。それは韓国語を上手に話せまた聞き取れたので、韓国人の人夫どうし会話にヒントを得たからだった。
関東大震災と朝鮮人虐殺事件の情報にも、朝鮮人の弁護をするために彼らの前に行きたいとも日記に綴っているという。
また日記には、景福宮内に建築中の朝鮮総督府庁舎を見て、『白岳や勤政殿や慶会楼や光化門の間に無理強情に割り込んで座り込んで』調和を破っているとし、加えて、『朝鮮神社も永久に日鮮両民族の融和を計る根本の力を有してゐないばかりか、これから又問題の的にもなることであらう』とも綴った。
さらには、「朝鮮の風物に対する巧の優しい目、朝鮮の民族文化に対する励ましの声は、日記のいたるところに出てくる」。例えば、『朝鮮人の旅芸人の踊や軽業や人形使ひを見に行つた。原始的で粗野でゐて何処かいゝ処がある』と書かれ、『朝鮮人の大勢は川原で飲み食ひして太鼓や鐘を鳴らして踊り狂つて居た。実に愉快さうだつた。僕も一緒に踊り度い様の気分になつて見とれた。(中略)賀宴舞踏の曲を民族打揃つて奏する平和の日よ来れ(1922年)』と記され、このように、「巧の優しい目は、風物に向けられただけではない。ごくふつうの朝鮮人に対しても向けられた。そして、それは何の努力もなしに注がれたごく自然の眼差しである」と著者は記している。
さらに日記には、『実際日本人の態度は僕等から見ても腹の立つ様なことが多かつた』とあり、「巧は自ら下人用の下房に住み、三福(*)を主人用の内房に住まわせた。巧はいつも虐げられた朝鮮人の味方であった」。(p.145~146) *朝鮮人の若者、姓は不詳


著者は『朝鮮の膳』の末尾からも引用している。
「ブレイクは云つた『馬鹿者もその痴行を固持すれば賢者になれる』と。疲れた朝鮮よ、他人の真似をするより、持つてゐる大事なものを失はなかつたなら、やがて自信のつく日が来るであらう。このことは又工芸の道ばかりではない。昭和3年3月3日於清涼里』」
そして、「『他人』が日本であり、『持つてゐる大事なもの』が朝鮮固有の民族文化であること、そして、『自信のつく日』が独立の日であることは明らかであろう」とも述べる。(p.154)

本書にあるエピソードから。
『4、50個の大小碗を自分の前に置きし50前後の男が、市場の片隅に坐つて居眠りをしてゐる。そのうちに老婆が来て男を呼び起し、「一つ何程か」、「一つが三銭」
老婆は暫くかゝつて選択した揚句、
「二つ五銭で呉れ」、「一文も掛値はない」
と云ふてその交渉は不調に終つた。
私も一つ佳いのにありつきたいと側から見て居た所なので、老婆の去つた後近づいて三つを選み出し、先程からの問答で値段は判明して居たので十銭白銅を渡して、「勝手に選択したから当方から一銭負けて遣る』と云ふと、男は『こんなことは生れて始めてだ』と喜んだ。然し私も驚かざるを得ない。窯元から七人里も距てた所で、これだけ立派な碗が選り取りの三銭とは勿体ない気がする」(p.176)


柳宗悦の記録。
「嘗て青物を女が売りに来たことがある。『あゝ買つて上げよう、いくらだ』、『之は一つ廿銭ですが』そばで奥さんが云ふ、『今お隣りではねぎつて十五銭で買へましたのよ』、『あゝさうか、それならわしは廿五銭で買つてやる』。貧しい女をさうしていたはつた。奥さんはわざわざ高く買ふ夫の行為にほゝえんだ。彼の所へは時々人知れず台所に贈り物が届けられた。みな貧しい鮮人達の志の現れだつた。朝鮮人は日本人を憎んでも浅川を愛した。(こんな逸話が浅川には多いのである。集めたら何よりのいゝ伝記とならうと思ふ)』(p.189)


小宮山栄の証言。
「朝鮮服を着てね、まことに風采はあがらない顔でした。ですから、『ヨボ、ヨボ〔朝鮮人に対する蔑称〕』と朝鮮人だと思われて。電車に腰をかけていると、『「ヨボ、どけ』なんて席を立たされると、黙ってどいて席にかけさせました。
あるときは、青年が学校にいってたけん、父が亡くなつたので学校をやめた、なんていう話を聞きますと、そりやかわいそうだといって、月謝を出してやって、しまいまで学校に出してやりました。それから、部落の人が初物だといって、もろこしを持ってき、大根を持ってきて。一所懸命庭をはいてくれたり、お風呂をくんでくれたりしたんですよ。そういう人には、お小遣いをあげたんです。月給日になると、もらいにくるんですが、あるときは月給が遅れて、『明日お出で』なんて言っているときもありました。素朴で、飾りもないし」(p.189)


元同僚の方鐘さんの話。
「浅川さんは男のコジキに会うとかならず村役場に連れていってなにか仕事を見つけてやりました。女のコジキに会えばポケットにはいっているお金をみんなあげてしまいました。浅川さんはそんな人でした」(p.185)


1963年まで働いて「木おじいさん」と呼ばれた金二万氏は次のように語る。
「浅川氏は、韓国語を非常にじょうずに話し、常に韓国語で話した。(略)韓国人同僚に対する態度に差別はなく、日本人同僚から『あなたは韓国人か』と悪口をいわれ、迫害されたほど、韓国人を愛した。それだけでなく、彼は朝鮮服を好んで着て、夕方にはパジ・チョゴリに木履をはいて帰った。長いキセルを好み、中国の帽子をかぶり、縄で編んだ袋を背負い、市場にいって、韓国の骨董品・陶磁器などを日常的に買い集めた。そのおかしな様子のために、(日本人の)警官から取り調べられたこともよくあったという」(p.185)


崔民之さんの話。
「浅川氏は、林業試験場内の官舎に住み、平素、韓国人に親切で、韓国人を愛したために、正月や節季のときは、たくさんの韓国人同僚が遊びにいった。自分は飢えても、因っている人を助け、何人かの韓国人の学生には奨学金を与えていた。対象は主に国民学校の生徒であり、中学生も2、3人いたと思うが、たいていは林業試験場の職員の子女であった」(p.186)


著者は、「技手である巧の給料は、当時の中学校教師の初任給程度であったという。しかし、彼はそれでも日本人であった。したがって、給料の6割という『外地手当て』が与えられていたのである。彼が朝鮮人に奨学金を出していたのは、もちろん因っている人を見捨てておけない性格によることに間違いないが、それと同時に、自分が朝鮮人よりも余分な手当てをもらっていることに対する購罪の気持ちもあったのではないだろうか」と推測している。(p.186)


1931年2月~3月、長期の出張から帰った巧は風邪をこじらせ、3月26日林業試験場で映写会を行った翌27日、急性肺炎で床につく。一時峠を越えたかに見えたが4月2日午後5時37分に亡くなった。
柳宗悦は、4月1日夕、「病重し」との知らせに急遽その夜京都を立ったが、翌2日夜、汽車が大邱を過ぎたとき再び電報をうけて、巧が2日午後6時に死んだことを知った。
「柳は眠れない一夜を車内で過ごし、翌朝、京城の清涼里にかけつけた。柳は玄関で出迎えた伯教の手をとって慟哭した」(p.212)
翌3日、多くの人が弔問に訪れ、その中には巧がしばしば通った清涼寺の3人の尼さんが「『アイゴー』と、声を出して全く泣いた時は、はたの目にもいじらしもらい泣きをしてしまつた」(土井浜一の回想)(p.214)


葬儀は4月4日だった。葬式の参席者の中には、のちに柳海剛と併称され韓国陶芸界の巨匠となる池順鐸の姿もあった。(彼は伯教の薫陶を受けている)
出棺の時、巧の死を悲しむ朝鮮人のようすを記録した柳宗悦。
「彼の死が近くの村々に知らされた時、人々は、群をなして別れを告げに集つた。横たはる彼の亡軀を見て、慟哭した鮮人がどんなに多かつた事か。日鮮の反目が暗く流れてゐる朝鮮の現状では見られない場面であつた。棺は申し出によつて悉く鮮人に担がれて、清涼里から里門里の丘へと運ばれた。余り申し出の人が多く応じきれない程であつた。その日は激しい雨であつた。途中の村人から棺を止めて祭をしたいとせがまれたのもその時である。彼は彼の愛した朝鮮服を着たまゝ、鮮人の共同墓地に葬られた」
「巧さんは人の為にしたことをめつたに人には語られなかつた。けれども、巧さんの助力によつて学資を得、独立の生活を営み、相当の地位を得るに至つた朝鮮の人は、一人や二人ではなかつたさうである。巧さんの死を聞いて集つて来たこれらの人々の、慈父の死に対するやうな心からの悲は、見る人を惻々と動かしたといふ。私も亦その一人を見た。彼は巧さんを本当にお父さんよりも懐かしく思つてゐたといつた。さういふ彼の顔には掩はれぬ誠が見えた。巧さんは恐らくその素直な曇りなき直覚で、人の気づかぬ朝鮮人の美点を見出されたのであらう。巧さんの心は朝鮮人の心を掴んでゐた。その芸術の心を掴んでゐたやうに。
親族・知人が集つて相談の結果、巧さんの遺骸に白い朝鮮服を着せ、重さ40貫もあつたといふ二重の厚い棺に納め、清涼里に近い里門里の朝鮮人共同基地に土葬したことは、この人に対してふさはしい最後の心やりであつた。里門里の村人の、平生巧さんに親しんでゐた物(ママ)が三十人も棺を担ぐことを申し出でたが、里長はその中から十人を選んだといふ。この人達が朝鮮流に歌をうたひつゝ、棺を埋めためたことは、誠に強ひられざる内鮮融和の美談である。(安倍能生の回想)(p.238)


著者は言う。「朝鮮人によってこれほどまでに死を惜しまれた日本人としては、前述の曾田嘉伊智や、水原でキリスト教を伝道した乗松雅休、朝鮮の孤児を育てた田内千鶴子(*)、朝鮮人朴烈の妻であった金子文子がいるくらいではないだろうか」(p.220~221)
*キリスト教伝道師の尹致浩(ユンチホ)さんが孤児7人を引き取り育てたのを始まりとする児童福祉施設「木浦(モッポ)共生園」、そののち高知県出身の田内千鶴子さんが約3千人の孤児を育て「韓国孤児の母」と慕われた。昨年10月13日の開園95周年式典には尹大統領が訪れ、また岸田首相も祝辞を寄せている。森山諭著『真珠の詩』(真珠の詩刊行委員会)、長男田内基著『愛の黙示録』(汐文社1995)、石田えり主演の日韓合作映画『愛の黙示録』(1997)がある。


ほぼ半年後の10月19日、「朝鮮民族の新聞『東亜日報』は、4分の1頁を割いて洪淳赫の書評『浅川巧著「朝鮮の謄」を読んで』を掲載した。それは事実上の追悼文であった」という。それは、
「わたしが浜口〔良光〕氏とともに清涼里に氏を訪ねたのは、もはや4年前のある寝つけない夜だった。(中略)氏のわが国の芸術工芸に対する多くの愛・理解・知識・経験は、わたしをして言わしめれば、敬服せざるをえない。(中略)
外国人ではあるが、彼の残した業績、特にわが学徒に与えた教えを考えるとき、彼の代表作としてこの一巻をまだ読んでいない、志しを同じくする人に紹介するのも意味のないことではないと思う」
著者は「『東亜日報』が日本人の死を悼んでこれほど大きな紙面を割いたのは、後にも先にもこのときだけであった」という。(p.10)
なお洪淳赫はまた本文中に差し込まれた写真について、次のようなエピソードを伝えているという。
「(写真に写っている膳が)32個、そのうちの5個を除いては、すべてが朝鮮民族美術館蔵になっていた。聞くところによると、その大部分は著者の所蔵で、すべて美術館に寄付したものだという。このように、蒐集研究家として、個人蔵にしたものが一つもないところに、氏の面目を見ることができるのである」(p.156~158)


巧の三周忌にあたる1934年4月『工芸』4月号の浅川巧追悼号における浜口良光の回想。
「『あの朝鮮人は随分国語〔日本語〕がうまいね』
巧さんの行つたあとで、かう云つた私の友人もあつた。(略)
凡そ巧さんほど朝鮮を理解し、朝鮮の自然を愛し、朝鮮民族に親しみ、又埋れてゐた工芸品(新と旧とに拘らず)を掘り出して示してくれた人は今までにないと思ふ。これからもきつと出ないと思ふ。
巧さんはさうして朝鮮と云ふものに融け込んで行つた半面、一歩退いて、朝鮮と云ふものを客観的に深く見て、鋭く批評し、一種の経綸さへもつてゐた。つまり山に入つて山其の物を究めると同時に、山を下つて総ての方面から山の全形を見ることの出来た人であった」(p.241)


この追悼号における崔福鉉の回想。
「思ひ出せば、先生はよく朝鮮服をお召しになられた。物珍しいといふよりは、先生には寧ろバチ・チョゴリの方が落着くやうであり、一種の誇りとさへも見受けられた。聞けば先生は今も朝鮮服で清涼の山にお眠りになつてゐられるといふ。誠に先生は生きては朝鮮の生命を生命とせられ、死しては朝鮮の土となられたのである」(p.242)


戦争に敗れると日本人は朝鮮人の仕返しを恐れ、先を争って帰国を急いだ。
「しかし、浅川伯教や咲に、そのような恐怖心はなかった。彼らはむしろ朝鮮人によって守られていたからである。こんなエピソードがある。敗戦直後、朝鮮人が日本人の朝鮮からの立ち退きを要求して家に押しかけてくることがよくあった。ある日、咲と園絵の住んでいた家にも数人の朝鮮人がやってきた。しかし、勝気な園絵が、その中に顔身知りの京城大学の学生を認めて、『うちの人たちが朝鮮人とどういうふうに付き合っていたかをあなたは知っているでしょう』と抗議すると、その学生は余人を制して、帰っていったというのである。とはいえ朝鮮は他人の土地である。同年12月、伯教の勧めもあって、咲と園絵は帰国することにした」(p.245)


いかがだっただろうか。今回はほとんど資料の引用ばかりになってしまったが、とても総合的にまとめられるような内容ではなく、その点は了承願いたい。今の時代、検索などでぜひ知って欲しいと思う。(雅)