柳宗悦著『民藝四十年』(岩波書店1984)所収から
柳宗悦(1889~1961)は民藝運動を創始し、日本統治時代の朝鮮の民間で日常に使われている素朴な器、道具に美しさ、価値を見いだした。なお、美術評論家、宗教哲学者、思想家としても有名。
○「朝鮮の友に贈る書」(『改造』大正9年6月号)
これは朝鮮への思いを語っているもの。詳しくは末尾の「解説」にあるけれど、柳宗悦の思いの一部でも伝わればと思う。
ただ、柳宗悦に対しては評価と批判もある。例えば高崎宗司著『「妄言の原形―日本人の朝鮮観』(木犀社2002)に「朝鮮問題への公憤と藝術への思慕」として柳宗悦が取り上げられている。そこには合わせて寄せられた評価と批判、そして批判自体への問題点が述べられているので、参照すればより理解が深まると思われる。したがって、あくまでそれを前提にここでは一部のみを紹介する。
「私は今の状態を自然なものとは想わない。またこの不幸な関係が永続していいものだとは思わない。不自然なものが淘汰を受けるのは、この世の固い理法である。私は今、二つの国にある不自然な関係が正される日の来ることを、切に希っている。まさに日本にとっての兄弟である朝鮮は、日本の奴隷であってはならぬ。それは朝鮮の不名誉であるよりも、日本にとっての恥辱の恥辱である。私は私の日本が、かかる恥辱をも省みない上は思わない。否、未来の日本を信じている」(p.26)
「私は朝鮮の藝術ほど、愛の訪れを待つ藝術はないと思う。それは人情に憧れ、愛に活きたい心の藝術であった。永い間の酷い痛ましい朝鮮の歴史は、その藝術に人知れない淋しさや悲しみを含めたのである。そこにはいつも悲しさの美しさがある。涙にあふれる淋しさがある。私はそれを眺める時、胸にむせぶ感情を抑え得ない。かくも悲哀な美がどこにあろう。それは人の近づきを招いている。温かい心を待ちわびている」(p.32)
こればかりではなく他の文などからも、柳宗悦の朝鮮観=「悲哀の美」という見方がついて回ったという。それについては『朝鮮の土になった日本人』にも次のようにも載せられている。
「巧が柳に与えた影響がいかに大きなものであったかについては、在日朝鮮人の歴史家李進熙が次のように述べているが、正鵠を射たものだと思う。
『柳宗悦についていろいろな批判が出ていますが、とくに「悲哀の美」が、かれのすべてであるかのような議論ですね、あれはいただけない。確かに柳は1920年代のはじめに「悲哀の美」を書き、それが大きな影響をあたえてきた。しかし、1926年に「下手ものの美」を書くころから、見方が変っていくでしょう。朝鮮のやきものや木工品に健康な美を見出したのがきっかけとなって、日本で民芸運動をはじめるわけですが、そこのところをしっかりみないから、柳はすでに1920年〔代〕の後半は、「悲哀の美」論を克服しはじめているのに、今まで悲哀をよすがとして朝鮮や朝鮮文化を論じているというおかしなところがあるでしょう。
ところで、柳のそれを転換させるのはソウルにいた浅川巧、伯教兄弟ですよね」(『朝鮮の土となった日本人』(p.176)から)
「ある者は支那の影響を除いては、朝鮮の藝術はあり得ないかのようにいう。あるいはまた支那の偉大に比べては、認め得る美の特色がないかのように考えている。実に専門の教養ある人人すら、時としてかかる見解を抱くようである。しかし私は、かかる考えが真に独断に過ぎなく、理解なき謬見に過ぎぬのを感じている。私はそこに日本においてと同じく、支那の影響を否みはしない。しかしどうして支那の感情が、そのままに朝鮮の感情であり得よう。特に著しい内面の経験と美の直観とを持つ朝鮮が、どうして支那の作品をそのままに模倣し得よう。よしその外面において歴史において関係があったにせよ、その心とその表現とにおいて、まごう事ない差違があると私は解している。(略)
今日法隆寺や夢殿に残された百済の観音は、支那のどの作品に劣るであろう。またどの作品の模倣であり得よう。それらは日本の国宝と呼ばれるが、真に朝鮮の国宝とこそ呼ばれねばならぬ」(p.37)
「為政者が朝鮮を内から理解し得ないのは、一つには全く宗教や藝術の教養を持たないからである、ただ武力や政治を通して、内から結び得る国と国とはないはずである。真の理解や平和をこの世に齎すものは、信を現す宗教である、美に活きる藝術である。かかるもののみ第一義である。第一義なものにのみ、人は真の故郷を見出すのである。信や美の世界には、憎悪がなく反逆がない。永えに吾々の間から争いの不幸を断とうとするなら、吾々は吾々の間を宗教や藝術によって結ばねばならぬ。かかる力のみが吾々に真の情愛と理解との道を示すのである。人はそれを理想に止まるというであろうか。しかしこれが唯一な、しかも最も直接な交りの道であるという事を真に悟らねばならぬ」(p.42)
○「失われんとするー朝鮮建築のために」(『改造』大正11年9月号) 前記『「妄言」の原形』にこうある。「1920年、柳宗悦が音楽会開催のために朝鮮に渡った時、「『京城』(現:ソウル)」の町を歩くことによって、朝鮮総督府の庁舎の新築が光化門を棄て去る前徴であることを見抜くこともでき」、1920年10月号の『改造』に「光化門破壊の危機について警告を発したが、その後の事態には、柳の危倶した通りに進んだ」(p.107)
「柳の第4回めの朝鮮旅行直前の1921年5月24日の『東亜日報』には、『光化門移転計画』が報道されていた。柳はこうした情勢に促されて、1922年7月4日、『失はれんとする一朝鮮建築のために』を書いた。これは、朝鮮では8月24日から28日にかけて『東亜日報』に発表され、日本では9月号の『改造』に発表された。柳の一文は、光化門を破壊から救う決定的な一国になった」(p.111)
『朝鮮の土となった日本人』にはこう書かれている。
1922年8月7日、柳から原稿を受け取った巧は「『なかなかよく書けて居る。これを読んだら誰れでも朝鮮に対する同情、人類的の愛が怯えると思ふ」と日記に記した。巧の怒りは柳の怒りでもあった。そして、9日、「東亜日報山社に行って、『張徳秀氏に置手紙して例の原稿も置いて来た』」(同書:p.138)
その冒頭と本文の一部を紹介する。
「この一篇を公開すべき時期が私に熟してきたように思う。まさに行われようとしている東洋古建築の無益な破壊に対して、私は今胸を絞られる想いを感じている。朝鮮の主府京城に景福宮を訪ねられた事のない方々には、その王宮の正門であるあの壮大な光化門が取り毀される事について、おそらく何らの神経をも動かす事がないかもしれぬ。しかし私は凡ての読者が東洋を愛し、藝術を愛する心の所有者である事を信じたい。たとえ朝鮮という事が直接の注意を読者に促さないとしても、漸次湮滅してゆく東洋の古藝術のために、この一篇を読まれる事を希うのである。これは失われてならぬ一つの藝術の、失われんとする運命に対する追惜の文字である。そうして特にその作者である民族が、目前にその破壊を余儀なくされている事に対する私の淋しい感情の披瀝である。しかしなおこの題目が活々と読者に形ある姿を思い浮ばす事が出来ないなら、どうか次のように想像して頂こう。仮りに今朝鮮が勃興し日本が衰頽し、ついに朝鮮に併合せられ、宮城が廃墟となり、代ってその位置に厖大な洋風な日本総督府の建築が建てられ、あの碧の堀を越えて遥はるかに仰がれた白壁の江戸城が毀されるその光景を想像して下さい。否、もう鑿の音を聞く日が迫ってきたと強く想像してみて下さい。私はあの江戸を記念すべき日本固有の建築の死を悼まずにはおられない。それをもう無用なものだと思って下さるな。実際美においてより優れたものを今日の人は建てる事が出来ないではないか。(ああ、私は亡びてゆく国の苦痛についてここに新しく語る必要はないであろう)必ずや日本の凡ての者はこの無謀な所置に憤りを感じるにちがいない。しかし同じ事が現に今京城において、強いられている沈黙の中に起ろうとしているのである。
光化門よ、光化門よ、お前の命がもう旦夕たんせきに迫ろうとしている。お前がかつてこの世にいたとい う記憶が、冷たい忘却の中に葬り去られようとしている。どうしたらいいのであるか。私は想い惑っている 。酷い鑿や無情な槌がお前の体を少しずつ破壊し始める日はもう遠くはないのだ。この事を考えて胸を痛 めている人は多いにちがいない。だけれども誰もお前を救ける事は出来ないのだ。不幸にも救け得る人 はお前の事を悲しんでいる人ではないのだ」(p.46~47)
これに続く心に訴える文章が人々の感動を呼び、移築というかたちであったがついに命を長らえることが出来た。この『光化門よ、光化門よ』はそれをわずか8文字に凝縮している。
(文責:井上雅哉元編集長)