これまでウクライナについてほとんど知識も無く考えたこともなかったというフリーランスの著者が、本書を著わした動機は「はじめに」に集約されている。

「私がウクライナという国について学び、考えるようになったのは、2022年2月24日以降のことだ。門外漢もいいところである。本来であれば、こんな本を書く資格はないのかもしれない。それでもなお、無理を押して書いたのは、いま侵略されているウクライナの人びとに対して、本来であれば彼らの側に思いを寄せるべき人びとが、むしろ歪んだ認識に立った非難や冷笑を向けている状況があるからだ。『いや、その認識はおかしい』と急いで言わなくてはいけないと思ったのだ」

 本書をこの欄で紹介するにふさわしいと判断した理由は次の4点から。
 第1点は、ウクライナとか世界政治のいわゆる専門家ではないこと。おそらく私たちの多くも、ロシア侵攻以前にはウクライナについてはチェルノブイリと福島との関連で結びつけられた以外にあまり知識もなかったのではないだろうか。
 2点は、日ごろ声高に即時停戦を唱える中には、その根底に認知の偏りがみられるものがあり、本書の前半で著者はこれを浮き彫りにしてはっきり批判していること。(「即時停戦」という働きかけ自体は基本的には否定されるものではないと思うが、ここに示された例は本欄の筆者にとっては「目から鱗」だった)
 第3点は第2点からの展開で、あくまで事実に則してものごとの本質を捉えるよう強く主張していること。これは私たちが日ごろ目指す客観的な観方と通じ、一方的で観念的な偏りから決別するものだと言えるだろう。  第4点は、巻末にある一覧を見ればわかるとおり、膨大な量の資料の読み込みをそれも短期間で行なっていること。これはむしろ、著者がいわゆる「専門家」ではなかったからこその結果かもしれない。面目躍如だと思う。

 私たちにも新聞、書籍、マスコミその他から連日情報が入ってくる。なかには「なるほど」と思わせるものがある一方、「どうなのか……」と釈然としないものもある。読後感としては、さまざまな情報に対して受け手側にも考えの深さが必要なことを改めて自覚させられた。

 本書は、膨大な諸資料のいずれもが著者の主張とその論拠としての役割を担っている。とはいえ、広くフォローすることは不可能なので、本欄では本文ともども一部のみの紹介になる。機会をみて読み通すことがあれば、情報に触れる側の立ち位置の明確化と上記第3点についてかなり気づかされるのではないだろうか。そうした期待にふさわしい著書だと思う。

 カバーにはこうある。本書を貫いているテーマだ。
「反侵略」の立場から侵攻を相対化する議論を批判し、歴史的主体としてのウクライナを考え、二重基準を超えた『世界的公平性』への道を探る。それは私にとって、東アジア諸国の近現代史の中から聞き取ったさまざまな声を思い出させるものだった。ウクライナ人は、CIAの操り人形でもなければネオナチの悪魔集団でもない。プーチンの救いを待つ哀れな人々でもない。彼らは、彼ら自身の歴史の主体なのだ」
 ウクライナと東アジア、相互に関連させつつ本書はまさにこのことを論証している。

 第5章以降の紹介はこの欄の趣旨から省略したが、それでもかなりの字数になってしまったので了解を。本書の目次は次の通り。読む便宜のためレイアウトに多少手を加えた。

「はじめに」
 1:侵略されたウクライナへの「嘲笑」
 2:歴史の主体してのウクライナの人びとを知る
 3:私の原則は「反侵略」
 第1章「ウクライナ戦争」 とはどのような出来事か
 1:中国民衆の抗戦意志を軽視した日本軍
 2:歴史を補助線に本筋を見いだす
 3:本筋①ーこれは二国間戦争である
 4:本筋②ーこれは大国による小国への侵略である
 5:本筋③ーこれは支配-従属関係の回復を目指す侵略である
 6:まとめーウクライナ戦争とは何か
 第2章「ロシア擁護論」批判①ーそれは大国主義である
 第3章「ロシア擁護論」批判②ーそれは民族蔑視である
 第4章「ロシア擁護論」批判③ーそれは「平和主義」の倣慢である
 第5章「ロシア擁護論」批判④ーそれはどこから来たのか
 第6章ロシア擁護論は「2014年」をどう語っているのか①
 第7章ロシア擁護論は「2014年」をどう語っているのか②
 第8章「マイダン革命」をウクライナ人自身はどう見ているのか
 第9章ウクライナ・ナショナリズムは「危険」なのか
 終 章「ウクライナの発見」と世界の行方
 資 料:パレスチナの人びとへの連帯を表明するウウライナからの書簡
 あとがき:いかなる爆弾も砕くことはできない、その水晶の精神は
 引用資料一覧

第1章の「6:まとめ」から
「ウクライナ戦争とは何か。その『本筋』はロシアとウクライナの二国間戦争であり、大国による侵略戦争であり、かつての抑圧民族と従属民族の衝突である。それはロシア側にとっては他者としての、主体としてのウクライナを否定し、かつての支配-従属関係に戻そうとするものであり、ウクライナ側にとっては自国の独立を守り、ウクライナ人としての主体を破壊されないための抵抗である。
 このことは、両者のナショナリズムの評価にも当然、関わってくる。隣国の他者性を否定して再び『帝国』に呑み込もうとするナショナリズムと、これに抵抗してすでに独立を認められた国民国家を完成しようとする側のナショナリズムを、同列に、同様に見ることはできない。
 こうした本筋に立てば、なぜ冒頭に示したような日中戦争との相似が現れるのか、すっきりと理解できるはずだ。
 この『本筋』に何度でも立ち戻りながら、付随する『枝葉』のディティールを検証していく姿勢を堅持することで、枝葉と枝葉をつないでしまう歪んだストーリーに巻き込まれずに済むだろうと考える」(p.47)

第2章から
 著者は宇山智彦による「なぜプーチン政権の危険性は軽視されてきたのか」のなかで記されている「論理的なつながりや釣り合いを欠いた話でありながら、ウクライナや欧米の非を言い立ててロシアの責任を相対化させる議論」という文章を、「そのまま『ロシア擁護論』の定義として使おうと思う」と言い、次のように述べる。
「『論理的なつながりや釣り合いを欠いた』とは、論理の歪みや視界の歪み、事実に反することを含むものとしていいだろう。つまり、ウクライナやアメリカの問題を指摘することそれ自体ではなく、その中でも、①論理や事実に照らして歪んだ論法によって、②ロシアの侵略責任を相対化する議論――を『ロシア擁護論』と呼ぶということだ。
 念のために言っておけば、ここで言う『ロシア擁護論』の『ロシア』とは、ロシアという国やロシア人一般を指すものではない。正確を期すのであれば『ロシア・プーチン政権のウクライナ侵略について擁護したり相対化したりする議論』ということになる。
 宇山はその背景に、『対立が起きている時には両方に程度の差はあれ必ず非がある』『どっちもどっち』という『確証バイアス』を見ているが、私はそれだけではないだろうと思う。(略)
 なぜ侵略したロシアではなくウクライナの側に非があるかのように語る議論、あるいは『どっちもどっち』として侵略の責任を相対化するような議論が、侵略戦争を否定していたはずの人びとの側から出てくるのか。そこにはどのような誤りや歪みがあるのか。侵略者擁護の根底にある思想性はいったい何か。さらに言えば、そうした傾向は、どこから生まれて来たのか。それを考えてみようということだ。  結論から言えば、私は『ロシア擁護論』の根底にある思想的問題を、①大国主義、②民族蔑視、③日本的平和主義の倣慢の3つに見る」(p.53~54)
 この①②③はそれぞれ第2章~4章となっている。

第2章の節立て
 1:思考の歪みをどう見抜くか
 2:「ロシア擁護論」の定義
 3:「モスクワには責任がない」という主張の衝撃
 4:大国ロシアの責任を不問にする
 5:被害当事者ウクライナの不在
 6:「主権線」と「利益線」
 7:「代理戦争」は誰のためのロジックか
 8:ミアシャイマーの大国主義的世界観

第3章から
 ここでは近年日本で大人気だというフランスの知識人エマニュエル・トッドを中心としてとりあげているが、著者が問題にしているのはそれ自体と言うより次の点だ。
 それは、トッド自身の思想以上に、「こうした民族蔑視に満ちた本を10万部のベストセラーに押し上げ、その著者を『知の巨人』と持ち上げる日本の言論空間の人びとである。多くの知識人が、この本を肯定的に引用してきた。私は、この本の中に民族蔑視があると指摘する声すら聞いたことがない」(p.94)  

※本書に引用されたトッドの文章だけでも「エッ!」というところが多々見られるようだ:本欄筆者。


「西欧や日本の進歩的知識人たちは、こうした言説を受け容れ、『反米』や『平和主義』を免罪符として、誰にもとがめられずに嘲笑できる対象をウクライナに見出している。ウクライナ蔑視の言説が嫌韓論者や歴史修正主義者とそっくりになるのは、同じ民族差別の視線がそこにあるからだ。

 大事なのは、そうした蔑視がロシアの宣伝に由来するということではない。問題の本質は、そもそもそれを受け容れる側に、ウクライナに限らず、困難を抱えた途上国に対する蔑視があることだ。そうした蔑視を、進歩派を含む知識人たちが拒否するどころか享受していることだ。問題はロシアではなく、私たちの側にあるのである」(p.103)

第3章の節立て
 1:日本で大人気の工マニュエル・トッド
 2:支離滅裂な論旨
 3:ウクライナ人への強烈な蔑視
 4:問われているのは日本の読者
 5:「破綻国家」言説の底にあるもの
 6:「反米」「平和主義」が劣情の免罪符に


第4章から
 この章も同様、以上の文脈から日本の問題点を取り上げている。著者の論点として重要と思われるので少々長いが紹介する。 「ロシア侵略擁護論は、すなわち日本侵略擁護論だということだ。ロシアの宣伝に騙されているといった表層的な次元の話ではないのだ。百歩譲って、あえて『騙される』といった次元で語るなら、騙されてしまう側」の思考こそを問題にすべきだろう。侵略者の自己弁護の言説に手もなく丸めこまれているのは、日本の侵略戦争の意味を理解してこなかった結果である。
 ロシアの『安全保障の問題』に同情するのは、山県有朋の『利益線』を批判し得えていないからである。ウクライナがロシアを『挑発』したから戦争になった、ウクライナの側にも責任があるという議論は、90年代に右翼が盛んに言っていた『併合された韓国の側に責任がある』という恥知らずな議論と同じである。『ロシアはアメリカにはめられた』という議論は『日本は騙されて真珠湾攻撃をさせられた』という例の主張と同類である。
 一部のロシア擁護論者が唱える『ブチャ虐殺否定論』に至っては、ロジックの組み立てが『南京大虐殺否定論』とほとんど同じである。私は左翼系メーリングリストで『ブチャ虐殺されたという人びとの死亡日時はいつだ。DNA鑑定はしたのか。それが分からなければ何も断定できない。法医学の基本だろう』という驚愕の書き込みを読んだことがある。南京の犠牲者の『死亡日時』は法医学的に解明されているのだろうか。
 ウクライナ戦争をめぐって、多かれ少なかれこうした錯誤をはらんだ言説を受け容れたり、自らも吹聴したりしている人は、市民運動の活動家や知識人の中に少なくない。(略)
 ここには戦後日本の平和主義の歴史的問題が現れている。つまり、①『侵略と抵抗』という基準の不在、②自国認識の不在、そして③日本的進歩主義に由来する他国への蔑視である。それは、安全な大国日本の、傲慢な平和主義である」(p.128)

 著者はウクライナ戦争の即時停戦に向けて日本、中国、インド政府に介入を求めた「憂慮する歴史家の会」の2度にわたる声明を批判する。  

※声明そのものも批判に値する内容だと思う:本欄筆者。


 ところが、その国際的な声明主体のサイトには、「英語はもちろん、スペイン語やフランス語、韓国語から中国語(簡体字)、中国語(繁体字)まであるのに、被害当事者たるウクライナの言語だけがないのである。
 何らかの理由はつけられるだろう。ウクライナ語の翻訳者が見つからなかったとか、ウクライナ人はロシア語が読めるから必要ないとか。だがこれは、そんな軽い問題ではない。ロシアとウクライナの間に入って停戦を呼びかけるという声明の倫理的資格に関わる大問題のはずである。(略)
『外務省、ロシア大使、インド大使と面談してきました』とサイトで報告する彼らは、しかしウクライナ大使館には行っていない。最初から行こうとしなかったのか、打診したが拒否されたのかは分からないが、いずれにしても、ウクライナ語の不在に加えて、その事実自体が、この声明の政治的性格を語っている。つまり、被害当事者の不在ということだ」(p.132)

 そしてその延長線上にある「今こそ停戦を」運動サイトにおける「なぜ撤退ではなく停戦なのですか?」という質問に対する回答。
「ロシアヘの『撤退』の呼びかけだけを続けることは、両国の現状を考えると、『停戦』の呼びかけと実現よりも、時間がかかり、その間にも犠牲になる人が増えてしまいます。
 『撤退』は『特定の領域が帰属する国』を定める必要があります。このとき、歴史を参照して『特定の領域が帰属する国』を定めることはできません。なぜなら参照する歴史上の時点によって、どちらの国にも帰属しうるからです。過去もまた多様なのです。
 『撤退』がなされる時は、中立で公正な国際監視のもとに行われる住民投票によって決められる必要があります。しかしそれには段階と時間を要するので、まず無条件に『停戦』をして、その交渉を開始する必要があります」(p.133)

 第一段落はともかくとしつつ、これに対して著者は、
「第二段落以降に書かれていることを読むと、彼らが『撤退』と言わないの(ママ)理由が、占領地も本来はウクライナの領土であるが、やむを得ずそういう手続きを取るしかないといった現実的な方便からではなく、ロシアが占領したウクライナの諸地域について、それがどちらに帰属するものであるか判断できないからというものであることが分かる。『なぜなら参照する歴史上の時点によって、どちらの国にも帰属しうるから』だというのだ。いわば原理的な国境不可知論とでも言うべき立場である」(p.134)  

※この『』内の回答が成り立たないことは少々歴史を学んだだけでもすぐに思いつく:本欄筆者。


 そして、
「だがそんなことを言えば、ウクライナ西部はかつてはポーランド領だったし、ポーランドの一部はドイツ領だった。アメリカとインドはイギリス領であり、朝鮮や台湾は日本領であった。そしてプーチンの高名な論文『ロシアとウクライナの歴史的一体性』によれば、『今日のウクライナは完全なるソ連時代の産物』であり、『今日のウクライナの大部分が歴史的ロシアの土地で形成されている』ことになる。では、『参照する歴史上の時点によって、どちらの国にも帰属しうる』から何度でも『多様な過去』を蒸し返して国境線を漂流させるべきなのだろうか。(略)
 実際には、ウクライナの国境線は1991年の独立時に確定している。その後、ウクライナの領土的一体性と国境不可侵はブダペスト覚書で確認され、さらに1997年のロシア・ウクライナ友好協力条約によって二国間でも確認されている。『多様な過去』のどこかに恣意的にさかのぼるのではなく、そこに戻るべきだ。そうした前提を認めない『停戦』運動は、圧倒的な武力によって隣国の一部を併合したロシアの侵略を追認し、これまで積み上げられてきた国際法の規範をあっけなく否定しているのである」(p.134)

 さらに著者は、この説明の第一段落が「現実論のみに立った『撤退』否定論であれば、一理ある」としながらも、「それでも、一国の運命に深刻に関わる不正義の容認という道義的に難しい判断について、他国の市民運動や知識人がそこまで踏み込んだ口出しをするべきなのだろうか」と疑義を呈する。
 加えて、
「私は外部の人間が停戦を求める運動があり得ないとは思わない。ていねいに考え抜けば、倫理的に可能な何らかの道筋はあるのかもしれない。しかしそれが知識人や市民運動の課題として行われるのであれば、侵略や併合の追認を前提にすべきではない。端的に言えば、日本の市民運動は『ロシア軍の撤退を求める』という原則的な立場を放棄すべきではないのだ。(略)
 私は、他国の人びとに不利益を求める場合は、それがヒューマニズムから行われるのであるとしても、その国の人たちに向けて、どのようにそれを語り得るか、あるいは語りかけ得る内容になっているかを自省しなければならないと思う。
 その意味で、この『停戦』運動が(略)ウクライナ語だけを避けていることは、その資格を最低限にも満たしていないことを示している。もし『ウクライナ人のほとんどはロシア語も読めるから』というのがその理由であれば最低である。(略)
 声明をウクライナ語には翻訳しないということは、こうした声に応答する気がないということである。そうした最低限の手続きすら踏まないまま、侵略された他国の領土の処分法を第三者が論じる一連の声明に、日本の進歩派を代表するそうそうたる知識人たち、『名誉教授』たちが名を連ね、賛同している。日本の『平和主義』が行き着いた傲慢さを示す一つのエピソードだろう」(p.136)

第4章の節立て
 1:「ゼレンスキー」が攻撃対象となる理由
 2:困難と闘う歩みが「荒廃」と見える視線
 3:無自覚な「日本擁護論」
 4:領土の代わりに金を受け取れ
 5:「侵略」への反省不在の「平和主義」
 6:尹泰吉の爆弾投榔をめぐって
 7:日本的進歩主義の倣慢
 8:「騙される」側の問題
 9:「即時停戦」運動批判
 10:ロシア軍撤退を求める原則を捨てるな

 以上いかがだろうか。これだけでは著者の主張は尽くせないが、あくまで「ちょっと」欄なので。繰り返しとなるけれども、ぜひ直接読まれることをおすすめしたい。(文責:編集部)