●折しも母を殺して満願成就しようとしていたアングリマーラにブッダは近づいていった。ブッダとアングリマ-ラは長い輪廻のなかで幾度も出会い、常にブッダの精神の力がアングリマーラの肉体の力を圧倒するという関係だったが、時には叔父と甥の関係だったことすらあった。


 「沙門よ、この道を進んではいけない。この道にはアングリマーラという殺戮に明け暮れる無慈悲な兇賊がいる」
 と警告する街道の人々を三たび振り切って近づいてくるブッダの姿を見るやアングリマーラは、
 『他に人がいるなら母を殺す必要などない。この沙門を殺れ』
 とブッダの背後から襲おうとした。


 そのとき不思議なことが起きた。どれほど全力疾走しようともアングリマーラは、『神足通』という神変を使うブッダに追いつくことができなかったのである。息を切らして彼は叫んだ。
 「止まれ。沙門よ、止まれ!」
 「アングリマーラよ、そなたこそ止まるがよい。私は止まっている。
 あらゆる生き物に対する私の暴力と危害の意志は永久に捨て去られ停止しているのだ。
 しかるにそなたの生命破壊の凶暴な意志は荒れ狂い止まっていない。そなたこそ止まれ。鎮まるがよい!」(中部経典 第86経「アングリマーラ経」)


 このブッダの言葉を耳にした瞬間、アングリマーラの心に突然の回心が起きた。
 「おお。ついに待ち望んでいた偉大なる師が私のために出現した」と彼は直感し、ただちに武器を投げ捨て、あらゆる悪から出離することを誓って出家を願い出たのである。


 ブッダの一言で、なぜ、この血塗られた殺人鬼がここまで劇的に豹変したのだろうか……。不自然なほど唐突な印象を受けるが、ブッダの巧みな方法が功を奏したと見るべきなのだろう。
 強烈な思い込みで殺人マシーンと化していたアングリマーラの心を回心させるために、ブッダはまず六神通(神足通・天耳通・他心通・宿命通・天眼通・漏尽通)の中でもとりわけド派手な神通力で圧倒したのではないかと思われる。


 神変を目の当たりにして衝撃を受けたアングリマーラの心に、たたみ込むように説かれたダンマは、知的理解のレベルを超えて深く心に沁み入っただろう。それまで蓋をかけられ抑圧されていた良心や生来の聡明さにアピールしたのかもしれない。だが、最も強力にアングリマーラの心を揺さぶったのは宿業の力だったのではないか……。
 前科13犯の暴力団組長だった内観指導者・橋口勇信が、師匠の吉本伊信に初めて対面した時、「なんとも懐かしいお方だな……」と感じ入ったと述懐しているように。
 あるいは、バクティ・ヨーガの聖者ラーマクリシュナが、彼の偉大な後継者となったヴィヴェーカナンダとまみえた時に「遅かったじゃないか……」と呟いたように……。
 あるいはまた、真言密教第七祖の恵果が、入唐して間もない一介の留学生に過ぎない空海を一目見るや「あなたが来るのを待っていた」と呟き、並み居る高弟を差し置いて第八祖の後継者に定めたのも、過去世から互いに何度も師となり弟子となりの輪廻転生を繰り返してきた因縁の故によると言われるように……。


 いずれも科学的に検証できない主観的印象に過ぎないと言われればそれまでのことだが、過去世を想起する「宿命通」の発露とも考えられるのではないか。少なくともブッダの過去世を想起する能力は、どんな大阿羅漢達の宿命通も及びもつかない桁違いだった。そのブッダとアングリマーラは、遥かな過去世から幾たび師弟関係となり伯父と甥の関係となったか知れないほど因縁浅からぬ仲だったという。
 伝承の通りであれば、どんな神通力や説法よりも強力にアングリマーラの心は揺さぶられ、ブッダにひれ伏したくなっただろう。
 光と闇の両義的資質が激烈だったアングリマーラの人生は、最悪のグルとの出会いによりどん底まで暗転したが、今、至高の徳が結晶したブッダと再会することにより、暴悪から聖性に向かってチャンネルが切り換わったのである。
 最下層の無間地獄に堕ちるしかない殺人鬼に一条の光が射し込み、解脱への道が緒についた人生最大のターニングポイントの瞬間となった。 


 われわれの人生は、無限の過去から放ち続けてきた業のエネルギーに否応なく押しやられていくが、その因果が帰結するまでには補助因とも言うべき無量無数の縁が働かなければならない。
 立派な種があれば自動的に果実が実る訳ではない。土中に落ちなければならず、雨が降り陽が射し、水も光も空気も、諸々の補助因が縁となって働いた総合的な所産として実を結ぶのだ。
 完全な種子が首尾よく芽を出しても、嵐に吹き倒され、草食獣に食べ尽くされ、害虫の襲来や土砂崩れもあるだろう。たとえ強力な善業が組み込まれても、さらに諸々の善をなし、衆善奉行を心がけなければ、縁に触れることなく立ち消えてしまうかもしれないのだ。


 もしその日、パセ-ナディ-王が軍隊に出動を命じなかったなら……、もし命をかけてまでわが子のもとに向かおうとする母の決心がなかったなら……、その母すら殺そうとするほどアングリマーラの心が狂っていなかったなら……、もしブッダが天眼通に入定していなかったなら……、もしブッダの言葉がアングリマーラの心の扉を開かなかったら……。
 私たちが日々瞬々刻々経験するどのような些細な出来事も、複雑系の極みとも言うべき諸法無我の宇宙網目のなかで生起し滅している。ブッダに救い出されるだけの稀有な善業を荷っていたアングリマーラだったが、紙一重ですれ違い、実を結ぶことなくち立消えになっていたかもしれない……。


 さて、光明に向かったアングリマーラだったが、当然の報いとはいえ彼の托鉢の鉢に食を施す者のいるはずはなかった。のみならず石を投げられ棒で打たれ、頭部から血を流し、鉢を壊され外衣を引き裂かれた。
 何よりも彼は日夜、瞑想に専念しようとしたが、罪悪感と悔恨と自責の念に苛まれ、与えられた瞑想対象に正しく心を集中させることができなかった。
 彼の目の前には、街道沿いの山中で彼の手にかかって次々と殺されていった人々の姿が浮かび上り、いくらサティを入れても見送れず、心を突き刺す印象に思わず反応しては胸が締めつけられた。耳には、命乞いをする人々の悲しい呻くような声が鳴り響いて止まなかった。
 「命だけは助けてください!私は貧しく、子供が多いのです。私が死ねば子供たちも生きていかれないのです。お願いです。命だけは許してください……」
 と訴え求める男をめがけて、ギラリと光を放ちながら振り降ろされていった刃。絶望と恐怖のなかで絶命していく男の足が、腕が、痙攣のように震え、ほとばしる血の海のなかで蒼く土気色に変色しながら動かなくなっていく光景が一つまた一つと激しく心に焼きついてくる。
 酸鼻を極める記憶イメージに叩きのめされ、深い後悔に心をワシづかみにされて、彼は座禅から起ち上がりその場を立ち去る他なかった。


 アングリマーラほどの悪をしてはいない私たちにも、これは他人事ではないのだ。取り返しのつかないことをしてしまったと感じている心がある限り、懺悔の修行によって過去に清算をつけなければ、サティはおろか慈悲の瞑想をやる積極的な心も生じないだろう。
 普通の生活をしていれば、朝から晩まで目に、耳に、次々と情報が乱入し、連想が飛び散り、心は刺激から刺激へと目まぐるしく吸い寄せられ、自らの所業を内省的に振り返る暇もないのが私たちだ。
 瞑想などやらなければ、そうして日に夜を繋いで流されながら死んでいくこともできるだろう。だが、五戒を守ってヴィパッサナー瞑想を始めた者はそうはいかない。普段なら気にも止めない微罪でも、棘となって心に刺さるからだ。
 タイやミャンマーの森林僧院で修行をしていると、いくら気をつけていても、禅堂に向かう小道に歩を進めながら蟻を踏んでしまったかもしれない一歩がある。すると、瞑想中に殺生戒を犯したのではないか……と罪悪感が心に拡がり、懺悔の瞑想をしなければ治まらなくなるのだ。
 瞑想中のアングリマーラはいかばかりであったろうか……。
 そして、アングリマーラに対するブッダの指導はどのようなものだったろうか……。(続く)