*業論からの解釈


 ★なぜ懺悔をすると、惛沈睡眠や痛みの現象が消失するのか。設問①の因果関係を考察し、医学的解釈と暗示や偽薬効果の可能性を検討してきた。
 ここからは、懺悔と現象の関係を業論の側面から検討してみよう。 強い意志が出力する心のエネルギーによって、身体現象や事象そのものが新たに形成されていく。現象世界の有為転変は業の法則に司られている、という仏教の基本原理で解釈してみるのは当然だろう。
 そもそも私がこの問題に関心があるのは、瞑想合宿の道場主として、あまりにも多くの事例に接してきたからである。痛みと眠気は瞑想修行の妨害要因として誰もが必ず経験するものであり、それをどうクリアーさせるかは毎回必ず取り組まなければならない仕事だった。定員9名の参加者と24時間起居を共にしているので、瞑想が人間の心身にどのような変化を及ぼしていくのかも目の当たりにしてきた。
 オーソドックスなサティがきれいに入って、鮮やかに眠気が雲散霧消したというレポートは滅多に報告されない。しかるに聖者誹謗系の懺悔の瞑想を紹介すると、劇的に眠気が一掃されたレポートが頻発するのに驚いたのだ。
 成功率は軽く5割を超えていた。異常な眠気に悩まされていた半数以上の人が翌日の面接で、鮮やかに問題が解決したことを報告する。
 仮にその半数が暗示効果だったとしても、首を傾げたくなるような数値だった。しかも、この成功率はその後も変わらず一貫していたのである。


*過去世の不善業か……


 いやしくもヴィパッサナー瞑想のインストラクターをしてきた私が、瞑想者に対し意識的に暗示をかけることなどあり得ない。その正反対の瞑想を教えてきたのだ。暗示やマインドコントロール、自分勝手な思い込みの妄想、引いては概念世界そのものと法としての現実世界とを厳密に識別することがヴィパッサナー瞑想の基本である。
 モーガンの公準にのっとり、痛みなら脚の組み方や座布の高さ、姿勢保持の調整などから始め、惛沈睡眠なら食事の分量や補給の仕方などからアドバイスするのは言うまでもない。
 しかし諸々の対策を講じても効果がなければ、そのまま最悪の状態を放置しておけないので、万策尽きた段階でこのように前置きをする。
 「私は科学的な説明のつかないオカルト的なものを好まないのですが、スリランカの先生に指導された若干怪しげな方法があるので最後に試してみますか?
 説明のつかない異様な眠気は、過去世で聖者誹謗の悪業を犯した報いであるから、本気で謝罪して懺悔の瞑想をすると好転する場合があるというのです。
 例えば、あなたが過去世で仏教以外の異教徒として信仰心が篤く、勢力を競い合っていたテーラワーダ仏教のお坊さんが大嫌いで、罵詈雑言を浴びせたり瞑想の邪魔をしたり、迫害をしていたとします。
 しかるに、どういう訳か今世ではヴィパッサナー瞑想を修行することになっていたとしたら、すんなり瞑想修行が進まないのは当然でしょう。人として、まず冒瀆し罵倒した過去の所業を謝罪し、改めて教えや導きを乞うのが順序です。
 瞑想が進まないのは、いや妨害されるのは、妨害してきたからであり、邪魔をしてきたからだと考えるのがカルマ論の基本です。
 現に得体のしれない惛沈睡眠に襲われ、瞑想が著しく妨げられている状態です。だから、そのような不善業を懺悔するという発想ですね。記憶にもない過去世のことですから科学的検証は難しいのですが、劇的に妨害要因が除去された人が数多くいるのは確かです。
 事実を正確にあるがままに観る瞑想を教えている者として、真偽のほどを立証しづらい方法はあまり勧めたくないのですが、やりたいのであれば教えることはできます」
 必ずこのように断ってから具体的なやり方を伝えてきた。
 瞑想ができない人を出来るように導くのが私の役目と心得てきたので、マールンキャプッタの毒矢の喩えは一つの指標だった。毒矢に射たれて苦しんでいるのだから、射手はどの部族の誰か、そのカーストは、その身長や肌の色は、弓の弦は腱か麻か、矢毒の成分は何か、矢の尾羽はどの鳥のものか……などの事実が明確にならないなら、矢を抜くのは止めてくれ、と言い張るのは愚かであろう。煩悩の毒矢に射たれて苦しんでいるのだから、何はともあれまず毒矢を抜くのだという発想……。 
 わずか10日間の瞑想合宿なのだ。肝心の瞑想ができない状態から出来る状態になるのであれば、明快な科学的説明がつかなくてもよいだろう。瞑想マキャベリズムで構わないと思っていた。


*慢の煩悩


 また、こうも付け加えた。
「ヴィパッサナー瞑想というものは、ネガティブな現象を消すことが目的ではないのはご存知ですね。この懺悔の瞑想をしても、症状が消えるかどうかは分かりません。何も変わらないかもしれない。しかし、たとえ苦しい状態は何ひとつ変わらなくても、過去世で犯したかもしれない自分の過ちを詫び、懺悔の瞑想ができる精神は立派なものです。
 自分が今世で犯した悪行すら認めず、謝ろうとしない輩が多いのです。本当に自分がやった証拠など何もないのに、犯したであろうと想定し、その過去世の不善業をお詫びするんですよ。慢の煩悩が強い者にはできる訳がないのです。たとえサティの瞑想が芳しくなくても、もしこの懺悔の瞑想ができれば、心の清浄道として立派な修行になるでしょう……云々」
 瞑想が暗礁に乗り上げて苦しみ抜き、下山しようかどうしようかと藁をもすがる想いでいるのだから、こんな風に言われると大概の人は、ともかく試してみようかということになる。
 「ボク、そんな怪しいことやるんなら、このまま瞑想ができなくても、苦しいままでいいです」と答えた人はいなかった。誰も大変なスケジュール調整をして、ようやっと合宿入りを果たした方々なのだ。
 こうして、膨大な検証事例が積み重ねられていった。


*業の構造


 瞑想以外には何ひとつやることのないリトリートである。苦境を脱したいモチベーションも明確である。懺悔の内容にのめり込むのも自然な流れで、実感が盛り上がってくれば情動脳にもスイッチが入るだろう。つまり集中がよくなり、情緒的にも昂揚してくるのだ。当然、痛みが消えるかもしれない、眠気が一掃され るかもしれない……という期待も高まるだろう。
 かくして、暗示効果の起きやすい条件が整ってくる。同時に、心のエネルギーが強く出力されカルマが作られる条件も整ってくる……。
 <カルマはチェータナ(意志)である>とブッダが定義しているように、強い意志が集中すれば強力なカルマが作られる。痛みが消えた!と強く念じれば、あるいはドロドロの眠気が雲散霧消する!と強烈に願えば、痛みも眠気も消える可能性がある。
 「願うことはすでに叶ったと信じなさい。そうすればその通りになるであろう」と言ったのは2000年前のイエスだが、引き寄せやさまざまな願望実現法は全て同じ構造である。 
 強い意志が現象生起力となって、未来の事象を形成する。「サンカーラ(行)」=「カルマ(業)」のシステムである。
 今世で作ったカルマが、今世で実を結び結果をもたらす。これを「現法受業」というが、痛みや眠気が劇的に消えたのは、即席の現法受業とも考えられる。
 暗示効果と解釈した場合でも、構造はほぼ同じである。痛みが、眠気が、消えるかもしれない……と強く期待することは、強い意志(チェータナー)が出力されているのと酷似している。
 願望実現のように、明確に自覚的に望ましい状態を願っている場合もあれば、無自覚に、しかし強く願い欲している場合も、チェータナー(意志)が出力されれば業は形成されると心得ておかなければならない。
 カルマ論を知らない多くの人々が無自覚に善業を作り、悪業を作っている。自覚がないので、その結果なぜ苦楽の経験をさせられるのか理解できず、ただ反射的に苦受の経験に腹を立てて怒り狂い、楽受に対して貪り求める反応を重ねてしまう。かくして新たな業が作られているのに、そのことにも気づかない無明の構造こそ人生苦の根本原因なのだ。
 現状をあるがままに正しく認識する瞑想が、無明の闇に一条の智慧の光を投射し、ドゥッカ(苦)を構造的に乗り超えていく第一歩となる所以である。


*相殺の思想


 さて、懺悔の瞑想の現場では何が起きていたのか、さらに分け入ってみよう。
 まず、痛みや異様な眠気が業の結果であるならば、痛みの原因は動物や人間の身体に危害を加えたであろう殺生戒を犯したことが疑われる。
 ドロドロの眠気に襲われて瞑想ができなくなるのは、妨害し、混乱させ、意識朦朧となって修行ができない状態に追い込んだ不善業を犯したのではないかと推測される。現在の状態を業論に基づいて要因分析をすれば、その原因が概ね推測できるだろう。
 さらにもう一歩踏み込めば、正反対の業のエネルギーを出力することによって、悪しき現状を改善することも可能となる。「業の相殺」と呼ばれる考え方だ。殺したなら命を救う。奪ったなら与える。罵ったなら、愛語を以て賞賛する……等々。
 ネガティブなエネルギーを出力して悪しき現象を招来させてしまったのだ。今度は、正反対の善なるエネルギーを出力して相殺するのである。

*業は変滅する……


 懺悔の瞑想をしてお詫びする。謝罪する。同じ過ちを繰り返さないと誓う。これからはダンマに基づいて徹頭徹尾、善をなす。慈悲の瞑想をする。慈悲の人になる……。
 と、心から悔い改めるエネルギーを放出すれば、殺生戒や聖者冒瀆の不善業エネルギーが相殺され、悪しき状態が好転することもあり得るだろう。
 つまり、懺悔効果の真の原因は、懺悔の意味内容に集中したチェータナ(意志)である。殺生や聖者冒瀆を痛切に懺悔する瞬間の、その想念の一つ一つが、過去に放ったエネルギーの正反対の方向に向かって、新しいカルマを作っているのである。
 清浄道論では、聖者誹謗は地獄へ堕ちるほどの重業だが、懺悔をすれば償うことができる。「……誹謗業は宥恕せらるるなり」と明言されている。さしづめBさんの事例はその具体例になるのかもしれない。古い悪業を新しい善業で打ち消すことができる、というのは希望が持てる話である。


*輪廻転生


 本気で懺悔をすれば必ずなんらかの効果がある。たとえ情動脳にスイッチが入らなくても、どんなに微かであれ心が振動すれば、その瞬間に、地水火風の物質エネルギーが動いてそのバランスを変化させてしまうのだ。
 心が生まれた瞬間、例えばホルモンなどの物質に生化学的反応が生じ、色法(Rupa:ルーパ:物質と肉体の変化プロセス)の物理世界にも瞬時に変滅のプロセスが始まってしまうのだ。そして死の瞬間にも、同じメカニズムが働いて輪廻転生が繰り返されてしまう……。
 死が近づきいよいよ死ぬ瞬間、その直前に「死近心」と呼ばれる反応系の心が最期の業を作りながら出力されていく。次の瞬間の受容系&入力系の心が新たな色法に生起し「結生識」と呼ばれて再生が成立していく。
 涅槃の力で生存欲が完全に絶え果てない限り、1ミリでも残存すれば自動的に再生のメカニズムが働いて輪廻転生が繰り返されていくのだ。
 再生する時に持っていけるのは業だけだ、とブッダは明言しているが、次に、過去世の宿業と懺悔の瞑想の関係を観ていこう。(以下次号)