お釈迦様が弟子を伴って托鉢のためにある町に入られた。その姿を見た一人の老人が近づいて言った。
「おお、息子よ、なぜこんなに長い間逢いに来てくれなかったのだ。さあ、行こう。お母さんにも逢ってやってくれ」
家に着くと老人の妻はお釈迦様を一目見るや感激し「お前達の大きいお兄さんだよ」と自分の子供たちに紹介した。
面食らった比丘達の問いかけに、お釈迦様は驚くべきことを答えた。
「比丘達よ、私は過去世でこの二人の息子だったことがあり、また甥だったこともある。その回数は長い輪廻転生のなかで1500回であった」
ブッダは、この父親が預流果に達するまでこの地に3ヶ月留まったとも記されている。
この逸話の出典は「ダンマパダ(法句経)」のコメンタリーだが、果たして真偽のほどはどうなのだろうか。
ブッダは常に真実を語っただろうが、伝承の正確さに疑念を挟めばきりがなく、仏教にもキリスト教にも膨大な偽経が存在し、ブッダやキリストの言動を伝える資料も後世になるほど誇張され神格化され伝説化されて信憑性が失われていくのが通例である。
*紫色のカラス
ヴィパッサナー瞑想者に理系や技術系の方が多いのは、万人に知覚され共有される現実を正確に観察していく技法の清潔さに魅力を感じているからである。妄想と事実を厳密に識別していく瞑想は科学の方法と酷似しており、根拠の不確かなものを信仰する要素が入り込むのを好まないのは当然である。
輪廻転生論は科学的実証が難しく、最後は信じるか信じないかの問題に帰着するので、仏教の素晴らしさに感銘を受け、ヴィパッサナー瞑想を真剣に修行している方でも否定的な見解を持つ方が少なくない。
一方、誰しも人生経験を重ねるにつれ因果応報の現実が身に染みてくるし、現象世界の事象の転変は因果法則に貫かれていることが覚られてくるので、業論を真っ向否定する人は少ない。ところが輪廻転生論は経験則で納得することも、科学的な検証も極めて難しく、あるのか無いのか解らないと回答する人が多くなる。
輪廻転生を全く信じない、と全否定する人もいるが、存在しないことを立証するのは限りなく不可能に近く、いわゆる「悪魔の証明」になってしまう。
例えば、紫色のカラスが存在することを証明するには紫色のカラスを一羽見つければよいが、存在しないことを証明するには地球上をくまなくシラミ潰しに調査しなければならない。「輪廻転生なんか、ある訳ないやんか」と言う人は多いが、実証的な物言いではないだろう。
*科学的立証
なぜ輪廻転生は科学的な立証が難しいのだろう。
まず、実験や客観的な観測が非常にやりづらいのだ。例えば、遺伝学や分子生物学で使われるショウジョウバエは、飼育が容易でライフサイクルが2週間と短く「生きた試験管」と呼ばれるほどさまざまな実験をするのに都合がよい。しかし平均寿命が80年にもなるヒトの世代交代を観察するのも、被験者の死の瞬間に立ち会うのも極めて難しいし、そもそも人権に関わる意図的な実験や観察そのものが不可能なのだ。
臨死体験の事例は膨大に存在するし、死後に継続されていくであろう命の営みを強く示唆するものではあるが、「臨死」は「死」そのものではなく、輪廻転生を完璧に証明したと断言するのには少し無理がある。
*前世を記憶する子供達
輪廻転生の科学的研究と呼ぶに値するのは、米国のイアン・スティーヴンソン教授のフィールドワークだろうか。インドや東南アジア、ヨーロッパなどで前世の記憶を持つ子供達の事例を2300例ほど収集し、輪廻転生の強力な実証例と言い得るものが存在する。
前世の家族の名前、居住環境、自分自身が死んだ瞬間、居合わせた人や情況などを語る子供の証言が、調査した事実とぴったり符合する例が多い。「先天性刻印」と呼ばれる母斑や身体部位の欠損が過去世で死ぬ瞬間に負傷した傷跡と合致したりもする。過去世で死亡した時の様子を記録したカルテが発見された事例などは物的証拠となるだろう。
さらに、前世を記憶する子供の中には、前世の言語だったスウェーデン語やドイツ語で意思疎通できる者が確認されている。今世で習得するはずのない「真性異言」は輪廻転生を立証するものとして説得力がある。
しかし仏教の輪廻転生論からは問題もある。
例えば「盲亀浮木」の喩えで知られるように、仏教では人間から人間へのダイレクトな転生は極めて稀有とされているが、スティーヴンソンの研究はすべて人間から人間への転生であり、仏教の輪廻転生論に疑義が呈されている。
大きな反響を呼んだイアン・スティーヴンソンの研究は後継者のジム・タッカーに継承されており、こうした厳密なフィールドワーク研究が重ねられていくと輪廻転生論が広く承認されていくかもしれない。
*霊能者キューブラ・ロス
生涯に2万例もの死者の看取りをしてきたキューブラ・ロスは、膨大な体験例から死後生=輪廻転生を確信していた。ロス自身の数々の霊的体験は霊能者として相当なものであり、ロスの確信は、ブッダやモッガラーナと同じ次元の直接知覚による検証が根拠となっていたように思われる。
このような特殊能力の持主たちにとっては生々しい現実も、われわれ一般人には知覚することも共有することもできない世界であり、追認できなければ科学の対象にはなり得ない。科学者の多くがこの問題を敬遠する所以だろう。
ブッダや大阿羅漢達が言明しているのだから、輪廻転生は存在するに決まっていると断定するのは、信仰の世界であり、ヴィパッサナー瞑想の世界ではない。存在するものは存在すると知り、存在しないものは存在しないと、事実をありのままに観ていくのが原則である。
特殊なセンサーの持主だったキューブラ・ロスは、事実をありのままに観察した結果、霊視した世界も死後に転生していく世界も明確に存在することを知っていたのであろう。ロスは、ブッダやモッガラーナと同じ立ち位置にいたのではないかと思われる。
*六道輪廻
人間シッダールタが身を削って修行し、煩悩の束縛から解放され、ドゥッカ(苦)を終滅させたことを自ら証し、ブッダになられた。のみならず後に続く人々も同じ境地に到達できる道を具体的に示された。それがヴィパッサナー瞑想だが、実際に修行してみると認知のプロセスも、法として実在する対象が概念化され妄想と混同され実体視されていく消息も、なるほど、なるほど……と腑に落ちて方法論としての正しさと美しさに感銘を受けてきた。
そのブッダの直説とされる最古層の経典「スッタ・ニパータ」には地獄の生々しい描写がある。「神々との対話」や「悪魔との対話」と訳されている「サンユッタ・ニカーヤ」に登場する霊的生類も、凡夫の知覚センサーを超越したブッダにとっては現実そのもののやり取りだったことが窺われる。
原始経典のいたるところでブッダは死と再生について繰り返し語り、六種の領域を転生する「六道輪廻」を言明している。「地獄・餓鬼・動物・人間・修羅・天」の六趣である。われわれ凡夫衆生には人間と動物しか知覚できないが、超感覚的知覚(ESP)の持主たちには他の4種の生類も実在していたはずである……。
*知覚の延長と拡大
顕微鏡の精度が上がるにつれ極微の世界が可視化され、病気の原因が精霊や悪魔の仕業ではなく、細菌の増殖によるものだったことが判明した。電子顕微鏡が発明されると、極小のウイルスも視認されるようになり、さらに謎の解明が進んだ。
また、ハッブル宇宙望遠鏡が打ち上げられることによって、地球の大気や天候の影響を受けない極めて高い精度の天体観測が可能になり、膨張宇宙やブラックホールの存在証明にも繋がった。
従来の光学顕微鏡の回折限界をはるかに凌駕する量子顕微鏡の開発が目覚ましい現代である。技術的な知覚の拡大によって対象認識の次元が変われば、一部の者の特殊な「超感覚的知覚(ESP)」が万人に共有されて科学となるだろう。
ブッダやモッガラーナ、キューブラ・ロスが知覚し経験していた世界が可視化されれば、ニュートリノのような微細身の霊的生類の存在証明がなされ、輪廻転生の構造が科学的な研究対象になっていくことを期待したい。
*悟りと神通力
霊視や輪廻転生の構造を目の当たりにする能力は天賦の才ではなく、修行の賜物と考えるべきだろう。おしなべて天与の才というものは、過去世で死ぬほど努力して得た才能が持ち越されたものとして理解すべきである。遺伝子の宝くじを偶然引き当てた者が天才として誕生するという考え方には美も論理も品格もない。
ブッダの直弟子達は、高度なサマタ瞑想の一環として神通力の修行をしていたことが知られているし、解脱した時には、煩悩が滅尽し二度と再生しないことを知る「漏尽通」という神通力の他に、「神足通」「天耳通」「他心通」「天眼通」「宿命通」など六種の神通力が開かれて阿羅漢になったという。
<六神通>と称されるが、とりわけ重要だった「漏尽通」「天眼通」「宿命通」を<三明>とも呼ぶ。最初期の阿羅漢は必ず三明六通を得て解脱したようだが、後世になると、神通力の伴わない「漏尽通」だけの阿羅漢も認められるようになった。
<三明>の中でも、死後、再生に導く煩悩が滅尽されたことを知る智慧は輪廻転生を終滅させる解脱の要なので「漏尽通」が最重要視されるのは当然である。
「天眼通」は、一切衆生が業によって輪廻転生していく姿を遍く知る智慧であり、輪廻のメカニズムと業の関連が明確になることは自身の解脱に直結する重要な認識であることは言うまでもない。
「宿命通」は、自身の過去世の記憶が鮮やかに想起される能力だから、輪廻転生が生々しい実感とともに現実のものとなる。一切皆苦の構造の中の輪廻は当然ドゥッカ(苦)に満ち満ちたものであり、解脱の仕事を完成させる原動力になるだろう。
*過去世を想起する神通力
六種の神通力がどのように発揮されるかと言えば、一点集中のサマタ瞑想を極め、第4禅定を完成した時点で神通力の修行を開始するのが通例だったようだ。
ブッダがかの老人との1500回にも及ぶ関係を告げたのは、「宿命通」の神通力で過去世の記憶を想起したからだろう。ブッダのこの能力はどんな大阿羅漢たちも及びのつかない圧倒的なものであり、阿羅漢の宿命通がロウソクの炎だとすると、ブッダの神通は赫赫と照り輝く真昼の太陽に譬えられた。ビデオテープを再生するかのような克明さで遡れる過去世の数は500生前、1万生前、数劫(カルパ)前、数十劫前生と、無限に続く輪廻の環の一つ一つを鮮明かつ自在に想起することができたという。
*懺悔の範囲は過去世に及ぶのか
石をぶつけられている比丘の映像を見たBさん。あるいは首筋の痛みが劇的に消失したAさんは前世をかいま見ていたのだろうか……。設問②のポイントは、懺悔の範囲は過去世に及ぶのか否か、輪廻転生は存在するか否かである。
劇的な懺悔効果を暗示で説明しても業論で解釈しても、現象を生滅変化させている根本は意志(チェータナー)であることに変わりはないだろう。意志に端を発する「サンカーラ(行)」の現象生起力が過去世や未来世にも及ぶのか否か、がここでは問われていると言ってよいだろう。
まず、業論そのものを否定する偶然論者は、仏教の立場からは「縁なき衆生は度し難し」ということになり論外である。
「そのようにお考えなのですね。なるほど。私らは仏教をやってますので、考え方は違いますが、お互いに否定せず、尊重し合って仲良く棲み分けていきましょう」と挨拶して敬遠するしかない。
*来世を否定すると……
来世が存在しなければ、現象世界の因果の帰結は今世だけに限られる。死ねば全てが無に帰し、善人も悪人虫けらもおしなべて涅槃を得たのとほぼ同じ状態になる。来世もなければ再生も無いのだから、悪をなそうが汚いことをしようが、悪因悪果が帰結する前に逃げ切った者が勝ちという発想が浮かびやすくなる。それを依りどころに、大量虐殺や粛清を平然と敢行してきた暴君や独裁者たちは星の数ほどいたが、因果が来世に及ぶと知る者には、そんな極悪の出来ようはずがないのである。
因果が否定されれば、悪を怖れず(無愧)、恥を知らず(無慚)、煩悩を抑止する歯止めとなる倫理が失われていく。蒔いた種は必ず刈り取らなければならない。勝ち逃げはあり得ず、来世で必ず報いを受けるし、責任を取らなければならないと理解することによって、人間の残酷さや野蛮さがどれだけ引き算されるか量りしれないだろう。
*過去世を否定すると……
苦しい人生を生きてこられた多くの方々が、不遇な環境に生まれ育ち、幼少期に深く傷ついた経験をされている。長じてからは「自業自得」の業の構造に納得できても、何の罪も犯していない幼児期に虐待や理不尽な扱いをされてきた事実が許せず、怒りや恨みに苦しんできた。
幸福な人生になるか不幸な人生になるか、人の幸・不幸を分ける最大の要因は<ネガティブな過去の受容>である。苦しい過去の経験がゼロだった人はいない。程度の差はあれ、誰もが苦受を受け傷ついてきたし、無傷な心などどこにもないのである。
問題は、ネガティブな経験をどのように認識するかである。苦の経験は真っ平だが、それを嫌悪し否定し、怒りの心で打ち消している限り幸福にはなれないと心得なければならない。腹を立て怒っている状態が幸せであろうはずはない。怒りを感じる一瞬一瞬、新たな不善業が蓄積され、やがて必ずネガティブな苦の経験にも遭遇するだろう。
幸せになりたければ怒りを手放し、否定し打ち消す心を受容する心に転換しなければならない。
*不幸な星の下に
四肢の欠損したサリドマイド奇形児だったドイツ人男性がテレビカメラに向かって怒り狂っている映像を観た衝撃は忘れがたい。
「神はなぜ、俺にこの体を与えたのだ!」と、頭の禿げあがった50代後半の男が激怒し、どれほど苦しい人生を生きてきたか怒鳴り散らしていた。
この方は何十年も、こんな強い怒りを垂れ流して生きてきたのか、と胸を衝かれる想いがした。いかなる理由があろうとも、怒りのエネルギーを出力すれば破壊的な結果がもたらされてしまうのだから、怒るべきではないと伝えたかった。
苦受を経験する一瞬一瞬、不善業が現象化して消えていくのだから、カルマ的な負債が返済されていくのだから、軽くなり、楽になり、これから良くなっていくのだから……、ネガティブなエネルギーを出力するのは止めよう。自分に与えられた運命を甘んじて受け切っていくことができないだろうか、と知らせたかった。
人は心底から理解し、納得し、腹に落ちないことは受け容れることができないものだ。本音では理不尽と感じていることを、いくら赦す、受け容れる、水に流す、と言っても、否定的なエネルギーが洩れ出てしまうだろう。ネガティブな事象を受け容れるためには、納得できる思想が必要不可欠なのである。
*不平等だから公平
誕生時の不平等や理不尽な苦境をきれいに説明できる思想は存在しないと哲学の教授に言われた。科学的な証明はできていないが、仏教には輪廻転生論がありますと答えた。
不幸な星の下に生まれたのは、過去世の不善業の結果が誕生時に反映されたと考えることができないだろうか。なぜ劣悪な人生のスタートになったか納得がいくのではないか。
現象世界を貫いているのは業の法則であり、誰もが蒔いた種を刈り取らされながら、悪因悪果・善因善果の自業自得の世界を生きている。健康も容姿も才能も貧富も親子関係も社会的ステータスも、実に千差万別であり、絶対的な不平等は歴然としている。いかなる環境の下に生を享けるのも、過去世の業によってもたらされた結果なのだと見れば、因果応報の法則は一貫しており、不平等だから公平なのだと理解されるだろう。
*闇から光に……
過去世が否定され、輪廻転生が絵空事として一蹴されてしまえば、後に残るのは永久に受容できない苦しみに対する嫌悪と怒りと怨念である。なぜある者は銀の匙を加えて生まれてくるのに、自分の手足は根元から無いのだ。忌み嫌われ、差別され、不当な扱いを受けなければならないのだ、と死ぬまで呪い続けるかもしれない。
たとえ輪廻転生が真実には存在しない妄想であり戯言だったとしても、自分に与えられた運命を完全に受容して怒らず、恨まず、なすべきことをなしながら生きていくことができるならば、立派な良い人生だったと言えるのではないか。
輪廻は、有るか無いかのどちらかである。
輪廻転生が存在した場合には、苦から苦に向かい闇から闇に向かう流れはなんとしても変えなければならないだろう。嘘と盗みと不倫と聖者冒涜を重ねながら悪の生涯を繰り返してきたような者が、闇から光に向かう決定的な方向転換をなし遂げることができるとすれば、それは懺悔と新しい決意によってである。
無知ゆえに犯してしまった悪は痛切に懺悔し、二度と同じ誤ちを繰り返さずに、五戒を完守して正しく生きていこう、という決意(アディッターナ)が新しい人生の流れをスタートさせるのである。
懺悔の修行はまちがった過去の生き方を断ち切るクサビの一撃なのだ。 (以下次号)