序章
 一. マインドフルネスからヴィパッサナーへ

 (一)マインドフルネス瞑想の功罪

   マインドフルネス瞑想が広く普及し、NHK番組やメディアで喧伝され、関連本があふれ、瞑想研修などのビジネスも盛んになり、瞑想ブームの風潮になってきました。しかし1995年に、私が朝日カルチャーセンターでヴィパッサナー瞑想の講座を始めたころは、オウム真理教事件の影響から瞑想やヨーガにはネガティブなイメージが付着し、危険視されていました。
 例えば、瞑想会の会場予約を申し込むのに「瞑想」という言葉が記載されていると執拗に追及され、借りることができなかったほどでした。瞑想に特化した活動をしている会なのに「瞑想研究所」は表に出さず、「グリーンヒルWeb会」と称して会場を確保せざるを得なかったのです。
 座禅は昔から市民権を得ていたので、「何をやるの?」と訊かれ「座禅会です」と答えると二つ返事でOKが出ました。瞑想者に「Web会」の意味を問われると、「Web」は諸法無我の宇宙網目(cosmic web)を意味し、エゴを乗り超えて無我を目指す人たちの会である、と説明していました。瞑想を隠れてやらなければならない時代に、グリーンヒルは荒野に向かって歩きだしていたのです。

 NHKの影響

 「瞑想」「ヨーガ」「布施」などの言葉は、オウム真理教によって泥だらけにされ口にするのも憚られていました。流れが劇的に変わったのは、2016年にNHK番組「キラーストレス」が放映されてからでした。マインドフルネス瞑想がストレス対策や脳科学の観点から紹介され、大きな社会的反響を呼んだのです。瞑想は危ない・怪しいという従来の印象が一気に払拭され、「マインドフルネス=科学的なストレス対策」という社会的認知が拡がっていきました。
 書籍化された『キラーストレス』が累計25万部のベストセラーになると、書店にマインドフルネス関連書籍のコーナーができ、企業研修や医療現場、教育分野などにも導入が進みました。朝日カルチャー講座の昔の生徒さんが久しぶりに瞑想会に来て、会社の一室に瞑想ルームを作る担当者になったので何かアドバイスを…と求められるような時代になってきたのです。それまで20年間、牛歩のごとくヴィパッサナー瞑想の普及に力を尽くし実践者が徐々に増えてきましたが、ここに来てマインドフルネス瞑想者が爆発的に増大し、またたく間に逆転現象が起きてしまいました。マインドフルネスが世界に及ぼした影響は量りしれないものがありますが、その輝かしい成功の裏に黒い闇の部分も露わになってきています。

 実証された効果

 マインドフルネス瞑想は、米国の生物学者ジョン・カバット・ジンが自身の禅やヨーガ、ヴィパッサナー瞑想実践の経験から1979年に米国マサチューセッツ大学でマインドフルネス・ストレス低減法(MBSR)を教え始めたことに端を発しています。仏教の指導者に修行法と教理を学び、瞑想とハタ・ヨーガと西洋科学を統合させた8週間のプログラムを開発して目覚ましい成果をあげ、世界的な瞑想ブームの立役者となりました。
 中心的な技法は、現在の瞬間に注意を向けるマインドフルネス(=サティ)の訓練によって、後悔や将来不安などネガティブな反芻思考から解放され、ストレスや痛みなどを劇的に軽減させることが科学的に実証されています。ヴィパッサナー瞑想の気づきと、ヨーガの身体動作の運動性と、科学的な理解をうながす講義などが多彩に組み合わされた8週間のトレーニングを受けた人たちに驚くべき変化が見られたのです。
 ストレス軽減、血圧・血糖値の安定、自己肯定感や集中力の向上など多岐にわたる効能が報告されました。例えば、不安症状が58%、抑鬱症状が47%軽減され、慢性疼痛患者の機能障害が42%改善し、喜怒哀楽の情動と認知の橋渡しを司る前帯状皮質の灰白質密度が5%増加したり、従来の薬理的な医療に限界を感じていた患者が「8年間で得られなかった効果が、8週間で得られた」と絶賛したりもしました。
 こうしたマインドフルネス・ストレス低減法の鮮やかな効果が医療や心理学の現場で検証されると、さまざまな分野へ爆発的に普及し、標準的なプログラムとして世界中で採用され、2024年時点で72か国・720以上の医療機関に及んでいます。
 少年院の更生プログラムや教育現場で暴力事件が56%減少したりする事例も多く、これは気づきの訓練が衝動性のコントロールや感情調整能力に最適であることを証しています。ビジネス現場でも、社員の集中力向上やパフォーマンス改善のメンタルヘルス対策として採用され、インテルなど米国大手企業での導入実績はその勢いを加速させました。特にGoogle社の「Search Inside Yourself」のプログラムが離職率を37%低下させ生産性を19%向上させたデータは大きなインパクトを与え、マインドフルネス瞑想が燎原の火のごとく世界中に普及していったのです。

 成功の要因

 なぜ、マインドフルネス瞑想はこれほどの成功をおさめたのかを検討してみましょう。
 最大の要因は、ヴィパッサナー瞑想から倫理性を排除し、「今この瞬間の気づき」というサティの技法に絞り込んで、誰でも実践できる体系的なプログラムにしたことです。宗教的要素を抜くことによって、企業や学校、医療現場、スポーツ界など、どんな分野にも抵抗なく導入可能となり爆発的に普及していったのです。仏法僧への三帰依をして五戒を守るのが前提の仏教の瞑想では、このような幅広い層に受け入れられることはあり得ないでしょう。
 私が瞑想を教え始めた当初は五戒の厳守を強調していたので、「酒や覚醒剤や麻薬を摂らない」5番目の戒に多くの人がつまずき、酒か瞑想か、と二者択一を迫られると、酒を選んで瞑想会に来なくなりました。世界中の人が酒を飲み、嘘をつきながら不倫をしているのですから、倫理を強調すれば瞑想が敬遠されてしまうのも当然でしょう。
 それ以上に、医療や学問の世界では中立性や公平性を重んじるため、宗教色を抜き、文化的抵抗感をなくして万人に開放したことによって、マインドフルネス研究が加速されていったことも見逃せません。瞑想の学問的研究が急速に進み、2024年現在、臨床研究に関する6200件余の論文がマインドフルネス瞑想の効果を支持しています。fMRI(機能的磁気共鳴画像法)やEEG(脳波計測)で瞑想中の脳の活性化が可視化され、神経科学的な裏付けによる客観的説得力が効果への信頼を高めることになりました。

 技法の統合とメディア

 マインドフルネスの科学的エビデンスは、つまるところサティの気づきの威力に集約されますが、ジョン・カバット・ジンがストレス低減の8週間プログラムに多彩なテクニックを盛り込んだことも目覚ましい効果の得られた一因でしょう。
 個別面談で不安や疑問を解消し、ストレス反応を脳科学的に解説し、ゴエンカ式のボディ・スキャン技法と歩く・座る・食べる瞑想を実践し、マインドフル・ヨーガもあれば、ストレス解消の3分間呼吸法もあり、相手の話を評価せず受け止めるマインドフル・リスニングや、自分の反応パターンを可視化する役割プレイ、ホームワークのストレス日記の作成、グループ・ディスカッション…と、実に多彩な技法が盛り込まれています。
 目的は明確で、ストレスの構造を理解し、注意制御能力を向上させ、自己受容を促進するために、個別面談と瞑想実践と講義とディスカッションによって総合的に心の変容をうながすのです。しかも8週間という長期プログラムなのだから、効果が出やすいのも宜なるかなです。
 さらに、実際に試みたハリウッド女優や起業家たちの体験談が喧伝され、 Forbesやニューヨークタイムズが「科学的安らぎ」として報道し、前述のNHK「キラーストレス」番組など、メディアが果たした意識改革は新しい潮流を作り出し、社会に広く浸透させました。また、スマートフォンのマインドフルネス瞑想アプリやオンラインセミナーなどデジタル時代の普及戦略も万人受けするツールとして成功の大きな要因となっているでしょう。

 マインドフルネス瞑想の光と闇

 マインドフルネス瞑想が現代社会にもたらした恩恵は、誰も否定できるものではありません。上述したストレスや鬱病、不安障害、慢性疼痛などの症状に対する効果は臨床的に繰りかえし確認されており、薬物に頼らず自己調整機能を取りもどす手法として、アメリカ国内だけでも22億ドルの経済効果を生み出したともいわれています。
 その輝かしい成功の要因は、脱宗教化による普遍性と多様な技法の統合、 科学的エビデンスの可視化、メディアの後押し、デジタルツールの市場戦略、等々の相乗効果だったといえるでしょう。複合的ですが、多彩な技法のミックスは気づきの力を強化させるためであり、そのサティの効果を実証したものが科学的エビデンスとして蓄積され、それに付着したものがメディアの後押しやデジタル市場の繁栄に過ぎません。つまりマインドフルネスの成功は、<脱宗教化>と<サティの威力の実証>の2点に集約されます。
 気づきによってネガティブな反応を止める効果は、ヴィパッサナーもマインドフルネス瞑想も同じです。同じ技法なのに、マインドフルネス瞑想だけが爆発的に普及したのはなぜでしょうか。
 脱倫理化によるストレス緩和技法の普遍化に絞り込んだからです。
 マインドフルネス瞑想の大成功は、悪を抑止する倫理的規制を撤廃することによって「戒→定→慧」の三学を骨抜きにし、技法の大衆化に徹したからでした。そして、その眩い光の影には、怖るべき凶器のような闇が拡がってもいるのです…。(つづく)