「月刊サティ!」2005年1月~2005年5月号に掲載されました。今月はその3回目です。


 疲れてくたくたになったと感じたとしても、瞑想をし続けなさい。あなたの心を呼吸にとどめなさい。深呼吸を数回してから、「ブッダ」というマントラを使って心を呼吸に定着させなさい。この修行を習慣にしなさい。より強い疲れを感じれば感じるほど、あなたの集中力はより微細になり、より集中するはずです。その結果、生じてくる苦痛にうまく対処することができるようになります。疲れたと感じ始めたら、全ての思考を中断し、心を集中させ、それから呼吸を見ることに心を向けなさい。心の中で「ブッダ、ブッダ」とマントラを唱え続けなさい。
 外側のものは全て手放しなさい。子供や親族に対する思いをつかんではいけません。手放しなさい。心を一点に集め、その落ち着いた心を呼吸にとどめなさい。ただ呼吸だけを認識の対象としなさい。心がどんどん微細になるまで集中しなさい。やがて、感覚は些細なものになり、大いなる内的明晰さと覚醒が生じます。すると、苦痛が生じても、自然と徐々に消滅して行きます。ついには、親戚が訪問しに来たかのように呼吸をみなすようになります。
 親戚が帰るとき、彼に従って外に出て見送りをしますね。歩きであれ、車であれ、彼が視界から消えるまで見送ってから家の中に戻ります。呼吸についても同じように見つめます。呼吸が粗ければ粗いと知り、微細なら微細であると知ります。私たちは呼吸がどんどん微細になるのを追いかけ続け、それと同時に心を覚醒させ続けます。ついには、呼吸は完全に消え、残るのは覚醒の感覚だけになります。
この状態を「ブッダに会う」と呼んでいます。私たちは、知者であり、覚醒者であり、光明である「ブッダ」と呼ばれる明晰な覚醒を手に入れます。それは、智慧と明晰さを有しながら、ブッダと会い、ブッダととどまることです。というのは、パリニッバーナ(般涅槃)※に入られたのは、血と肉を持つ歴史上のブッダだけだからです。真のブッダ、明晰で輝く智慧のブッダ(覚者)を、私たちは今日でも経験し、体現することができます。そして私たちが体現すると、心はひとつとなります。
 ですから、手放しなさい。すべてを、知ることを除くすべてを肩から下ろしなさい。瞑想中、心の中に映像や音が生じたとしても騙されてはいけません。そうしたことはすべて下ろすのです。決して何かをつかんではいけません。ひたすらこの気づきと共にとどまりなさい。過去や未来の事で悩んではいけません。ひたすら落ち着いていなさい。そうすれば、進むことも無く、戻ることも無く、とどまることも無い場所、つかんだり執着するものが何も存在しない場所に到達します。それはなぜでしょう。なぜなら無我だからです。「私」も存在しないし、「私のもの」も存在しないからです。すべて去ってしまいました。ブッダは私たちに、「このようにして中のすべてをあけて空っぽになり、何も持ち歩かないようにしなさい」とお説きになりました。これから知ることも、すでに知ってしまったことも手放しなさい。
法――生と死の輪廻から解放される道――に気づくことは、私たちの誰もが独りでしなければならない仕事です。ですから、手放そうとし続け、教えを理解しようとし続けなさい。静かに思いめぐらすことに、本当に努力を傾けなさい。家族のことを心配してはいけません。あなたの家族は、現在は若くて元気ですが、 将来にはあなたのようになるのです。この運命から逃れられる人はこの世に誰もいません。
ブッダは私たちに、「本当に永続する中身を持たないものはすべて下ろしなさい」とお説きになりました。あなたは、すべてを下ろせば、真理を理解するでしょう、下ろさなければ真理を理解することはありません。それが物事のありようです。そして、これは誰の場合でも同じです。ですから、心配してはいけませんし、何かをつかんでもいけません。
 自分が考えていることに気がついたとしても、賢明な考え方をしている限りそれはそれで良いのです。愚かな考え方をしてはいけません。自分の子供について考えるとすれば、智慧を持って考えなさい。愚かさを持って考えてはいけません。心が何に向かおうとも、智慧を持ってそのことについて考え、知り、その本質に気づきなさい。あなたが知恵を持ってあることを知れば、それを手放しても苦は生じません。心は明るく、楽しく、平安で、散漫さに向かうことはありません。心は統一されています。今の瞬間、助けを求めて頼ることができるのはあなたの呼吸です。
これはあなた自身の仕事であり、他の人の仕事ではありません。他の人には他の人の仕事をさせておきなさい。あなたにはあなたの義務と責任があり、あなたの家族の義務と責任を引き受ける必要はありません。他のものは何も引き受けてはいけません。すべてを手放すのです。そのように手放すとあなたの心は静かになります。今あなたに課せられた唯一の責任は、心を集中させ、心を平安に導くことです。他のことはすべて他の人に任せなさい。形、音、香り、味――こうしたものに集中するのは他人に任せておきなさい。すべてを置き去り、自分の仕事をし、自分の責任を果たしなさい。心に何が生じても――苦痛の恐怖であれ、死の恐怖であれ、他の人に関する不安であれ何であれ――こう言いなさい。「私に構わないでくれ。お前はもう私には関係無いんだ」と。こうしたダンマ(法)が生じるのを見たときは、ひたすら自分にこのように言い続けなさい。
「ダンマ」という言葉はどういう意味なのでしょうか。すべてはダンマ(現象)です。ダンマでないものはありません。では、「世俗」とはどういう意味でしょう。世俗とは、この瞬間にあなたを動揺させている心の状態です。つまり、「この人は何をするのだろうか。あの人は何をするのだろうか。私が死んだら家族の面倒は誰が見るのだろうか。家族はやっていけるのだろうか」。こうしたことすべてが「世俗」なのです。死や苦痛を恐れる気持ちがただ生じることですら「世俗」なのです。
世俗を捨てなさい。世俗とは今のあり様です。世俗が心に生じ、意識を支配することをあなたが許してしまうと、心は曇り、心は自分自身を見ることができ無くなります。ですから、心に何が生じようとも、ただこう言いなさい。「これは私には関係無い。これは無常であり、苦であり、無我である」と。

長生きしたいと考えると、あなたは苦しみます。しかし、すぐに死にたいとか、死ぬときは一瞬にして死にたいと考えることも正しくありません。これも苦ですね。諸々の状況は私たちのものではなく、それ自身の自然の法則に従います。肉体のあり方についてあなたは何もできません。若い女の子が口紅を塗ったり爪を伸ばしたりするように、しばらくの間、肉体を飾り立てたり、魅力的に見せたり、清潔に見せたりすることはできますが、老いると誰でも同じ運命になります。それが肉体のあり方であり、それを変えることはできません。しかし、あなたが向上させ、美しくできるものがあります。それは心です。

 誰でも木とレンガで家を建てることができます。しかし、ブッダは、「そうした種類の家は私たちの『真の家』ではなく、名目上私たちのものになっているにすぎない」とお説きになりました。それは世俗の家であり、世俗の法則に従います。私たちの「真の家」とは内的平安です。外的な物質の家は確かに素敵かもしれませんが、それほど平安をもたらすものではありません。
こういう心配ごとがあるかと思えばああいう心配ごとがあり、こういう不安があるかと思えばああいう不安もあります。
 ですから、世俗の家は私たちの「真の家」ではなく、私たちの外側のものであり、遅かれ早かれ私たちはその家を捨てなければなりません。なぜなら、それは私たちのものではなく、世俗のものだからです。私たちの肉体も同じです。私たちは肉体を「我」であり、「私」であり、「私のもの」だと思っていますが、実際はそんなことはまったくありません。肉体もまた別の世俗の家なのです。(つづく)
※般涅槃:全面的な解脱。阿羅漢の死によって、五薀が完全に停止すること。
Ajaan Chah「Our Real Home」よりまとめました。
(文責:井上雅哉元編集長)