1.はじめに
 今日は「赦し」のための瞑想についてお話しようと思います。
 ヴィパッサナー瞑想のキーワードは、あるがままに観ていくことです。快情報も不快情報も、快感も苦痛も、どちらにも等しい距離感を保って、淡々とサティを入れていくことです。苦楽に反応しないで静観し続けるということは、どのような現象もありのままに受け入れていくのと同じでもあります。これが、サティの瞑想の基本です。
 しかし、一瞬一瞬心に届いてくる情報というものは、どちらかというとネガティブで不快な情報が多いのです。瞑想中であれば、うるさい音が聞こえる。足が痛くなる。お腹が空いてくる。血糖値が下がればとろーんと眠気に襲われる。さらに心を過る雑念や妄想も圧倒的にネガティブなことが多く、嫌なことを思い出せば心は暗くなります。
 このように、私たちの日常生活では、ネガティブで不快な情報が多く、「一切皆苦」と言いたくなるのも無理からぬことです。苦を嫌うのは当たり前だし、受け入れたくはありません。苦はイヤだし、排除したいし、否定したいのです。人間にとってこの否定する心というのは、ほとんど基本搭載ではないかと思われます。
 実際に、「嫌悪」の数を朝から晩まで数え続けた人がいます。どんなわずかでも嫌悪の気持ちが立ち上がったらカチッ、カチッとカウントしていきました。すると、朝の目覚めから「起きたくない」と嫌悪が出る。寒ければ嫌悪、暑くても嫌悪、腹が減れば嫌悪、食べ過ぎたと後悔し嫌悪、一日中嫌なことだらけで、道を歩いても電車に乗っても膨大な数の嫌悪がラッシュで出てきたそうです。
 もちろん、時には嬉しいとか、楽しいとか、気持が良い、など幸せを感じる快感系の情報もあります。そんな情報にはつい執着してしまいますが、実際にカウントするまでもなく、私たちの周りには不快に感じる情報の方が圧倒的に多いのです。
 私たちの瞑想の現場ではどうでしょう。不快な情報が入ってくれば「音」とラベリングしながらも「うるさいな」という気持ちが入っているし、「眠気」とラベリングしながら実は眠気にイライラしているという具合に、とてもニュートラルな心で苦楽を等価に観じきっていくどころではありません。一応サティは入っていても、反射的なエゴの反応が立ち上がり、執着も出れば嫌悪も出ていて、純粋にセオリー通りのヴィパッサナー瞑想にはなっていないことが多いのです。
 このような面からも、ネガティブな現象を受け入れるというのは大きな課題であり、今回のテーマである「赦し」がたいへん重要になってくるのです。

2.「赦し」について
 「ゆるし」にはいろいろな字があります。まず許可するという意味の「許し」があります。「恕」という言葉もあります。寛恕というように、心が寛く(広く)過ちを咎め立てないでおおらかに「ゆるす」という意味で使われています。カルナー(悲)の本質である憐れみの優しさが入っているようにも思われます。情け深くて思いやりがあり、どんな子でも受け入れてしまう母性の優しさのように、相手を憐れんで「ゆるす」というニュアンスの時にこの恕を使うようです。
 一方、恩赦とか赦免という言葉で使われる「赦」の方は、罪科などマイナスの度合いが強いものを「ゆるす」という意味合いが濃いように思われます。これは、ヴィパッサナー瞑想の根本にも関わることで、非常にネガティブで嫌なことをいかに「赦せるか」、つまり受け入れられるかというのは、怒りの煩悩を根本的に乗り超える課題にも直結しています。
 対象を嫌い、否定し、赦せない、受け容れられないというのは、怒りが強烈に働いているということです。つまり、他人を赦し、自分を赦し、あらゆるネガティブなものを受け入れる「赦し」の瞑想は、怒りの煩悩を根絶やしにする修行でもあり、仏教の究極とも言うべき煩悩をいかに滅尽させるかのテーマに通じているのです。

3.ネガティブなことに対する反応について
 ところで、ネガティブなことに対して人はどのように反応するかというと、大きくは逃避、代償、赦しという三つがあると思います。まず逃避と代償について観てみましょう。

(1)逃避
 一つ目の逃避。嫌なことがあった時に、それを直視して受け入れるという厳しい選択をするよりも、そこから逃げてしまえば傷つかないし、心は平安で落ち着いていられる、それは結構なことだということで人は逃避します。
 この逃避反応が典型的に現れるのは抑圧している場合です。ネガティブな現実に対する嫌悪感は自分の心の中のことですから逃げ出すことはできません。ですから抑圧して無いふりをします。そうすると、一応、表面上では心の傷などは顕わには観えていない状態になりますが、これも逃避の一形態に過ぎません。
 逃げ続ける人生というのはある程度は可能でしょうが、どこまでも逃げ切ることはできず、やはり最終的には不可能です。真実の状態に目を背けながら逃げていれば、当然苦の度合いは増していきます。そして、ついに逃げ切れなくなり、負債も利子もまとめて強制徴収されるかのように、どうしようもない苦境に陥っていくのです。無責任に逃げ続けてきたツケはどこまでも追いかけてきますから、返すべき負債はきちんと返し、やるべきことは必ずやらなくてはならなくなるの業の世界です。自分では気づかずに、あるいは気づきながらも抑圧することで逃避する人が少なくないのですが、長い目で見ればまことに愚かな選択をしてしまっていると言えるでしょう。

(2)代償
 二つ目は代償です。受け入れがたい嫌なことがあり、解決もつかないし逃避もできないとなると、それに取って代わる価値あるものを手に入れて「良し」とする発想です。
 例えば、運動神経が劣っているというコンプレックスがあるとしましょう。そこで勉学の方で頑張って見返すことができたとしても、スポーツが不得意という劣等感そのものが完全に乗り超えられたわけではありません。もちろん勉強を頑張ること自体はたいへん結構なことですが、それでスポーツで負けた悔しさや屈辱感が根本的に無くなったかというと、そういうわけにはいかないのです。それはスポーツ以外の何か優勝劣敗のある世界で勝利を得たという話であって、運動コンプレックスが根底から解放されたわけでもなく、やはり最終的な解決とはなり得ません。
 この代償を求める行為は非常に多くの人が行なっている茶飯事で、いくらでも例を挙げることができるでしょう。本当にイヤだと思っているコンプレックスやネガティブな現実は結局受け入れることができず、過ぎ去ったことでも終りにできません。肝心のことに終止符が打てないまま、その代わりの代償をいくら得ても、それで本心が納得するはずもなく、自分は幸せなのだと思い込ませることはできないでしょう。程度の差はあれ、誰でもこうした代償の経験があるのではないでしょうか。
 心の底から完全に解放された状態にならない限り、心が翳り、本当の幸福を味わうことができません。代償によって勝利感や達成感や優越感に浸っても、虚しさが残り、心の中の傷は癒えないままだからです。やはり代償は正解にはなり得ません。

 ① マリリン・モンローの場合
 かつてダンマトークでマリリン・モンローの例を取り上げたことがあります。彼女は皆さんもご存じのように歴史に残る大女優で、ケネディ大統領やその弟の司法長官からも愛されました。2度目の結婚相手はジョー・ディマジオというベーブ・ルースに並ぶ野球の殿堂入りをした大リーガーで、50試合以上連続ヒットなどの記録を打ち立てた名打者です。
 また彼女は、アーサー・ミラーという有名な劇作家とも結婚し、多くの浮き名を流した銀幕の歴史に残る女優として大成功を収めました。けれども私は、結局彼女は幸福な人生ではなかったのではないかと思っています。
 それは、彼女の生い立ちに起因していると言えるかもしれません。お父さんが誰だかわからないような父無し子的な要素もあり、また母親が精神病院に入ってしまって彼女の養育がうまく出来なかったせいもあるでしょう。そのために、あちこちに養子に出され、しかもそこで虐待があったり性的な暴力があったり、あるいは養子に対する政府からの補助金目当てに次々とたらい回しにされたようです。これでは幸せな少女時代とは言えません。しかも15歳でレイプされ最初の子供を産んだという説さえあります。16歳で結婚して4年ほどで別れ、その後は苦労しながらやっと大スターにはなりました。
 大スターになってからも、彼女は狂ったように役柄に没入したようです。自分ではない者になろうとする情熱ゆえに一途に努力し、結果的に女優としては成功したのかもしれません。
 印象的なエピソードですが、彼女が自分の母親と非常に境遇が似ている役をやった時のこと、1シーン撮るたびに吐いていたそうです。演じるたびに思い出して吐き気を催して吐くという、それほど嫌だったということでしょう。それくらい母親のことを受け入れていなかったのです。これによって、彼女が母親に対してどのような認知を持っていたかは想像がつくというものです。
 最期は自殺と言われていますが、そうではなく殺された、口封じをされたとも言われました。表面の華やかさとは裏腹に、本当の幸福からは見放された、一種哀れな人生だったようにも思えます。
 いくら有名になっても、どれだけ喝采を浴びても、本当の自分と折り合うことができなければ、自信も自己肯定感も得られません。あるがままの自分を肯定し受け容れることができなければ、人と心から愛し合うこともできないでしょう。結婚離婚を何度繰り返しても真の安息は得られず、華やかに言い寄られいくらチヤホヤされても、心は渇いたまま孤独なのではないでしょうか。名声を得ても巨万の富を手中におさめても、それが何かの代償である限り、心底から満足することも、与えられた全てに感謝することも、真の幸福感を味わうこともできないのではないでしょうか。

 ② ジェーン・フォンダの場合 -1- 摂食障害
 もう一人似たような境遇ですが、マリリン・モンローとは対称的なハリウッド女優、ジェーン・フォンダの場合を見てみましょう。彼女のお父さんはヘンリー・フォンダという名優で、弟はピーター・フォンダという俳優です。
 映画界のサラブレッドのような家族で、弟のピーターは『イージーライダー』という一世を風靡したアメリカの若者に熱狂的に支持された映画に出演、ジェーン自身もアカデミー主演女優賞を2回取っています。他にもゴールデン・グローブ賞などたくさんの賞を取っていて、押しも押されもせぬ超一流の女優として大成功をおさめています。
 そのほか、世界でベストセラーになるほど膨大な本数のエクササイズのビデオテープを製作する一方、ベトナム反戦運動などの政治的、社会的な活動もしています。離婚したものの3回結婚し、子供も産み、誰が見ても圧倒的に輝かしい個人史を持つ女性です。
 ところが、そんな大スターの彼女は、40歳を過ぎても食べては吐く、食べては吐くの繰り返しをしていたそうです。なぜそのようなことをするのか、彼女自身がこのように言っています。
 「私の摂食障害は完璧という不可能を求めていたことの裏返しで、食べ物を体に『入れる』ことで、自分の中の空虚を埋めようとしていたのだ」(『ジェーン・フォンダ わが半生』下 ソニー・マガジンズ、2006)
 とにかく自信がない。これだけの業績をあげてあらゆる分野で大成功をおさめていても、自信がないのです。虚しいので食べ、いくら体に食物を詰め込んでも虚しさは埋まらず、その心の空虚感を埋めようとしてさらにまた食べては吐く、食べては吐くという繰り返しになる。そんな食べ吐きを12歳で覚えて、40歳を過ぎてもやっていたというわけです。
 彼女の摂食障害の原因の一つは父親との関係にあります。父親であるヘンリーは結婚を5回もしていて、ジェーンに対してまったくと言っていいほど無関心だったそうです。それでよくある話ですが、お父さんに認めてもらいたい、完璧にならなければ愛されないと思い込んだ。それが、彼女が完璧主義になった原因です。彼女の生きづらさには父親に愛されたいという欲求が大きな要因としてあるように思われます。
 二つ目の原因は、母親との関係です。彼女の母親は躁鬱病などの精神病で入退院を繰り返していたような人で、ジェーンが12歳の時に入院していた病院から一時帰宅で家に帰ってきます。その時ジェーンは弟のピーターと2階でお手玉のような遊びをしていたのですが、なぜか母親に会いに行きませんでした。その間に、一人になったお母さんはカミソリで自殺してしまったのです。母親が自殺して亡くなっていくその2階で彼女は遊んでいた……という衝撃的な事実もトラウマになっていたそうです。
 母親の自殺の原因は父親の浮気だったそうです。そのため父親との関係もまたこじれてしまいました。母親に対する罪悪感と父親に対する不信感があいまって、「自分はダメな人間だ」「完璧にならなければ愛されない」という思い込みを抱くに至ったのです。
 結局、62歳までこの問題は乗り超えられませんでした。逆に言えば、62歳で乗り超えられたことになります。この例からも、どれだけ成功しても、自分自身を赦し受け容れることができなければ幸せではないことがわかります。ジェーンの成功も代償に過ぎなかったのです。
 ジェーン・フォンダとマリリン・モンローが似ているのは、生い立ちが与えた影響です。幼少期の幸せとは言えない家庭環境や、そこで受けたネガティブな体験を完全に受け入れて乗り超えることができないまま、存在の確証と真の自信の替わりに賞賛と喝采を求め、銀幕の大スターになっていきました。
 私たち一般人には、アカデミー主演女優賞を2回も取り、経済的にも大きな成功をおさめ、子供も生み、社会活動にも参画し、富も名声も美貌もゲットしている輝かしい完璧な人生にしか見えないのに、そのいずれもが、もっと大事なものの代償でしかなければ、心は渇いたまま満たされず、自分の無価値感と戦いながら食べ吐きをやめられなかったのだ……と嘆息が洩れます。代償は虚しいものだという事例としてこの二人の女優を挙げました。(続く)