Ⅲ.赦すためには
1.大人になる
「渇愛」がさらに強烈な執着である「取(ウパダーナ)」に発展すれば業が確実に形成され、やがて相応の異熟(業の結果)を得ることになるでしょう。
仏教の基本的な理論からは、「取」に発展する前の「渇愛」(taņhā:タンハー)が、苦しみの根本原因と言われます。「渇愛」が不善業を作るからです。その「渇愛」が「取」にエスカレートすれば決定的だということです。
怒りは、対象を否定する、嫌うという心から始まります。「嫌う」という心は、実は、気に食わない対象に強く執われ、ネガティブに掴んでいる状態なのです。つまり怒りは、ネガティブな渇愛なのです。忌々しい対象を消し去りたいと心が渇いているのです。喉がカラカラの人が水を求めるように、叩き潰してやりたい、打ち消したいと強く囚われているということです。
この怒り系の渇愛が「赦せない」という心の状態になり、その自己中心的な見方を頑として譲らないところに苦しみの根源があるわけです。
ヴィパッサナー瞑想は貪瞋痴という煩悩をなくしていく瞑想ですが、怒りの超克は最も大きな目標になっています。絶対に赦さないと怒り続けている限り、思い通りにならない苦しい人生を生きていくしかないのです。怒りは、苦の原因と心得なければなりません。赦せないものが赦せるようになり、受け容れることができるようになっていくプロセスが、心の成長です。
心が成長していない人は、つまりお子様ということです。自分の立場に執着してかたくなにワガママを言い立てる人を見ると、まるで子供のようだと言うでしょう。子供は概ねものの見方を変えることができないし、また自己中心的な立場を捨てることもできません。そして、それができるようになった状態が成熟した大人です。
大人というのは、たとえ完璧にエゴを捨てられなくても、一歩引いてものごとを見られるはずです。子供の喧嘩に大人は取り合いません。自分の視座からしかものが見えず、断じて赦せなかったものが、もし赦せるようになり受け容れられるようになったなら、それが大人になるということです。
自分の視座から、相手の視座や全体を客観的に俯瞰する視座に自在に転換できるならば、人間関係の持ち方が格段に優れたものになり、それにつれて問題も起きなくなってくるでしょう。
2.仏教の価値観を受け入れる
では、こうした道に進むために、どんなやり方があるでしょうか。
まず、これまでこだわってきた自分の信念や立場を乗り超えようとする気持ちが大切です。頑固に自分の視座にこだわってきたので、諸々の問題が起きていたのですから。
自己変革の第一歩として私がお勧めしたいのは、仏教の基本的な価値観に基づいて判断し対応してみることです。しょせん猿知恵に過ぎない卑小なエゴの視座や考え方を一変させるのに、明確で具体的なマニュアルとなるはずです。
では、仏教の価値観を採用するということは具体的にはどういうことでしょうか。最も基本的なところでは五戒をしっかり守ることです。①生命を傷つけない。②与えられていないものを取らない。③間違った性関係を持たない。④偽りを語らない。⑤酒や麻薬のような理性を失わせるものを摂らない。この5つです。これを受け入れ、生き方の基軸にするだけで、たちまち反応が変わるでしょう。これまで繰り返してきたエゴの立場からの反応とは正反対だからです。生命というものは貪瞋痴の煩悩を基本原理にしており、人間もまた利己的な欲望と怒りと愚行に基づいて生きてきたのです。
五戒を守るということはその煩悩に逆らうことでもあるので、従来の反応が一変したという印象を受けるかもしれません。五戒は他者に苦しみを与えないことですから、その本質は他者を思いやる優しさです。今まで愛と優しさをもらうばかりだった子供が、与える側の大人になる第一歩と言ってよいでしょう。
3.劣等感の克服
こうした積極的な行ないと並んで、「赦す」ことができるためにもうひとつ大事なことがあります。それは心の中にある劣等感の克服です。私たちは自分以外の他者の立場も考慮し、受け容れていかないと社会生活が成り立ちませんが、その許容の幅が狭くなるのは、自分自身の内面に強いこだわりがある時なのです。
「断じて赦せない」と熱くなってしまう原因は多くの場合こちら側にあって、自分の中の嫌な部分を相手の中に見たりしたときに過剰に反応するのです。例えば、自分がだらしない性格だと思っている人は、「きちんとした人が赦せない!」とはあまりなりません。そのかわり、部屋の中を乱雑にしているだらしない人を見ると思わずムカつき「なんだ、アイツは……赦せない!」というふうになりがちです。
ケチな人に出会ったとき、気前のよい人は「へえ、こんな人もいるんだ」とキョトンとするだけですが、自分もケチで、そのことに自己嫌悪を感じて嫌でならない人は大変です。「あのドケチめ!」と激しく反応してしまうのです。赦せないのは、そのとき出会った吝嗇な人ではなく、自分自身なのです。自己嫌悪するエネルギーが相手に投影されている状態です。ずうずうしい人は、ずうずうしい人が嫌いです。大言壮語ばかりしている人は、大ぼら吹きの人が赦せないし、体面ばかり気にしている人は、ええカッコしいの人がムカついて赦せません。
自己嫌悪の心を抑圧しているので、自分の本当の姿をありのままに認めることができないのです。心理学で「シャドー(影)」と言いますが、自分の事実が外に投影されて激しくそれを嫌うようになるということです。こうした心理構造は誰にでもありますから、「あの人が赦せない!」と強く反応した時には、「本当は自分のことが赦せないのではないか?」と問いかけてみる習慣をつけるとよいでしょう。
私たちはおしなべて、自分とあまり関係がなければ不愉快ではあってもまあなんとか赦せるものです。しかし、自分のコンプレックスを刺激するようなことになると、過剰に反応して赦せなくなることが多いのです。
4.不善心所を直視する
在家の瞑想者には、自分の汚れた心をありのままに随観していくあたりが、サティの瞑想の正念場と言ってよいでしょう。サティの瞑想は、歩く、座るなどの身随観から始めますが、次に身体動作から自分の心の随観に進むのが基本です。心随観が始まれば、どなたも必ず嫌悪や怒りや嫉妬など、あるがままに承認したくない心を観ることになり、心を直視するのがだんだん難しくなってきます。そして目を背けて、一刻も早く逃げ出すような感じでラベリングするようになることがよくあります。そうなると、気づきはできていても、「ネガティブな自分の心を潔く承認する」という核心部の仕事がうまくできないまま、取りあえずラベリングしてしのいでいるような状態になります。
怒りの状態が良いとは誰も思わないし、嫉妬や高慢、物惜しみ、そういったものを直したい、無くしたくて瞑想を始めているはずなのに、いざそうした現実が立ち上がってくると、あるがままに認めるのがどうしても嫌だし辛い……。「私の心は今この瞬間、真っ黒だ」「残念ながら、これが事実なのだ」と認める瞑想なのに、反射的に目を逸らし、プライドが傷つかない当たり障りのないラベリングでごまかしたくなってしまう。真実の自分を受け容れることができないのです。
「赦し」とは、受け容れたくないものを受け容れる修行と言ってもよいでしょう。今の瞬間も過去のことも同様であって、今を認められないことは過去も認められないし、過去の事実を認められなければ今の事実もまた認められないということです。傷つきたくないし、プライドを守りたいし、自分の見たいものだけを見て、真実は受け容れたくないという反応が立ち上がってしまっている状態と言えるでしょう。
瞑想を実践していけば、こうした反応は、実は心の随観ばかりではなく、六門に入る情報に対しても同様であると気づくはずです。騒音や雑音が耳につけば「うるさい!」と嫌悪が出るし、足が痛くなり始めれば反射的に舌打ちして嫌がっているのです。
嫌悪が出る前に「音」とサティを入れ、「痛み」のラベリングでネガティブな反応が止まる、というセオリー通りのカッコよい瞑想はなかなかできません。嫌悪しても「嫌悪している」と気づいてそのまま見送ることもできるのですが、それは「こんな音や痛みに自分は嫌悪しているんだ……」と、嫌悪した事実をありのままに認めて、受け容れる心があったからです。
これがなかなか難しいのです。嫌なものをあるがままに認めるには、どうしてもエゴイスティックな視座が変わらなければなりません。いきなり正解を組み込むのではなく、まず自分のネガティブな部分を認めるという作業がなされるべきなのです。事実なのだからありのままに認めて、ネガティブな自分自身を受け容れる練習です。
これが「赦し」の修行です。
5.受け容れる精神
サマタ瞑想は、崇高なものや快いものに集中する営みなので、修行そのものが楽しいものです。しかるに、ヴィパッサナー瞑想は「心の便所掃除」と称されるくらいで、嫌なことにサティを入れることの方が多いのです。飽きてくる、痛くなってくる、集中できなくてイライラする、眠気が来る、妄想が多発してうまくいかない、嫌悪から怒りになる……。そんな状態が頻発します。心をきれいにする作業に取り組みながら嫌悪だらけなのです。
しかしここが踏ん張りどころです。繰り返しますが、嫌悪や怒りが立ち上がってきた事実は事実としてありのままに認めることがとても大事です。この難事業をやり遂げるには、過去に自分が犯したあやまちや自己中心的だった振舞い、相手は少しも悪くはないのに一方的に傷つけてしまった後悔……など、否定すべき過去を潔く認めて受け容れることができなければなりません。過去の自分を赦せなければ、その延長にしか過ぎない今の自分を赦し、受け容れることはできないのです。
そして、ダメな自分が赦せなかったら、人を赦すこともできないのです。愚かで、どうしようもない自分でも、人間なのだから優しく受け容れてあげる。これから立派になっていけばよいのです。自分を赦せるから、他人を赦すことができるという結果につながっていくのです。
6.生き方を変える決意
このようなことを強調したのは、長年の経験から、ただサティの技術だけを洗練させていこうとしても限界があると確信しているからです。今まで生きてきた人生の中で、ものの考え方や生きる指針となる価値観、習慣的な行動パターンをそのまま温存させながら、サティの技術だけを繰り返し修練しても、根本的に心をきれいにすることはできません。心をきれいにしよう、成長させよう、具体的な営みとして心の反応パターンを変えていこう、という明確な決意をもって正しい方向を目指していかない限り、心が変わることはないでしょう。明確な決意の力に支えられたサティの瞑想が威力を発揮するのです。
心を浄らかにする清浄道の瞑想をするには、生き方が根本から問われることになるでしょう。今までの生き方とは違う生き方を選ぶのか否かという覚悟です。
Ⅳ.反応の浄化
では、どうしたら反応をきれいにし、また赦せるようになるのでしょうか。どんなやり方があるのか具体的に見ていきましょう。
1.懺悔の瞑想
まず赦しの瞑想に必要不可欠なのは、懺悔の瞑想です。私たちは過去に過ちを犯さなかった人は誰ひとりとしておりません。その自分を赦して受け容れる瞑想として最重要なのは、まさに懺悔の瞑想なのです。
過去を受け容れられず引きずっている時、それに終止符を打つには心の儀式が必要です。その過ちを認めて「二度と同じ過ちを繰り返さない」「これからきれいに生きていくので赦してください」と心の中で謝罪し、それをしっかり誓って終わりにするのです。過去から未来に意識の矢印を切り換えるのがポイントです。懺悔の瞑想というのは過去から解放されるために非常に重要な瞑想なのです。
特に自己嫌悪や自己否定感覚の強い方は、ネガティブな過去に目が向きがちなので、懺悔の瞑想が大事になります。人を赦す前に、自分を赦さなければなりません。自分がいったい何に囚われていて、いまだに何を赦せないのかを明確にするのです。その過去の過ちや失態や後悔の種から目を背けずに、はっきりと認め、事実は今さら無かったことにはできないのだから、これからそれを償っていく。あるいはきれいな生き方をしていくので赦してください、と過去に訣別するための心の儀式を行なうのです。
見るべきものをしっかりと見て、事実は事実として潔く承認し、今後は二度と同じ過ちを繰り返さないので赦してください、と心から謝ることによって終わりにしていくのです。過ぎ去ったことから未来に目を向けていくために、こうした懺悔の瞑想によって心を整理するということです。
ネガティブな過去の自分から解放されなければ、いつまでも過去に囚われ、未来への新しい一歩が踏み出せません。ところが、過去に向き合おうとせず、慈悲の瞑想だけをやりたがる人がとても多いのです。なぜかというと、自分の中に罪悪感や自責の念があるので、どうしても頑張って慈悲の瞑想をやりたくなってしまうのです。しかし、無意識に自分を責めたり罪悪感が残っていたりすると、慈悲の瞑想も上べだけのものになり、本来の威力が発揮されなくなってしまいます。
ですから、辛い仕事なのですが、この懺悔の瞑想は省略しないでください。真の解放が起きるためには、手順どおりやるべきことをやるしかないのです。ただし、これは相手に直接謝りに行くということではありません。心の中で謝って同じ過ちを繰り返さないという決意が肝心なのです。
2.内観
さらにまた内観という方法もあります。これは、自己中心的な視座を転換させるための行法です。また、過去の記憶というものが非常に不正確で間違ったものがとても多いので、それを正すためのものです。特に親子関係や家族関係で過去にネガティブな記憶を抱えている人は、本当はどうだったかという事実の確認をする必要があります。きちんと調べてみると誤解だらけだったということはいくらでも出てきます。
内観を体験された方が口々に言われるのは、よく調べたら事実は違っていたということです。誤解に端を発した妄想によって、自分を責めたり罪悪感に苦しんだりしていることが非常に多いのです。ヴィパッサナー瞑想は現在の瞬間を正しく「あるがままに」観ていく訓練ですが、内観は過去の事実を「あったがままに」観て、経験事実を正確なものに修正していく行法です。今のこの一瞬の事実も、過去の事実も正しく認識することから全てが始まります。
3.諦める
受け容れたくないものを赦さずに頑張っている限りは幸せになれないし、心が解放されることもありません。原始仏教の根本原理である「四聖諦」には「諦」という字が使われていますが、これには真理という意味があり、この字を使っていることは原語以上だと言われております。「赦す」ということは「諦める」ことでもあります。
諦めない限り、心の中では果てしない葛藤が続きます。これから夢を叶えようという話ではありません。起きてしまった事、過ぎ去ってしまった事なのに、断じて赦さないと怒りの心で否定しているのです。これでは救いようがないし、永遠に解決されることはないでしょう。
人為的な被害に遭った場合にそうなりがちですが、同じ喪失の経験や苦痛の体験であっても、自然災害などの場合には、自然には勝てない、と諦める人が多いようです。大自然にやられても、人間にやられても、かけがえのないものを喪ったこちらの苦痛は同じです。
執着という名の妄想で苦しみを永遠化するのは愚かしいことです。幸せになりたかったら、諦めるしかないし、赦すしかないのです。その発想の転換に、仏教は多くのことを教えてくれるでしょう。心底から納得すれば、諦めがつくし、執着を手放した瞬間、解き放たれるのです。
どうしたら赦すことができるのか、さらに見ていきましょう。
4.因果性の理解
仏教の理論から見れば、すべての現象には偶然はないということです。「なぜ、自分がこんな目に遭うのだ!いったい自分がどんな悪いことをしたのだ!」というような悲劇が、どうしても人生にはついてまわります。それでもやはり、そこには何らかの因果関係があったのではないか、と仏教では考えます。ネガティブな現象が自分の身に起こったということは、それがどれだけ理不尽に思えることであっても、輪廻転生まで視野におさめれば、過去世も含めてそれが起きるだけの必然の背景があったし、原因があったのだ、と仏教は見るのです。
もしそれが因果の帰結だったなら、同じことを再現させないためには、これからその反対のことをすればよいということになります。深く傷ついたのであれば、絶対に人を傷つけないと誓い、かけがえのないものを失ったのであれば、絶対に奪わない。欺かれたなら、欺かない。裏切られたなら裏切らないだけではなく、真実を貫き誠を尽くしていくと決意するのです。
ネガティブなものは決して人に与えないと誓い、その反対の善きものを与えていくと決意し、実行していけば、そこから人生の流れが変わります。人生のあらゆる場面で今までとは反対の生き方がなされていくし、その因果の帰結として、新たに自分が組み込んだものが現象化し始めます。幸せが現成してくるでしょう。
不徳のなせるわざと言いますが、必然の力で我が身に起きてしまった事は粛然として受け容れるほかはありません。これは辛いことですが、とても大事なことです。そこが承認できると、自分の身に起きたネガティブなことを受け容れることができ、ついに終わりにできるからです。それが「承認する力」であり、何よりも心が解放されるのだということを強調したいと思います。
5.受容する精神
これまで申し上げてきましたように、究極のところになると、受容というのは非常に苦しい作業になってきます。「理不尽な!なんでこんな目にあわなければいけないのだ!」という事態をそのまま受け容れるのはかなり辛いことです。しかし、現象世界の仕組みを構造的に理解し、受け容れづらいものを受け容れていかない限り、苦しい人生が続くことになります。正しく理解し納得する智慧によらなければ、認めていないのに認めているふりをするだけの、ただのやせ我慢になってしまうでしょう。
赦しというものは起きてしまった事実を承認し受け容れることですが、ただ「承認するぞ」「認めるぞ」「受け容れるぞ」といくら言っても、心は言うことを聞かないでしょう。必然の力で因果が帰結したのだと我が身に起きた経験を承認していなければ、心は本当には納得していないし終わっていないのです。何かきっかけがあれば、怒りが再燃し「やっぱり赦せない!」と元に戻ってしまいます。
それでもこの困難な、なしがたい仕事ができた時には、赦さない!復讐してやる! とエゴが固執していた考え方が手放され、苦しみの消滅につながる無我の道が開けるのです。
6.心の苦しみをなくす
誤解のないように申し上げておくと、受け容れるというのは、他人であれ自分であれ、「そのままで良しとして容認する」という意味ではありません。「自分に被害をもたらした人を受け容れてしまえばその人の悪を認めていることにならないか?」という疑問もあるかもしれませんが、そういうことではないのです。その事実を認めて赦すということと、その人がやっている悪をそのままこちらの価値観として支持するということは別のことです。
我が身に起きたネガティブな出来事をありのままに認めることによって、反射的に怒りのカードを切らないことです。いきなり怒鳴り返したり報復したり、不善心所で反応しないことです。因果論に照らし合わせれば、全ては必然の力で起きているのだから、なぜ我が身にそんなことが起きたのかを冷静に読み解くのです。いかなる理由があろうとも、不善心所で反応すれば、その瞬間、新たな不善業を作ってしまうことに気づくべきです。
相手を裁く必要はなく、もし不当な悪をなしているのであれば、相手は必ず自ら作った不善業によって自滅していくのだから、こちらは何もする必要がない……と考えるのです。こちらが無反応でいたからといって、相手の悪を承認している訳ではありません。相手がなした悪を受けなければならなかったカルマがこちらにあっただけです。それで、一つの因果が帰結したのだから、捨て置けばよいのです。もしネガティブな反応をすれば、その不善心が新たな不善業を作りやがてその報いを受けるだけだ、と正しく理解する。これが、赦しの意味でもあります。
こうして「赦し」というキーワードによって、仏教の奥義とも言うべき大事なポイントに分け入ることができるし、我が身に起きた一切を平然と、淡々と、引き受けていくことができるのです。人生の流れは、ここから確実に変わっていくでしょう。
善いことも悪いことも、快いことも不快なことも、得することも損することも、どんな事実もありのままに受け容れて、冷静に、公平に、無差別平等に観じきっていく「ウペッカー(upekkhā)」という「捨」の心は、こうして養われていくのです。そして、「捨」の心が確立していくとき、諸悪の根源であるエゴが限りなく乗り超えられ、ヴィパッサナー瞑想のターゲットでもある「無我」が現成していると言ってよいでしょう。
サティの瞑想が、その瞬間のネガティブな反応を止めるだけの技術なのか、無我を目指す自己変革につながるシステムなのか。もし、こうした仏教の智慧の伴った気づきが連続する瞑想なら、人生の途上で見舞われるどのような苦しみも乗り超えていくことができるでしょう。気づき→観察→理解→承認→受容→無我→と成長していくサティの瞑想……。これこそ、ブッダが私たちに提示してくれた究極の行法なのです。(完)
関連質問
Aさん:要するに五戒をベースに仏教的な心を育てることと、悪い想念が浮かんだ瞬間にサティで止めてしまうこと、その相乗効果によって心の苦しみが解消されていくと理解してよろしいのでしょうか。
回答:
そうですね。サティの瞑想では思考を止めていくわけですが、それでも心の反応はすでに起ち上がりかけています。その反応の仕方を意識的に組み替えていく決意がないと、サティが単なる技術になってしまうということです。
「五戒を守る」ということは、「人に苦しみを与えない」ということです。殺せば、盗めば、欺けば……、その破戒行為が人に苦しみを与えることにつながっています。「人に苦しみを与えない」ことは、「幸せな良いものを与える」という積極的な善行にバージョンアップしていくと言うこともできます。
「自分だけが良ければ、人は関係ない」という自己中心的な思いが諸悪の根源になり、結果的に自分を苦しめることにつながっていると仏教は見ているわけです。私たちが日々経験する事象は、因果法則に貫かれて生滅しているが故に、「人に苦しみを与えない」ことは「自分に苦しみを与えない」ことに直結してくるのです。
仏教のダンマが腹に落ちてくると、反応が変わり、一瞬一瞬のサティのクオリティが高められ、限りなく心が成長していく。それに比例して、確実に人生苦から解放されていくということです。
Bさん:世の中には悲惨なことがたくさんあって、そんな情報が入るたびに心が痛みます。でもやはり身近なところから始めたほうが良いのでしょうか。
回答:
仰るとおり、自分の足元からです。もし自分の中に不善心がほとんど無いのであれば、存在そのものを絶対肯定するというようなレベルの「ゆるし」もあるでしょうが、そのような人は悟りを開いた人だけです。私たちはまず自分の中のネガティブなものから乗り越えていくべきです。
親兄弟の仲がトラブっている状態なのに家を出ることもせず、同じ屋根の下で暮らしながらアフリカの飢餓の人たちにお布施しようかと言っていた方がいました。「なんで世界から飢餓がなくならないんでしょうか」「戦争がなくならないんでしょうか」と本当に憂えていました。
たしかにそれは崇高な尊い精神だけれども、アフリカの戦争や飢餓を憂える前に、あなたが兄弟や親と争うことからまず治めて和解していきましょう、と。やはりどうしてもそういうアドバイスにならざるを得ませんでした。
自分が親や兄弟と争っている状態を直視したくないので、地球の反対側の飢餓とか戦争の問題を心配するのはすり替えであって、自分自身の心をありのままに観ることから逃げているというふうに私には思えました。自分のいちばん身近な人に対する赦しから始めることを強調しておきたいですね。ありがとうございました。