なぜ懺悔をすると痛みや眠気など瞑想修行の妨害要因が消えてしまうのか。これを科学的に説明するのは容易ではないが、こと瞑想に関しては、問題が解決し修行が進みさえすれば良いではないか。合理性に欠けても、暗礁に乗り上げた瞑想の苦境を脱することができれば結構、と瞑想マキャベリズムになる。毒矢の成分が科学的に判らなくても、取りあえず毒矢を抜くことができれば良しとする現場主義の発想だ。
これまでオーソドックスな対応で万策が尽きた時には、打開策として懺悔の瞑想を試みる瞑想者が数多くいた。結果的に成功事例が増え続け、「懺悔効果」ともいうべき有効性が鮮やかに浮かび上がり、図らずもスリランカで教えられた対応の証左となった。
*痛みと眠気
懺悔効果が特に著しいのは、痛みと惛沈睡眠の現場である。物理的な身体症状が伴うので必死に取り組みやすく、有効性があったか否かの検証も歴然である。
懺悔も慈悲も、瞑想者の心の変容を旨とするのが本来である。だが集中すれば強い意志(チェータナー)が放たれ、カルマを形成する現象生起力となって当事者の相手にまで不可思議な変容を及ぼすことになるのも、多くの人が体験している。
慈悲の瞑想で強く祈ったら、なぜかニコニコ顔で機嫌よく挨拶してくれた……。泣きながら懺悔の瞑想を続けていたら、向こうから和解を申し出てくれる奇跡が起きた……等々の逸話は枚挙に暇がない。慈悲であれ懺悔であれ、強い意志の出力が自動的に業を形成し、因果が帰結していくのは業論の基本理解である。
集中が悪ければ出力されるエネルギーも微弱となり、迷いがあればエネルギーの方向性がブレまくって形をなさないだろう。真剣に、本気の修行をしなければ、効果は期待できない。効果がないという意味は、直面している現象にさしたる変化が生じないということである。
逆に余念のない強い集中力があれば、ドラマチックな現象の転変を経験することができるだろう。慈悲の瞑想の<ヨロズもめごと解消効果>は、多くの人が体験的に検証している。同様のサンカーラ(行)のエネルギーが現象生起力となって働くので、不可思議な<懺悔効果>が起きるのだろうと推測される。事例に即して、懺悔の意味と効果を考察していこう。
*事例その1
Aさん。瞑想合宿の直前に首筋が曲がらなくなり、なんとかゴマかしていたが3日目に我慢ができないほど痛み出した。
セオリー通り最初は痛みの観察に集中し、「痛み」とラベリングするが一向に改善しない。苦痛に反応している心にもサティを入れるが、ラベリングの言葉が上すべりして「痛みの想い」に巻き込まれ、のめり込んでいる状態から抜け出せない。この時点で「懺悔」をするようにインストラクションされる。
現象世界は、因果のエネルギーが生じては滅していく構造である。苦痛を経験するからには、それ相応の原因があった筈である。その原因を正確に特定することは不可能だが、五戒の1番目(生命を傷つける)に関係してはいるだろう。物を失くしたり、ダマされたりという現象が起きているのではない。肉体に苦痛が襲来しているのだから、殺生戒に関する不善業を推測するのが妥当ではないかと説明し、さらにAさんにたたみかけた。
「……今世に限っても一度も昆虫や小動物を殺傷していないですか。体の小さい級友にプロレスの関節技をかけたり、ヘッドロックで痛い目に遭わせませんでしたか。校内シューズを入れる袋で頭をひっぱたいたり、耳に輪ゴムを引っ掛けてパチンと痛くしたり……。
過去世にまで遡れば、長い輪廻の中で一度も狩猟や戦争に加わらなかったという自信がありますか。人類の歴史に部族闘争や集団殺戮のなかった時代はないですよ。敵の首級を挙げんと槍を突き刺し、おびただしい返り血を浴びながら体に戦慄を走らせていたかもしれないでしょう。
過去世がピンと来ないなら、甲虫の手足をもいだり、雀の首をひねって殺しませんでしたか? 蛙の口に爆竹を突っ込んで爆破させた人もいるんですよ、その人はその後、顎関節症か何かで口が開かなくなって入院したそうですけどね……。
あるいは、新聞紙を丸めてゴキブリを追いつめ、何度も叩いて腹綿が飛び出し、それでも死に切れず仰向けで転がり続けているのをハア、ハア、言いながら眺めていませんでしたか。
どんな生物にとっても最大の苦痛を与えておきながら、その因果がめぐって今、我が身に苦受が経験されているのだとすれば、殺傷してきたであろう膨大な命に対して懺悔をしてはどうかということです。今後は二度と殺生戒を犯しません、と五戒を確認して締めくくってください」
Aさんは面接後すぐにブッダの像に額(ぬか)ずいて真剣に懺悔の瞑想をし、そのまま座禅を始めた。たちまち襲ってくる右首筋の痛みにサティを入れていると、突然、死闘を繰り広げている前世の記憶が甦り(?)、自分の刀剣が相手の肉と骨をメッタ突きにする感覚が生々しく浮かび上がってきたという。衝撃を受け、相手にひたすら詫び、赦しを乞い、真剣に懺悔し祈った。
すると、畳に擦りつけていた額を上げた時には、あのひどい痛みが完全に消失し、以後、二度と痛みは戻らなかった。懺悔の威力に心底驚きました……という翌日のレポートである。
私も最初は半信半疑だったが、こうした鮮やかな現象の変化を報告する事例が続出するに及んで、メカニズムの解明はさておき、懺悔と身体症状の変化の因果性を疑えなくなってきたのである。
*事例その2
Bさん。合宿初日から異様な惛沈睡眠に襲われていた。サティの瞑想はおろか前座の慈悲の瞑想が最後の行までたどり着けずに、毎回途中で眠りこけてしまう程であった。体を合宿態勢に整え5日経っても、慈悲の瞑想すら完成できない異常な眠気は前例がなかった。
Bさんの唱える慈悲の言葉を嘲笑うがごとくに、関係のないセリフが大きくなったり小さくなったりしながら耳元に囁かれてくる感じだという。頭が混乱し、誰に対してどの言葉を唱えているのか分からなくなるうちに惛沈睡眠でドロリとしてしまう繰り返しであった。
「……この眠気の異様さには、ヴィパッサナーや慈悲の瞑想に対するなんらかの不善業が働いているのかもしれませんね。
スリランカの寺では、惛沈睡眠の原因として、仏法僧に対する誹謗中傷や聖者冒涜の不善業を強調していました。<ariya upavada>と言います。
今世でそのような所業をおやりになっていなければ、過去世が疑われます。飽くまでも推定の域を出ませんが、最後の切り札として懺悔を試してみる他ないでしょう。
もし仮に、過去世でテーラワーダ仏教の比丘を罵倒したり邪教だと言いふらしたりしていたとしたら、そのことを謝りもせず、知らん顔で今度はヴィパッサナー瞑想をやってやるから修行を進ませろ……というのはおかしいでしょう。
慈悲の瞑想でつまづくということは、慈悲の瞑想について説法していた比丘の邪魔をしたのかもしれませんね。鉦や太鼓を打ち鳴らし、大声で喚いて説法が聞こえないように邪魔してたり(笑)……妄想ですけど。
文言のサンプルとして例えば、『三宝誹謗と聖者冒涜の罪業を深く懺悔いたします。私のことですから過去世で仏法僧を罵ったり、預流道や阿羅漢の聖者を冒涜したに違いありません。無知ゆえに愚かなことをしました。お赦しください。申し訳ありませんでした。今後二度と同じ過ちを繰り返しません。
これからは篤く三宝を敬い、仏法僧に帰依し、殺さない、盗まない、不倫をしない、嘘をつかない、酩酊しない、の五戒を守り、仏弟子としてしっかり精進していきますので、修行が正しく導かれていきますように……』
これは、相手に謝るというよりも、自分の過ちを認めて懺悔し、これから未来に向かって正反対の善エネルギーを放っていくことを決意するのがポイントです。
誹謗や冒涜のエネルギーを打ち消すには、尊崇の念をもってブッダとダンマとサンガを敬っていくのです。なぜ五戒を確認するかというと、非を詫びて懺悔するのに、これからも破戒行為をやっていく予定だが、取りあえず謝る……では筋が通らないからです。
心からの実感を込めるためには、定番の言葉を自分の表現に翻訳したほうがいいですよ」
*懺悔の効果
5日目。Bさんはまたも惛沈状態になり、最初からやり直そうと懺悔の言葉に集中した瞬間、不意に石を投げつけられている比丘の姿が眼に浮かび、思わず涙がにじんだ。のみならず投石をしていたのは他ならぬ自分だったことに強いショックを受け、痛切に詫びて懺悔に没頭した。
すると、感情の昂ぶりもあってか霧が晴れたように頭が冴えわたり、初めて慈悲の瞑想を最後まで完結することができた。
翌日になると、さらに、今世で迷惑をかけてきた会社の同僚や両親への懺悔の言葉が素直に浮かび、涙がとめどなく溢れた。心のこもった懺悔の思いで、一行一行確かめるように「慈悲の瞑想」が完成してからというもの、ヴィパッサナー瞑想が急速に進み、画期的なサマーディ感覚でサティが連続し始めた。瞑想にすらなっていない最低レベルから一気に高度な修行に飛躍したのである。<懺悔>がリトリートの大きな転換点になったケースである。
さて、首筋の痛みが劇的に消失したAさんや、Bさんの懺悔の修行から、われわれは何を学ぶべきなのだろう。懺悔修行の意味とその問題点を整理してみよう。
①なぜ懺悔をしたら苦の現象(昏沈睡眠や痛み)が消失したのか? 懺悔行為と現象の因果関係は?
②AさんとBさんは、前世の記憶を思い出したのだろうか?
③過去世に対する意識の集中(懺悔)が、今世の現象に変化を与えたのだろうか?
④現象になんの変化も起きなかった場合、懺悔にはどのような意味があるのだろうか?(以下次号)