★ヴィパッサナー瞑想を進ませるには、いくつかのポイントがある。サティの精度を上げる。集中力を強化する。妄想の対処を厳密にする。反応系の修行を徹底する。五戒を厳守する。ラベリングの質的向上を目指す。洞察の智慧の仕込みをする、等々。
 ヴィパッサナー瞑想は総合的システムなので、瞑想を進ませるには、瞑想を構成しているファクターをパーツに分けて修行し改善することが重要である。今回から、瞑想会で質問されることが多いラベリングについて考えてみたい。

*ラベリングの是非


 適切なラベリングが浮かばずに立ち往生することは誰にでもある。一瞬一瞬の現実を鋭く観察せずに、使い古したラベリングを惰性で使っているうちに、真実の経験と認識にギャップが生じてくることもよくある。
 正確なラベリングを模索しながらいつの間にか妄想していたり、違和感のある言葉でやむなく妥協するのが心残りだという人も少なくない。
 それやこれやでラベリングを煩わしいと感じる人も多く、「集中の邪魔になる」「妄想を排除する瞑想なのに、妄想と同じ概念のラベリングを使うのは変ではないか」と批判する人もいる。
 しかし、初心者がラベリングなしで歩く瞑想をやりなさいと言われると、訳がわからなくなって瞑想にならない人が続出する。ラベリングに頼らないと、サティが維持できず自己客観視が崩れてしまうのだ。正確なラベリングは本質洞察の智慧に通じており、発想の転換やリフレーミング(再解釈・再評価)、引いては人生の生き方系の変化にも影響をおよぼすだろう。
 ラベリングを使わず身体感覚のみに集中する方法もあるが、それでは心随観も法随観も至難の業となり、ヴィパッサナー瞑想としては限定的なものになっていく。もし瞑想によって考え方や人生の流れを良い方向に変えていきたいのであれば、ラベリングは最も重要な修行ポイントの一つであり、洗練させ深めていかなければならない。

*法と概念


 人生が苦しくなる原因は渇愛であり、渇愛は無明に由来する、と仏教は考えている。無明とは真実が見えない心の状態であり、勘違いするのも、錯覚するのも、誤認するのも、脳内に妄想が充満しているからだと考えられる。人の話を聞かず、自分の見たいものだけを見るのが人間である。思い込みや先入観、欲や怒りや嫉妬の妄想があるがままの事実に投影され、法と概念がゴッチャになった状態が無明だといえる。
 事実と妄想の混同が諸悪の根源なのだから、サティの第一義的な役割は法と概念を厳密に仕分けることである。どうすればよいだろうか。方法は2つある。
 一つは、中心対象である腹部や歩行の感覚に集中し、集中が高まる度合いに比例して妄想が滅していくのを実感的に検証する。妄想が入ればそれまで感じていた感覚が消えるし、実感がしっかり取れていれば妄想が侵入していない証左だとわかるだろう。  もう一つは、思考が浮かんだ瞬間に厳しくサティを入れ、思念を次の思念に接続させないで、一つひとつ直接知覚の状態でサティを入れ続ければ法と概念はきれいに識別されている。
 思考は概念と概念の連鎖であると定義されるので、見た瞬間、聞いた瞬間、匂った瞬間にサティを入れて中心対象にもどることができれば、眼識、耳識、鼻識の対象が直接知覚の状態で法として確認されている。同様に、味わった瞬間も、感じた瞬間も、思った瞬間も、ダイレクトに気づかれていれば法なのである。つまり、純粋にヴィパッサナー瞑想が実行されていると考えてよい。

*法の世界に生きる


 瞑想修行をしていなければ、眼耳鼻舌身の対象が意識に触れた瞬間、概念でまとめ上げられた認知ワールドが自動的に形成されていく。人間の認知のプロセスの宿命である。自分だけの認知ワールドを事実そのものと誤認し錯覚する瞬間から人間の苦しみが始まっていく。対象認識の歪みに気づかず、いわば妄想に反応して「行(サンカーラ)」を動かし不善業を形成するからである。
 眼耳鼻舌身の対象を「見た」「聞いた」「匂った」「感じた」……と直接知覚で認知する野生生物はどうだろう。概念化されていない法としての存在だけを対象に生きているので、人間のように妄想で苦しむことはない。いや、もっと正確にいえば、動物の脳内にもイメージは形成されるが、記憶イメージを自在にコントロールする言語を持たないので妄想が暴発してノイローゼ状態になったりはしないということだろう。

*犬の群れ


 昔、タイの海辺の寺で長く修行していたとき、寺に住み着いて比丘の残飯などで暮らす10数頭の犬たちの中に、ちょっと可愛げのある柴犬ぐらいの黒い犬がいた。ビザ延長の目的でマレーシアに一泊し、翌日の夕方寺に戻ると、3、4匹の犬たちがこちらを見ていた。私は裸眼でいまだに1.2の視力があり、犬たちよりも目は良いはずだ。
 風下から近づいて来る私を凝視していた犬たちは、怪しい者か寺の瞑想者か判断がつかず、小さく唸りながら警戒モードだった。やがて視認したのか、嗅覚で認知したのか、長期に滞在している私だと判明したらしい。黒い犬は、『あ!』と気づいて嬉しそうに尻尾を激しく振り始めたが、恥ずかしそうに『なんだ、ボク、間違っちゃった……』と照れ隠しのような笑い顔をして(と、私には見えたのだが)、お帰りなさいの歓迎ムードになった。
 犬たちと別れて自分のクーティに向かって歩きながら、あの黒い犬が何度も脳裏をよぎり、しばしサティを入れずに妄想してしまった。私を覚えてくれていて仲間として歓迎してくれた嬉しさ。昔、知人が飼っていた異常なまでに賢い柴犬が連想され、あの犬の前世は何者だったのか……と、およそタイの寺の現実からかけ離れた妄想だった。
 一方の犬たちはどうだろうか。
 犬の脳内にもさまざまな記憶イメージが保存されている。寺の門を抜け、ゆっくりと近づいてくる私の姿が認知された瞬間、黒い犬の記憶野からゆくりなくも私のイメージが浮上したのだろう。人影が近づいてくる現実と犬の記憶イメージが正確に対応していて、法と概念の混同がない。誤つことなく現状を把握し、寺の犬としての正しい反応行動がなされていたといえる。
 のみならず、犬たちは私が立ち去るや、直ちに犬の現実にもどって一瞬一瞬に集中し、残りわずかとなった夕暮れを真剣に生きていたことだろう。何かやりながら、『あの日本人帰っちゃったのかと思ったけど、戻ってきてくれてよかったよ。……いつまで居るんやろ。エサくれるかもしれないから、今度クーティに行ってみようかな……』などとバカな妄想に耽ることはない。

*ボーッとしている暇はない……


 なぜ人間は現実から遊離した妄想の世界にのめり込み、動物たちは余計な妄想をせず、今の瞬間に完全燃焼するかのように生きることができるのだろう。理由は2つ考えられる。
 まず、食うか食われるかの厳しい現実を生き抜くために、動物たちは一瞬たりともボーッとしてはいられないからだ。死と隣り合わせの日々である。海辺の寺の犬の群れには、狼同然の掟と秩序があり、アルファ雄を中心に役割分担されたピラミッド状の階層社会が形成されており、毎日どの犬も真剣に生きていた。
 人間だって、リング上の格闘家たちには余計な妄想をしている暇はない。野生動物のように、一瞬に命を懸けている。小人閑居して不善をなすのは、暇を持て余して妄想に耽ることが発端なのだ。
 2つ目は、言語脳が搭載されていないからだろう。犬たちも豊かなイメージ記憶を保存しているからこそ、獲物を見定め、正確に狩場の現状を把握し、敵を見分け、仲間の個体識別と絆の維持が可能なのだ。
 しかし、記憶イメージが喚起されるのは現実の一瞬に具体的に対応したものだけであり、刺激がなければ関係のないイメージを呼び起こすことはできない構造だと思われる。つまり、人間のようにイメージに紐づいた言葉を自在に操作しながら、妄想の団子状態を長々と続けることはできないだろうと考えられる。妄想できないから妄想しないだけなのだろうが、常に現在の瞬間に生きている犬や狼たちの生きざまは、悟りを開いた禅僧のように潔く見える。

*言語の光と闇


 人類が言語を持ったメリットは量り知れないものがある。
 言語の情報伝達力は凄まじく、経験や考えや知識を他者と共有する能力が飛躍的に進化し、狩猟も採集も道具の使用も住環境も、生活全般を画期的に向上させ、さらにその知識を次世代に伝承し、文化の発展と多様性をもたらす決定的な礎となった。
 お互いの感情や意図や心の内面を明確に伝えられるようになり、家族や仲間や同胞との絆が深まり、社会的結束が揺るぎないものになったのも、言語の力に負うところが大である。
 人類が集団で複雑な共同作業を協力的に行なうことができたのも、高度な文明を築きインターネットや生成AIや宇宙開発まで可能にしてきたのも言語なくしてはあり得なかっただろう。
 対人関係の画期的なツールとしてだけではない。個人の心の内面に光を照射したのも言語だった。自分の考えを分析し、客観的に整理しながら論理を明確にし、抽象的な思考を高度なものにし、哲学や宗教思想を完成させ、人類の知恵を増大させた立役者でもあった。  言葉がなければ、繊細な感情を自覚することも、豊かな心の世界を深めていくことも至難の業となっていたにちがいない。サリバン女史に救われる以前の幼いヘレン・ケラーが、家族との意思疎通もままならず、混沌とした暗黒の内面を持て余して荒れ狂っていた事実は、言葉の奇跡的なまでの表現力がいかばかりかを暗示しているだろう。

 ……このように言語の価値はいくらでも列挙していくことができるが、同時に言語は人類最大の苦しみの元凶にもなったのである。知恵の果実を食して楽園を追放された男女のように、言語の出現と同時に人類は永遠に妄想で苦しむ羽目になったのだ。明日を思い煩い、悲惨な過去にいつまでも縛られ、疑心暗鬼に駆られ、ネガティブ思考に鬱々と蝕まれ、自己欺瞞や自己否定感覚に苦悩する日々が始まった……。  言語が元凶となって誤解や勘違いが日常茶飯事となり、嘘や偽情報があふれ返り、挙句の果てに真実とフェイクが完全に見分けられなくなるまで悪化の一途をたどったと言えるだろう。
 さらに、現実から乖離した言語による脳内の区別化や差別化は、鋭いカミソリのように自他を分別し、対立を激化させる要因にもなった。
 叩かれて頭に瘤ができても死のうとは思わないが、心を折られた者は自ら命を絶つかもしれない。体を傷つける暴力よりも、罵倒され、見下され、侮蔑され、心をズタズタにされて生きる気力を奪い取られてしまう言葉の暴力のほうが、邪悪さも凶暴さも凄まじいだろう。  社会的に優位な強者の言語は、弱者の言語を使う者を差別し排除し、富裕層や貧困層の階層社会を激化させる一因にもなっている。言葉の力で邪悪な権力者が自己正当化をし、カースト制を押しつけて弱者の貧困層を無力化させる時にも言葉が威力を発揮する。言葉は、毒をまき散らしてもきたのだ……。
 人類にとって、言語の価値が量り知れないように、言葉のマイナス要因も量り知れないのである。
 人は妄想で苦しみ、野生動物は事実で苦しむ。いや、人は事実でも苦しみ、妄想でも苦しむ……。

*言語野のOnとOff


 哺乳類のクジラは海に戻っていったが、肺呼吸をエラ呼吸に先祖帰りさせることはなかった。進化に後戻りはないのである。たとえどれほどマイナス要因があっても、今さら妄想と言葉をセットで手放し、狼たちのように瞬間に生きることを選ぶことはできないだろう。  どうすればよいのだろうか……。
 汲めども尽きぬ知恵の源である言語の価値から、弊害となったマイナス要因を排除すればよい。言語は記号であり、実体のない概念である。概念の連鎖が妄想であり、その妄想が正確な対象認知を妨げているのだから、妄想を止め、野生動物のように空っぽの心で対象をありのままに知覚すればよいということになる。
 だが、考える時には考え、思考を止めるべき時には止められるだろうか。人の頭の中では、微細なものを含めれば四六時中妄想や連想が流れていて、止まることがない。「ああ、ダメだ、こんな嫌なことばかり考えていてはダメになる!妄想はオシマイ!」と言い聞かせてピタリと止められる人がいるだろうか……。
 そんな人は滅多にいないし、できないからこそ、人類にとってヴィパッサナー瞑想が無くてはならないものになったのだと私は考える。複雑で高度に進化した人類の脳の正しい使い方を示すために、ヴィパッサナー瞑想が提示されたという理解である。いかんともしがたいことには、理論と技術がなければならないのだ。
 智慧は得るが、妄想は止めなければならない。妄想を止めるのは正確な対象認知のためだ、と言ってもよい。先入観や思い込みなど妄想の弊害を除去する技法として、ブッダによってサティの瞑想が開示されたのだ。言葉を持たない野生動物のように、知覚した瞬間にサティを入れ、その経験の意味がラベリングによって認識確定される……。
 サティを入れるとは気づくことであり、「気づく」とは一瞬の経験がいかなるものだったかを明瞭に知ることである。いや、こう言うべきだろう。たんなる気づきだけのサティは、理解力のともなったサティへと成長していく。ただのサティがあり、智慧のともなったサティがある。後者を「正知(サンパジャニャー)」と呼ぶこともできるし、「正念・正知」とセットで理解されるのが通常である。
 2つのサティが存在するように見えるが、サティの精度にはグラデーションがあるということだ。妄想や外乱と戦いながら、かろうじてサティを維持しているレベルのサティは、ただ気づくだけで精一杯である。しかるに、定力が高まり集中力のともなった精度の良いサティは、知覚対象から一瞬にして読み出される情報量が増えるので、対象(経験)への理解が増大し、智慧のともなったサティと称されるということだ。
 この、いわば高度なサティの現場では、ラベリング(言葉確認)が不可欠なものとなる。言葉を完全に遮断して認識する瞬間は、野生動物と大差がないだろう。分析力や抽象能力が本質の言葉で認識確定をくり返しながら、洞察のサティへと成長していくことが修行である。
 言語野のスイッチをOffにして、野生動物のようにありのままに知覚し、次の瞬間、言語野のスイッチをOnにしたラベリングで認識確定し、次の瞬間またスイッチをOffにする……。一瞬一瞬こんな複雑なことをしなければ、弊害を排除しながら言語の恩恵を享受することができなくなったのだ。異常に脳を進化させた人類の宿命である。
 瞑想修行としては、言葉脳のスイッチを切ったまま集中したほうがやりやすいし、そのまま集中が極まれば対象と合一するサマーディが成立する。これがサマタ瞑想である。
 だが、対象と一つに融け合ったまま蛸壺にいくらハマっていても、気持ちがよいだけで智慧が閃くことはないし、現実逃避の瞑想と非難されかねない。サマーディ瞑想は刃がこぼれて鈍化した刀剣を砥石でとぐことに譬えられ、解脱の智慧は、その鋭い刃で煩悩の根源である無明を切り裂き、闇に光を照射させることである。
 言葉も概念も駆逐された空っぽの心で対象を知覚し、それがどのような経験として認識されていくのかは、聖者と凡夫、智慧のある人と無い人、霊長類とトカゲや虫によって千差万別となる。言葉の正確な使用を心得ている人の認識は、言葉を持たない動物よりも高度な智慧の世界に通じているだろう。
 私の瞑想理論では、ヴィパッサナー瞑想の智慧が深まっていくプロセスは、ラベリングの進化に対応しているのである。ラベリング論をさらに続けていきたい。(この項続く)