第4章 輝く命、消えゆく命……
*感動すること
朝日カルチャー講座と1Day合宿の仕事が終わり、茨城の道場に帰ると、隣家の老婦人が前夜に亡くなっていました。2年間、町内の役員を一緒に担当し交流のあった方だけに、一瞬、胸を衝かれました。思わず居住まい正し、自分に残された修行人生を想い身が引き締まりました。
何事もなく淡々と平穏無事に日常が過ぎていくと、私たちの心はいつの間にかだらけて、小人閑居して不善をなし始めるものです。煩悩が支配するこの世の流れに逆らって、ブッダの瞑想を孤独に続けていくのは容易なことではありません。
修行がマンネリ化しモチベーションが低下した時に、励まし合い切磋琢磨できるダンマフレンド(法友)の存在は最高です。しかし欲望の足し算のために瞑想で磨きをかけている人は多くても、煩悩を引き算していく独り犀の角のように瞑想している者はどうしたらよいのでしょうか。いちばんにお勧めするのは、ダンマブックやブッダの言葉に触れて感動することです。
くだらない妄想に巻き込まれていた低次元の意識が、瞬時に高められ、ダンマの世界に引き上げられるでしょう。ブッダの言葉には、死をテーマにしたものが数多くあります。例えば、『ブッダの真理のことば・感興のことば』中村元訳・岩波文庫の以下の言葉などは、深く心に沁みるものがあります。
【朝には多くの人々を見かけるが、夕べには或る人々のすがたが見られない。夕べには多くの人々を見かけるが、朝には或る人々のすがたが見られない】
【「わたしは若い」と思っていても、死すべきはずの人間は、誰が(自分の)生命をあてにしていてよいだろうか? 若い人々でも死んで行くのだ。―男でも女でも、次から次へと】
【或る者どもは母胎の中で滅びてしまう。或る者どもは産婦の家で死んでしまう。また或る者どもは這いまわっているうちに、或る者どもは駈け回っているうちに死んでしまう】(『感興のことば』第1章 無常)
現実の出来事は心に焼き付きますが、本の感動の賞味期限は2日もないのではないでしょうか。(笑) しかし、たとえ一日でも気持ちを引き締めて瞑想ができるなら結構なことです。粛々とした気持ちで修行に取り組めるなら、採用すべきでしょう。
*死んでいく若者
私の父親の葬儀の時、火葬場には遺体を焼く火葬炉が四つありました。父の享年は74歳でしたが、あとの三つの炉は全部十代の若者でした。炉の上に掲げられた、まだ稚なさの残る遺影を見て『歳の順ではないんだ……!』と、ちょっとショックを受けて火葬場の職員の方に訊いてみたのです。
「今日はたまたまこんなに若い人が多いのですか?」
「いや、いつもですよ」
「そうなのですか……、なぜそんなに多いのですか?」
「だいたいバイクですね……」
バイクの好きな若者はどうしてもスピードを出すので、交通事故で亡くなってしまう人が多いのだそうです。まさに老少不定、ブッダの言うとおり、年寄りから順に死んでいくどころか、若い健康な人が短い生涯をあっけなく閉じてしまうのだと改めて思いました。明日は我が身かもしれないのです。
*祖父の死
二十歳の頃の私は、やがて自分も死んでいくという実感がしませんでした。不滅を錯覚させる程の生命エネルギーを持て余していたようです。しかしその年の冬に他界した祖父の死は、私にとって父性の崩壊そのものだったので深刻な衝撃を受けました。自宅の屋敷で大往生を遂げていった祖父の死の一部始終を、つぶさに目撃したことは掛けがえのないことでした。「死」というものを、若者だった私の心にこれほど強烈に焼き付けてくれた経験はありません。遺された家族が各人各様、大黒柱だった祖父の死をどのように受け止めていったかの人間模様も経験知を高めてくれました。
死を身近に感じる時、人は真剣に生きることを考えます。人生のスタート地点に立つ若者こそ、死を知らなければならない。人生を自覚的に生き始めた青春時代こそ、必ずやって来る終末を心に焼き付けておくべきなのです。自然放置された人の命は欲しいままに貪り、怠惰に流れ、ブッダの警告を無視して放逸を重ねながらアッという間に老いさらばえてしまうからです。
*高校生のホスピス授業
そんなまだ二十歳にもならない米国の若者達が、ホスピスの授業を通して死を学ぼうとするドキュメンタリーを観て感銘を受けたことがあります。人の命が美しく輝く絶頂期の若者が、まさに命が燃え尽きようとしている老人達の最期の日々を看取りながら、お互いに掛けがえのない時間を分かち合うのです。
これは2014年に製作された「Beginning With The End-ホスピスに学ぶ高校生たち」(<終末から始める人生>)という番組です。ニューヨークのハーレイ・スクールでは、高校3年生のほぼ全員がホスピスの授業を受講しています。延命処置を行わず、静かに死んでいくことを選んだ人達のホスピス病棟で、米国の高校生男女が1年間、老人達のターミナルケアをしながらさまざまなことを体験を通して学んでいくのです。
番組はソローの「森の生活」の一文から始まります。
「私は常に目的をもって生き、人生の本質に向き合おうとしてきた。死の間際に、自分は本当の意味で生きていなかったと気づくのが嫌だからだ」
この言葉は、授業を担当するロバート・ケイン先生の座右の銘なのです。ケイン先生の独白が続きます。
「人生において最も大切なことを生活の中心に据える。意識的にそうすることで、人は生きることにきちんと向き合っていると確信できるのです。
私は若い頃に多くの親しい人の死に直面しました。若い時に愛する人を喪うと、人生についてより深く考えることになります。自分に与えられている時間がどれくらいなのか知りたくなり、一瞬一瞬を大切に生きることの重要さに気づかされます。これは私の信念であり、この信念が私を教師という仕事に導いたのだと思います」
*死を分かち合う
この講座の最初の授業は、クラスの全員がこれまでに経験した身近な人の死を語り合うことから始まります。
「僕は途上国の出身なのでたくさんの死を見てきました。交通事故とか。でも一番の死因はエイズでした」
「祖父は家族にとってとても大きな存在だったのに、弟が祖父のことを全く覚えていないのが悲しいです」と目を真っ赤にしながら話す女子生徒。
「僕の住んでいるエリアでは、死は日常です。毎日人がピストルで撃たれたり、ナイフで刺されたり、襲われたりしていました」と語る黒人の生徒。
「死んでゆく祖父に毎日会いに行ってたんです……」と話し出し、泣き崩れてしまった女子をフォローするように「……多分先生は、死が私達の人生の一部だと教えたかったんだと思います。みんなが誰かの死を経験しているし、愛する人に死なれることがどんなことかを知っているんだ、と教えようとしたんだと思います」と述べた女子生徒もいる。
生徒たちが死についてさまざまな経験を語り合う場は、それだけで何か深いものを共有し心が通じ合った感じになります。これは実際のホスピス病棟で介護の仕事を始めるにあたり、チームとして互いの絆を深めるのに欠かせない授業になっていると思いました。
また、この場面を観ていて私が個人的に感じたのは、日本でもアメリカでも、孫たちがどれほど祖父母に可愛がられているか、それ故に自分を心から愛してくれた祖父母の死がどれほど痛切な悲しみになっているか、ということでした。人が人らしく育ち、普通に大人になっていくまでには、こうして愛を受け、死を悼み、悲しみを経験しなければならない。優しく愛されることと、それを喪う悲嘆は完全にワンセットで、通過儀礼としてそれを経験しなければ、本格的な仏教の瞑想には参入できないだろうということです。
ホスピスの現場に入る前に教室で心構えや介護技術を学ぶのですが、歯磨きひとつ取っても明確な技術があり、生徒たちが自信を持って作業できるようスキルを習得させます。やり方がわかっていれば、患者さんの体に触る時にためらわずにすむので、実際の介護に必要なことをまず教室で学んでおきます。
歯磨きを手伝ってあげる。ベッドで体の向きや位置を変えてあげる。手や背中のマッサージをしてあげる。靴下を履かせてあげる。トイレに行くのを手助けするなど、具体的な目的のある作業はどれも他人に触れなければならず、それには患者さんの信頼を得なければなりません。一番のテクニックは、患者さんに触る時にそっと優しく触ることなのです。絶妙の優しさで触れると、相手も自分に手を差し出し世話することを許してくれるのです。
生徒たちはみんな最初は不安なのです。もし何か変なことを言って患者さんを傷つけ、それが最後になってしまうのが 怖いとか、もう謝る機会がないと思うと不安になる、など。しかし18歳の適応力の柔軟さには素晴らしいものがあります。自分が勤務中に誰かが死ぬのが恐怖だと言っていた男子は、間もなくこう言うようになります。
「もう恐怖はありません。よく分からないけど、こう思えたんです。この人達はとても素敵な人達だ。彼らの残り少ない時間を僕は一緒に過ごす。いなくなったらそれで終わり。それだけだって。辛いけど、その事実と向き合うことは出来るって……」
*ただ居るだけ……
ひとりの女子生徒が、さりげなくこんなことを言っていました。
「最初はホスピスに来て何もしないでいると、自分がお荷物で役立たずというか、何も助けになっていないような気分になっていました。でも、今はそんな風には思いません。ただ患者さんのそばにいるだけで十分なんです。時には誰かがいるだけでいいってこともあるんです」
このさりげない言葉は、人はなぜ生きるのか……という問いの答えを暗示しているように思われました。
ホスピスに限らず人生の最終章を生きる人達にとっては、ただ存在していることが生きることの全てであり、本人にとっても周囲の者にとっても、それでよいのです。
赤ちゃん時代はただ生きているだけ、存在しているだけで立派な人生でしょう。長い人生を終えようとしている老人も、静かに存在しているだけでよいのです。本当は、青春時代も熟年時代もいつだってそうなのです。路傍に繁茂している雑草がそうであるように、生きることに意味はないのですから。
何かの役に立つとか助けになるから価値があるというのは、功利的なエゴの立場からの物の見方に過ぎません。人間に役立てば益虫と呼び、不利益をもたらすものは害虫や害獣としてレッテルを貼っているだけです。有害な人種は、殺虫剤のようにガス室で大量殺戮してしまうのでしょうか。人類こそ環境を破壊し、無数の生物を絶滅させ、森林や野生動物の生息地を恐ろしい勢いで奪い取りながら異常増殖している地球史上最も有害な極悪生物のレッテルを貼られるべきでしょう。そんな価値やら仕分けやらは、宇宙からも、自然からも、地球の生態系からも、何の意味もないエゴ妄想のたわ言です。
意味のない命の世界でドゥッカ(苦)とともに生きていかなければならないのだから、死が間近に迫りつつある老人達には、何事もなく、静かに、穏やかに、一日がただ過ぎていくだけで最良のエンディングではないでしょうか。中には子供や孫から見捨てられてしまった老人がいるかもしれません。そんな孤独な老人にとっては、輝くような若い人が寄り添ってくれているだけでマル儲けではないでしょうか。
まさしく「ただ患者さんのそばにいるだけで十分なんです。時には誰かがいるだけでいいってこともあるんです」
この講座を長く受講してきた方のお父さんは九十歳過ぎてもピンピンしているというので、「昼間はデイサービスに行ってらっしゃるんでしょう?」と訊いてみました。
「それがですね、うちの親父はデイサービスに行きたがらないのですよ」
「どうしてですか?」
「あんな年寄りばっかりのところには、行きたくねえよって言うんですよ」(笑)
九十過ぎの老人がなぜ「年寄りばっかりのところには行きたくねえ」と言うのでしょう。老いて死の足音が迫り来るからこそ、老いを見たくないし、老いを意識するのが嫌なのでしょう。
中年や熟年ですら、自らの老いが意識された途端に若い人が輝いて見えてくると言います。若いキラキラしたアイドルの「親衛隊」や「追っかけ」に夢中になるのも、老いに対する抵抗なのかもしれません。
高齢であればあるほど、小さな子供や元気な若者の姿を見るのは嬉しいことです。ハーレイ・スクールの高校生たちが老人に寄り添っているだけで存在意義のある所以です。
老人ホームで見た忘れられない光景があります。母親の介護をしている頃は、東京や関西で瞑想会をやることが私にとって最高の気分転換であり、束の間の休息になっていました。張りつめた善心所モードでダンマトークやインストラクションに没頭するだけで、これ以上はないリフレッシュになっていたのです。
私が留守にしなければならない2、3日間、母には施設でショートステイしてもらわなければなりません。施設に置き去りにされるのではないことを何度も説明し、ショートステイに段階的に慣れてもらうために、朝から夕方まで母に付き添って施設で一日を過ごしたことが何度かありました。
子供や孫が訪ねてくる方はわずかで、私が連日母と過ごしているのを羨ましそうに見ている老人たちが印象的でした。みんな死ぬのをただ待っているだけという感じがしました。昼間はデイサービスのいろいろなプログラムが用意されているのですが、惰性でやっているのか仕方なくなのか、なんとなく受け身で覇気がないのです。
夕方になり、その日のプログラムはすべて終了し、夕食までの一時間はテレビも消され、何もないただの自由時間になっていました。終了を告げた職員が立ち去った後に続く沈黙の時間に、私は圧倒されました。メインルームで二十人くらいの老人たちが集まっているのですが、誰ひとり会話もせず、向き合いもせず、本当に何もしていないのです。ただ椅子に座り、無思考状態のような顔で食事が来るのを待っているだけの静寂が一時間続いたのです。最初から最後まで誰ひとりしゃべらないし、動きもしない。石と化した人物が並ぶ蝋人形館のような印象に、私は慄然としました。
寂寥感を通り越した虚無の印象は、ただ死ぬのを待っているだけの人達というより、生きたまま死んでいるようにすら思えました。老いのドゥッカ(苦)を目の当たりにしたかのような衝撃を覚えたのでした……。
*老いの現実
ホスピスの現場に入る前に教室で心構えや介護技術を学ぶのですが、歯磨きひとつ取っても明確な技術があり、生徒たちが自信を持って作業できるようスキルを習得させます。やり方がわかっていれば、患者さんの体に触る時にためらわずにすむので、実際の介護に必要なことをまず教室で学んでおきます。
歯磨きを手伝ってあげる。ベッドで体の向きや位置を変えてあげる。手や背中のマッサージをしてあげる。靴下を履かせてあげる。トイレに行くのを手助けするなど、具体的な目的のある作業はどれも他人に触れなければならず、それには患者さんの信頼を得なければなりません。一番のテクニックは、患者さんに触る時にそっと優しく触ることなのです。絶妙の優しさで触れると、相手も自分に手を差し出し世話することを許してくれるのです。
生徒たちはみんな最初は不安なのです。もし何か変なことを言って患者さんを傷つけ、それが最後になってしまうのが 怖いとか、もう謝る機会がないと思うと不安になる、など。しかし18歳の適応力の柔軟さには素晴らしいものがあります。自分が勤務中に誰かが死ぬのが恐怖だと言っていた男子は、間もなくこう言うようになります。
「もう恐怖はありません。よく分からないけど、こう思えたんです。この人達はとても素敵な人達だ。彼らの残り少ない時間を僕は一緒に過ごす。いなくなったらそれで終わり。それだけだって。辛いけど、その事実と向き合うことは出来るって……」
*煙草のおばあさん
ホスピスの現場に入る前に教室で心構えや介護技術を学ぶのですが、歯磨きひとつ取っても明確な技術があり、生徒たちが自信を持って作業できるようスキルを習得させます。やり方がわかっていれば、患者さんの体に触る時にためらわずにすむので、実際の介護に必要なことをまず教室で学んでおきます。
歯磨きを手伝ってあげる。ベッドで体の向きや位置を変えてあげる。手や背中のマッサージをしてあげる。靴下を履かせてあげる。トイレに行くのを手助けするなど、具体的な目的のある作業はどれも他人に触れなければならず、それには患者さんの信頼を得なければなりません。一番のテクニックは、患者さんに触る時にそっと優しく触ることなのです。絶妙の優しさで触れると、相手も自分に手を差し出し世話することを許してくれるのです。
生徒たちはみんな最初は不安なのです。もし何か変なことを言って患者さんを傷つけ、それが最後になってしまうのが 怖いとか、もう謝る機会がないと思うと不安になる、など。しかし18歳の適応力の柔軟さには素晴らしいものがあります。自分が勤務中に誰かが死ぬのが恐怖だと言っていた男子は、間もなくこう言うようになります。
「もう恐怖はありません。よく分からないけど、こう思えたんです。この人達はとても素敵な人達だ。彼らの残り少ない時間を僕は一緒に過ごす。いなくなったらそれで終わり。それだけだって。辛いけど、その事実と向き合うことは出来るって……」
「タバコの時間!タバコの時間!」と二十分ごとに叫ぶイザベルというおばあさんがいました。すると担当の男子生徒が「今はダメですよ」とやさしく諭すのです。そう言うのは、いつもその男の子ばかりなのですね。その理由を訊かれて、「たぶん僕が一番やさしく声かけできるからではないでしょうか」と答えていました。
「タバコの時間!タバコの時間!」と叫ぶイザベルにその時間が来ると、二人で外に出ておばあさんが車椅子でタバコを喫っている間、他愛もない話をするのです。
「天気のことや風に揺れる木のことなんかを話してくれます。ベッドの上では見られない心の中を見せてくれるんです」
普段はしないような話をしながら、両者の間には「捨(ウペッカー)」の清潔な距離感が保たれた優しい時間が流れていることでしょう。実際の孫と祖母の関係になると、過度の愛着や心配など不善心の因子が苦の原因になりがちです。ホスピスで最期の時間を過ごしている老人と介護の授業の高校生の束の間の関係だからこそ、純度の高い透明なやさしさが発露しているのではないかと思われました。もしイザベルが身寄りのない孤独な老女だったとしたら、若者とこんな素敵な最期の時間を過ごしながら静かに逝くことができるのは本望でしょう。
*さまざまな出会い
ある日の授業で、ホスピスの授業が始まってから一番よかったことと、一番嫌だったことを話してくださいと言われた女子生徒がこんな風に答えました。「良かったことは、脳卒中のキャロルはもうしゃべれないのに、一所懸命に私の名前を呼ぼうとしてくれたことです」
嫌なことは、患者さんにダメと言わなければならなかったことでした。例えば、患者さんが「サンドイッチを食べたい」と言っても、「今は流動食しか食べられないからダメですよ」と答えなければならない。
あるいは、「ベッドから出たいの」って、人生最後のお願いみたいに言われるのに、「私は『だめです』としか言わなければならなくて、思い出すとつらくなります」などと一人ひとり語り合っていくのです。
私がちょっと心を打たれたのは、あるおばあさんが自分を大切にケアしてくれる女の子に語りかけたシーンです。
「よい人生だったわ。姉には子どもはいなかったけれど、私は4人の子供に恵まれた。そして、あなたと出会えたこと。私にとってあなたは数少ない特別な人よ」と涙ぐむのです。
すると、その女の子も「私にとっても、あなたは特別な人になりました」と言い、おばあさんにキスしてあげると「ありがとう」と言って流れ落ちる涙をぬぐうのです。人生の最後の最期にできた若い親友に看取られながらこの世を去ろうとしている老女の姿が印象的でした。
*吹雪の中で
リアンドラという女子生徒が語るアメリカ北部の冬は、雪の女王アナのような銀世界でした。
「あれは大雪の日でした。私はハリーの部屋へ様子を見に行きました。ハリーは最期の段階に来ていました。私は部屋に入って、つらくないかをハリーに確認し、掛け布団をかけ直して部屋を出ました。その後エイダというおばあさんのいるメインルームに行きました。窓際で車椅子に座ったエイダは吹雪が作り上げる美しい外の風景に釘付けになっていました」
私もその壮観な光景に見惚れました。ホームの窓の外に拡がる樹木がすべて凍りついて、雪と氷柱で覆われた一面の銀世界を横なぐりの吹雪が渡って行くのです。
エイダには、これが最後の雪景色になるかもしれません。
「私はエイダに寄り添って一緒に雪を眺めていました。エイダは私に、今まで自分が行ったことのあるいろんな場所や、今まで見た動物、出会った人などいろんなことを話し始めて、私は彼女と心の通いあった素敵な時間を過ごすことができました。
私がエイダと雪を見ている間に、ハリーは息を引き取りました。その時、私はそういう瞬間にこそ意味があると気づいたのです。やっていることは、特別すごいことでも偉大な事でもなく、ただ自分を必要としている人と時を過ごしているだけです。それは、時には母親だったり親友だったり長く連れ添ったパートナーだったり、みんな必ず誰かにとって大切な存在で、誰もがこの世界で自分の役割を持っているということに気がつきました」
リアンドラの言うように、人生とは、自分を必要としている人と一緒にただ時を過ごしていけばよいのです。
*生きる意味
ベッドで寝ているウエンディというおばあさんの赤い靴下が脱げてしまうので履かせてあげる。すると、いたずらしているのかまたスポッと脱けてしまい、また履かせてあげるのを繰り返しているシーンがありました。ウエンディは靴下を履かせてもらいながら微笑み、何度でも履かせてあげる男の子も爽やかな笑顔で心から楽しんでいるのです。
これを観ていて私は、「セラピードッグ」という介護犬を連想しました。セラピードッグは病院や老人施設で患者さんとアイコンタクトをしながらおとなしく撫でられているだけなのですが、みんな癒されていくのです。誰に対しても心を閉ざしてしゃべらなくなったおばあさんが大笑いを始めたり、重病の子ども達を勇気づけ元気にさせてしまうのです。
庭の樹木も同じだと思いました。私の自宅の庭には、シマトネリコ、木斛、ヤマボウシ、土佐ミズキ、山茶花、銀木犀、黒文字、紅珊瑚紅葉、アオダモなど、いろいろな樹木が植えられています。東京の仕事で留守にする時には水をたっぷ与えてきたり、落葉もかなり出るので世話が大変です。しかしどんなに世話をしても、庭木はありがとうの一言もないし、私が困ったところで助けてもくれません。
庭の木々は、ただ存在しているだけなのです。風に枝が揺れたり、雨に濡れた葉群が光ったりしているだけです。手入れをして美しくなっても黙っているし、放置して枯らしても文句ひとつ言わずにひっそりしています。
私は幼い頃から、祖父が丹精した美しい繊細な庭を見ながら育ったせいか、庭なしで生きていくのは耐えがたいと感じます。仕事の合間に庭を見るのが最大の癒やしになっています。ただ存在しているだけの庭に、生きる力を与えられているのかもしれません。
庭木も石も、セラピー犬も、末期の老人も赤ちゃんも若者も、万物は意味もなく等価に存在し、気づかずに誰かを癒したり支えになっていたりするのではないでしょうか。
そうだとしたら、いかんともしがたい因縁によって自分に与えられたものに100パーセント満足し、あるがままに、なすべきことをなしながら、その時が来たら流れに従って死んでいけばよいのです。
*卒業
番組の最後の追悼式で、生徒たちが1年間を振り返って所感を述べていました。
・「ケイン先生のホスピスに学ぶを受講したことで、愛や友情について、生まれてから18年間学んできた全てよりずっと多くの事を学びました」
・「始まる前はこの講座を取るのが嫌でした。途中で辞めるだろうと思ってました。でも、最初の授業が終わった時には夢中になっていました。とても変わった、他にはない体験だったし、今までにない気持ちを味わえるんです」
・「人を好きになるのが怖かったんです、いずれその人が死ぬと思うと……。だけど、それでも人を愛することには価値があります」
このホスピス授業で最も深い学びを得たのは、リリーという女子生徒かもしれません。リリーは、悪性の癌でもう助からないと判明した中年女性のシェリと親しくなりました。
「ある日キッチンで話しているうちにシェリの癌の話になり、その時彼女は私たちに大切なことを伝えようとしてくれたのだと思いました。
……外からの力で自分の内面が変わることはない。あなたはあなたなんだから、自分自身とうまく付き合っていかなくてはいけないし、それが自分なんだと認めることが必要なんだって。
他の人は、そのままのあなたを愛してくれるのだから、あなたもそのままの自分を愛しなさいって……」
あるがままの事実を観察し、ありのままの自分を受け容れていくヴィパッサナー瞑想者のような深い言葉の響きを感じました。
しかし誤解されかねない一面もあります。仏教の「あるがまま」には厳しい倫理が貫かれています。煩悩だらけの自分の現状はありのままに認めて、事実として受け容れますが、そのまま容認し居直ることはあり得ません。必ず、悪を避け善をなす方向に新たな意志決定がなされて、未来に向かって歩みを進めていくのが仏教です。煩悩にまみれた不善心だらけの自分を「あるがままに」容認してしまう危うさが入り込む余地はないのです。
光陰矢の如し。人の命はアッと言う間に燃え尽き、私も間もなく死んでいきます。自分に与えられている全てを出し尽くして、悔いのない終わりを迎える覚悟でおります。(つづく)