*瞑想ができない……
ストレス・ランキングでは、どの調査でもトップは配偶者の死、次いで離婚や肉親・友人の死が必ず上位5位に入ります。掛けがえのない人を喪った悲しみは、瞑想修行が不可能になるほど深刻です。悲嘆や絶望のどん底ではサティは入らないし、たとえ入ったとしても、一時停止ボタンを必死で押し続けているに過ぎません。一身上の重大問題を抱えた状態では、瞑想中の妄想を止めることはできないのです。
瞑想をしたければ、瞑想ができる環境設定をしなければなりません。愛する人を喪うという人生最大の苦しみと悲嘆を、どう乗り超えていけばよいのでしょうか。
*悲しみは癒えず……
どんな激烈な悲嘆も、通常2年半から3年経てば、悲しみの先端が鈍くなり、身を裂かれるような哀傷の日々も徐々に色褪せ遠のいていくと言われます。鈍化するのは記憶の本質なのか、あるいは、生存本能のなせる業なのかもしれません。
しかし東日本大震災から10年経過しても、いまだに悲しみが癒えず苦しんでいる人も少なくありません。
「……3/11からもう10年になるのに、目指すゴールがない。ゴールを見出せないでいるのだ。
【めぐりくる また三月は 一里塚 ゴール捜しの 人あまた往く】(新3.11万葉集 詠み人知らずたちの10年)」
悲しみに区切りをつけられた人と、終わりにできない人を仕分けている分水嶺は何なのでしょう。何が問題なのでしょうか。悲嘆を乗り超えた人も、いまだその渦中にいる人も、大切な死者の思い出が去来しない訳がありません。日に何度も断片的な記憶が飛び交っているのは誰も変わらないはずです。
悲痛な記憶が浮かんでくることが問題なのではなく、その受け止め方や意味付け、残された者の心の中で死者はどのような立ち位置に納まっているのか、過去をどう捉えて生きていこうとしているのか、とどのつまり心の交通整理がどのようになされているか、が両者を分ける分水嶺になっているのではないかと思われます。
人は今の瞬間ではなく、過去のことで苦しむのです。ネガティブな過去の経験が許せず、忌まわしい過去を受け容れることができないから生きるのが苦しく、今の瞬間に立ち往生しているのです。
サンユッタ・ニカーヤ(神々との対話)には、次のような一節があります。
神がブッダの傍らに立って、呼びかけます。
「森に住み、心静まり、清浄な行者たちは、日に一食を取るだけであるが、その顔色はどうしてあのように明朗なのであるか?」
ブッダが答えます。
「彼らは、過ぎ去ったことを思い出して悲しむこともないし、未来のことにあくせくすることもなく、ただ現在のことだけで暮らしている。それだから、顔色が明朗なのである。
ところが愚かな人々は、未来のことにあくせくし、過去のことを思い出して悲しみ、そのために萎れているのである。ーー刈られた緑の葦のように」(神々との対話ーサンユッタ・ニカーヤ)
悲しいかな、森に住む聖者のようにはなれないが故に、私達はいまだに凡夫でいるのです。いつまでも死んだ子の歳を数えて苦しむのです。どうしたらよいのでしょうか。
*承認されない死
48歳の若さで先立った寺山修司の母親が、「死んだ気がしない。ひょっこり帰ってくるような気がする……」と、老いが深まってもなお十年一日の如く呟いていたのが印象的でした。
これは、愛する者の死を受け容れることができない人に共通の所感です。共に生きていた往時の妄想が際限なく繰り返され、頭では理解していても、死んだ事実を情緒的に受け容れることができず、心の底でその死を否定し続けているのです。
訃報に接した瞬間の衝撃と混乱、その混沌状態のまま思考が停止してしまったかのような方もいます。母親ととても仲の良かった女性が、ある日突然、母親を喪い、父親と二人取り残されて傷心の日々を重ねることになりました。家の中は以前と変わらず綺麗に整えられていたのですが、亡母の居室だけは散らかったまま時間が止まってしまったようでした。
何年かの歳月が流れ、あるきっかけから、女性はやっと母親の死を受け容れることができました。すると、その時から亡母の遺品整理に着手することができ、母親の居室は片づいていったと言います。
*別離のプロセス
問題は愛する者を喪ったことではなく、死んでしまった事実が認められず、受け容れられないことです。「なぜ、なぜ、なぜ、死んでしまったの!」と声にならない絶叫が心の空洞に木霊し続けて固まってしまう……。
こうした悲嘆が起きてしまうのは、多くの場合、心筋梗塞で急死したり、トラックに轢かれて即死したりの頓死や不慮の死です。何の心の準備もなくある日突然、死の事実に不意打ちされ、叩き伏せられ、言葉を失ったような状態です。
朝、「行ってくるよ」と元気に出かけた家族が、その夜、霊安室で冷たくなっていた……。そんな突然の別離に、人の心は耐えられないのです。大切なものと別離するために必要なプロセスや手順を踏まず、一瞬にして絶望の谷底に突き落された衝撃に混乱すれば、立ち往生するのも無理からぬことです。
もし死をあらかじめ覚悟して、心の準備を整える時間があれば、来し方を振り返り、共に過ごした歳月を語り合い、感謝を述べ、存分に惜別の時間を費やすことができれば、掛けがえのない人との永遠の別れを受け容れることができるでしょう。
仕方がない。誰の身にもいつか必ず起きることが、起きたのだ……と諦めることができるのです。諦めは「四聖諦」の「諦」であり、悟ると同じ意味の「諦る」なのです。ブッダが讃える森の聖者ならぬ私たち凡夫でも、時を得て、無常を受け容れる充分なプロセスを経ることができれば、掛けがえのないものの喪失を乗り超えることができるのではないでしょうか。
*母の死
私の経験をお話しすると、実家の母を2年間介護してその最期を看取り、オリジナルな家族葬で告別の会を催した後、私は檀家だった寺で墓の解体式を執り行なってもらいました。原始仏教では、人が死ねば直ちに転生すると考えられています。その輪廻転生論に基づいて瞑想を教えてきた者には、墓も仏壇も無意味なので、母の遺骨は散骨し、私の代で墓を閉じ、檀家を離れたのです。
最愛の家族が他界し、葬儀やさまざまな後処理もすべて完了すると、自分自身に向き合う余裕が生まれてきます。通常このタイミングで初めて、心が悲しみに領され、喪失感や虚しさに襲われるものです。
しかし私の場合、母を喪った悲嘆を最小限にできたと感じています。それは、まる2年間、母と起居を共にしながら、自分にやれる介護は全てやりきったという達成感と、日々心の中で告別を繰り返したからだろうと思われます。
熟した果実が自然に落下していくように、80代後半の母が死んでいくのは確実なことでした。日に日に弱り、それまで出来ていたことが出来なくなり、自然の摂理のまま老い衰えて、死に向かっていく母の姿をスナップ写真のように心に焼き付けていったのです。
例えば、母と夕方の散歩に出かけ、人影のない神社の境内で一休みする母の姿を眺めていました。母の頭上には、満開の枝垂桜の大木が枝を拡げ、ピンクの桜花が迫り来る夕闇に鮮やかさを失い、しだいに色褪せていく束の間の時の流れを感じていました。認知症が始まっていた母は、桜の木と同じように何も考えていない風情で、黙ってこちらを見ていました。老いて小さくなった母の姿と、色褪せていく枝垂桜が重なり合い、一瞬、落涙感に襲われました。ああ、これも見納めだ、もう二度と見ることがない最後の光景だ……と、無言で別れを告げながら心に刻み付けていました。
何の景品だったのか、大きな紙風船をバレーボールのように飛ばして、子供のように喜んでいた母の笑い顔も、その後、急速に筋力が衰えて二度と同じ遊びはできなくなり、見納めになりました。
「お母さん、死ぬことが人生最後の大仕事なのだから、きれいに、立派に、明るく死んでいこうね」と毎日のように話しながら共に暮らした2年の歳月……。それは、死の不安や怖れを母からぬぐい去っていくプロセスであり、私にとっては、生きながら緩やかに死者になっていくかのように、母の死を受け容れていくプロセスでした。
*死の受容
3歳の娘がふと手を離れて横断歩道を走り出し、目の前で車に跳ね上げられ、即死するのを目の当たりにした母親は半狂乱となり、癒えることのない悲嘆が何年も続いたと言います。
一方、小児癌の愛娘に死の宣告が下された母親がいます。この方はその後、娘のためにしてやれる全てのことをやり、残された歳月の一日一日を愛おしむように我が身を捧げ尽くし、悔いのない看取りと葬送ができました。
愛児を喪った二人の母親の悲痛に大差はなかったでしょうが、その後の心の変化は大きく分かれました。
母親の我が子に対する渇愛ほど強烈なものはない、とも言われます。この上なく無防備で生まれてくる人類の嬰児を、何としても守り抜くために組み込まれた本能のプログラムなのでしょう。子に対する親だけではなく、夫婦の絆も、兄弟姉妹や祖父母との関係の深さも、人類が群れを形成して生き延びるために必要な愛着であり愛執なのでしょう。
掛けがえのない存在を喪ったドゥッカ(苦)は誰でも同じでしょうが、そこから長く悲嘆を引きずる人と、乗り超えて自分の人生を生きていく人を分かつ分水嶺は、<死の受容>に尽きると思われます。
死を受け容れることができなければ悲嘆が続き、死の事実を認め受容することができた者には、死者との新たな出会い直しがあるのです。
*受容の条件
私の母の看取りをお話したのは、掛けがえのない人の死を受容するポイントが明確だと思われたからです。
①心の中で、存分に別れを告げること。
②ゆるやかに、時間をかけて看取ること。
③死は誰にでも必ず訪れるものと覚悟すること。
④やるべき介護や看取りを逃げずに引き受けて、悔いを残さないこと。
時間をかけて、ゆるやかに高齢者の死を受け容れていく。これほど容易な死の受容はないでしょう。
私の母は享年89歳でした。早すぎる死とは、誰も思わないでしょう。人生を十分に生き、天寿をまっとうした人の死を受け容れるのは難しいことではありません。死を覚悟した上で介護が始まり、心の中で告別を繰り返すことができるのです。
不慮の死、早すぎる死、無残な死、理不尽な死、許しがたい死、無念な死……。いずれもその死が受け容れがたい不当なものと感じられるからこそ、癒しがたいグリーフ(悲嘆)となって苦しむのです。受容しがたいから、死の事実を否定し、それがおかしいことだと分かってもいるのでますます混乱し、混乱するので正しく理解できず、混沌とした悲嘆がさらに深まり固まっていき、時が虚しく過ぎていくのではないでしょうか。
*死すべき定め
あらゆるものが因縁によって成り立ち、原因があって生起し、因果が帰結して壊れていくものがあり、滅ぶべくして滅んでいく……と仏教では考えています。あらゆることが、必然の力で生じ、否応のない力で滅していきます。
どんな死にも偶然はなく、必然の力に催され、死ぬべくして死んでいくのです。アビダルマでは、死には4つの要因があると説かれています。
①寿命が尽きて死ぬ。
②業が尽きて死ぬ。
③両者が尽きて死ぬ。
④断業によって死ぬ。
以上の4つが、ロウソクの火に譬えられて説明されています。
①の寿命が尽きる死は、ロウソクの芯が燃え尽きれば火が消えるように、生きものに本来定まった寿命が尽きれば死ぬということです。人間の場合は最長で122歳のフランス人女性がいましたが、それが限界です。単細胞生物は無限に分裂を繰り返しますが、有性生殖をする生物は細胞の分裂回数が定められているので、必ず死ぬように設計されています。
②の業が尽きて死ぬのは、ロウが無くなって火が消えることに譬えられています。ロウソクの芯(寿命)が残っていても、ロウが尽きれば火は消えるしかないのです。ロウは業の譬えです。人間本来の寿命は約120歳ですが、殺生戒を犯し、生きものの命を多く傷つけてきた人は短命になる業を荷って生まれてきます。命を大切にしてきた人は自らの命も大切にされる結果、長寿になるということです。
③は言うまでもなく、ロウと芯の両方が無くなって火が消えるように、業も尽き寿命も尽きれば当然死にます。
④は、まだ十分燃えるだけのロウも芯も残っているのに、突風が吹いたり、水をかけられたりすれば火が消えるように、他の業を抹消するような強い不善業があれば、殺されたり、病死したり、不慮の死を遂げることになります。反対に強烈な善業が、短命に終わるはずの生涯を長らえさせることもあります。
*仏教の力を借り
なぜ、こんなに幼くして死ななければならないのか。幼子を残し、自分を必要としている夫や病弱の親を残し、若い母親が死んでいくのは理不尽に見えるでしょう。しかし仏教的観点からは、家族を残して無念にも早逝しなければならない業を持った女性がいたということです。その子供には幼くして母を喪うカルマがあり、夫は人生の半ばで妻を喪い幼い子供と取り残される業を荷っていただろうし、愛娘に先立たれる業を持った老親がいたということでしょう。
起きるべきことは必ず起きてしまうのが、業でありカルマです。何事も必然の力で生じ、否応のない力で滅していくのだから、起きたことは全て正しい、と我が身に生起した一切の事象を受け容れていく覚悟を定めるのが仏教を指針とする生き方です。
一切の事象が業の力で作られていくプロセスを「行(サンカーラ)」と言います。行は業の別名でもあり、諸行無常とは、諸々のサンカーラによって形成されたものは必ず無常に変滅していく、ということです。仏教徒であろうとなかろうと、無常の真理にも因果の理法にも逆らえるものはなく、因縁によって生じたことは受け容れるしかないのです。無常に滅していくものに執着を起こせば、ドゥッカ(苦)に苛まれるしかないでしょう。
死が目前に迫ったブッダが、侍者のアーナンダに言います。
「止めよ。アーナンダよ、悲しむな。嘆くな。私はあらかじめこのように説いたではないか。ーー全ての愛するもの、好むものからも別れ、離れ、異なるに至るということを。およそ生じ、存在し、作られ、破壊さるべきものであるのに、それが破滅しないように、ということがどうしてあり得ようか。アーナンダよ、そのような理りは存在しない……」(涅槃経)
執着が手放せず、悲嘆のさ中で苦しんでいても、目指すべき方向性が視野におさまっていれば、やがて手本の力で乗り超えることができるでしょう。
*父を看取る
愛執を乗り超えなければ、瞑想は妨げられます。同様に、死者に対するネガティブな情念も妨害要因になるので、恨みも憎しみも後悔も手放さなければなりません。
私の父の看取りは、母親とは異なるものでした。両親とも、やがて確実に訪れる死を覚悟しながら看取る流れは同じでしたが、私の心の中で展開したものは対照的でした。
介護の苛酷さに耐え抜くために、父の看取りにはサティの瞑想が必要不可欠でした。母の介護も最終ステージになると、体力の限界ギリギリまで追いつめられましたが、ドゥッカ(苦)を乗り超えるためのサティよりも、愛執にのめり込まないためにマインドフルネスが必要だったように思われます。
瞑想の妨害要因である「五蓋」の1番と2番は「欲望」と「怒り」です。欲望系の愛執も怒り系のネガティブな情念も、心に刺さったまま残れば、瞑想は妨げられるのです。
肝臓癌の父が入院した時には、余命は3ヶ月、最期は肝臓で解毒できなくなった毒素が全身に回り混乱が生じるだろう、と明確に告知されていました。家の中に生涯引き籠っていた父が、死ぬために家を出るとは知らされずに車に乗り込む姿を眺めながら、落涙を禁じ得ませんでした。もう二度とこの家に戻ることがないのは確定しており、文字通り、これが父が家を出る最後の光景……と脳裏に焼き付けながら父の隣に同乗しました。鮮烈な記憶として、いまだにありありと思い浮かべることができます。
以来3ヶ月、私は毎夜父の病室に泊まり、夜中に何度もオムツの交換をしながら、極めて苛酷な最後の日々を父と共に過ごしました。毎日、夕方になると家を出て、戦場に赴く兵士のような気合で病院に向かい、病室では厳密に、あらゆる動作にサティを入れまくり、ネガティブな妄想を徹底的に排除しながら父の世話をし、傍らのベンチに横臥して付き添いました。
終末の刻限がはっきり予告されていたので、自分の体力のペース配分をしながら、一日一日、残りわずかになっていく砂時計の砂を眺めるように、長い確執のあった父との関係を総括しながら、心の中で別れを告げる日々でした。
医者の宣告どおり正確に3か月後、父は逝去し、私の看取りは終わりました。ヘトヘトになっている私を見かねて、付添婦を雇う提案をしてくれた人もいましたが、長きに渡って激しく憎悪した父に償わずにはいられず、自分の手で父の髭を剃り、体を拭き、排泄の世話まですることによって罪滅ぼしの一環としたかったのです。
もし父の介護を人任せにして、外国の僧院でどれほど奮闘しても、後悔や自責の念に苛まれ、必死で自己正当化する葛藤の日々になったでしょう。重要な他者とのネガティブな因縁を解かずに、聖なる修行が完成することはないのです。
後悔という怒りの棘が心に刺さらない手筈をととのえ、十分な別離のプロセスを経たことにより、父の死は完全に受容され、きれいに鬼籍に入って、私の中で過去形になっていきました。
*死者との出会い直し
「死の事実を認め受容することができた者には、死者との新たな出会い直しがある」と申し上げました。「出会い直し」とは何なのでしょう。
「死者は、二度死ぬ」と言ったのは、東工大教授の中島岳志でした。一度目の死は、肉体的に死亡した時。二度目の死は、残された者から完全に忘れ去られ、忘却の闇の果てに消え去った時だと言います。
2011年4月に、中島は「死者と共に生きる」という文章を書き、東日本大震災の被災者を中心に大きな反響を呼びました。
「死者はいなくなったのではなく、死者となって存在している。生者には必ず死者と<出会い直す>時が来る。関係性が変わるのです」と言う中島には、こんな体験がありました。
ある日の深夜12時過ぎに帰宅した中島は、翌日〆切の原稿があったことに気づき、仕方なく過去の原稿を適当にアレンジして書き上げました。送ろうとした時なぜか1ヶ月前に亡くなった編集者の眼差しが感じられ、「見られている」という気がしました。特に道徳的なことを言うようなタイプではなかったのに、『そんな原稿を送っていいのか……』と言われたような気がしてハッとなったのです。それから思い直して、明け方までかかって納得のいく原稿を完成させました。ベッドに入って、これはどういうことだったのか考えた結論が 「彼はいなくなったのではない。死者となって存在しているのだ。私は亡くなった友人と<出会い直し>たのだ。これからは死者となった彼と一緒に生きていけばよいのだ」ということでした。
*死者と生者の共生
「生きている死者とは、かつてこの世に生きていた人達であり、死してなお、忘却されずに記憶の中で生き続けている人達である。彼らこそが、現在生きているわれわれを支え、世の中を支えている……」
歴史学者でもある中島は、この「生きている死者」をさらに歴史のレベルにまで拡大させています。過去の賢者の智慧に学ばずして、今を正しく生きることはできない。「湖に浮かべたボートを漕ぐように、人は後ろ向きに未来へ入っていく……」と言うポール・ヴァレリーに言及し、過去を直視しなければ、人は真っ直ぐ前に進めない。歴史に学ぶことは、死者と共に生きることだと強調します。
確かに、ブッダは2500年前に亡くなりましたが、ブッダならこの場合どうするのだろう……と私も常に考えています。こんな場合にブッダはどう言っていたのかを必ず参照し、ブッダの言行録(「ダンマパダ」などの経典)が私の規範であり、行動指針になっています。つまり、私の中ではブッダは常に生きていて、人生を共に歩んでくださっているようなものです。2500年経った今でも、ブッダは私から忘却されていないのです。
*仏壇効果
掛けがえのない人を喪った悲嘆を乗り超える仕事は、死者を心の中で真の「生きている死者」にすることです。愛執に目が眩めば、愛し合って共に生きていた過去に封印されたまま死が否定され、死者が死者になり切れず、死なせてもらえないのです。死を受け容れないとは、そういうことです。
母が火葬されるまでの3日間、私は母の遺体と共に暮らしていました。真冬の庭石のように冷たくなっても、母の顔は生前の面影を失ってはいませんでした。火葬場の焼却炉の扉が開き、花に埋もれた母の棺を自分の手で炎の中に送り込んだ瞬間、胸が締めつけられました。2時間後、焼却炉の中から現れた母の姿は一回りも二回りも小さくなった骨と灰に化していました……。それを眺めた瞬間、母が消滅した!という印象が駆け抜けていき、私の心は完全に母の死を受容していることに気づきました。つまり、それまでは私の中で母の死は微妙に完成しておらず、真の死者にはなり切れていなかったということです。
死の事実を受け容れない限り、死者は「生きている死者」になれず、死者との出会い直しが起きることもないでしょう。人は、肉親であれ歴史上の人物であれ、「生きている死者」と心の中で対話し、導かれ、影響されながら生きていくのが本来です。
「勉強しない子は、鮎になりなさい」と魚類学者の誰かが言っていました。記憶や学習が継承されなければ、鮎と同じように遺伝情報だけで生きていくしかありません。人類は、先人の文化や知的遺産を最大限に活用しながら生きていくのです。知的な情報だけではなく、立派な家族が亡くなれば、ご先祖として子孫の手本となり情緒的拠りどころとなり、やがて氏神として神格化されていくこともしばしばです。
私の立場では、墓石も仏壇も無意味だと申しましたが、「仏壇効果」の有効性は信じられるものです。愛する家族の死が受容され、生きた死者となれば、故人の遺影や位牌が納められた仏壇は恰好の対話の場所になるでしょう。日々、祈りを捧げ、守られている安心感が得られる効果もあるだろうし、悩みを打ち明ける心のカウンセラーにもなり得るでしょう。
霊的直感に優れた人なら、スピリチュアルな存在となった死者とのコミュニケーションもあり得ますが、少数派の例外です。大方の人は、内面の自問自答が死者に託されているだけでしょう。それでよいのです。個人としての妄想は、利己的な煩悩にまみれたものがほとんどです。しかるに、生きた死者はなぜか立派になり、私達の良心を代弁する存在に変わる傾向があります。中島岳志の友人も、道徳的なことを言うタイプではなかったのに、倫理的であれ、と中島を諫める存在に変容しています。生きた死者というものは、私達の善なる側面を炙り出してくれる機能があるのかもしれません。人の目はごまかせますが、常に誰かに見られているという意識は、悪しき心を抑止する効果があることは間違いありません。覆面を被り正体が隠されると途端に悪心が露わになり、こちらを監視している畏怖すべき眼差しがあると思えば善心が現れるのです。「生きている死者」が、道を踏み外さないように導いてくれるかのようです。
*死者が引き継ぐいのち
春日大社の宮司さんから、小児癌で亡くなった娘サキちゃんの話を聞いたカメラマンの保山さんがこんなことを言っていました。
「自分が会ったこともないサキちゃんのために、何かいい映像を撮りたい。サキちゃんが一番大好きだった御蓋山に虹がかかるのを撮りたい。そうやって強く念じたら、十秒くらいしか出なかったその虹が撮れた。それはどう考えても、自分がやった仕事とは思えない。ということは、会ったこともなく、とっくに死んでいるサキちゃんと、心のつながりができたような気がするのですよ」
さらに、こうも言っています。
「自分はもうすぐ死ぬかもしらないけど、自分が死んだ後、自分の映像を見る人もいるだろう。ちょうど自分がサキちゃんとの間につながりが感じられたように、死者は誰かのために存在し続けるのではないか」と。
赤の他人であっても、歴史上の人物であっても、いわんや愛し合い共に人生を生きた家族であるならば、死者は、後に続く者の心の中に生き続けるでしょう。死者と生者が正しく共生するために、死の事実をありのままに受容することが何よりも大切です。それは、執着という名の妄想に気づいて手放す営みであり、ヴィパッサナー瞑想の本質を実践することと同じなのです。