「我思う、ゆえに我あり」と言ったのは、フランスの哲学者ルネ・デカルトでした。
 有名な言葉ですが、ヴィパッサナー瞑想の立場からは、「妄想を止めなさい、すると無我が体験されますよ」ということになります。
 思考を止めるのは至難の業です。考えごとモードから脱することができなければ、デカルトのように、エゴがある、自我が在る、と感じてしまうのは当然かもしれません。
 仏教では、「我=エゴ」はイリュージョン(幻影)であり、妄想に過ぎないと見ています。エゴ感覚や自我感覚は実在するものではなく、偽の印象であり、思考のプロセスから生じてくる錯覚なのだとする「無我論」が説かれているのです。


*思考を止める


 どれほど衰弱し意識が朦朧としても、人間の思考や妄想が止まらないのは驚くべきことです。たえず微弱なイメージや妄念が生じては滅し、止めどもなく連想が流れ続けるものです。その思考の流れを止めるには、特別な訓練や修行が必要になります。
 思考を停止させる伝統的な方法の筆頭は、一点集中型のサマタ瞑想でしょう。同じ言葉を繰り返し唱えたり、単一のイメージに心を釘付けにして、瞑想対象と一体化するサマーディを目指していくやり方です。
 思考や概念モードというのは、言葉が次の言葉に繋がり、イメージとイメージが次々と連鎖していく状態です。この連続状態にならなければ、思考が止まっていると理解してよいのです。
 では、思考が止まれば、自動的に「洞察の智慧」が閃くのでしょうか。残念ながら、思考が止まるだけでは、ダンマ(法:真実の状態:あるがままの存在)の本質を直観する智慧は生じません。妄想をまったくしないカブト虫やムール貝に智慧が生じないのと同じです。思考が止まりっぱなしなら、おバカだということになります。朝から晩まで雑念が止まらず、妄想で自滅しかかっている人類だからこそ、思考を止めることに意味があるのです。
 明晰な意識状態を保ちながら完全に思考を停止させることができるのはサマーディの手柄ですが、これでは仕事は半分です。
 後の半分は、智慧です。事実をあるがままに観る技法であるサティが、気づき→観察→洞察と成長し、ついに悟りの智慧として完成するのは、サマーディの力に助けられるからだと言ってよいでしょう。
 サマーディの完成はすべての瞑想者の目指すところですが、サティの精度を桁はずれに高めるためにこそサマーディはあるのだと理解すべきです。これはヴィパッサナー瞑想の最重要ポイントなので、マハーシ・システムの修行現場に即してもう少し説明してみましょう。


*サマーディの分水嶺


 心を一点に集中させ、釘付けにしていくのがサマーディの特性です。例えば、座る瞑想の最中にサマーディが高まってくると、意識の対象はただ「膨らみ・縮み」や「盛り上がり・凹み」だけになっていくでしょう。お腹の感覚が微妙に変化し推移していくのがリアルに知覚され、認知され、また生起してくるものが知覚され、認知されていく……。こうして、経験する一瞬と確認する一瞬が間断なく連続していくのが、サティの瞑想の基本型です。
 サマーディは、注意を一点に注ぎ続ける能力です。したがって定力が未熟な段階では、意識が中心対象から逸れて音や雑念に反応してしまうでしょう。たとえ心がさ迷い出ても思考モードに陥らず、必ず気づいて中心対象に戻すことができれば、瞑想修行としては結構です。サティは安定しています。しかしあちらこちらに注意が逸れてばかりいては、中心対象の観察の精度が上がらず、洞察の智慧など到底生じません。
 このように、ヴィパッサナー瞑想が進むのはサマーディの成長にかかっているのですが、ここはキワドイところでもあります。ヴィパッサナー瞑想の瞬間定(カニカ・サマーディ)になるか、サマタ瞑想のサマーディに埋没するかは紙一重だからです。


*ニミッタの一里塚


 サマーディが高まってくると、光や色彩や文様などさまざまな視覚イメージが出現してくることがあります。音や匂いの場合もありますが、いずれも「相」(ニミッタ)と呼ばれる脳内現象で、実在するものではありません。サマーディがさらに高まれば、「ニミッタ」の鮮明度もいや増すので、初めてこの現象を体験すると、多くの人がのめり込んでサティを忘れてしまうものです。
 ニミッタ(相)は心が仮作したものであり、法ではありません。概念やイメージに集中していくのはサマタ瞑想の特徴で、妄想に集中しているのと同じことです。現実から遊離しますが、集中の極みであるサマーディの完成を目指していく修行です。
 サマーディの定力を養うことは、「戒→定→慧」の「定」の修行であり、ヴィパッサナー瞑想の完成に必要不可欠なので、そのように心得て取り組むべきです。


*サマーディの罠


 問題は、正しくヴィパッサナー瞑想を修行していたのに、サティとサマーディのバランスが崩れて、いつの間にかサマタ瞑想に脱線してしまうことです。サマーディが対象と合一するまでに深まると、正しく知覚し認知した一瞬の現実感覚が、一枚の静止画像のように掴んだまま手放せなくなってしまうのです。これが、ヴィパッサナー瞑想者がサマタ瞑想のサマーディに埋没していく瞬間です。
 例えば、歩く瞑想の足の感覚や座る瞑想のお腹の感覚を正しく実感していたのに、次の瞬間、新しい感覚を実感せずに、脳内の歩行イメージや「膨らみ・縮み」のイメージに集中してしまうのです。法と概念がすり替わる一瞬です。
 ヴィパッサナー瞑想で正しく捉えた実感も、一瞬にして過去のものとなり、10年前の記憶イメージと同じものになっていくのは、無常の宿命と言うべきでしょうか。法として実在していたものが、法ではなくなるのです。心が作り出した静止画像を、ただ眼を閉じて思い出しているのと変わらないのだから、直ちにサティを入れて現在の瞬間に回帰しなければならない……。
 矢つぎ早に生起してくる対象を、強烈な集中で次々と認知していく瞬間定だけが、存在の本質を直観する洞察力につながります。そしてその持続に耐え抜くことこそ涅槃に到る唯一の道なのです。


*崩壊していく現実……


 高速疾走する車のナンバー・プレートを視認できる人はいないでしょう。しかるに、極度に集中を高め、サマーディという名の明晰な視力を得た者には、ナンバーが視認できる可能性があります。サティの気づく力と、サマーディの禅定力が連動してくると、洞察の智慧が閃く所以です。
 だが、諸刃の剣のように、同じサマーディの力が瞑想者を一枚の静止画像のなかに没入させ、瞬滅する法の観察から脱落させもします。静止画像は猛烈なスピードでコマ送りされている映画の一コマにしかすぎません。この世に執着できる現実などどこにもないのに、一瞬の静止画にしがみつき握りしめようとするのは、変滅する無常の真理のただ中で、欲望や怒りの執着を手放さない愚か者と同じなのです……。