(1)意識的なことよりも、なんとなく感じていることや無意識に思っていることの方が強く出力され、業を作っていくものだ。
無自覚な思考パターンに、気をつけなければならない。
無くて七癖の常同的振る舞いの自覚化から、人生の流れが変わっていく……。
気づきの瞑想をする。
サティを入れる……。
(2)過去に作った善業や不善業によって、日々経験する事象はほぼ定まっている。
最悪の事態も超ラッキーなことも、起きることは決定的に起きてしまうのだ。
それに逆らう自由も、受け容れる自由もある。
古い業が新しい業によって微調整されていく瞬間だ。
サティを入れて見送るという選択……。
(3)日常生活では、顕微鏡モードの厳密なサティから肉眼モードに変換しなければならない。
眼耳鼻舌身意の情報の中身を理解しながら、「見ている」「聞いている」「考えている」と自分を俯瞰していくのだ。
今、自分は何をしているのかに気づこうとすればよい。
自覚の維持を心がけるマインドフルネス……。
(4)次々と水面に拡がっていく波紋のように、優しさから優しさが手渡され伝えられていく。
だが、愚かな善意と智慧なき優しさは、人を真の幸福にみちびかない。
現状を正確に把握し、何が本当に相手のためになるのか熟慮されるべきではないか。
明晰な智慧と優しさが連動する慈しみの瞑想……。
(5)1年後には、記憶の40%は当てにならなくなり、感情の記憶になると60%は食い違ってしまうという。
そもそも今の瞬間をあるがままに見ることが至難の業なのに、その不正確な記憶がさらに変容してしまうのだ。
生きてきた証しは記憶しかないのに……、人生とは、何なのだろう。
(6)思考の流れが止まり、静かになった心の内奥に耳を澄ませ、どうしてもやりたいと感じることはやってみるしかないだろう。
痛い思いをしなければ骨身に沁みないし、失ってみて初めて値打ちに気づくものだ。
学ぶべきことを学ぶなら、自ら蒔いた種を刈り取る苦しい人生にも意味がある……。
(7)何のデータも入れなければ、優秀な演算機能を持つパソコンも空箱同然になってしまう。
学ばない、考察しない、情報を集めない、練習もしないし、修行もしない。
ただ心を空っぽにして、静かにしているだけで洞察の智慧が閃くだろうか。
現実逃避の瞑想、虚しい空っぽ、無意味な静けさ……。
(8)習練すべき技能が修められ、必要な情報が十分に集められているならば、余計な準備や計画で頭をいっぱいにしない方がよい。
その瞬間、即興で閃くものにはムダがない。
脳内に用意されたものを意識的に具現化するタスクは、今の瞬間にブレーキをかけるだろう。
心を空っぽにして、静かにしていること……。