(1)これは、手のかかる、厄介な人だな、と溜息を吐きたくなるような修行者もいる。

 だが、例外なく、そんな苦労したインストラクションを通して、最も深い学びを得ることになる。

 善きにつけ悪しきにつけ、出力したエネルギーに比例した甘美な果実、もしくは苦い果実を刈り取らされる法則だ……。

(2)「なぜ私は、サティの瞑想が続かないのでしょうか?」

 「この世のことに囚われているからです」

 「私は、この世を捨てたいと思ってます」

 「それなら、思考にサティを入れ、見送りなさい。

 思考の中身は全てこの世のことです。

 概念の世界を世間と言います。

 あなたは、世間が大好きなのです」

(3)どのような苦しみも、脳内に固着した「渇愛」という名の執着が手放されれば、終わるだろう。

 望みのものが手に入り、報復に成功し、「夢が叶う」場合もある。

 諸般の事情と因縁の流れを見て、「妄執だった……」と静かに諦める場合もある……。

(4)嫌なものがイヤではなくなっていくプロセスが、心の成長である。

 お膳を引っくり返す。

 斬り捨てる。

 戦争を始める……。

 ストレートに怒りを露わにするのは、幼稚なことだ。

 環境ではなく、認知を変え、心を変え、生き方を変えていく……。

(5)「この世のことなんて、どうでもいい。私は悟りにしか興味がありません」

 「あなたが求めているのは、思考で考えた悟りです」

 「嘘です。 私は本当に悟りたいのです」

 「それなら概念の世界を一切捨てなさい。本気でこの世から出離する覚悟があれば、妄想は止まるでしょう……」

(6)諸法無我の対極にあるのは、我を張り、私が俺がと自慢し、差別し、人を見下す、エゴイズムの世界だ。

 駆け巡る思考、多発する妄想、荒ぶる心、昂り、暴れまわる心……。

 その興奮と混乱が静まり、心に沈黙が拡がっていくと、見えてくる存在の本質、この世界の真相……。

 瞑想しよう……