(1)自分が犯してきた悪業の相殺のために、人を押しのけるように強引な善行をしている人もいる。
皮算用どおりの報果が得られなければ、取引で損をした人のように怒り出すにちがいない。
本当の優しさも、真の善行も、「私が幸せでありますように」を成就した人からこぼれ落ちる……。
(2)素晴らしい善行をしているように見えるが、ああ、この人は自分の徳のポイントを増やす事しか考えていないのだな……と、分かってしまう人がいる。
エゴイストの冷たい優しさ……。
(3)自分からは何事も決めることなく、ただ、必然の力で生起してくることをそのまま受け容れていく生き方をしてきた。
嫌だな……と反射的に、ネガティブな反応が立ち上がることも多々あったが、我執の判断が入らない仕掛けになっていた。
受動性に徹した生き方をしていくと、宿業に組み込まれていたものが顕わになっていく……。
(4)何事も、最初から正師につけばよいものを、回り道しながら遍歴することが多かった。
失敗を重ね、試行錯誤を繰り返す必要があったのだろうか。
後年、自ら望んだ訳ではない不思議な展開で、瞑想指導にたずさわると、バラバラにやり散らかした全てが必要な学びだったとリンクしてきた……。
(5)ついに究極の道にたどり着いた確信が込み上がってきた原始仏教だった。
だが、分け入ってみると、同じ原理と基盤の上に立ちながら、修行現場では微妙に異なるいくつもの技法が行じられていた。
経験知と直観を拠りどころに、さらに求法の旅を続けた果てに、異国の森林僧院に導かれていった……。
(6)私が初めてヴィパッサナー瞑想を試みた20数年前は、寺も文献も師もインターネットも、情報というものがほとんど無かった。
既存の脳内データを全開にして、闇の中を手探りで試行錯誤していった。
正解が封印されていたがゆえに、瞑想の構造的理解が深まり宝となった。